412.百層で女の子が蹲っている。さよなら。私を残して、私は行きます。
瞬間、冷気の奔流が増して、凍り付いていた芝から樹氷のような氷が迸った。
勢いは凄まじく、人間一人は軽く呑み込む巨大な氷柱が、いくつも昇り立つ。
そこにあるだけで
この物質のない空間さえも氷河期に変えようと、白い冷風を振り撒く。
成功した……?
や、やった……!
正直、考えた渾身の詩を口に出せなかったので、自信はなかった……。
しかし、この凄まじい冷気。
『世界』さえも、凍らせる【静止の氷】は、あらゆる法則を無視して、問答無用で全てを『静止』させることだろう。
凍れ。
凍れ、凍れ、凍れ。
そして、勝利に導け。
私の
どうか、私を――!
(ひひっ、
ただ、相対するティアラは嗤い、止まることなく、優雅に歩いていた。
ぴんぴんしていた。
むしろ、涼しい風を気持ち良さそうに浴びて、足取りが軽くなっているようにさえ見える。
「な、んで――?」
私の本当の『魔法』は、何もかもを『静止』するんじゃないのか?
なんで私の魔法は――と、ふと目を下に向けると、伸ばした手に白い霜が這っていた。
「え――」
凍れ凍れ凍れと願って、凍りついていたのは私だった。
意味が分からず、私は混乱する。
その意味を、急いで考える。
――いつだって、『理を盗むもの』の本当の『魔法』は、その術者の人生そのものを現していた。これが私の人生の一端であり、その発露なのだろう。
ならば、私が人生で、ずっと止めていたものとは……?
いや、そもそも、止まれと願ったのはいつからだ……?
何も考えずに使い続けていた力の意味を、いま――私はスキル『読書』で、もう一度『相川兄妹の物語』を読み直して、考える。
〝「少しでいい……。ほんの少しでいいから、『この先に、希望が欲しい』……」
願ってしまった。
自分の人生が少しでも上手くいくようにと、とてもささやかな――けれど、人が願うには畏れ多い『未来の改編』を求める〟
初めての魔法の鍛錬で、そう兄は願ってしまった。
だから、あの都合のいい未来を引き寄せて、あの『呪い』を背負った。
〝「わ、私も願っています……。もし魔法があるのならば、『いつかは、希望が見つかる』と……、私も……」〟
ただ、あのとき、願っていたのは、私もだった。
兄さんが失敗魔法を生み出す隣で、私も同じことをしていた。
(うん、それが『氷の力』の始まり――)
つまり、ずっと相川陽滝も失敗『魔法』を発動させていて、自らの人生を歪ませていたということ。
おそらくだが、効果の対象は私のみ。
私の『生まれ持った違い』を『静止』しようとして、その思考や
失敗魔法たる所以は、『生まれ持った違い』の『静止』は不完全なのに、ずっと『代償』である『静止』の取り立てだけは続いていたこと。
その『呪い』に気づけなかったのは「心の折れた私自身が、その逃げ道を望んでいた」から。
――他の『理を盗むもの』たちと、何一つ変わらない失敗。
私は失敗していた。
けれど、いま私の『生まれ持った違い』は見事に消えて、思考は解放されている。
――いつ、誰が……?
背中が暖かい。
水晶のように透き通った氷柱の中に、白虹の光が入り込んでいた。
優しく溶かしてくれるのような暖かい光を見て、『スキル』なんてなくても、『賢さ』なんてなくても、私の頭一つで十分に、
思い出すのは、彼女の笑顔。
『ラスティアラ・フーズヤーズ』の最期。
――
彼女の《
「『魔の毒』を吸引する体質」を完全に『静止』させても、思考や
「ラ、ラスティアラさん……! ラスティアラさん……!?」
そして、その《
――『いつか、希望が見つかる』。
その「いつか」が来るまで、私は私を止める魔法を使っていて。
いま、私の目の前で喋っている少女こそが、私の――
(陽滝姉、かっこいい『詠唱』だね! でも、ちょっとらしくない。まだ思考の初心者だからかな? もしかして、それって何かの真似?)
希望だったから。
その『最後の答え合わせ』が終わり、私は全ての力を使い切った。
(――
もう私には何も残っていない。
あとは心の中で、自分の人生の『詠唱』を繰り返すだけ。
――『生の始りに凍え、死の静かに凍る』――
(――『始まりは冷たくなかったし、終わりも暗くなんかない』――)
――『私は私独りで終わっていく』『
(――『たった独りで終わらせない』『
ティアラの『詠唱』は、ただの『答え合わせ』だった。
その何の捻りもなさは、いま私の『詠唱』を聞いて、
しかし、それが彼女の人生。
ずっと『詠唱』を紡いできたから、今更特別な詩は要らない。
ティアラは私だけを見て、私の為の本当の『魔法』を発動させる。
(――
魔法名が告げられた。
しかし、ティアラの周囲に、変化は特にない。
変化するのは、私だけ。
溶けていく。
少しずつだが、周囲の氷柱が溶け始める。
芝に張り付いてた霜も含めて、ありとあらゆる氷が――水になっていく。
もう『静止』の必要はないと、まず私の《
それはつまり、「『魔の毒』を吸引する体質」が再発するということ。
いま、この足元に流れ出した水のように、かつての病が私の中で動き出そうとして――しかし、その前に、
《
もちろん、その『魔法』一つのみで達成したわけではない。
そう簡単に、私というイレギュラーは修復できない。
治したのは、私の為の優しい『異世界』が積み重ねてきた千年。
『理を盗むもの』たちの本当の『魔法』が、私を追い詰めて――
兄さんの《
ラスティアラ・フーズヤーズの《
私自身の《
そして、これから《
やっと。
やっとだが、確かに。
相川陽滝の病は、治る。
だから、溶けていく。
私の大嫌いな力は溶けていく。
苦しみも悲しみも含めて、全ての
水となって、このフーズヤーズの庭に小川を作って、流れていく。
その水の流れは、もう決して止まらない。
二度と凍らないから。
ゆっくりと、さらさらと、どこまでも。
その川は『永遠』に流れ続けるだろうと、信じられる。
流れ行く小川を見て私は、じんと瞳の奥が熱くなった。
慌てて、空を見上げたけれど、瞳に飛び込んでくるのは『異世界』の星々。
眩くて、瞳が滲んだ。
小川に反射する星の光も、夜空に輝く星の光も、余りに綺麗過ぎた。
頑張って考えて考えても、「綺麗」という言葉だけが浮かんでくる。
かつては、あれだけ頭に浮かんだ言葉が、もう全く思いつかない。
もう陳腐でもいい。
私は『私の思考』で「まるで、奇跡みたいだ」という感想を抱いた。
奇跡のような光景。
《
その川のせせらぎが静かだから、よく聞こえる。
綺麗な音色と共に、自分の声も、やっと――
「あ、あぁ……、ぁああああぁあっ……――」
とうとう『相川陽滝の病』は完治した。
建前だったとしても、『異邦人』たちの『異世界』での目的が、いま達成された。
それは、つまり――
私が両の手のひらを見ると、もう白い霜はなかった。
けれど、代わりに薄く、透き通り始めていた。
指先は少しずつ魔力の粒子に換わり、舞い上がっていく。
『質量を持たない神経』『質量を持たない細胞』を失って、私の身体を保ってくれていた『水の理を盗むもの』の力がなくなっていく。
ずっと抱えていた『未練』が解消されたからだ。
だから、言える。
「ほ、本当は……、ずっと怖かった……。怖かったに、決まってる……」
いま、私は私の『未練』が、はっきりとわかる。
――『水の理を盗むもの』の本当の『未練』は、一人だったこと。
千年前、兄さんはいても、兄さんと私は二人になれていなかった。
幼少期、【『永遠』に二人】なんて『答え』がわかっていても、本当は怖くて怖くて怖くてたまらなかった。――
その恐怖を、止めても止めても止めても。
一人で『永遠』に生き続けるという孤独死は、恐ろし過ぎて、ずっと泣きそうだった。
考えれば考えるほど、『未練』というものの本質がわかってくる。
『未練』というものは一人じゃ果たせなくて、二人いないとどうしようもないこと。
だから、あの人たちは、ずっと兄さんを待っていたんだろう――
――そして、これから私も、あの人たちと同じように、消えていけるのだろう。
あらゆる世界を食らい尽くしていく『最後の一人』ではなく、たった一つのささやかな幸せを胸に『水の理を盗むもの』として――
舞い上がった魔力の粒子が、星空に滲んで消えていくのを見届けたあと、私は前を向いた。
そこには自身の『魔法』を使い切り、私と同じく、指先から魔力の粒子に換わろうとしているティアラが立っていた。
お揃いの彼女と、私は目を合わせる。
私の『未練』に気づいてくれた『
「ティ、ティアラ……」
(やっと、あのときのお礼ができたかな……)
彼女の言葉を聞くと、一人じゃないと実感できる。
聞けば聞くほど、全身の力が抜けていく。
水のように、身体から『魔力』『素質』『レベル』といった力が、流れ出て流れ出て流れ出て、『相川陽滝』という存在が弱っていくのがわかる。
際限なく、どこまでも弱く弱く弱く――弱くも全力で、生き抜くことが許されていく。
(さあ……。楽しかった『決闘』も、そろそろ終わりみたいだね……! ――ただ、その前に、やろうよっ)
『最後の頁』に向かって、近づき合っていた私たちだが、途中でティアラだけは止まった。
そして、役者を指導するような監督の面持ちで、私に提案していく。
(――前口上、ちゃんと知ってるよね? みんなが『試練』をやる前に言うやつ、ちゃんと陽滝姉も聞いてたよね?)
前口上。
知っているし、聞いている。
スキルで『答え』ばかり見てきた私にとって、ずっと不可解だったものの一つだ。
そんな必要はないのに、誰もが口を揃えていた。
無意識ながらも上位次元からの『糸』を感じつつ、最期には全力で演じていた。
いまなら、気持ちがわかる。
あれは、ただの見得きりではない。
『理を盗むもの』の一人として、自らの階層を宣言することは、自らの人生の続きを頼むこと。
『試練』とは、物語を繋げて欲しいと願った人に、自分の力を託すこと。
『糸』も『世界』も、何もかも超えて、全力で生き抜くという誓い。
本当の『絆』を繋げる行為――
(心配しないでいいよ。絶対に私が超える。必ず私が『試練』を超えて、助けるから。――だから、
最後は二人揃って超えようと、厳粛に彼女は構えた。
きっと……。
ずっとティアラは、ここを目指していたのだろう……。
私の階層までやってきて、私の『試練』を乗り越えることを……。
ただ、生憎だが、もう私は何も心配していない。
(いまから、私と一緒に書こう。私たちの
だって、すでに私の『試練』は、終わっている。
もうティアラは乗り越えている。
だから、いま、ここにあなたはいる。
はっきり言って、前口上も『試練』も必要ない。
――けれど、これで最後だから、
この水の流れだけは止めたくはない。
物語が流れていく勢いを止めたくない。
なにより、『水の力』が止まらない。
それを読む私の心も止まらない。
気持ちが溢れる。感情が溢れる。思考が溢れる。次の文章が頭に思い浮かんだから、いますぐにでも書き出したくなる。そして、自身で演じたい。かつての『理を盗むもの』たちがしてきたように、その『赤い糸』に従って、その上で本気で超えてやりたい。全力で、生き抜きたい――から、私たちは口にする。
(「――
二人で声を合わせて、そう読んだ。
そして、すぐさま『試練』が始まる。
どちらも最後の距離を詰めるべく、前に歩き出した。
(行こう、陽滝姉……)
「うん、ティアラ……」
これから始まるは、千年前から続いた『決闘』の締め。
『体術』の比べ合いを再開させて、千年の決着をつけるのが『第百の試練』。
最後の距離が詰められた瞬間、まずティアラが動いた。
千年かけて培った体移動で、その右手を鋭く突き出す。
その粒子に換わっていく前の指先を、しっかりと私は視認できていた。
さらに、『ずらし』『伸ばし』『払い』という三つの対応を思いついた。
どれもが妥当で、どれも悪くはなく、どれも普通の考え。
その三つを私は、一秒か二秒ほど、堪能するように迷ってから――選ぶ。
私の選んだ自分の『答え』は、『抱き締める』。
ティアラの手を掴み、引き寄せて、胸に抱えた。
(あっ――)
強く抱きしめたあと、その頭を優しく撫でた。
今日まで感じられなかった分、感触を存分に味わっていく。
その気持ちを感想文にしては、頭の中で何度も何度も反芻していく。もちろん、口にも出す。
「あぁ、『
『家族』の名前を口にして、目一杯に呼吸する。
分かっていたことだが、もう勝負にはならない。なりようがない。
『試練』は終わっている。『決闘』だって、もう本当は――
(あー、もう……、勝ち負けつかないね。……でも、これで終わりかな?)
「はい、終わりです。これで、私たちの本は……」
『決闘』は私の負けで終わっている。
すでに【相川陽滝は誰にも負けない】は、ティアラの手によって崩された。
彼女が崩してくれたから、これで、私たちの本は――
(最後の頁だね……)
「最後の頁です……」
終わり。
かつては本を捲る手が感じていた無限の厚みが、もう一切ない。
そして、お揃いのスキル『読書』で読むのは――
〝【――いや、独りではない。
その『永遠』の旅に出るのは、二人。
相川陽滝の隣には、彼女を真の意味で愛してくれる『家族』が常にいてくれた。
どんなときでも、ずっと。
ずっとずっとずっと、『永遠』に二人だったから。
もう畏れるものは、何もなかった――】〟
そこに書かれた『家族』とは、ティアラだった。
二人とは、ティアラ・フーズヤーズと私という姉妹だった。
だから、これから私たちは――
「はあ……」
溜息ではない
これは、読了の吐息。
読了とは、つまり消失なのだが……、恐怖はない。
これから、私たちは『
しかし、私の魂の隣には、ティアラも一緒。
もちろん、いつしか、その魂も消えていく。
しかし、そのあとさえも、一緒だと私は信じている。
これから、私たちは――
いま、テーブルの上に置いた本の感想を、二人で言い合う。
それだけじゃない。
これから先、私たち二人は『魔石』の中で、一緒に本を書き続けることだってできる。
私とティアラは、同じ人を好きになった同好の士。
互いに書いた本を贈り合って、互いに読み合って、互いに感想を言い合える。
それは相手がいないと、決してできなかったこと。
そんな『魔法』のような結末を、いまならば信じられる。
だから、もう――私の心に、畏れはない。
「もう……、ないんだ……」
(うん。もう、ないよ……)
星空の下、小川の流れる庭で。
私とティアラは、『家族』で二人。
同じ物語を読んで、同じ感想を抱いた。
それが二人の、本当の『最後の頁』となった。
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