357.舞台裏に立つ

 『エピックシーカー』拠点での歓待は、改築されて広くなった庭を最大限利用し、夜遅くまで行われた。

 その人数は僕が所属していたときの数倍。軽く三桁を超えるギルドメンバーたちに囲まれて、僕は質問攻めに遭い続けた。


 最初は祝宴ということで、みんな贅を尽くした料理に舌鼓を打ちながら談笑をしていたのだが……すぐに『エピックシーカー』の悪いところが表に出始めてしまう。再戦を約束していたギルドメンバーたちの手によって、僕は拠点備え付けの訓練場まで強引に連れて行かれ、かつての練習試合を繰り返させられることになったのだ。


 歓待とは名ばかりの総当たり戦が始まり、延々と僕は練習試合をやらされていく。その様子を遠くで見守る陽滝とマリアは、全く止めようとはしてくれない。言葉はなくとも「自業自得です」と言っているのが伝わってきた。


 その総当たり戦は猪突猛進のセリちゃんから始まり、アニエスちゃんからはなぜか三対一で挑戦してきて、ヴォルザークさんやテイリさんとも親交を深める為に実力を確かめ合い――結局、ギルドメンバー全員と手合わせをし尽くし、最後にスノウに傷をつけられたことで、やっと終わりを迎えてくれる。


 流石はウォーカー家の最強とスノウが讃えられているところで、丁度、日が沈み始め、夕闇が広がろうとしていた。

 解散の空気が訓練場に満ちていく。ただ、スノウは僕を逃すまいと寄ってきて、手を強く握った。


「――ねえねえ、カナミ! せっかくだから、今日は私たちの家まで来てよ!」

「家……?」


 帰り支度をして、宿に向かおうとしていた僕の足が止まる。

 そう言えば、いまスノウはどこに寝泊りしているのだろうか。そこにいるマリアも。


 先ほどの様子を見る限り、ウォーカー家の別荘のどれかだろうか。この『エピックシーカー』の部屋を一つ借りているのなら、「私たちの家」とは言わないはずだ。


「うん、あの丘の上の家!」


 スノウは元気よく答える。


 丘の上の家。

 その表現には、心当たりが一つだけあった。


 それは僕が迷宮探索を始めた当初、金にものを言わせて借りた家。

 結局は数日ほどしか利用できなかったが、あの家はとても印象に残っている。なにせ、あそこで僕は迷宮守護者ガーディアンの『試練』を受けた。あの『火の理を盗むもの』アルティと戦い、彼女が消えた場所でもある。忘れようがない。


「丘の上にあった家……? って、スノウはあんなところに住んでるのか? というか、そもそもあれって残ってたのか?」


 いまでも炎に呑まれていく家を思い出せる。

 あの戦いのあと、原型を留めていなかった気がする。


「いまもあるよ。ただ、残ってるというか、建て直したって聞いたよ。それをマリアちゃんと私が、お仕事がヴァルトの近くだからって理由で買い取ったんだ」

「知らなかった……。あのあと、建て直していたのか。というか、賃貸の家だったのに弁償してないな、僕……」


 色々と大事なことを忘れていたことに気づく。

 あの頃は逃亡犯になっていた為、そういったことに気を回す余裕がなかったのだ。


 けれど、それは心配ないと、マリアが会話に参加する。


「弁償は私がしましたよ。私とアルティで燃やしたんですから、カナミさんが払うのはおかしい話です」

「あ、マリアがしてくれたんだ……。結構高かったと思うけど、大丈夫だった?」

「いえ、安く済みました。どうも建て直しをしたとき、昔カナミさん住んでいた土地ということでプレミア価値がついたらしく……そこまで、お店の人は怒っていませんでした。なにより、弁償の後にスノウさんが住むって決まってましたからね。ウォーカー家の後ろ盾のおかげもあって、話は穏便に終わりましたよ」

「なら、よかった」


 プレミア価値云々が少し納得いかないが、お店の人たちに不満がないのならば問題はない。僕が安心したところで、スノウは再度主張する。


「というわけで、いまはマリアちゃんと二人で住んでるよ。マリアちゃんのおかげで、隅々まで綺麗」


 僕は視線をマリアに向ける。

 そこには苦笑しながら、頷く彼女がいた。


「仕方なくです。スノウさん、意気込んで一人立ちするとウォーカー家に宣言したものの、次の日には私に泣きついてきまして……。周囲に格好つけた手前、他に頼る人がいないとのことでした」


 スノウの内情を、あっさりとマリアはばらした。


 それにスノウは「余り大きい声で言わないで……。建前は私がマリアちゃんの後見人で、面倒を見てるってことになってるんだから……」と口に指を当てて、周囲を見回した。他の人には内緒の話らしいが、周囲のギルドメンバーの表情を見る限り、誰もが知っていることのように見える。


「――カナミさん、昔のままですよ?」


 一言。

 マリアは昔の思い出を僕に訴える。


 かつて、僕とマリアが二人で暮らしていた家。

 スノウと同じく、マリアにも僕を誘おうとする意気があった。


 ふと僕は周囲のギルドメンバーに目をやると、先んじてヴォルザークさんが僕に声をかける。


「ここの後片付けは任せとけ。終身名誉マスターに、こんな雑事は任せられねえよ」


 反応が早い。

 近くで聞き耳をたてていたのかもしれない。その傷だらけの強面に似合わずヴォルザークさんは、そういう細かな気遣いができる人だ。


「いや、そういうわけにはいきませんよ。片付け手伝います」


 すぐに僕は否定しようとするが、ヴォルザークさんの隣にいた魔法使いの装いの女性――テイリさんがさらに強い否定を被せる。


「駄目よ、カナミ君。こうやって、細かく恩を売ることで、本当に『エピックシーカー』が危険に陥ったとき、あなたに助けて貰おうって魂胆なんだから」


 テイリさんは鋭い目で僕を見る。

 彼女は僕とスノウをくっつけようとしている筆頭だ。何が何でもスノウの要求を通そうとするだろう。


 断りきれないと感じた僕は、仕方なく拠点のことは任せる。


「……じゃあ、お願いしますね」

「ああ、行って来い。マスターには長い休息が必要だ」

「スノウをよろしくね、カナミ君! スノウを! 私たちのスノウを!」


 僕はテイリさんを無視して、ヴォルザークさんにだけ「はい」と答えて、一礼をする。

 それを最後に僕たちは別れを周囲に告げて、『エピックシーカー』本拠から出て行く。


「カナミ、こっちだよ。えへへ……」


 そして、大喜びのスノウが緩みきった顔で、家までの道を先導する。その手は僕の手を握ったままで、周囲の目が痛い。


 連合国の白く染まった街道を歩く中、僕たちは隠れることもなく歩いている。

 住民たちは口に手を当てて、ひそひそと話しているのが見える。《ディメンション》を使わなくてもわかる。いま、まさにウォーカー家当主さんの言っていた噂が、色濃く深まっている。


 それを僕と同じくマリアも察したのだろう。


「はあ……。スノウさん、離しましょう」

「え、離すって何を?」

「手です。人目につきます」


 マリアは繋がれた手を指差し、続いて周囲に目をやった。釣られてスノウも、ずっと僕に向けていた目を動かして、周囲の様子を窺う。


「私は……構わないもん」


 理解した上でスノウが拒否すると、にっこりと笑ったマリアは間髪入れずに魔法を放った。


っ――、あつい!?」


 マリアの炎は器用にスノウだけを焼いた。


「スノウさん、色々と嬉しいのはわかります。けど、節度を持ってください。最近の悪い癖ですよ」

「マ、マリアちゃん、私だからってちょっと火力が……」

「このくらいじゃないと手を離さないじゃないですか。血は繋がってないのに、お義母様とよく似てるんですから」

「えぇええ……。いや、最近はマリアちゃんのほうが、お義母様に似てきたような……」

「それはありえません。あの人と違って、私は偏執的なところは一切ありません」

「そ、そうかなあ?」


 僕から離れたスノウは、マリアと並んで仲良く談笑をしていく。


 それを僕は見守り――強い違和感を覚えていた。その違和感の正体が掴めず、何も言い出せず、目線だけをゆっくりと後方の陽滝に向ける。


 彼女も静かに見守っていた。

 一切会話の邪魔をしようとせず、一番後ろを歩いている。


 その意味を僕が考えていると、目的地まで辿りつく。


 見晴らしのいい丘の上。

 迷宮が近く、他に建物が少ない。完全にヴァルトの探索者の為の立地だ。そこに一つ、ぽつんと一軒屋が建っている。

 大きいわけでも小さいわけでもない。基本は木造ながらも、随所に魔石を使った最新システムが備わっていて、外観だけでも値の張る家だとわかる。


 懐かしい。

 わざわざ以前と同じ建物を再現したのだろうか。

 僕の知っている家と同じものが、そこにはあった。


 その中に、スノウとマリアに導かれて入る。

 内装も同じだった。

 見知った玄関を通り、キッチンの見える広めの居間まで歩く。


 そこに辿りつくと同時に、マリアは「急いで食事の用意をしますね。今日はカナミさんがお客様なので、ゆっくりしてください」と言って、キッチンに向かった。彼女の性格を知っている僕は、言われるがままに居間のテーブルに着いて、寛ぐ。そして、当然のようにマリアの手伝いはしないスノウに向かって、話しかける。


「それで、スノウはこれからどうするつもりなんだ? 例の開拓任務ってやつは終わったんだろ?」

「うん、やっと終わったね。で、やっとまともな休みを貰えたから、明日からはカナミの迷宮探索手伝うよ」

「せっかくの休みなのに、いいのか?」


 元総司令代理なのに、あっさりと休暇を貰えているのは、いま南北の戦争が停戦中だからだろう。無論、いまのスノウの口ぶりから、かなり強引に休みを要求したことも窺えるが。


「いいに決まってるよ。むしろ、こっちが私の一番の目的だからね。私は心身共に立派になって、カナミのパートナーになる。その夢は、ずっと変わってないよ」


 丘の上の家に続いて、また懐かしい単語が出てきた。

 迷宮探索のパートナー。一方的な関係ではなくて、支え合う関係。


「カナミ、いいかな?」


 スノウは迷宮探索の参加許可を、力強く乞う。

 その両目には、今日までの軍属としての経験やウォーカー家との確執を乗り越えてきた自信が宿っているように見えた。


「ああ。一緒に迷宮へ行こう」


 僕は頷きながら、ずっと覚えていた違和感が最大にまで膨らんだのを確認する。


 スノウが立派になったのはわかる。

 けれど、これは少し……おかしい。


 もっとスノウは自分に自信がなかったはずだ。正直なところ、パートナーという目標はあれど、半分ほどは諦めていた節があった。それは自信のなくなる『大きな理由・・・・・』があったからだ。


 ――その『大きな理由』が、この世界には跡形もなくなっている。


 だから、こうもスノウは活き活きとしている。

 マリアと一緒に暮らして、彼女なりに自立して、諦め癖を克服しかけている。


 僕は違和感の正体をよく確認しつつ、迷宮探索の約束をしたスノウに、いま現在の探索状況を伝えていく。ただ、この数日で深いところまで至ったことをスノウが知ると、「え、もう八十五階!?」と少しだけ不安そうな顔を見せた。しかし、その不安は食事を持ってきたマリアが打ち払う。


「――私もいますから、大丈夫ですよ。スノウさん」

「あっ、そっか。……そうだね。マリアちゃんがいれば、安心だね。よろしく、マリアちゃん」


 スノウはマリアから料理の皿を受け取り、テーブルに並べながら明るい顔に戻っていく。

 迷宮の深層は怖いけれど、マリアがいるのなら平気といった表情だ。


「えへへ。お休みを使って、カナミにいいところ一杯見せよう」


 口では僕の名前を出している。けれど、スノウは僕でなくマリアを見て、笑っていた。

 励ましてくれたことに対する感謝と強い信頼を、マリアに向けているようだ。


 そのとき、ふとディアのときにも感じていた寂しさがよぎる。

 同時に、今日『エピックシーカー』の様子を見て感じたものが、はっきりと言葉になって頭に浮かぶ。


 ――もう二人は、二人の望んでいたものを手に入れている。


 『家族』ならスノウが、『パートナー』ならマリアが、その役割を果たしている。

 お互いに補完し合い、理想的な生活を過ごしている。これが本ならば、あとは最終章に入って、終わりを待つだけ。そのくらいの安心感が、この懐かしい家からは感じられた。


 これが、この優しい冬の異世界の意図・・なのだろうかと思ったとき、ずっと静寂を保っていた妹の陽滝が声を出す。


「スノウさん、もう次のお仕事は決まっているのですか?」


 それは、次のことだった。

 質問されたスノウは、陽滝に対して快く答えていく。


「決まっちゃってるよ、妹さん。次のお仕事は本土で、ウォーカー家の代表として色々と働くんだ」

「なるほど。……ただ、軽く言っていますが、かなり大仕事のようですね。つまり、あのご当主様の代わりを務めるということですから」

「うん、お義母様の代わりだね……。でも――」


 またスノウは目をマリアに向ける。

 義姉妹となった二人は目を合わせたまま、微笑み合う。


「義妹の私も一緒に行って、補佐しろいう話です。お義母様はスノウさんを、まだ心から信じ切ってはいないようですね」

「へえ。マリアさんも一緒なら心配はなさそうですね。二人ならば、互いに互いの至らないところを助け合えることでしょう。まさに、いま言ったパートナーのように」


 二人の絆を陽滝は褒めた。

 その発言は、いまの僕の推測を裏付けているかのようだった。

 それを聞いたスノウは否定することなく、少し恥ずかしげに続ける。


「……うん。正直、マリアちゃんはすごく頼りにしてる」

「スノウさんは利用し合うことが苦手ですからね。貴族の騙し騙されは、私が引け受けるつもりです。その分、スノウ・ウォーカーという箔は全力で使わせてもらいますが」


 理想的な役割分担だろう。

 これならば、二人が本土に向かうのを安心できる。その僕の気持ちを、陽滝が代弁していく。


「本当にいい関係なんですね……。それで、出発はいつ頃になるのかは、決まっているんですか?」

「ええーっと、それは確か――」


 談笑は続く。

 テーブルに並んだ料理に手をつけながら、マリアとスノウと陽滝の三人は明るい未来について話をしていく。

 その談笑の中、僕は余計なことは何も言わない。

 もう言う必要がなかった。


 そして、穏やかな時間を味わうだけの時間が過ぎていき、マリアの用意した夕食は終わった。


 十分に話し尽くしたであろう陽滝は、最後にコップ一杯の水を飲み干して、別れの挨拶を切り出していく。


「――ああ。いつの間にか、こんなに暗くなってますね。……それでは、そろそろ失礼しますね。とても美味しかったです、マリア」


 食事のお礼を言って、席を立つ。

 それにマリアは笑顔で、「また来てください」と答える。


 去ろうとする妹の陽滝。

 その後ろに兄の僕は――


「陽滝、今日僕はここに泊まっていこうかなって思ってるんだけど……」


 ついてはいかない。

 その発言に当然ながら、家主たちは驚く。


「えっ!?」

「カナミさん……?」


 スノウは単純に喜び、マリアは不思議がった。

 僕の言葉の裏を理解していたのは陽滝だけだった。


「ええ、わかっています。ここがアルティの最期の場所だったのは聞いています。そして、彼女の全てを受け継いだマリアさんも、ここにいます。どうぞ、存分にアルティの『過去視』をしてください。兄さん」

「やるなら、早めに知っておきたいんだ。アルティのことは……」


 魔法の為であると話すと、驚いていたスノウとマリアの表情が緩む。


「ただ、私がいないからと、変なことはしてはいけませんよ?」

「わかってる。というか、『過去視』するとなると、今日は寝ないで魔法漬けになる。泊まるというより、場所を借りるって感じだ」

「でしょうね。それでは、私は先に宿へ帰っています」


 特に駆け引きすることもなく、陽滝は一人で帰っていった。


 どうにかして、陽滝を遠ざける作戦を考えていた僕は肩透かしだった。ただ、逆に陽滝の理解のよさが、全てが手の平の上である証明のような気もした。


 こうして、僕一人だけが家に残り、スノウが嬉しさを隠さずに聞いてくる。


「え、え? えっと、じゃあ……今日カナミは私の部屋に泊まる感じ?」

「いや、なんでそうなる。話を聞けって、スノウ。僕はマリアが寝てる部屋の隅を借りる。マリアが寝たあと、マリアの身体に次元魔法をかける」

「なんだ……。せっかく――」


 スノウは言葉を途中で止めた。

 そして、余裕のある大人の対応を見せいていく。


「それなら、私は魔法の邪魔をしないように自分の部屋で寝るね」


 色々と良からぬことを考えているのは丸わかりだった。

 邪魔はしないが、例の盗聴くらいは最低でもするだろう。


 それをマリアも予感しているのか、苦笑いを浮かべながら立ち上がる。


「それでは、今日は早めに休みましょうか。私が早くに寝たほうが、カナミさんも『過去視』がやりやすいでしょうし」


 寝所は同じでも、落ち着いて話をすることはないとマリアは理解し、てきぱきと準備を進めていく。


「そうしてもらえると、助かる。起きてるマリアの顔を、じっと見つめて魔法を使うのはちょっと恥ずかしいから」


 僕はマリアの食事の片づけを手伝いつつ、感謝を告げた。

 スノウも僕と同じく、皿を下げながら欠伸を一つあげる。


「ほんと今日は疲れたー。お義母様のこともだけど、『エピックシーカー』で騒ぎ過ぎたー……」


 三人で協力することで、すぐに片付けは終わった。

 そのまま、僕たちは居間を出て、それぞれの部屋に入っていく。


「それじゃあ、また明日。カナミ、マリアちゃん」


 手を振り合って、スノウと別れた。


 そして、僕はマリアと同じ部屋に入る。

 ここも見慣れた部屋だ。


 すぐにマリアはベッドに向かい、僕は備え付けのソファーに座る。

 先ほどの話通り、すぐにでもマリアは眠るつもりのようだ。


 ただ、目を閉じる前に、マリアは呟く。

 

「少し懐かしいですね。ここで二人、こんな形で寝るのは……」


 こんな形で寝るというのは――たぶん、僕がマリアと奴隷として購入した初日のことだろう。あの日、僕は混乱と敗北感が極まり、不貞寝した記憶がある。このように、僕はソファーで。


「そうだね。あのときをちょっと思い出す」

「あの頃、私は奴隷で、カナミ様はご主人様でした。ご主人様は違うって言ってくれましたが、確かにそうでした……」

「ほんとマリアは頑固で、困ってた記憶があるよ」


 僕は軽口で思い出話に答えていく。

 それを聞いたマリアは、「ふふっ」と笑い――間を置いて、一言。


「眠るまで、手を握ってくれませんか?」


 そう願った。

 僕は驚きと共に、マリアの顔を見る。


 マリアは顔をこちらには向けていない。

 掛け毛布を左手で握り引き寄せ、顔の下半分を恥ずかしげに隠している。そして、毛布の裾から、小さな手が出ている。


「――本当は握りたかったんです。あの日」


 言い出せなかったことを、いま吐き出した。


 それに僕は応えるしかない。

 それだけの理由があったし、そういう風にも身体が出来ている。


 適当な椅子を見つけて、ソファーでなくベッドの横に座り、マリアの手を握った。

 すると彼女は安心そうに目を瞑る。


「お休みなさい……。私の大好きなご主人様……」


 かつての皮肉を、今度は素直な言葉に換えて呟いた。


 ああ……。

 マリアもスノウと同じだ。

 いま彼女は虚勢を張る理由を失っている。


 ――それは本当に本当に『大きな理由』だったのだろう。


 だから、いまやっとマリアは背伸びをせず、年相応の姿を見せてくれる。


 そして、マリアは寝息をたて始める。

 短い時間で心から安心し切り、眠りについた。

 その彼女の寝顔を十分に見つめたあと、僕は《ディメンション》を広げていく。


 隣の部屋にいるスノウも、ベッドで寝息をたてているのを確認した。僕たちの会話がなくなったのを聞いて、こちらも眠りについてくれたようだ。


 家の中で起きているのは自分一人となった。


「魔法、使わないと……」


 すぐに僕は行動に移る。

 時間の余裕はあるとはいえ、無限ではない。


「――魔法《ディスタンスミュート》」


 ただ、僕が使った魔法は『過去視』ではなかった。

 僕はマリアの手をベッドまで移したあと、握られた手を透過させた。


 そして、マリアに気づかれることなく、部屋から出る。


 あの部屋で『過去視』をすれば、間違いなくアルティの人生が視えていたことだろう。

 それをマリアと陽滝は推奨していたが、その気は僕にない。


 僕は心から湧く衝動のままに、自分に足りないものを探す。


 直感的なものがあった。

 陽滝がいない今、『エピックシーカー』から感じていた足りない感覚を埋めるものを見つけないといけない。そして、その足りないものは、きっとこの家にある。


 軋む廊下を音なく歩き、本能に任せて《ディメンション》を広げる。

 もちろん、マリアやスノウ――この世界の誰にも、気づかれないように薄く、広く。


 家の間取りは、以前と変わらない。

 大層な玄関と居間に、立派なキッチンと浴室。

 そこに寝室が一つに、客間が二つ。


 いま僕は、その寝室から出たところだ。

 居間と浴室に目を通し、軽くスノウの眠る客間も覗く。

 これといって目立ったものはない。

 心が揺さぶられるものもない。


 最後に、残った客間の二つ目に入り、部屋を見回す。

 ここも他の部屋とさほど変わらない家具と間取りだ。


「…………?」


 ここだけ他と少しだけ違うような気がした……。

 あるはずのない生活感が、ここにはあるような……。


 寝室はマリアが使い、隣の客間はスノウが使っている。

 過去でも、この部屋は使われていないはず。

 あの頃はマリアと二人だけで、三人目なんて――


「――っ!?」


 三人目なんていないと思ったとき、部屋の隅にある闇が動いた。

 褐色肌の子供が走り、影に隠れ、消えたのを視界の端が捉えた。


 すぐに僕は『持ち物』に手を入れ、剣を握り、魔法を使う態勢を取った。

 瞳でなく《ディメンション》を動かし、ありとあらゆる方角からの奇襲に備えたところで、一つの異変に目を奪われる。


「剣……?」


 床の隅に剣が一振り、無造作に転がっていた。

 間違いなく、さっき部屋を見回したときにはなかった。


 さらには部屋の窓が開け放たれ、夜闇に吹く雪が入り込んでいるのも見つける。

 雪にさらされた美しい銀の剣を、僕は『注視』し、



【天剣ノア】

 攻撃力7

 消耗率-99%



 今日一番の鼓動が、心臓で高鳴る。

 その見事な造詣の銀造りにではなく、その剣の持つ郷愁に引き寄せられ、身体が動く。


「この剣、誰が……」


 誰が持ち込んだのだろうか。

 明らかに、いま誰かが部屋に入ってきた。

 次元魔法使いの僕に気づかれず、唐突に現れて、消えた。


 そして、剣を置いていった。


 目線を剣から外せない。

 見れば見るほど、失われた大切な感情が戻ってきている気がする。この剣こそが、今日ずっと覚えていた違和感であり、失っているピースでもあるともわかる。


 この剣は、風景画ならば太陽だ。

 例のスノウとマリアの『大きな理由』であると確信し、手を伸ばし――


「…………」


 途中で、手を止めた。


 身体に染み付いた経験があった。

 これでは、かつて記憶を奪われたときと、そう変わらない。

 記憶を奪われた主人公が、かつての仲間たちと交流し、過去と縁あるものに触れて回り、ゆっくりと自分を取り戻す――


 ――ありえない。


 以前と違い、今回の相手は優しくないと僕は知っている。


「あいつとは違う……。陽滝は、違うんだ……」


 軽く家捜ししている最中、大切なピースを見つけた?

 都合よく、いま記憶が少し戻りかけている?


 ――あるはずがない。


「陽滝は普通じゃない……。どの守護者ガーディアンよりも強い。間違いなく強い……」


 正直、先ほど見えた褐色の子供からは敵意を全く感じなかった。それどころか、僕に協力したいという意思を感じた。確証はないが、陽滝とは別口の優しい救援だと僕は思ってる。

 

 ただ、その優しい救援は、陽滝の手の平の上だ。

 それを伝えたくて、僕は誰もいない部屋で独り言を続ける。


「陽滝は強いんだ……。使徒よりも僕よりも、この世界の誰よりも……。もし陽滝と対等になれるとしたら、それは僕だけ……。僕しかいない。だから――」


 別に救援なんてなくても大丈夫だと訴えておく。

 優しい救援者たちが、勝てない相手に挑戦し続けてしまわないように、その『理』を忠告しておく。


「――【誰も相川陽滝には勝てない】」


 これだけは絶対だ。

 冗談でなく陽滝は、どんな理不尽に不利なルールでも、最後には必ず勝つ。


 特に、この『最後には』というのが酷いところだ。

 いつの間にか負けているということを、僕の妹は敗北者に気づかせない。その上で、裏で操り続けるのが上手い。


 少し前の僕たち一家がそうだった。

 この異世界に来てからの僕なんて、その極致だった。


 初めて異世界召喚されたときなんて、意気揚々と「陽滝の病は僕が治す」なんてのたまっていた。

 さらに千年後も、『世界奉還陣』から出てきた陽滝を「眠りの魔法から覚めない」なんて信じていた。


 ――そんなわけがない。


 全て嘘だったから、あの『相川渦波が生き返った日』に、陽滝はフーズヤーズ城の『頂上』までやって来れたのだ。


 これ以上ないタイミングで、この異世界の『一番』を掠め取りに来た。

 つまり、アイドやノスフィーの治療を受けるまでもなく、いつでも彼女は好きなときに好きなように動けていたってことだ。


 ずっとずっと裏で、陽滝は何もかもを思い通りに進めてきた。

 その結果が、この生ぬるい幻の世界。

 当然、ここで僕が行う全てが、陽滝の手の平の上。

 たぶん、いま僕が考えていることも、陽滝の予想の範囲内。ずっとずっと妹は僕を裏で操ってて来て、それを僕は何の違和感もなく従ってきて、それで――


「――はあ。……水でも飲もう」


 記憶が少し戻ったことで幼少のトラウマが再発しかけていた。

 思考が危険な堂々巡りに陥りかけたが――慌てることなく一息ついて、自分を落ち着かせる。


 そして、魔法を使わずに『天剣ノア』を握り、適当に『持ち物』に入れて、客間から出ていく。


 向かう先は、居間にあるキッチンだ。

 あそこには『魔石線ライン』が引かれていて、いつでも安全で冷たい水が飲める。

 僕は勝手知ったる家の廊下を歩きながら、冷静に思考を纏めていく。


 ――確かに、いま僕は陽滝の手の平の上かもしれない。


 けど、何もかもが絶望的というわけではない。

 この『優しい冬の世界』からは、ずっと見えなかった陽滝の思惑が少し窺える。


 いま、ここで最も強調されているのは「次々と本土へ去っていく仲間たち」だろう。


 アレイス家に守られ、新たな仲間と新たな人生を歩み出したディア。

 ウォーカー家の下で手を取り合って、新天地に向かうマリアとスノウ。

 今日までの一連の流れから、僕に『未練』を残させず、仲間との別れを納得させようとしているのがよくわかる。


「邪魔者を減らそうとしてるのかな……。僕の仲間を減らしていって、減らしていって……。そのあとは……」


 あと、陽滝は僕の異世界での物語を終わらせようとしている気がする。

 それも僕が不満を覚えない形で、とても綺麗に。


 そのためにレベルを限界まで上げて、異世界での交友関係を整理しているのだとしたら……つまり、僕の本当のタイムアップは、レベルが最大まで上がった瞬間ではなく、僕の周囲に知り合いが一人もいなくなったときかもしれない。


 そのときが来れば、僕は動かざるを得なくなるだろう。

 ■■■と同じように、勝ちを確信した陽滝の隙を突かないといけない。

 もし、それまでに陽滝の気持ちを理解できなかったとしても、それだけは絶対に遂行する義務がある。

 でなければ、幻覚の外の世界は永遠に、氷河に呑み込まれたままだ。


「…………」


 正直、陽滝の気の緩みを突くのは難しいだろう。


 しかし、絶対に負けられない。今回で最後とわかっているからこそ、兄である僕が勝って終わらないといけない。


 その強い責任感を胸に、僕はキッチンまで歩く。

 そして、震える手を動かして、冷えた水を木製コップに汲み、喉に流し込んでいく。


「ふう……」


 胃が冷えるのに合わせて、ゆっくりと視線を落とした。

 そこには、僕の世界とそっくりの蛇口があった。


 千年前の僕は、ティアラに水道や冷蔵庫のことを僕は話したのかもしれない。

 だから、いまの世界は、こうも文明の利器が溢れている。


 もちろん、科学の蓄積が足りないから、魔法で代替をしているだけだ。

 電気や熱に代わるエネルギーインフラは、この『魔石線ライン』で行っている。この異世界特有の魔石を伝って、魔のエネルギーが街全体を走り、こうして僕は冷たいものやら熱いものを味わえるわけだ。と、僕がキッチンの『魔石線ライン』を眺めつつ、少し気を逸らしたとき――


「……ん」


 赤い汚れを見つけた。


 ――これは、血?


 『魔石線ライン』に一滴分ほどの血がついている。

 マリアが料理中にミスをしたのかもしれない。

 それを僕は何気なく、近くの布巾で拭き取ろうとして――


「――え?」



 ――その血は、布巾を避けた・・・



 そして、這うかのように機敏に動き、布巾でなく僕の肌に付着する。

 さらに血は熱を持ち、魔力を発し、刻まれた術式を起動させる。

 魔法が、発動する。


「なっ――!?」


 血を手で払おうとしながら、多くの疑問が飛ぶ。


 血が……? どうして? この魔力は誰のものだ? 熱いが、マリアではない。たぶん、ファフナーでも陽滝でもない。しかし、この三人以外に、こんな魔力を使う人物は心当たりはない――!

 

 答えは出ないまま、その血は僕の血に干渉していく。

 かつての『光の理を盗むもの』の光のように、染み込み、僕の魔法《次元決戦演算ディメンション・グラディエイト前日譚リコール』》を強制的に発動させる。


 僕は自分の魔法で意識が遠のき始めた。


「これ、は――」


 凄い・・


 これが罠だと理解したとき、僕は悪態でなく、その見事な手管を羨んだ。


 完全に気の緩みを突かれた。いましがた陽滝の隙を突く方法を悩んでいた僕にとって、これほど称賛に値するものはない。


 ただ、その称賛の声が口から全て出る前に、僕は過去を遡っていく。

 僕の視界が最後に捉えたのは『魔石線ライン』の光だけだった。かつてないほど禍々しく『魔石線ライン』は輝き、僕の身体を包み込んでいった。


 そして、その記憶の先で、僕は知る。

 この見事な不意討ちをしかけた人物の名を。



◆◆◆◆◆



 ――二度目の『過去視』が始まった。


 ただ、当初の予定とは大きく変わってしまった。

 千年前でなく、もっと直近の過去に僕は飛ばされてしまう。


 すぐに日付はわかった。

 この異世界の長い歴史でも、この光景は一度しかないという確信があった。


 場所は本土の大聖都フーズヤーズ。

 その城の『頂上』にて、膨大な魔力が二つ向かい合っている。


 ――今日は、『相川渦波ぼくが生き返った日』だ。


 光と星。

 視界に映る魔力の色から、すぐにノスフィーと……ラグネ・・・であるとわかった。


 そう、『ラグネ・カイクヲラ』――先ほどまでいたところでは名前を消されていたので、認識するのに少し時間がかかってしまった。どうやら、ラグネは陽滝に酷く嫌われているみたいだ。


 もはや、過去の中にしか存在できない二人が『頂上』にいる。けれど、視るべきは彼女たちではないというように、視線は移っていく。


 まず城の真下。

 万を超えるフーズヤーズ兵たちが、大聖都を侵していた血を全て、城の中まで押し返し切り、決戦の勝利に沸いていた。


 しかし、その喝采は長く続かない。城の中から負傷した人をたくさん乗せた巨大狼が現れ、遠目からでもわかるほどの大きな動揺が兵たちに走る。

 

 そこで視線はさらに動く。

 揺れに揺れた瞳が、最後に辿りついたのは自らの足元。

 大聖都の地上にたくさんある住宅の一つ、その屋根上に立つ自分自身の爪先だった。


 そこで僕は『過去視』の基点となった人物を知る。

 足先には黒の靴。膝上にはフリルのついた黒服の裾。指先は黒い爪。


「あ、あぁあ、着いた・・・……。たぶん、あれ・・がいま……」


 僕の中では記憶の薄い少女――『木の理を盗むもの』アイドの生徒の一人、黒の『魔石人間ジュエルクルス』ノワールちゃんだった。いつも僕を目の敵にして、何度も返り討ちに遭っていた女の子。


 この日、自称『星の理を盗むもの』ラグネ・カイクヲラの支配するフーズヤーズ城攻略に向かったのは、『ノスフィー』を先頭に『ディア』『ラスティアラ』『スノウ』『マリア』『リーパー』『ライナー』『ペルシオナ』『セラ』の九名――しかし、この十人目であるノワールちゃんだけは参加せず、後方に控えていた。その彼女に、いま魔法の基点が重なっている。


「あれが、城に……」


 ノワールちゃんは全身に霜を張り付かせ、震わせていた。

 極寒の地を歩いてきたかのような姿から、何らかの氷結魔法を受けたようだ。


「また負けた……。シス様に『聖人』として選ばれた私が……。私こそ、世界で一番尊くて、素晴らしくて、気高い存在……なのに、でもアレは……。アレは・・・……!!」


 声も震えている。


 僕は『過去視』のおかげで、ノワールちゃんの内面まで見通すことが出来た。

 いま彼女は直前の戦いを思い出し、恐怖している。


 なんとか自分を『聖人』と呼んで鼓舞するが、その言葉だけでは振り払えない感情だった。

 確かに、『聖人』は尊く素晴らしく気高く、強い。しかし、それを軽く上回るほどの化け物と出会ってしまった。あれの纏う魔力は神々しく、別次元過ぎた。闇を切り取ったかのような黒い髪と瞳――そこで、脳があれの姿を認識するのを拒んだ。


「ぅう、ぁあああ……!!」


 ――たった一瞥されただけで、私は負けた。


 魔法でなく、魔力に中てられただけで、吐き出す息が白くなるほど芯まで凍りついてしまった。肌を氷粒が覆い、心身の熱を全て奪われて、顔を伏せて、蹲った。


 私は身体だけでなく心も、折られてしまった。

 たった一瞥で……!!


 これ以上は思い出したくない。

 思い出せば、次は折れた心が砕ける。

 あれと、もう一度向き合うくらいなら自決を選ぶ自信がある。


 知り合いたちには色々と託されていたが、もう関係ない。

 何が「これから全戦力を投入して、カナミの奪還を行う」「だから、任せたぞ」だ。「おまえは隠れているだけでいい」「敵は私たちで倒します」とか言って、私が一番のハズレくじだったじゃないか。「遠くで、彼女を守ってるだけでいいからね」なんて――大嘘だった。


 『眠りの呪いに囚われた女の子』って話だったはずなのに……。

 動いた。

 動いて、私に話しかけたんだ……!!


「あんなのを私に守れって……!? どうかしてる……! クエイガーさんも、キザのエルミラードも、バカ現人神も、みんなみんなみんなっ、この世界の誰も彼もっ!! みんな頭がどうかしてる!!」


 特に恐ろしいのは、動いたあとだ。


 眠りから覚めた女の子は、私にお礼を言った。


 いまだからわかる。

 あれは、本当にお礼だけだった。

 お礼を一言、喋っただけ。


 しかし、一言に乗った魔力が余りに規格外すぎて――私は半狂乱してしまった。


 モンスターの口内に放り込まれたかのような錯覚に陥り、何が何だかわからずに全力の攻撃魔法を全方位に放ってしまった。そうするだけの脅威が、あれにはあった。


「アレは、おかしい……。あんなの、もう、人とか魔法とか……。そういうのを越えてる……」


 だが、その私の全身全霊の攻撃は、彼女に軽く呑み込まれた。ただ、立っているだけの女の子の魔力の中に吸い込まれて――消えたのだ。


 女の子は私の足掻きを見ることさえしなかった。

 お礼を言ったあとは、私なんか道端の石ころのような扱いで……。魔力で私を凍らせてしまったことも、私に魔法で攻撃でされたことも、何も感じ入ることのない様子で、私を置いて、歩いていった……!!


「――悔しい。でも、悔しい以上に、もう私は……、私は……」


 言い切る前に、ぽつりと鼻先に何かが落ちた。

 すぐに私は見上げて、原因を確認する。


「ティ、魔力の雨ティアーレイ……?」


 違うと、すぐにわかった。

 これでも私は世界有数の大魔法使いだ。魔力の粒子かどうかくらいは、空気の感触だけでわかる。


 つまり、これは魔力の現象でなく、気象の変化。


 徐々に空の色が変わっていく。

 大聖都を照らす朝陽が少しずつ、色の濃い雲に呑まれていく。

 その天候は私は知っていた。

 偶々、アイド先生から聞かせて貰ったことがあった。


「雪?」


 だから、これがいかに異常なこともわかった。

 過去千年の歴史で、一度もありえなかった異常気象。

 その転変地異に等しい一大事を前に、私の頭に浮かぶのは一言。


 ――せ、世界の終わり・・・・・・……?


 平時なら馬鹿馬鹿しい言葉だったが、いまの私には身近だった。

 その原因に心当たりがあったからだ。


 ――あれだ。絶対に、さっきのあれだ。


 一瞥だけで人を凍らせたのだ。

 歩くだけで天候を変えてもおかしくない。


 そして、同時に不安になる。

 目覚めた女の子は私の全力の魔法に対応しなかった。するまでもないということで、見逃してもらえた。


 しかし、いま向かっている先は、フーズヤーズ城だ。

 あそこには『理を盗むもの』と呼ばれる化け物たちがいる。

 それに匹敵する偉人たちも揃っている。


 あの女の子が能動的に動く状況に、なり得る。


 動けばどうなる?

 歩くだけで雪が降り出したのだ。

 戦えば、何が起こる? 


 怖い。

 怖い怖い怖い。

 ただただ怖い――!!


「怖いよ、ルージュ……」


 思わず、離別したはず半身の名前を情けなく口にしてしまった。

 それは強者への挑戦を諦めたことを認めた瞬間でもあった。


「ええ、そうですよ……。わかっていました。わかってましたよ、さいしょっから!!」


 全てが折れたことを私は完全に認めた。

 ゆえに、もう思考なんて取り繕わない。

 折れた心の中で、負け惜しみで一杯にしていく。


 おかしいんだ。

 あの男が現れてから全部おかしい。

 その妹は、もっともっとおかしかった。


 付き合ってられない……。

 もう、あの兄妹には関わらないほうがいい……。

 二度と顔は合わせない……。

 それがいい。得策。賢い選択。やっとわかった……!!


「だから!! 私は助けになんか、絶対行きません……! 私は逃げます! ルージュのいる北まで! ルージュ、ルージュルージュルージュ……! 私の大切な半身!! 恨まないでください、みなさん! あんな男と関わり続けるみなさんが悪いんです……!!」


 そう悪態を飛ばし、自分の凍りついた身体に、熱を灯す。

 幸い、凍りついた身体は、そこまで重症じゃない。

 逃げるに十分な魔力も体力も残っている。


 すぐに私は踵を返し、城と戦場に背を向けて、駆け出そうとする。

 ただ、そのスタート地点の足元に奇妙な魔力を感じて、足が止まる。


「――っ?」


 蠢く――血?


 スプーン一掬いほどの血が、街道の『魔石線ライン』に沿って動いていた。

 例の『血の理を盗むもの』の魔法だろうか。フーズヤーズの騎士たちが血の除去作業を行ったと言っても、完璧とは言いがたい。こうして、僅かに血が残っているのは、そこまで不思議なことではない。


 だが、これが化け物の血であるのは確か。

 私は八つ当たりにも似た気持ちで、その血を蹴ろうとして――


「このっ!!」



 ――しかし、その血は獣のように跳ねて、私の足を避けた・・・



「――え?」


 そして、血は私の皮膚に張り付き、すぐさま発光する。

 さらに言えば、先ほどまで蠢いていた『魔石線ライン』も同様に輝く。

 血と『魔石線ライン』に魔力が走り、同じ術式を通り、一つの魔法が発動する。


「……っ!? な、んで――、これが、ここに――?」


 血に侵されつつ、私は理解していく。


 ――これは違う。


 城にいるやつの血とは違う。これは、世界を滅ぼすとまで評される『血の理を盗むもの』をずっと隠れ蓑にしてきた――さらに上位の存在。


 そいつが、いま舞台袖から逃げ出そうとした私を「これは都合がいい」と捕まえたのだ。


 それに私は抗えない。

 その血の魔法に、世界最高峰の大魔法使いである私が一切抗えない。

 この私がこの私がこの私が……! この私が、ぁあっ……!!


「い、行かなくちゃ・・・・・・……」


 言いたくもない言葉を呟かされて、私は身体に負担のかかる『魔人化』を行った。

 黒い爪のついた指先から脇までに翼を形成し、全身を細く変質させる。


 黒の蝙蝠となって、私は屋根上を跳躍する。

 目指すのは大聖都の外でなく、戦場の中心である城。


 冷や汗が止まらない。

 行きたくないって言ってるのに、行かされている。

 恐怖で全身が震えているのに、勝手に口が動く。

 

「だって、私たちは――」


 嫌だ……。

 行きたくない……。


私たち・・・魔石人間ジュエルクルス』が生まれたのは――」


 なのに、私の役目を、私が私に知らせていく。


「この大聖都フーズヤーズを建てたのは――」


 この大聖都の終わりも告げる。


大陸レヴァンの千年は、全て、このときの為――」


 それどころか、この世界の運命までも『予言』していく。


 そう、これは『予言』だ。

 その真の意味を、屋根上を跳び進みながら、奥歯をカチカチと鳴らし、味わう。


 着地のたびに、大聖都にふんだんに使われた家屋と道の『魔石線ライン』の光が増して、私の身体の自由は奪われる。

 皮膚に張り付いた血自体の力は、そこまでない。しかし、それが起動の鍵アクセスキーとなって、大地から術式と魔力を汲み上げている。簡単に言うと、国一つ使った魔法が、いま私を襲っている。


 それに晒され、私は怯えながら、許しを請う。


「わ、私はもう……。もう戦えません……! どうか、逃げさせてください……! あれは絶対に、この大聖都を――いえ、この大陸を凍り尽くします……! その前に逃げさせてください……。お願いです。私は死にたくない……。まだ死にたく――」


 しかし、許されない。


 ぞぞぞと、より強い魔力が全身に流れ、私は唇を噛みながらも頷くしかなかった。


「は、はい……。わかりました。遠くから視るだけなら……。せ、せい、『聖人』ティアラ様・・・・・……――」


 声を震わせ、ずっと求めていた称号を、いま完全に手離した。


 本物を前にして、自分のような矮小な存在が『聖人』を騙っていたことが、いかに畏れ多いかわかったからだ。


 ――廻る血は「怒ってない怒ってない」と軽く言うが、私の身体は震え続けている。


 私を凍らせた『氷の少女』は怖い。

 けれど、ここにいる『本物の聖人』も怖い。


 どちらも同等の災厄。

 その二人の間に挟まれてしまって、私の小さすぎる自我は吹き飛ぶ寸前だった。


 こうして、誰の味方でもない蝙蝠の『魔人わたし』は操られ、飛ばされていく。

 指示されるがままに、末期の『魔石人間ジュエルクルス』にのみ許された魔法を唱えさせられる。


「――星魔法《グラヴィティ》」


 それは『星』の魔法。


 身体を束縛する星の力を操り、空高く飛翔する。

 雪の降り始めた空の中に飛び込み、その薄い翼を広げて、この大聖都で一番高い場所である時計塔まで滑空していった。


 ――その目的は一つ。


 いましがた手放された『聖人』という称号。その名を受け継ぎし、今代の生贄の『答え』を視届けることだった。

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