408.本当の未練
〝――心が折れかける。
その前に、『幼馴染』は現れた。
湖凪という少女は、とにかく前向きで、明るく、
なにより、芯の強い子だった。たとえ周囲から奇異の目を向けられようとも、自分らしさを貫く強さが小学生でありながら備わっていた。
その年に似合わない心の強さと真っ直ぐさは、歪みに歪んだ兄妹にとって眩しく、暖かかった。
兄の渦波と『幼馴染』は、同学校の同学年で、すぐに友人となった。そして、その『幼馴染』に影響されて、少しずつ渦波の暗い人生に光が差していく。
相川家しか見ていなかった黒い瞳に、やっと別の光景・価値観が映り始めたのだ。
二人は家の事情もあって校内では他人の振りをしていたが、互いの部屋に呼び合う仲になるまで、そう時間はかからなかった。
初めての友人を得て、渦波に笑顔が零れ始める。
例えば、それは放課後に二人でゲームをしているとき。
妹のときと違って、渦波一人でゲームはしない。湖凪から「誰かと一緒に遊べるゲームのほうがいい」と言われて、対戦ゲームやアプリゲームをやらされていた。そのゲーム選択に、一人用ゲームが好きな彼はいつも渋い顔になるのだが、最後には「仕方ないな」と満更ではない表情で頷くのだ。確かに、口元を緩ませて。
間違いなく、渦波の人生に僅かな希望が見え始めていた。
――ただ、ここで重要なのは、もう一人。
妹の陽滝にとっても、湖凪は『幼馴染』だったこと。
希望が見え初めたのは、妹も同じだったのだ。
湖凪と陽滝。
二人は同世代の子役として、並べて評価されることが多かった。家柄も含めて、境遇が酷似していた二人は、学校外の仕事場で顔を合わせることが何度かあった。そして、その度に、年上の湖凪側から声をかけられる。
「――陽滝さん、今日も私と勝負ですわ!」
「……どうも、先輩」
最初は煩わしかった。
陽滝にとって、湖凪は有象無象の雑魚の一匹――にすらカウントされていない存在だった。
なにせ、湖凪とは『勝負』になっていなかった。
他の才ある子供たちと比べると、彼女には演者としての力量が圧倒的に足りなかった。
なによりも、必死さが足りていない。
何度負けても、口だけ「悔しいですわ!」と繰り返すだけで、全く悔しがっていないのが陽滝にはわかった。何があっても、湖凪は悔やまないし、反省もしない。だから、何度だって同じ負け方を繰り返す。本気で戦っていないどころか、「そもそも、私に勝とうとしていない」と判断した陽滝は、湖凪を挑戦者としてカウントするのを止めていた。
湖凪という少女を『対等』には見ていなかった。ただ、気づくと、いつだって彼女は陽滝の近くにいた。
諦めが悪く、何度も何度も何度も、「今日も勝負ですわ!」と挑戦してくる。
相手の都合などお構いなしに、どれだけ陽滝の頭が痛く重く、絶望に満ちていようとも、その能天気で大きな声を脳の奥まで届けてくる。
――本当に煩わしい声だった、けど。
妹も兄と同じだった。「仕方ないですね」と渋々ながらも、まんざらでない顔で、頷くのだ。確かに、口元を緩ませて。
「勝負は構いませんが……。どうせ、勝てませんよ?」
「それは、やってみないとわかりませんわ。今日こそ、あなたよりも目立って見せます」
陽滝は自らの微笑の意味を、既にわかっていた。
ただ、それはスキルでわかった『答え』でなく、自分自身の力で手にした『答え』。
この湖凪という少女が、初めての友人になることは、もう碌に動かしていない頭でも理解することができた。だから――
陽滝の人生にとっても、彼女は希望だった。
そして、その予感通りに、二人は中等教育が始まる前には友人となる。
ときには、家族さえも踏み入れないところまで、湖凪という少女の光は入り込んでくることもあった。
それは、いつもの茶番めいた勝負を終えたときのこと。
湖凪は定番の「悔しいですわ」といった台詞を吐くことはなく、神妙な顔で口にししていく。
「――いつも相手にならなくて、申し訳ありませんわ。これだと、陽滝さんは余り楽しくありませんわよね?」
その日は、二人きりだった。
偶々二人の仕事場が同じで、相川家の車の都合がつかなかった。だから、年上の湖凪が「家が近いので、私が陽滝さんを送りますわ」と提案して、二人で並び歩いての帰宅をしていた。
まだ凍り付いていない『元の世界』の大都会の中。
人波に紛れて、二人の少女が喋る。
「……いいえ。先輩がいてくれるおかげで、私は仕事場で浮きませんし、いまだってとても安心できています。相手にならなくて、楽しくないなんて、そんなことは――」
絶対にないと陽滝が言い切る前に、湖凪は首を振った。
「だって陽滝さんは、いつも溜息ばかりついています。とてもつまらなそうに……、それと、どこか苦しそうに」
「…………」
その指摘に陽滝は驚き、言葉が続けられなくなる。
自分の演技は完璧だとわかっているからこそ、驚きは大きかった。
誇張でもなんでもなく、陽滝は『魔の毒』によって人類最高の演技で自分の悩みを隠していた。誰にもわかるはずがないし、事実ずっと誰もわかってはくれなかった。
なのに、この初めての友人は――
「私にはわからない悩みを、陽滝さんが抱えているのはわかっていますわ。それを、誰にも相談できないことも。……私どころか、ご両親相手にすら、ずっとあなたは演技をし続けている」
看破していた。
その友人の指摘を、素直に陽滝は認めるしかなかった。
「……そうかもしれません」
『質量を持たない神経』の増殖が暴走し始めたときから、その生皮を剥ぐような痛みを顔に出さないように、『健康で元気な相川陽滝の演技』をし続けている。
「陽滝さん、そんな顔をしないでください」
ぎゅっと強く、湖凪が陽滝の手を握った。
さらに手を引いて、前へと前へと導いていく。
その大きな背中を、陽滝は見上げて、ついていった。
「いつかきっと会えますわ。あなたが相談をできるほどの『対等』なお友達が……。いいえ、あなたを超えるお友達は、いつか必ずどこかにいます」
「私を超える……? いるわけが――」
いるわけがないと、陽滝は『答え』を知っている。
期待していた兄が余りに情けない結果を出した日から、ずっと陽滝は一人で解決策を求めてきた。時間を見つけては、ありとあらゆる手段を駆使して、多くの分野を学び、この『世界』の無数の可能性を『未来視』してきた。
たとえ未来でも、自分を上回る存在なんて、一度も視たことがない。
「いるわけがないと、即答する陽滝さんの性格……私は嫌いじゃありませんわ! しかし、それは傲慢ですわ! まだ私たちは子供、大人になれば上には上がいると思い知るはずです!!」
湖凪は振り返り、自分の後輩を叱りつけ、その額にでこぴんをした。
でこぴんは避けようと思えば避けられたが、陽滝は避けずに受け入れて、先輩の忠告に耳を傾けていく。
「陽滝さん、世界は広いですわ。だから、色んな人がいます。私なんて、あなたたちを見つけて、本当にびっくりしたんですから。だから、まだ諦めてはいけません。諦めるのだけは、いけません! もちろん、まだ私も諦めてませんわ! いつか私があなたを超える役者になる可能性も、決してゼロじゃありませんから!」
街中だろうと気にせず、湖凪は堂々と宣言した。
その想いの乗った言葉をぶつけられた陽滝は、ずっと『静止』させていた頭を動かして、少しだけ考えさせる。
湖凪先輩が諦めていないというのは、無駄だとしか思えない。
『世界』は広いというのも、全く同意できない。
どこかに私を超える「誰か」がいるというのも、ありえない。
「先輩……」
「ええ、私はあなたの先輩です。この先輩を、信じなさい!」
しかし、信じろと湖凪は胸を叩く。
その姿を、陽滝は無責任だと思った。
けど、確かに、可能性はゼロではない。
まだ『未来視』で視た可能性は十数桁程度。
那由多の先までは視ていない。
だから、確かに、まだゼロじゃない。
「それに、あなたにはお兄ちゃんもいるでしょう? 頼りになるお兄ちゃんが」
「兄さんは、その……」
「まだ渦波君は、
湖凪は特殊な友人の悩みを、自分なりに解決へ導こうとしてくれていた。
その友情に、陽滝の心は動く。
あの日から、ずっと止めていた思考が揺るがされる。
どんな状況でも決して諦めず、自分のできることを為し続けようとする先輩の姿は、初めて陽滝が「信じてもいい」と思える存在だった。
「はい。ありがとうございます、先輩……」
「ええ! お礼を言うならば、これを機に私をお姉様と呼んでも構いませんわよ!」
「ふふっ、それは遠慮しますね。気持ち悪いですから」
「き、気持ち悪い……!? ま、まあ、いいですわ。まだまだチャンスはありますわ」
まるで姉妹のように、二人は手を繋いで帰り道を進んだ。
このときは、湖凪が陽滝の支えとなり、手を引き、正しい道を示してくれた。
もし湖凪が現れなければ、兄は中学校時代に妹は小学校時代に、心を完全に壊していただろう。それほどまでに、二人にとって彼女は希望であり、光で――運命を感じるほどに、『幼馴染』は兄妹にとって、『理想』だった。
――言い換えれば彼女は、兄妹にとって余りに、
都合のいい『幼馴染』の登場で、相川兄妹の人生は少しずつ明るくなっていった。
それは例えば、幼年期の終わり。
誰もいない夕暮れの教室で、渦波は湖凪と話し、本当に欲しかったものを手にする。
「――うん。これからはずっと一緒に。……一緒にいて欲しい」
「はい。私は渦波君の前からいなくなったりはしませんわ……。これからは『みんな一緒』です。だから、もう泣かないでください……」
湖凪の説得によって、渦波の心の歪みが癒され切った。
連鎖的に、相川家という『家族』にも良い影響が出始める。渦波の歪みが消えたことで、長い間すれ違ってきた父と息子が、ついに――
「――父さん、みんな一緒に暮らそう! 僕はみんな一緒がいい! これからは、ずっとずっと一緒に!」
「ああ、そうだな……。俺もそれがいい。それがよかったんだ、ずっと……。俺には家族がいる。こんな馬鹿な俺でも、渦波――おまえさえいてくれたら、それだけで……」
理解し合った。
『みんな一緒』にという言葉を起点にして、親子のわだかまりが消えた。
それは兄と父だけの話ではなかった。
妹と母の関係も変わっていく。
ずっと母の愛情を疑っていた陽滝も、とある切っ掛けで話し合うことができて――
「――陽滝、よく聞いてね。ずっと私たちは、あなたたちへの接し方を間違えていた。私もあの人も、普通の家族というものを知らなかったから……だから、同じ過ちを繰り返していた」
「お、お母さん……?」
ずっと避けてきた母の告白に、陽滝は困惑する。
「私たちには、私たちという『家族』しかいない。たったそれだけのことに、気づけなかった……。本当に、ごめんなさい。私の可愛い陽滝……」
そう言って、陽滝は母に抱かれるのだが――
わかっていることだが、この都合のいい展開は全て、運命を『魔法』で歪まされた結果でしかない。
そして、その『魔法』には、終わりがある。
全てが崩れ始めたのは、とうとう兄妹が人らしい『好き』という感情を手に入れかけたときだった。
「――先輩、ありがとうございます……。前よりも兄さんと、まともに話せるようになってきました。それに、家族とも少しずつ……」
また帰り道。
少し背の伸びた二人が、かつてと同じように並んで歩いている。
「それは、よかったですわ。ふふっ、では今回のお礼は、私をお姉様と呼ぶということでどうでしょう?」
「それは遠慮します。流石に、アレなので」
「むっ……! なぜ、そこまで私を姉と呼ぶのを嫌がるのです?」
「先輩はアレですからね……」
「アレ!? さっきから、アレってなんですの!?」
このとき陽滝は、湖凪を本当の姉のように感じ始めていた。
口では違うと言いながらも、陽滝にはわかっていた。
あと少しで気軽に『湖凪
相川兄妹は『大切な人』を手に入れた。
手に入れるまでが、『魔法』の効果だった。
だから、ここまで。
その日、
とてもあっけなく、嘘のように、淡々と。
『幼馴染』の死の一報が相川家に届けられる。
次の日には、葬式が始まっていた。
兄妹は現実を認め切れないまま、葬儀に参加するしかなかった。
棺に近い位置で、渦波は呆然としていた。余りに突然な喪失に、心が現実に追いついていないと、一目でわかる惨状だった。
ただ、妹は少し違う。
参列者の後方で、険しい表情をしていた。
これは事故死じゃないという『答え』を、スキルで知らされていたからだ。
背後からの
――じっと『切れ目』が見ていた。
さらに、この日を境に、兄妹の周囲で不自然な事故による死者が出始める。
その意味を、陽滝だけは理解していた。
これは『代償』。
今日までの
つまり、かつて『魔法』を使おうと鍛錬したときに、無意識の内に『契約』をしてしまっていたのだ。渦波は「自分の運命を変えたい」という願いに相応しいだけの力を、あの段階で得ていて、【最も愛する者が死ぬ】という『代償』を負っていた。
全ては、等価交換。
何もないところから『大切な人』を得たいならば、その『代償』は『大切な人』が死ぬしかない。
――だから、こうなった。
そして、ここからが今回の『魔法』が、失敗魔法たる所以なのだが……渦波は湖凪を失っても、まだ【最も愛する者が死ぬ】は支払い切れていなかった。
不完全ゆえに、渦波の『魔法』では、『代償』に相応しいだけの『大切な人』とまではなっていなかったのだ。
――だから、負債は残る。
その負債が、次を取り立てようとする。
明らかに、相川家で不幸が続き始めていた。
父と母の仕事の失敗が重なり、次々と自殺に追い込むようなスキャンダルが公開された。
すぐさま陽滝は、【最も愛する者が死ぬ】が満たされないように、兄と両親の心が離れるように裏で動いた。学校生活でも、これ以上『大切な人』が出ないように手を回した。
結果、両親は【死去】だけは免れる。逮捕という形で、なんとか最悪の結果は避けることに成功した。だが、それでもまだ負債は消えない。
――手に入れたものを全て失っても、まだ負債は残っていた。
そのとき、陽滝は理不尽すぎる『世界の取引』を理解した。
「こんなの……、『呪い』でしかない……」
その名称を最初に口にしたのは、陽滝だった。
ゲームに出てくるような平等な『魔法』なんてものは、この世にない。
あるのは、『呪い』だけと――そう陽滝が思い知ったとき、渦波も周囲の異常性に気づく。
すぐに渦波の部屋に集まり、もう二人だけだが『家族会議』をすることになった。
ゲームの灯りすらなくなった暗い部屋で、陽滝は渦波に問い詰められていく。
「――ひ、陽滝。どうしてだ? どうして、こんなことになった……? 湖凪さんも、父さんも母さんも、いまのこの状況全てが……! 普通じゃない!!」
陽滝は答えられなかった。
そのまま真実を伝えれば、兄の
「あの日……、あの日か? 中途半端に『魔法』を願って、止めたから……、こうなったのか……? なあっ!!」
だが、兄は一人で、原因は過去の『魔法』の鍛錬であるという『答え』に辿りつきかけていた。
妹の無言の肯定に、渦波は追求を続けていく。
「なあ、陽滝……。これだけは答えてくれ。僕が……、この僕が一番の原因なのか?」
答えずとも、兄は時間があれば一人で『答え』に辿りつく。もう黙り続ける意味はないと判断して、陽滝は口を開いていく。
「……『魔法』という概念を知ってから、ずっと兄さんは無意識に不完全な『魔法』を使っていたようです。だから、いまも『切れ目』が兄さんだけを、ずっと見ています。『魔法』の奇跡分の代金を、支払えと言うように……」
「ま、『魔法』の負債だって……?」
「いま、説明します――」
『魔法』『代償』『呪い』といった『世界』の理を、一つずつ兄に明かしていく。
この数年の出来過ぎた人生の真実を、渇いた喉を震わせて、『答え合わせ』していった。
それを受け止めた渦波は、涙を浮かべながらも笑みを浮かべて、掠れた声を出す。
「――こ、これは……、おまえでも、どうにもできないのか?」
「できませんでした……。すみません」
「は、ははっ……。ははははっ! つまり、あの日からの全部が『魔法』……、嘘だったってことか!? 優しくなった父さんも母さんも、あの湖凪さんの言葉も、全部が! 僕の願った幻でっ、嘘だったっていうことかよ!? 陽滝!!」
ずっと陽滝が考えないようにしていたことを、容赦なく渦波は叫んだ。
やっと自分たちが見つけた『家族』の代わりとなる存在は、『作りもの』だった。
その真実に渦波は、瞳に溜めた涙を零していく。
「それは……、難しいところです。しかし、きっと全てが嘘だったわけではないはずです。『魔の毒』に干渉され、誘導された結果、ああいった言動をしていた可能性が高いだけで――」
言いつつ、無理があると陽滝は思った。
確かに、『水瀬湖凪』という名前の子供は元々いただろう。出生から死亡までの戸籍は確認済みで、その存在自体は本物だった。
ただ、あの異常な
渦波の『魔法』の影響で、あんなに出来た子になっていて、強制的に相川家と接触するように、その運命を弄られていたと考えるほうが、話の筋が通っている。
「それは、嘘だったってことだ!! 彼女の心と人生を弄んだってことだろ!! そんなこと、許されるはずがない!!」
その真実を、ずっと陽滝は考えないようにしてのだが、渦波が代弁してしまう。
否定できず、陽滝は完全に押し黙った。
だが、兄は独白し続ける。
「そんな……。僕たちのせいで、湖凪ちゃんは……。いや、そもそも、あれは本当に彼女だったのか……? 本当の湖凪ちゃんは、もっと別の性格をしていたんじゃないのか……?」
『魔の毒』の力は凄まじく、とても反則的で、『世界』の理すらも歪ませる
そんなものに晒されれば、
つまり、あのふざけた口調――、その異常な芯の強さ――、私たち兄妹への気遣いと優しさ――、いつも親身になってくれて、暖かくて、安心できて――、初めて、心から信じられた先輩は――
「つまり、『みんな一緒』を願っていたのは、僕だったってことか……? あの湖凪ちゃんは、魔法で操られていて……僕に、言わされただけ? 僕の都合のいいように操られて……、心を弄られて……」
全て、嘘だったということ。
「かも、しれません……」
つまり、彼女から教えられた「可能性はゼロではない」という希望も、嘘ということになる。
兄妹が「可能性はゼロではない」と願ったから、彼女は言わされただけ。
それが、『答え』。
那由他の先まで『未来視』すれば可能性は残っているなんて、ただの『夢』。
もし那由他の先を数値化すれば、0.000000000000000000――どころではない。遥か遠く過ぎる『1』は、現実的にはゼロに等しい。
「それで、最後は……、僕たちの『魔法』で死んだ? そ、そんな――」
そんなありもしない『夢』を見せるためだけに、彼女は死んだ。
その結論が出たとき、渦波は項垂れて、両手で顔を覆った。
そして、誰に向けたわけでもない言葉を、零していく。
「なんで……、なんでだよ……。もう嫌だ……。ただ、僕は少しだけ……、ほんの少しだけでよかったんだ……。なのに……」
なまじ希望の光が見えかけていたから、より絶望の闇は深くなっていた。
かつて、『いないもの』にされていたとき以上に、
「なあ、陽滝……。僕は、どうすればいい……? もう僕は、僕のことすらわからない……。もうどうすればいいか、何も……、わからない……」
――限界を迎えた。
心が折れた渦波は、止まらない涙と共に、そう聞いた。
ただ、その「どうすればいい」という台詞は、妹も同じだった。
いや、兄よりも先に、ずっと頭の中で反響し続けていた。
あの「『魔の毒』を吸引する体質」の問題は、まだ何も解決していない。
『変換』は止まらず、ずっと『質量を持たない神経』は増え続けている。いまも、自分の声だけれど自分のものじゃない声が、ずっと頭の中で喋っている。要りもしない『答え』を出し続けている。もう何年も静寂を味わっていないし、ろくに眠れてもいない。仮想の『質量を持たない脳』をいくつ作っても、すぐにパンクする。壊れるまで動き続ける機械のような自分に、もう飽き飽きしだしている。もう嫌だ。どうして、こんなことに。私は普通の幸せさえあれば、もういいのに――という、ずっと隠してきた自分の弱音は、湖凪という支えがなければ、もう無視し切れない。
――だから、陽滝も限界を迎えていく。
もう訳がわからないし、どこを見ても暗い。何を考えても、私じゃないから、私がどこにいるのかも、何をしているのかもわからない。なのに、とても痛い。
考えないようにしていたけど、本当は痛い。
純粋に「痛くて、苦しい」が、ずっとずっと続いている。
痛い痛い痛いという悲鳴が、増え続けた神経の数だけ聞こえて、煩い。
それも一つの『答え』だから、強制的に知らされ続けている。「痛いのは嫌」「なんでこんな目に、私が遭うの?」「助けて、お願い」という声を聞かされ続けている。苦しい苦しい苦しいという感情も同じだ。増殖する
「兄さん……。『約束』を、覚えてますか……?」
陽滝は搾り出すように聞いた。
一縷の望みを懸けて、最後の確認をしていく。
「や、『約束』……?」
「私に負けないって、兄さんは言いました……。確かに、言いました……」
「……そんなことを言ったのか? 僕が陽滝に?」
「はい」
返答は期待していたものと違った。
「覚えてない……。忘れてくれ。僕がおまえに勝てるはずがない……」
兄は首を振り、否定した。
その『答え』が返ってくるのを、陽滝は事前にわかっていた。
仕方ないと思った。当たり前だとも思った。ただ、兄ならば超えられるかもしれないと、妹として信じてもいたのだ。
「そうだ、忘れるんだ……。忘れればいい。何もかも、全て……」
放っておけば、本当に忘れると陽滝にはわかった。
渦波には『契約』のセンスがある。
例えばだが、適当な力を得て、上手く『忘却』という『代償』を負えば、この辛い真実から逃げ出せられるだろう。
この状況の責任を全て、陽滝一人に押し付けて――あとは、二度と『魔の毒』や『切れ目』と関わらなければいい。多くの苦難と不幸が『呪い』として待っていたとしても、人間らしい人生を送って、人間として死ぬことができる。
それが渦波に残された最善であり、いま渦波自身が望んでいる結末。
ただ、その羨ましすぎる最期に、陽滝という名前の妹はいない。
存在すらしていない。
簡単に死ねる兄と違い、妹の未来は――
【――『最後の一人』として、相川陽滝は『世界』を回り続ける。
ずっとだ。
ずっとずっとずっと、『永遠』に独り――】
もう陽滝の中で『答え』は出ていた。
その悲鳴と弱音を、ずっと自分で聞き続けていた。
本当は――
一人は嫌だ。
一人が怖い。
一人で、ずっと生きていたくなんかない。
それを最後に、陽滝は考えるのを完全に、
心が折れて、恐怖に負けて、本能的に思考を止めた。
続いて陽滝は、願うことも、期待することも、止めた。
最後に、何かを信じることも、止めた。
全てを止め終えてから、冷たい機械のように陽滝は呟く。
「兄さん……。いまの私なら……忘れるどころか、過去の時間を凍らせて『なかったこと』にさえできます。その力が、私にはあります……」
もう陽滝は何も感じていない。
だから、この『答え』は、陽滝のものではない。
兄妹の未来の話なのに、兄妹以外の『答え』が、この『家族会議』で出されていく。
「い、いや……。そこまではしなくていい。ただ、僕は忘れたいだけなんだ。いま、ここにいる僕を終わらせたい。もう、それだけでいいんだ……」
「わかりました。では、記憶だけを消します」
陽滝は自らのスキルに身を委ねて、嘘をつく。
その演技を、渦波は見抜けない。
だから、二人の未来は――
【――いや、独りではない。
その『永遠』の旅に出るのは、二人。
相川陽滝の隣には、彼女を真の意味で愛してくれる『家族』が常にいてくれた。
どんなときでも、ずっと。
ずっとずっとずっと、『永遠』に二人だったから。
もう畏れるものは、何もなかった――】
という結末に確定する。
いま、陽滝の中では「あなたは、私の兄だ」「絶対に逃がさない」「終わるときは、私と一緒」といった声が湧いていたが、それが顔に出ることは決してない。
「ただ、記憶の消去は、人によっては死ぬも同然のものです。……兄さん、本当にいいんですね?」
「構わない。……死ぬも同然のほうが、むしろありがたい」
心の折れた渦波は、生きることを放棄していた。
たとえ記憶を失った副作用で廃人になってもいいと考えていたが、その結末を陽滝は許さない。
「わかりました。いまの兄さんを消して、違う兄さんにします。その後のことは――」
「放っておいてくれていい。もう、この家は終わってしまったんだ。だから、おまえは僕たちに……この家に、構う必要はない」
「いえ、記憶を失った兄さんの『呪い』は、必ず私が消します。……必ずです」
『契約』するように、二度繰り返した。
ただ、その提案は渦波にとって意外なものだったようで、確認を取る。
「消してくれるのか……?」
「あれは間違いなく、私が誘ったのが原因で生まれたものです。だから、消さないと、私の後味が悪いです」
「……ありがとう、陽滝」
このとき、渦波は『健康で元気な相川陽滝の演技』によって、「相川陽滝は健常で、『呪い』はなく、強者のままである」と思い込んでいた。だから、「あれだけ魔法を教えたのに、何も理解できなかったどころか『呪い』を生んだ兄」を、わざわざ助けてくれることにお礼を言った。
妹は微笑を浮かべて、照れる演技をしながら、胸中で誓っていく。
記憶と『呪い』は消す。
代わりに、兄さんは『私の兄さん』だ。
あの『約束』を果たしてもらうまでは……いや、『約束』が果たされたあとも、ずっと私と一緒になってもらう。
ああ。
これから先は、いかなるときも一緒。
ずっとずっとずっと一緒。
私たちは兄妹だから、『永遠』に二人――
という想いと共に、陽滝は膝を突いた渦波に近づき、声を出す。
「――《
初めての試みだった。
だが、できると陽滝にはわかっていた。
後に《フリーズ》と呼ばれる魔法が、部屋の気温を下げつつ、渦波の体内に侵入していく。それには、後に『水の理』と呼ばれる力も含まれていた。
魔法による急激な温度変化によって、渦波は全身から力が抜けて、倒れそうになる。だが、近くの陽滝の肩を掴むことで、なんとか転倒だけは免れた。
陽滝は自分に伸ばされた手に、自分の手を重ね合わせながら、魔法の説明をしていく。
「荒業になりますが……記憶を凍らせて、二度と戻らないようにします」
「記憶を、凍らせる……? これが、本来の魔法の力か……」
「いいえ、兄さん。これは魔法じゃありません。……『魔法』なんて都合のいいものは、この世界にはありませんでした。私たちが見つけたのは……、ただの『呪い』です」
もう陽滝は何も信じていない。
だから、ゲームに出てくるような『魔法』の存在を否定して、『呪い』と呼んだ。
それに渦波も同意していく。
誰よりもゲームが好きだったからこそ、この全く平等でもなければ誰も幸せにしなかった力を、『魔法』と呼ぶのは嫌だった。
「そう、だな……。そうだよな。誰もが幸せになれる『魔法』なんて、そんな都合のいいもの、あるわけなかったんだ……」
渦波は諦めていくと同時に、この世への執着も消えていく。
冷気によって、全身の力だけでなく意識も奪われていく。
目を瞑れば、今日までの記憶は消える。
陽滝の力を誰よりも信じている渦波は、それを確信していた。
そして、その妹の忠告も信じ切っていた。
記憶が消えるのは、死も同然。
だから、これは最後の別れだと思い、本心を遺す。
「
意識がなくなる間際に、そう言い残した。
その遺言を聞き届けた陽滝は、腕の中で死んだように眠った兄に向かって、答える。
「なれますよ、兄さん。だって、
一切表情を変えることはなかった。
ただ、兄の黒い前髪に触れて、その額を撫でつつ、淡々と伝えていく。
「これからは、兄さんの隣で私が見張り続けます。何があっても、絶対に見捨てません。どんな弱音を吐いても、私が終わらせません。――もう手段は、選ばない」
それが最善の『答え』。
いままでは、その『答え』に陽滝は疑問を持っていた。
強くなっていくことに抵抗した。
それで本当にいいのかと迷った。
自分の体質を治そうとした。
だから、間違えた。
彼女まで犠牲にした。
これからは、もう疑わない。
ただ自分の力を全て肯定して、抵抗も迷いもせず――従う。
「従っていれば、兄さんは私と『対等』になる。……ああ、必ずそうなると、いま、私には見えました……。ふ、ふふっ、はははっ、あはははは――」
この道を進めば、必ず自分は『化け物』となるだろう。
それも、ただの『化け物』ではない。
あのゲームに出てくるような最後の戦いに出てくる『最後の敵』だ。
本当は『
だから、人であることに、ずっと必死にしがみついていた。
だが、もう無理だと悟った。
無理だったと思い知った。
だから、もう私は考えない。
思い浮かべるのは、たった一つ。
【――ずっとずっとずっと、『永遠』に二人だったから。
もう畏れるものは、何もなかった――】
この『最後の頁』だけ。
兄さんが隣にいてくれて、もう畏れるものはなくなるという結末だけを信じる。
「もう……、過程なんて、どうでもいい。その結果さえ、あればいい……」
そうすれば、怖くない。
【『永遠』に二人】という頁まで、
この辛い時間を飛び越えて、気づけば結末に辿りつけている――と、私にはわかっている。
ああ、わかっているんだ。最初から私は、結末がわかっていた。最善の『答え』を出していた。だから、いい。わかっているから、これでいいんだ……。
「兄さん、いまから作り直してあげますね……。私が、作り直して上げます……」
こうして、心が折れた陽滝は、ずっと疎んできた『質量を持たない神経』を受け入れていく。
自らの力として操り、『白い糸』のように伸ばして、体外に出した。
瞬間、硫酸を痛覚そのものに浴びせたかのような痛みに襲われたが、陽滝は歯を食いしばって耐え切る。
「ふ、ふふふ――!」
実のところ、かなり前の段階で、陽滝は『質量を持たない神経』の体外での操作が可能だった。
ただ、その痛みを耐えてしまっては、人でなくなってしまうと思い、ずっと踏みとどまっていたのだ。
しかし、とうとう枷は外れて、陽滝は踏み入っていく。
「私と『対等』になれるように……、私の手で、いま変えてあげますね……。『私の兄さん』……」
自らの『質量を持たない神経』を指先から出して、兄の頭部に侵入させて、繋げる。
そして、兄の全てを読み取っていく。
まず陽滝は、兄の体内にある『魔の毒』を舌の上で転がすように味わった。その魂の器の形も含めて、体質・性質とも言える情報を丸裸にした。
このとき、陽滝は兄が「他人の『理想』を映す体質」であることを知った。
反則的な才能だ。
だが、足りない。
私と『対等』になってもらうには、まだまだ足りないと、弄る。
「兄さんは、『私の兄さん』なんです。私たちは何でも許しあえる『対等』の『家族』なんです。……だから、容赦はしません」
まず記憶を消す。
『静止』の力を利用して、『両親』と『幼馴染』は完全に渦波の人生から除いた。
そして、その除いた部分に、別の思い出を足す。陽滝の『理想の兄』となるように、ゲームに出てくるような「世界で一番仲のいい兄妹の記憶」を植えつけていった。
十分過ぎる『魔の毒』と『質量を持たない神経』があれば、それは可能だった。
ただ、その作業をしていく内に、陽滝の髪の一本一本から『質量を持たない神経』が次々と、『白い糸』となっては伸びていく。
部屋の床を埋め尽くすのに、大して時間はかからなかった。
無数の『白い『糸』が蠢き、宙を舞い、渦波の身体を繭のように包んでいく。
そして、その繭の中で、陽滝は実験していく。
本気でやると決めた彼女は、兄を
それが最短であり最善であるとわかっているから、淡々と試していく。
人格を塗り替えることで魂の器は、どう変化するのか?
どのような『契約』を詠ませれば、どう『切れ目』は動くのか?
どの『呪い』を得れば、どういった種類の力が得られるのか?
本気になったからこそ、
平行して、兄は『理想』の器に近づいていく。
陽滝の素質に匹敵するまで、何度も作り直された。
強い体質・性質に当たるまで、記憶や人格を足したり引いたりされた。
あの『最後の頁』だけを信じて、何度も何度も何度も――
これが、『私たち』の知る『異邦人』二人の始まり。
『水の理を盗むもの』ヒタキと『次元の理を盗むもの』カナミの始まりだ〟
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