408.本当の未練


〝――心が折れかける。

 その前に、『幼馴染』は現れた。


 湖凪という少女は、とにかく前向きで、明るく、うららかな性格をしていた。

 なにより、芯の強い子だった。たとえ周囲から奇異の目を向けられようとも、自分らしさを貫く強さが小学生でありながら備わっていた。


 その年に似合わない心の強さと真っ直ぐさは、歪みに歪んだ兄妹にとって眩しく、暖かかった。


 兄の渦波と『幼馴染』は、同学校の同学年で、すぐに友人となった。そして、その『幼馴染』に影響されて、少しずつ渦波の暗い人生に光が差していく。

 相川家しか見ていなかった黒い瞳に、やっと別の光景・価値観が映り始めたのだ。


 二人は家の事情もあって校内では他人の振りをしていたが、互いの部屋に呼び合う仲になるまで、そう時間はかからなかった。


 初めての友人を得て、渦波に笑顔が零れ始める。

 例えば、それは放課後に二人でゲームをしているとき。

 妹のときと違って、渦波一人でゲームはしない。湖凪から「誰かと一緒に遊べるゲームのほうがいい」と言われて、対戦ゲームやアプリゲームをやらされていた。そのゲーム選択に、一人用ゲームが好きな彼はいつも渋い顔になるのだが、最後には「仕方ないな」と満更ではない表情で頷くのだ。確かに、口元を緩ませて。


 間違いなく、渦波の人生に僅かな希望が見え始めていた。


 ――ただ、ここで重要なのは、もう一人。


 妹の陽滝にとっても、湖凪は『幼馴染』だったこと。

 希望が見え初めたのは、妹も同じだったのだ。


 湖凪と陽滝。

 二人は同世代の子役として、並べて評価されることが多かった。家柄も含めて、境遇が酷似していた二人は、学校外の仕事場で顔を合わせることが何度かあった。そして、その度に、年上の湖凪側から声をかけられる。


「――陽滝さん、今日も私と勝負ですわ!」

「……どうも、先輩」


 最初は煩わしかった。

 陽滝にとって、湖凪は有象無象の雑魚の一匹――にすらカウントされていない存在だった。


 なにせ、湖凪とは『勝負』になっていなかった。

 他の才ある子供たちと比べると、彼女には演者としての力量が圧倒的に足りなかった。


 なによりも、必死さが足りていない。

 何度負けても、口だけ「悔しいですわ!」と繰り返すだけで、全く悔しがっていないのが陽滝にはわかった。何があっても、湖凪は悔やまないし、反省もしない。だから、何度だって同じ負け方を繰り返す。本気で戦っていないどころか、「そもそも、私に勝とうとしていない」と判断した陽滝は、湖凪を挑戦者としてカウントするのを止めていた。


 湖凪という少女を『対等』には見ていなかった。ただ、気づくと、いつだって彼女は陽滝の近くにいた。

 諦めが悪く、何度も何度も何度も、「今日も勝負ですわ!」と挑戦してくる。

 相手の都合などお構いなしに、どれだけ陽滝の頭が痛く重く、絶望に満ちていようとも、その能天気で大きな声を脳の奥まで届けてくる。


 ――本当に煩わしい声だった、けど。


 妹も兄と同じだった。「仕方ないですね」と渋々ながらも、まんざらでない顔で、頷くのだ。確かに、口元を緩ませて。


「勝負は構いませんが……。どうせ、勝てませんよ?」

「それは、やってみないとわかりませんわ。今日こそ、あなたよりも目立って見せます」


 陽滝は自らの微笑の意味を、既にわかっていた。

 ただ、それはスキルでわかった『答え』でなく、自分自身の力で手にした『答え』。

 この湖凪という少女が、初めての友人になることは、もう碌に動かしていない頭でも理解することができた。だから――


 陽滝の人生にとっても、彼女は希望だった。

 そして、その予感通りに、二人は中等教育が始まる前には友人となる。


 ときには、家族さえも踏み入れないところまで、湖凪という少女の光は入り込んでくることもあった。

 それは、いつもの茶番めいた勝負を終えたときのこと。

 湖凪は定番の「悔しいですわ」といった台詞を吐くことはなく、神妙な顔で口にししていく。


「――いつも相手にならなくて、申し訳ありませんわ。これだと、陽滝さんは余り楽しくありませんわよね?」


 その日は、二人きりだった。

 偶々二人の仕事場が同じで、相川家の車の都合がつかなかった。だから、年上の湖凪が「家が近いので、私が陽滝さんを送りますわ」と提案して、二人で並び歩いての帰宅をしていた。


 まだ凍り付いていない『元の世界』の大都会の中。

 人波に紛れて、二人の少女が喋る。


「……いいえ。先輩がいてくれるおかげで、私は仕事場で浮きませんし、いまだってとても安心できています。相手にならなくて、楽しくないなんて、そんなことは――」


 絶対にないと陽滝が言い切る前に、湖凪は首を振った。


「だって陽滝さんは、いつも溜息ばかりついています。とてもつまらなそうに……、それと、どこか苦しそうに」

「…………」


 その指摘に陽滝は驚き、言葉が続けられなくなる。

 自分の演技は完璧だとわかっているからこそ、驚きは大きかった。


 誇張でもなんでもなく、陽滝は『魔の毒』によって人類最高の演技で自分の悩みを隠していた。誰にもわかるはずがないし、事実ずっと誰もわかってはくれなかった。

 なのに、この初めての友人は――


「私にはわからない悩みを、陽滝さんが抱えているのはわかっていますわ。それを、誰にも相談できないことも。……私どころか、ご両親相手にすら、ずっとあなたは演技をし続けている」


 看破していた。

 その友人の指摘を、素直に陽滝は認めるしかなかった。


「……そうかもしれません」


 『質量を持たない神経』の増殖が暴走し始めたときから、その生皮を剥ぐような痛みを顔に出さないように、『健康で元気な相川陽滝の演技』をし続けている。


「陽滝さん、そんな顔をしないでください」


 ぎゅっと強く、湖凪が陽滝の手を握った。

 さらに手を引いて、前へと前へと導いていく。


 その大きな背中を、陽滝は見上げて、ついていった。


「いつかきっと会えますわ。あなたが相談をできるほどの『対等』なお友達が……。いいえ、あなたを超えるお友達は、いつか必ずどこかにいます」

「私を超える……? いるわけが――」


 いるわけがないと、陽滝は『答え』を知っている。


 期待していた兄が余りに情けない結果を出した日から、ずっと陽滝は一人で解決策を求めてきた。時間を見つけては、ありとあらゆる手段を駆使して、多くの分野を学び、この『世界』の無数の可能性を『未来視』してきた。


 たとえ未来でも、自分を上回る存在なんて、一度も視たことがない。


「いるわけがないと、即答する陽滝さんの性格……私は嫌いじゃありませんわ! しかし、それは傲慢ですわ! まだ私たちは子供、大人になれば上には上がいると思い知るはずです!!」


 湖凪は振り返り、自分の後輩を叱りつけ、その額にでこぴんをした。

 でこぴんは避けようと思えば避けられたが、陽滝は避けずに受け入れて、先輩の忠告に耳を傾けていく。


「陽滝さん、世界は広いですわ。だから、色んな人がいます。私なんて、あなたたちを見つけて、本当にびっくりしたんですから。だから、まだ諦めてはいけません。諦めるのだけは、いけません! もちろん、まだ私も諦めてませんわ! いつか私があなたを超える役者になる可能性も、決してゼロじゃありませんから!」


 街中だろうと気にせず、湖凪は堂々と宣言した。


 その想いの乗った言葉をぶつけられた陽滝は、ずっと『静止』させていた頭を動かして、少しだけ考えさせる。


 湖凪先輩が諦めていないというのは、無駄だとしか思えない。

 『世界』は広いというのも、全く同意できない。

 どこかに私を超える「誰か」がいるというのも、ありえない。


「先輩……」

「ええ、私はあなたの先輩です。この先輩を、信じなさい!」


 しかし、信じろと湖凪は胸を叩く。

 その姿を、陽滝は無責任だと思った。


 けど、確かに、可能性はゼロではない。

 まだ『未来視』で視た可能性は十数桁程度。


 那由多の先までは視ていない。

 だから、確かに、まだゼロじゃない。


「それに、あなたにはお兄ちゃんもいるでしょう? 頼りになるお兄ちゃんが」

「兄さんは、その……」

「まだ渦波君は、あなたへの苦手意識は強いようですが……少しずつ変わっていますわ。いつか絶対に、あの首根っこを引っ張って、あなたの前まで連れ出して差し上げます。そのときは、三人で遊びましょう。なにかゲームでもして」


 湖凪は特殊な友人の悩みを、自分なりに解決へ導こうとしてくれていた。


 その友情に、陽滝の心は動く。

 あの日から、ずっと止めていた思考が揺るがされる。

 どんな状況でも決して諦めず、自分のできることを為し続けようとする先輩の姿は、初めて陽滝が「信じてもいい」と思える存在だった。


「はい。ありがとうございます、先輩……」

「ええ! お礼を言うならば、これを機に私をお姉様と呼んでも構いませんわよ!」

「ふふっ、それは遠慮しますね。気持ち悪いですから」

「き、気持ち悪い……!? ま、まあ、いいですわ。まだまだチャンスはありますわ」


 まるで姉妹のように、二人は手を繋いで帰り道を進んだ。


 このときは、湖凪が陽滝の支えとなり、手を引き、正しい道を示してくれた。

 もし湖凪が現れなければ、兄は中学校時代に妹は小学校時代に、心を完全に壊していただろう。それほどまでに、二人にとって彼女は希望であり、光で――運命を感じるほどに、『幼馴染』は兄妹にとって、『理想』だった。


 ――言い換えれば彼女は、兄妹にとって余りに、都合の良すぎる人物・・・・・・・・・だった・・・


 都合のいい『幼馴染』の登場で、相川兄妹の人生は少しずつ明るくなっていった。

 それは例えば、幼年期の終わり。

 誰もいない夕暮れの教室で、渦波は湖凪と話し、本当に欲しかったものを手にする。


「――うん。これからはずっと一緒に。……一緒にいて欲しい」

「はい。私は渦波君の前からいなくなったりはしませんわ……。これからは『みんな一緒』です。だから、もう泣かないでください……」


 湖凪の説得によって、渦波の心の歪みが癒され切った。

 連鎖的に、相川家という『家族』にも良い影響が出始める。渦波の歪みが消えたことで、長い間すれ違ってきた父と息子が、ついに――


「――父さん、みんな一緒に暮らそう! 僕はみんな一緒がいい! これからは、ずっとずっと一緒に!」

「ああ、そうだな……。俺もそれがいい。それがよかったんだ、ずっと……。俺には家族がいる。こんな馬鹿な俺でも、渦波――おまえさえいてくれたら、それだけで……」


 理解し合った。

 『みんな一緒』にという言葉を起点にして、親子のわだかまりが消えた。


 それは兄と父だけの話ではなかった。

 妹と母の関係も変わっていく。

 ずっと母の愛情を疑っていた陽滝も、とある切っ掛けで話し合うことができて――


「――陽滝、よく聞いてね。ずっと私たちは、あなたたちへの接し方を間違えていた。私もあの人も、普通の家族というものを知らなかったから……だから、同じ過ちを繰り返していた」

「お、お母さん……?」


 ずっと避けてきた母の告白に、陽滝は困惑する。


「私たちには、私たちという『家族』しかいない。たったそれだけのことに、気づけなかった……。本当に、ごめんなさい。私の可愛い陽滝……」


 そう言って、陽滝は母に抱かれるのだが――


 何もかも・・・・出来過ぎだ・・・・・

 わかっていることだが、この都合のいい展開は全て、運命を『魔法』で歪まされた結果でしかない。

 そして、その『魔法』には、終わりがある。

 全てが崩れ始めたのは、とうとう兄妹が人らしい『好き』という感情を手に入れかけたときだった。


「――先輩、ありがとうございます……。前よりも兄さんと、まともに話せるようになってきました。それに、家族とも少しずつ……」


 また帰り道。

 少し背の伸びた二人が、かつてと同じように並んで歩いている。


「それは、よかったですわ。ふふっ、では今回のお礼は、私をお姉様と呼ぶということでどうでしょう?」

「それは遠慮します。流石に、アレなので」

「むっ……! なぜ、そこまで私を姉と呼ぶのを嫌がるのです?」

「先輩はアレですからね……」

「アレ!? さっきから、アレってなんですの!?」


 このとき陽滝は、湖凪を本当の姉のように感じ始めていた。


 口では違うと言いながらも、陽滝にはわかっていた。

 あと少しで気軽に『湖凪ねえ』と呼べるような関係になれる。ずっと先に見えていた希望まで、あと少しで手が届く。この長くて暗いトンネルには、出口があるのだと、そう思ったところで――、『魔法』は解ける。


 相川兄妹は『大切な人』を手に入れた。

 手に入れるまでが、『魔法』の効果だった。

 だから、ここまで。


 その日、湖凪は事故死する・・・・・・・・

 とてもあっけなく、嘘のように、淡々と。


 『幼馴染』の死の一報が相川家に届けられる。

 次の日には、葬式が始まっていた。

 兄妹は現実を認め切れないまま、葬儀に参加するしかなかった。

 棺に近い位置で、渦波は呆然としていた。余りに突然な喪失に、心が現実に追いついていないと、一目でわかる惨状だった。


 ただ、妹は少し違う。

 参列者の後方で、険しい表情をしていた。


 これは事故死じゃないという『答え』を、スキルで知らされていたからだ。

 背後からの視線・・を感じ取り、振り返る。


 ――じっと『切れ目』が見ていた。


 さらに、この日を境に、兄妹の周囲で不自然な事故による死者が出始める。

 その意味を、陽滝だけは理解していた。


 これは『代償』。

 今日までの兄の・・『理想』の未来を引き寄せる『魔法』の代金を、取り立てられている。

 つまり、かつて『魔法』を使おうと鍛錬したときに、無意識の内に『契約』をしてしまっていたのだ。渦波は「自分の運命を変えたい」という願いに相応しいだけの力を、あの段階で得ていて、【最も愛する者が死ぬ】という『代償』を負っていた。


 全ては、等価交換。

 何もないところから『大切な人』を得たいならば、その『代償』は『大切な人』が死ぬしかない。


 ――だから、こうなった。


 そして、ここからが今回の『魔法』が、失敗魔法たる所以なのだが……渦波は湖凪を失っても、まだ【最も愛する者が死ぬ】は支払い切れていなかった。

 不完全ゆえに、渦波の『魔法』では、『代償』に相応しいだけの『大切な人』とまではなっていなかったのだ。


 ――だから、負債は残る。


 その負債が、次を取り立てようとする。


 明らかに、相川家で不幸が続き始めていた。

 父と母の仕事の失敗が重なり、次々と自殺に追い込むようなスキャンダルが公開された。

 すぐさま陽滝は、【最も愛する者が死ぬ】が満たされないように、兄と両親の心が離れるように裏で動いた。学校生活でも、これ以上『大切な人』が出ないように手を回した。


 結果、両親は【死去】だけは免れる。逮捕という形で、なんとか最悪の結果は避けることに成功した。だが、それでもまだ負債は消えない。


 ――手に入れたものを全て失っても、まだ負債は残っていた。


 そのとき、陽滝は理不尽すぎる『世界の取引』を理解した。


「こんなの……、『呪い』でしかない……」


 その名称を最初に口にしたのは、陽滝だった。

 ゲームに出てくるような平等な『魔法』なんてものは、この世にない。

 あるのは、『呪い』だけと――そう陽滝が思い知ったとき、渦波も周囲の異常性に気づく。


 すぐに渦波の部屋に集まり、もう二人だけだが『家族会議』をすることになった。

 ゲームの灯りすらなくなった暗い部屋で、陽滝は渦波に問い詰められていく。


「――ひ、陽滝。どうしてだ? どうして、こんなことになった……? 湖凪さんも、父さんも母さんも、いまのこの状況全てが……! 普通じゃない!!」


 陽滝は答えられなかった。

 そのまま真実を伝えれば、兄の精神こころが持たないと思ったからだ。


「あの日……、あの日か? 中途半端に『魔法』を願って、止めたから……、こうなったのか……? なあっ!!」


 だが、兄は一人で、原因は過去の『魔法』の鍛錬であるという『答え』に辿りつきかけていた。

 妹の無言の肯定に、渦波は追求を続けていく。


「なあ、陽滝……。これだけは答えてくれ。僕が……、この僕が一番の原因なのか?」


 答えずとも、兄は時間があれば一人で『答え』に辿りつく。もう黙り続ける意味はないと判断して、陽滝は口を開いていく。


「……『魔法』という概念を知ってから、ずっと兄さんは無意識に不完全な『魔法』を使っていたようです。だから、いまも『切れ目』が兄さんだけを、ずっと見ています。『魔法』の奇跡分の代金を、支払えと言うように……」

「ま、『魔法』の負債だって……?」

「いま、説明します――」


 『魔法』『代償』『呪い』といった『世界』の理を、一つずつ兄に明かしていく。

 この数年の出来過ぎた人生の真実を、渇いた喉を震わせて、『答え合わせ』していった。

 それを受け止めた渦波は、涙を浮かべながらも笑みを浮かべて、掠れた声を出す。


「――こ、これは……、おまえでも、どうにもできないのか?」

「できませんでした……。すみません」

「は、ははっ……。ははははっ! つまり、あの日からの全部が『魔法』……、嘘だったってことか!? 優しくなった父さんも母さんも、あの湖凪さんの言葉も、全部が! 僕の願った幻でっ、嘘だったっていうことかよ!? 陽滝!!」


 ずっと陽滝が考えないようにしていたことを、容赦なく渦波は叫んだ。


 やっと自分たちが見つけた『家族』の代わりとなる存在は、『作りもの』だった。

 その真実に渦波は、瞳に溜めた涙を零していく。


「それは……、難しいところです。しかし、きっと全てが嘘だったわけではないはずです。『魔の毒』に干渉され、誘導された結果、ああいった言動をしていた可能性が高いだけで――」


 言いつつ、無理があると陽滝は思った。


 確かに、『水瀬湖凪』という名前の子供は元々いただろう。出生から死亡までの戸籍は確認済みで、その存在自体は本物だった。


 ただ、あの異常な精神こころの強さは、『魔法』だった可能性が高い。


 渦波の『魔法』の影響で、あんなに出来た子になっていて、強制的に相川家と接触するように、その運命を弄られていたと考えるほうが、話の筋が通っている。


「それは、嘘だったってことだ!! 彼女の心と人生を弄んだってことだろ!! そんなこと、許されるはずがない!!」


 その真実を、ずっと陽滝は考えないようにしてのだが、渦波が代弁してしまう。

 否定できず、陽滝は完全に押し黙った。

 だが、兄は独白し続ける。


「そんな……。僕たちのせいで、湖凪ちゃんは……。いや、そもそも、あれは本当に彼女だったのか……? 本当の湖凪ちゃんは、もっと別の性格をしていたんじゃないのか……?」


 『魔の毒』の力は凄まじく、とても反則的で、『世界』の理すらも歪ませる

 そんなものに晒されれば、普通ただの女の子が抵抗なんてできるはずがない。


 つまり、あのふざけた口調――、その異常な芯の強さ――、私たち兄妹への気遣いと優しさ――、いつも親身になってくれて、暖かくて、安心できて――、初めて、心から信じられた先輩は――


「つまり、『みんな一緒』を願っていたのは、僕だったってことか……? あの湖凪ちゃんは、魔法で操られていて……僕に、言わされただけ? 僕の都合のいいように操られて……、心を弄られて……」


 全て、嘘だったということ。


「かも、しれません……」


 つまり、彼女から教えられた「可能性はゼロではない」という希望も、嘘ということになる。


 兄妹が「可能性はゼロではない」と願ったから、彼女は言わされただけ。

 それが、『答え』。

 那由他の先まで『未来視』すれば可能性は残っているなんて、ただの『夢』。

 もし那由他の先を数値化すれば、0.000000000000000000――どころではない。遥か遠く過ぎる『1』は、現実的にはゼロに等しい。


「それで、最後は……、僕たちの『魔法』で死んだ? そ、そんな――」


 そんなありもしない『夢』を見せるためだけに、彼女は死んだ。


 その結論が出たとき、渦波は項垂れて、両手で顔を覆った。

 そして、誰に向けたわけでもない言葉を、零していく。


「なんで……、なんでだよ……。もう嫌だ……。ただ、僕は少しだけ……、ほんの少しだけでよかったんだ……。なのに……」


 なまじ希望の光が見えかけていたから、より絶望の闇は深くなっていた。

 かつて、『いないもの』にされていたとき以上に、精神こころが歪んでいく。魂という名の器が軋み、罅だらけとなり、崩れかけ、果てには――


「なあ、陽滝……。僕は、どうすればいい……? もう僕は、僕のことすらわからない……。もうどうすればいいか、何も……、わからない……」


 ――限界を迎えた。


 心が折れた渦波は、止まらない涙と共に、そう聞いた。


 ただ、その「どうすればいい」という台詞は、妹も同じだった。

 いや、兄よりも先に、ずっと頭の中で反響し続けていた。


 あの「『魔の毒』を吸引する体質」の問題は、まだ何も解決していない。

 『変換』は止まらず、ずっと『質量を持たない神経』は増え続けている。いまも、自分の声だけれど自分のものじゃない声が、ずっと頭の中で喋っている。要りもしない『答え』を出し続けている。もう何年も静寂を味わっていないし、ろくに眠れてもいない。仮想の『質量を持たない脳』をいくつ作っても、すぐにパンクする。壊れるまで動き続ける機械のような自分に、もう飽き飽きしだしている。もう嫌だ。どうして、こんなことに。私は普通の幸せさえあれば、もういいのに――という、ずっと隠してきた自分の弱音は、湖凪という支えがなければ、もう無視し切れない。


 ――だから、陽滝も限界を迎えていく。


 もう訳がわからないし、どこを見ても暗い。何を考えても、私じゃないから、私がどこにいるのかも、何をしているのかもわからない。なのに、とても痛い。


 考えないようにしていたけど、本当は痛い。

 純粋に「痛くて、苦しい」が、ずっとずっと続いている。


 痛い痛い痛いという悲鳴が、増え続けた神経の数だけ聞こえて、煩い。

 それも一つの『答え』だから、強制的に知らされ続けている。「痛いのは嫌」「なんでこんな目に、私が遭うの?」「助けて、お願い」という声を聞かされ続けている。苦しい苦しい苦しいという感情も同じだ。増殖する細菌ウィルスのように、ありとあらゆる箇所で際限なく広がって、私の魂を蝕み続けている。それは、まるで全身をまれ続ける感覚で――


「兄さん……。『約束』を、覚えてますか……?」


 陽滝は搾り出すように聞いた。

 一縷の望みを懸けて、最後の確認をしていく。


「や、『約束』……?」

「私に負けないって、兄さんは言いました……。確かに、言いました……」

「……そんなことを言ったのか? 僕が陽滝に?」

「はい」


 返答は期待していたものと違った。


「覚えてない……。忘れてくれ。僕がおまえに勝てるはずがない……」


 兄は首を振り、否定した。


 その『答え』が返ってくるのを、陽滝は事前にわかっていた。

 仕方ないと思った。当たり前だとも思った。ただ、兄ならば超えられるかもしれないと、妹として信じてもいたのだ。


「そうだ、忘れるんだ……。忘れればいい。何もかも、全て……」


 放っておけば、本当に忘れると陽滝にはわかった。

 渦波には『契約』のセンスがある。

 例えばだが、適当な力を得て、上手く『忘却』という『代償』を負えば、この辛い真実から逃げ出せられるだろう。


 この状況の責任を全て、陽滝一人に押し付けて――あとは、二度と『魔の毒』や『切れ目』と関わらなければいい。多くの苦難と不幸が『呪い』として待っていたとしても、人間らしい人生を送って、人間として死ぬことができる。


 それが渦波に残された最善であり、いま渦波自身が望んでいる結末。

 ただ、その羨ましすぎる最期に、陽滝という名前の妹はいない。

 存在すらしていない。

 簡単に死ねる兄と違い、妹の未来は――


【――『最後の一人』として、相川陽滝は『世界』を回り続ける。

 ずっとだ。

 ずっとずっとずっと、『永遠』に独り――】


 もう陽滝の中で『答え』は出ていた。

 その悲鳴と弱音を、ずっと自分で聞き続けていた。

 本当は――


 一人は嫌だ。

 一人が怖い。

 一人で、ずっと生きていたくなんかない。

 でも・・一番怖いのは・・・・・・一人で・・・――


 それを最後に、陽滝は考えるのを完全に、止める・・・


 心が折れて、恐怖に負けて、本能的に思考を止めた。

 続いて陽滝は、願うことも、期待することも、止めた。

 最後に、何かを信じることも、止めた。


 全てを止め終えてから、冷たい機械のように陽滝は呟く。


「兄さん……。いまの私なら……忘れるどころか、過去の時間を凍らせて『なかったこと』にさえできます。その力が、私にはあります……」


 もう陽滝は何も感じていない。


 だから、この『答え』は、陽滝のものではない。

 兄妹の未来の話なのに、兄妹以外の『答え』が、この『家族会議』で出されていく。


「い、いや……。そこまではしなくていい。ただ、僕は忘れたいだけなんだ。いま、ここにいる僕を終わらせたい。もう、それだけでいいんだ……」

「わかりました。では、記憶だけを消します」


 陽滝は自らのスキルに身を委ねて、嘘をつく。

 その演技を、渦波は見抜けない。

 だから、二人の未来は――


【――いや、独りではない。

 その『永遠』の旅に出るのは、二人。

 相川陽滝の隣には、彼女を真の意味で愛してくれる『家族』が常にいてくれた。

 どんなときでも、ずっと。

 ずっとずっとずっと、『永遠』に二人だったから。

 もう畏れるものは、何もなかった――】


 という結末に確定する。


 いま、陽滝の中では「あなたは、私の兄だ」「絶対に逃がさない」「終わるときは、私と一緒」といった声が湧いていたが、それが顔に出ることは決してない。


「ただ、記憶の消去は、人によっては死ぬも同然のものです。……兄さん、本当にいいんですね?」

「構わない。……死ぬも同然のほうが、むしろありがたい」


 心の折れた渦波は、生きることを放棄していた。

 たとえ記憶を失った副作用で廃人になってもいいと考えていたが、その結末を陽滝は許さない。


「わかりました。いまの兄さんを消して、違う兄さんにします。その後のことは――」

「放っておいてくれていい。もう、この家は終わってしまったんだ。だから、おまえは僕たちに……この家に、構う必要はない」

「いえ、記憶を失った兄さんの『呪い』は、必ず私が消します。……必ずです」


 『契約』するように、二度繰り返した。

 ただ、その提案は渦波にとって意外なものだったようで、確認を取る。


「消してくれるのか……?」

「あれは間違いなく、私が誘ったのが原因で生まれたものです。だから、消さないと、私の後味が悪いです」

「……ありがとう、陽滝」


 このとき、渦波は『健康で元気な相川陽滝の演技』によって、「相川陽滝は健常で、『呪い』はなく、強者のままである」と思い込んでいた。だから、「あれだけ魔法を教えたのに、何も理解できなかったどころか『呪い』を生んだ兄」を、わざわざ助けてくれることにお礼を言った。


 妹は微笑を浮かべて、照れる演技をしながら、胸中で誓っていく。

 記憶と『呪い』は消す。

 代わりに、兄さんは『私の兄さん』だ。

 あの『約束』を果たしてもらうまでは……いや、『約束』が果たされたあとも、ずっと私と一緒になってもらう。


 ああ。

 これから先は、いかなるときも一緒。

 ずっとずっとずっと一緒。

 私たちは兄妹だから、『永遠』に二人――


 という想いと共に、陽滝は膝を突いた渦波に近づき、声を出す。


「――《止まれ・・・》」


 初めての試みだった。

 だが、できると陽滝にはわかっていた。

 後に《フリーズ》と呼ばれる魔法が、部屋の気温を下げつつ、渦波の体内に侵入していく。それには、後に『水の理』と呼ばれる力も含まれていた。


 魔法による急激な温度変化によって、渦波は全身から力が抜けて、倒れそうになる。だが、近くの陽滝の肩を掴むことで、なんとか転倒だけは免れた。

 陽滝は自分に伸ばされた手に、自分の手を重ね合わせながら、魔法の説明をしていく。


「荒業になりますが……記憶を凍らせて、二度と戻らないようにします」

「記憶を、凍らせる……? これが、本来の魔法の力か……」

「いいえ、兄さん。これは魔法じゃありません。……『魔法』なんて都合のいいものは、この世界にはありませんでした。私たちが見つけたのは……、ただの『呪い』です」


 もう陽滝は何も信じていない。

 だから、ゲームに出てくるような『魔法』の存在を否定して、『呪い』と呼んだ。


 それに渦波も同意していく。

 誰よりもゲームが好きだったからこそ、この全く平等でもなければ誰も幸せにしなかった力を、『魔法』と呼ぶのは嫌だった。


「そう、だな……。そうだよな。誰もが幸せになれる『魔法』なんて、そんな都合のいいもの、あるわけなかったんだ……」


 渦波は諦めていくと同時に、この世への執着も消えていく。

 冷気によって、全身の力だけでなく意識も奪われていく。


 目を瞑れば、今日までの記憶は消える。

 陽滝の力を誰よりも信じている渦波は、それを確信していた。


 そして、その妹の忠告も信じ切っていた。

 記憶が消えるのは、死も同然。

 だから、これは最後の別れだと思い、本心を遺す。


僕は・・弱い・・……。だから、変わり……、たかった……。ずっと、おまえ・・・……、みたいに・・・・……、なり・・たかっ・・・……――」


 意識がなくなる間際に、そう言い残した。

 その遺言を聞き届けた陽滝は、腕の中で死んだように眠った兄に向かって、答える。


「なれますよ、兄さん。だって、次は・・、ずっと私が見ています」


 一切表情を変えることはなかった。

 ただ、兄の黒い前髪に触れて、その額を撫でつつ、淡々と伝えていく。


「これからは、兄さんの隣で私が見張り続けます。何があっても、絶対に見捨てません。どんな弱音を吐いても、私が終わらせません。――もう手段は、選ばない」


 それが最善の『答え』。


 いままでは、その『答え』に陽滝は疑問を持っていた。

 強くなっていくことに抵抗した。

 それで本当にいいのかと迷った。

 自分の体質を治そうとした。

 だから、間違えた。

 彼女まで犠牲にした。


 これからは、もう疑わない。

 ただ自分の力を全て肯定して、抵抗も迷いもせず――従う。


「従っていれば、兄さんは私と『対等』になる。……ああ、必ずそうなると、いま、私には見えました……。ふ、ふふっ、はははっ、あはははは――」


 この道を進めば、必ず自分は『化け物』となるだろう。


 それも、ただの『化け物』ではない。

 あのゲームに出てくるような最後の戦いに出てくる『最後の敵』だ。


 本当は『主人公ヒーロー』に助けられる『運命の人ヒロイン』が良かった。

 だから、人であることに、ずっと必死にしがみついていた。


 だが、もう無理だと悟った。

 無理だったと思い知った。


 だから、もう私は考えない。

 思い浮かべるのは、たった一つ。


【――ずっとずっとずっと、『永遠』に二人だったから。

 もう畏れるものは、何もなかった――】


 この『最後の頁』だけ。

 兄さんが隣にいてくれて、もう畏れるものはなくなるという結末だけを信じる。


「もう……、過程なんて、どうでもいい。その結果さえ、あればいい……」


 そうすれば、怖くない。

 【『永遠』に二人】という頁まで、読み飛ばせる・・・・・・

 この辛い時間を飛び越えて、気づけば結末に辿りつけている――と、私にはわかっている。


 ああ、わかっているんだ。最初から私は、結末がわかっていた。最善の『答え』を出していた。だから、いい。わかっているから、これでいいんだ……。


「兄さん、いまから作り直してあげますね……。私が、作り直して上げます……」


 こうして、心が折れた陽滝は、ずっと疎んできた『質量を持たない神経』を受け入れていく。


 自らの力として操り、『白い糸』のように伸ばして、体外に出した。

 瞬間、硫酸を痛覚そのものに浴びせたかのような痛みに襲われたが、陽滝は歯を食いしばって耐え切る。


「ふ、ふふふ――!」


 実のところ、かなり前の段階で、陽滝は『質量を持たない神経』の体外での操作が可能だった。

 ただ、その痛みを耐えてしまっては、人でなくなってしまうと思い、ずっと踏みとどまっていたのだ。


 しかし、とうとう枷は外れて、陽滝は踏み入っていく。


「私と『対等』になれるように……、私の手で、いま変えてあげますね……。『私の兄さん』……」


 自らの『質量を持たない神経』を指先から出して、兄の頭部に侵入させて、繋げる。


 そして、兄の全てを読み取っていく。

 まず陽滝は、兄の体内にある『魔の毒』を舌の上で転がすように味わった。その魂の器の形も含めて、体質・性質とも言える情報を丸裸にした。


 このとき、陽滝は兄が「他人の『理想』を映す体質」であることを知った。


 反則的な才能だ。

 だが、足りない。

 私と『対等』になってもらうには、まだまだ足りないと、弄る。


「兄さんは、『私の兄さん』なんです。私たちは何でも許しあえる『対等』の『家族』なんです。……だから、容赦はしません」


 まず記憶を消す。

 『静止』の力を利用して、『両親』と『幼馴染』は完全に渦波の人生から除いた。


 そして、その除いた部分に、別の思い出を足す。陽滝の『理想の兄』となるように、ゲームに出てくるような「世界で一番仲のいい兄妹の記憶」を植えつけていった。


 十分過ぎる『魔の毒』と『質量を持たない神経』があれば、それは可能だった。

 ただ、その作業をしていく内に、陽滝の髪の一本一本から『質量を持たない神経』が次々と、『白い糸』となっては伸びていく。

 部屋の床を埋め尽くすのに、大して時間はかからなかった。

 無数の『白い『糸』が蠢き、宙を舞い、渦波の身体を繭のように包んでいく。


 そして、その繭の中で、陽滝は実験していく。

 本気でやると決めた彼女は、兄を実験動物モルモットとするのに躊躇しない。

 それが最短であり最善であるとわかっているから、淡々と試していく。


 人格を塗り替えることで魂の器は、どう変化するのか?

 どのような『契約』を詠ませれば、どう『切れ目』は動くのか?

 どの『呪い』を得れば、どういった種類の力が得られるのか?


 本気になったからこそ、実験動物モルモットがいなければ絶対にわからない疑問を解消できた。

 平行して、兄は『理想』の器に近づいていく。


 陽滝の素質に匹敵するまで、何度も作り直された。

 強い体質・性質に当たるまで、記憶や人格を足したり引いたりされた。

 あの『最後の頁』だけを信じて、何度も何度も何度も――


 これが、『私たち』の知る『異邦人』二人の始まり。

 『水の理を盗むもの』ヒタキと『次元の理を盗むもの』カナミの始まりだ〟


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