225.童の長い人生(前編)
「――お、おぉ! 婆さん、起きたようじゃぞ!」
しわがれた声を認識し、『私』は薄らと目を開けようとする。しかし、上手く瞼は動いてくれない。錆付いた扉のように、世界の光を取りこむのに長い時間がかかってしまう。
その間に、もう一方から別のしわがれた声が聞こえてくる。
「……おー、そのようじゃな。ならば、すぐに暖かいものを用意しようかね。まずは腹に何かを入れんとな。出る元気も出んじゃろうて」
「そうじゃのう」
やっとのことで目を開いたとき、久しい光に目を眩ませる。けれど、なんとか目を細めて外界の情報を得ようとする。
まず目に飛び込んできたのは見知らぬ天井。その天井は平たい造りでなく、三角錐の形状の奥行きがある変わった造りとなっていた。三角錐の空間に編むように木材が組まれ、天井を支えている。
その天井からは、大地にそびえたつ巨木が見るかのような安心感を覚える。
どこだろう、『ここ』……。
いままで私がいた場所とは随分と違う。
もっと暗いところにいたような……。
なぜだろう。
思い出したくない……。
ああ、そうだ……。
それよりも、いまは『ここ』がどこなのかを確認しないと……。
ゆっくりと首を横に向ける。
光の差す格子のない窓を背中に、一人の老人が笑顔で座っていた。長年着続けたのが一目でわかるベージュ色の服を纏った好々爺。私と同じ『魔人』なのだろう。手足の先が、まるで蛸の触手のようになっている。くらげか蛸、もしくは水棲モンスターの混じりの可能性が高い。
隣にいたのが『人』でなく『魔人』であるとわかった私は一安心する。そして、その余裕を持って、さらに周囲の情報を集めながら、声を出す。少し不安だったが、張り付いた喉からは枯れ果てた声がちゃんと出てくれた。
「こ、『ここ』は……?」
建物の中にいるのは間違いない。光差す窓の隣には、生活用の棚があり、多様な食器が並んでいる。壁には干された果物が吊るされていることから、民家であることもわかる。その民家のベッドに、いま私は寝ている。
「ああ、わしらの家じゃよ。もう安心せい。少なくとも、飢え死にすることはないぞ」
隣の好々爺は優しい声で答えてくれた。
その暖かい声質に驚きながら、私は返事する。
「え……、あ、はい……」
お礼さえもろくに言えなかった。それほどまでに、ここまで直球な優しさは久しぶりだった。
そして、状況に困惑する私へ、逆方向から暖かいものが差し出される。木製の椀だ。その中に白い湯気の上る芋のスープが入っていた。
蛸のお爺さんの伴侶であろうお婆さんが、私の手に椀を持たせる。
「大したものじゃないが……。お食べ……」
またも優しい声。
困惑は加速するばかりだった。
「どうして……、私に食べ物をくれるんですか……?」
スープを見つめながら、問う。
「どうしてと言われてものう。ぬしみたいな幼子を見捨ててしまえば、わしらを見守ってくれている神様から天罰を受けてしまう。いや、わしらを守ってくれているヴィアイシア国の王様たちに顔向けできなくなる。じゃからかのう?」
神様から天罰を受けるから?
守ってくれている国の王家に顔向けできなくなるから?
全く理解のできない話を返されてしまった。
少なくとも、私の人生には一度もなかった考えた方だ。
だから、スープを突き返すことも、スープに口をつけることもできず、ただ私は固まってしまう。
それを見たお爺さんは話を続ける。
「大体、わかっておる。ぬしは南から逃げてきたのじゃろう?」
南。
余り使ったことのない表現だ。
だが、私は北を目指してやってきた。ならば、私がやってきところは南と呼ぶのが適当だろう。
私は頷き返す。
「……はい」
「ここ数年で南との関係は――いや、『人』と『魔人』の溝は深まったからのう。南のほうでは『魔人』の扱いが悪いと聞いておる。ぬしもその口なのじゃろう?」
お爺さんは私の事情の全てを察していた。
以前いた場所を隠すことはできないと思い、私は素直に頷く。
「……はい」
逃げて、逃げて、逃げてきたのだ。
北には『魔人』の住む楽園があるという噂を信じて、飲まず食わずでここまでやってきた。そして、歩くことも動くこともできなくなって、最果ての草原で一人意識を失い、このまま死んでいくのかと思っていた。
「よくぞ、その小さい身体で北の辺境の地まで辿りついたものじゃ……。もう安心してよいぞ。ぬしを脅かす人間は、ここにはおらぬ……」
けれど、助かった。
いま私は生きている。同じ魔人のお爺さんとお婆さんに助けられた。
お爺さんは私を言葉で慰め、お婆さんは私の背中を優しくさする。
「今日はゆっくりと身体を休めるといい。村のものに紹介するのは明日でよかろう」
「……え?」
まるで、ここにずっと居てもいいかのような話に、私は驚く。どうやってお礼をして、どうやってこれから生きていこうかと考えたところだったからだ。
「……む、
「は、はい。だって、私は――」
――余所者の厄介者。そう口にしようとしたき、唐突に話を変えられる。
「ときにおぬし、何の魔が混ざっておるのじゃ?」
びくりと身体が震えた。
――混ざり。
その言葉は私のトラウマを刺激する。その言葉が私の人生を全て決めた。
けれど、それを答えないのは恩人に対して不誠実だ。向こうとしては、私が何者かを問ういているのと同じだ。
身体の底から溢れる震えを抑えながら、私は答える。
「……少し変異してますけど、たぶん、ハーピィです」
「うむ、やはり『魔人』なのじゃな」
『魔人』。
それが私をここまで追い立てた。『人』ではないこと。それだけのことが私を――
「――ならば、わしらは同胞じゃ。家族が家族を助けるのに、何の問題がある?」
だが、お爺さんはその言葉を聞き、これ以上ない笑顔を作った。
ずっと誰が聞いても侮蔑の表情しか生まなかった言葉を聞いても、その態度を変えはしなかった。
「か、ぞく……? でも……」
「血の繋がりなど関係ないぞ。我らは我らの法をもって、家族を決める。その法からすれば、ぬしはもうわしらの家族じゃ」
我らは我らの法……?
家族……?
「でも、私は毒に犯され、穢れてて……」
「そんな与太話、ここでは通じんぞ。そもそも、わしらも同じ『魔人』じゃ」
そ、そうだ。
混乱していたせいか、まるで私だけが穢れているかのように思ってしまった。けれど、もう違うのだ。『北』は違う。だから、私はここまでやってきた。
ここには私と同じ人たちがたくさんいるから……!
「強制はせん。しかし、少しの間だけでもいいから、『ここ』で生きることを考えてはくれぬか? わしらのような老い先短い者の話し相手になってくれるだけでも嬉しいのじゃ」
お爺さんは優しく、そのしわくちゃの手を伸ばした。
「若いものはいつでも歓迎じゃ。特にぬしのような可愛い子はのう」
お婆さんも優しく、私の若草色の髪を撫でた。
どちらも、私の人生には一度もなかったものだった。
余りに暖かすぎる。いまにも、溶けて消えてしまいそうになる。
あ、あぁ……。
「あ、ありがとうございます……。ありがとう……、ございます……」
ようやく、搾り出すようにお礼の言葉を言えた。
それを口にしたとき、全ての緊張の糸が切れた。
いままで、ずっと暗く冷たい地の底を歩いているような気がしていた。
奈落の底、まるで地獄を生きていると思っていた。
けれど、違う。
もう違う。
『ここ』は明るく、暖かい。
それだけで私の身体から全ての力が抜けていく。
「本当に……、ありがとうございま――」
安心が涙腺を刺激し、視界がぼやけていく。
――『
噂は本当だった。北へ逃げた先に最後の『楽園』がある。
そこへ私は辿りついた……。
辿りついたんだと理解したとき、私は意識を失った。
暖かな家の暖かなベッドの中で、柔らかい枕に頭を沈めて眠ったのだった。
◆◆◆◆◆
ただ、人とは現金なもので、死にかけていたときはお爺さんとお婆さんの二人を神か何かのように思っていたけれど、一度体力を取り戻すと「何か裏があるのでは?」と思ってしまうようになる。
私もそんな恩知らずの中の一人だった。
そう思わざるを得ない人生を歩んできたと言えばそこまでかもしれないが、ちょっと人として恥ずかしいものはある。
「
お爺さんが呼んでいる。
私は手を止める。
家の隣には白い花の咲く巨木がある。その近くにある切り株を使って、薪割りをしていたのだ。いつの間にか額にはりついていた白い花びらを取りながら、返事をする。
「こっちです。お爺さん」
拾ってもらったあと、私は村の一員となった。
ただ、居場所を提供してもらいながら、未だに私は心を開いていなかった。
淡々と手伝いを繰り返しながら、皆の様子を見る。それを繰り返すだけで、いつの間にか数日が過ぎていた。
「薪、割り終わりました……」
すぐに割った薪を両肩に抱えて、お爺さんの声がしたほうへ向かう。家の裏手にいたお爺さんは、現れた私を見て驚く。
「ち、力持ちじゃのう……」
「そうですか?」
せいぜい私の身の丈ほどしかない量の薪を保管蔵に入れながら返す。
「ぬしはハーピィの混ざりなのじゃろう? もっと非力なはずじゃが……」
「でも他の方も、このくらいはしてました」
「む、他のとは?」
「
「そこらの種と比べておる時点で、何かおかしいのじゃがな……」
おかしいのかな?
けど、これくらいの量をこなせていなければ、いま私は生きていないと思う。あのときは周りについていこうと必死だったので、自分の種なんて考えたこともなかったし……。
「もしかしたら、
「特殊……?」
ハーピィ混じりの中でも特殊ということだろうか。
それとも『魔人』としてか。根本的に人としてか。
「時々じゃが、この世界の毒と上手く適応するものが生まれると聞く。その者は毒の力を操り、火や風を起こすらしいぞ」
「毒の力で、火や風を……? まるでモンスターじゃないですか」
まるでおとぎ話の魔法のような話だ。そんなことができていたら便利かもしれないが、余りに非現実的な話だ。
「まあ、そこまでいくと伝説上の話になるのじゃがな。毒と適応し、味方にできるものは身体が強かったりするのは本当じゃぞ?」
「はあ。そうですか……。それが私だと?」
伝説とやらは眉唾だが、身体能力の向上はありえそうな話だ。
「ああ、
「その……、名前がなくてすみません……」
「それはぬしが謝ることではないよ。しかし、新しい名前か……」
名前で呼ばれたことなどないから、自分の名前がわからないのだ。
だから、ずっと
「ほほう、ならばわしがかわいい名前をあげようぞ」
名前についていると悩んでいると、家の表のほうからお婆さんが現れる。タイミングを測ったかのような登場にお爺さんは呆れる。
「婆さん、おったのか……」
「
「……確かに。それが一番いいかもしれんのう」
自信満々にお婆さんは提案し、それにお爺さんは賛同した。
「ティティー?」
名前を繰り返す。
それを聞いた二人は頷き返す。
名前を貰えたのは嬉しい。嬉しいが――
「もしかして、大切な名前なのでは……?」
二人の表情からそれを感じ取った。
その名前を口にするとき、一瞬だけ何かを懐かしんでいるように見えた。
「……嫌かのう?」
お婆さんは不安げに問う。
私の答えは一つだけだった。拒否なんて選択肢になかった。
「嫌じゃないです……。いい名前だと思います。ティティー……」
少し子供っぽいが、可愛らしい名前。
すぐに私は気に入った。
「ならば、決まりじゃ。ぬしは今日からティティーじゃ」
お爺さんは明るい顔で決定をくだす。
しんみりとした空気は消え、話題も変わる。
「あと、その喋り方も早めに直さねばな」
思いもしないところを突っ込まれ、私は首をかしげる。
「え、喋り方おかしいですか?」
「ああ、おかしいぞ。もうわしらは家族じゃ。そんな丁寧な言葉遣いなどいらん」
「家族の間に、丁寧な言葉遣いはいらない……?」
「ああっ、そうじゃ。もっとフランクに頼むぞ、ティティー!」
ばんっと背中を叩かれる。
その初めての要望に私は戸惑いながらも頷く。
「あ、は、はい。努力します。がんばります」
そして、目一杯頭を下げた。
それを見たお爺さんは少し困ったような顔になる。
「あー、それがいかん」
お爺さんの指が私の頭に近づき、ぴしっと人差し指の先が当たる。
軽いでこぴんをされた。
「あたっ。……すみません」
「うーむ。小突かれても、その反応か……。そういうときは、何するんじゃー! って言い返すのじゃ! 敬語はなしでな!」
「は、はいっ。そうしますっ」
また目一杯頭を下げてしまう。
さらに、いま言われた敬語はなしなんて話は吹き飛んでいた。
当然のように、また優しく小突かれる。
「あっ。え、えっと、よしっ――な、何するんだぁーあ!?」
一呼吸置いて、今度こそと意気込んでから言い返す。
今度こそ敬語を取り払ってみせた。期待をこめてお爺さんたちを見たが……、
「棒じゃの」
「棒読みじゃ」
駄目だった。
文法としての言葉は合っているかもしれないけど、会話としてはイントネーションなどが不自然すぎたのだろう。
困ってしまった。
こんなにも敬語以外が難しいとは思わなかった。生まれてからずっと敬語だけ使えればいいと思っていた代償がこんなところで出てくるなんて……。
途方にくれる私を見て、お婆さんは手を叩いて提案する。
「そうじゃ。試しにわしらの喋り方を真似てみい」
「え、真似ですか……? それなら……」
できるはずだ。
イントネーションのほうも、目の前に手本がある。
「はい。ちょっとずつやってみ……るのじゃ」
拙いけれど、何とか形になってはいるはずだ。
その評価を聞くべく、お爺さんとお婆さんを見上げる。
「まあ、いまよりかはマシじゃろう。たぶんじゃが」
「ふふっ。確かに堅苦しさは抜けそうじゃのう。慣れるまではそれで試すのもいいかもしれん」
二人は優しく微笑んだ。
そして、二人で私の頭を優しく撫でる。
「えへへっ」
少しくすぐったいけれど、とても温かい手のひら。その感触に身を任せながら、私も微笑んだ。きっと私も二人と同じ優しい顔をしているはずだ。
氷のように硬かった顔が、どんどん溶けていっているのが自分でもわかる。
青い空からは丁度いい日差しが落ちてきて、草原からは清々しい風が吹く。
白花が散り、花びらが家の切り妻屋根の上に乗る。それを見送るだけで、本当に心が落ち着く。
ああ、『ここ』は暖かい。
きっと、『ここ』こそが私の居場所だ。
そう私は思った。
子供心に居場所を決めた。
だから、私はそれを守ろうと思った。
「あ、ありがとう、お爺さんお婆さんっ。それじゃあ、次の仕事をやってきます……のじゃ!」
深層心理として働かないものに居場所はないと思っているせいか、すぐに私は動こうとする。
「いま、薪割りを終えたばかりじゃろう?」
「まだまだ元気が有り余っている……のじゃ! 大丈夫!」
できるだけ軽い物言いを心がけて、私は庭から駆け出す。家の仕事は一杯ある。薪割りだけで終わりじゃない。私は私の居場所のために、もっと頑張らないといけない。その手始めと水汲みをしてこようとする。
「ならばよいが、気をつけるのじゃぞー!」
「転ばぬようになー」
水汲みようの桶を持って遠くを走る私に、二人は手を振る。
私はスキップしそうな勢いで草原を走る。
風を裂いて、広くて明るい世界を駆け抜ける。
この頬を撫でる風が私は大好きだ。
これのおかげで、一日中だって走っていられる。水汲みくらい、なんの苦もない。
家から少し遠く離れたところにある砂利道を進み、私は村の水源となっている川へ向かう。その川の近くには森がある。森といえど、その密度は薄い。どちらかと言えば林かもしれない。間くらいと言ったところだ。木々の合間が広いため、草原と変わらぬ明るさで、道も歩きやすい。
森から出てくる動物も小さいやつばかりだ。大きい獣が生きられる環境ではないため、私のような小さい子供でも安心して水汲みができる。
とはいえ、私ならば、もし大きい獣が出てきても大丈夫なのだけれど――
「みんな、今日もお願いです」
道を歩きながら、誰もいないところで声を出す。
すると、近くの茂みから小動物たちが顔を見せる。四足の白いやつから茶色いやつ、たくさんの種類の小動物。名前は知らないけれど、可愛らしい耳の生えた――私の友人たちだ。
彼らは私の声を聞き、友人である私の助けになろうと出てきてくれたのだ。
「今日はただの水汲みだけど……、お爺さんやお婆さんを驚かせるくらい頑張りたいんです」
その言葉を聞いて、みんなは頷いた。
そして、私の持っていた桶の片方を、走る二匹の白い動物の背中に乗せる。こうして、数日前から私は重たいものの運搬を手伝ってもらってる。
南では魔物の排除された場所にいたから気づけなかったけれど、動物たちの賢さをここで私は知った。その賢いみんなとお話して、協力を申し出たのはすぐだった。だって、何事もみんなで協力してやったほうが早いと、子供だけれどよくわかっていたのだ。
みんなには悪いけど、今日は全力だ。
小動物たちがついてこられる限界の速度で、私は道を走る。
川に辿りついたら、すぐに水汲みだ。
みんなと協力して水で一杯になった桶を家まで運ぶ。道中はみんなにも手伝ってもらって、何度も往復する。
疲れは感じない。むしろ、水の入った桶が少しずつ軽くなっていく気がする。動けば動くほど、身体の奥から力が湧いてくるような……周囲から『何か』のエネルギーを吸い込んでいるような気さえした。
働くこと、小一時間。
家の庭には十分な水が運ばれていた。
それを見たお爺さんとお婆さんは驚いていた。
「随分とたくさんの水を汲んできたのう。これは余るぞ。……それに薪になりそうなものまで、たくさん。大変じゃったろうて」
「いえ、友達に助けてもらったから、大丈夫です……のじゃ」
急に後ろから声をかけられ、言葉遣いが混ざる。ただ、それよりもお爺さんたちは気になることがあるみたいだ。
「友達じゃと……?」
「はい」
私は頷き返して、足元を走る十を越える動物たちを紹介する。
「ほう……。これは……」
お爺さんもお婆さんも感心した様子を見せる。いや、感心よりも驚愕のほうが濃そうだ。
「ティティー、この者らの言葉がわかるのか?」
「言葉がわかるわけじゃないのじゃ……です」
あ、今度は逆になった。慣れるまでは無理に使わないがいいかもしれない。
一呼吸置いてから説明を始める。
「なんとなく、伝えたいことがわかるような……。そんな気がして……」
隠すことなくあるがままを伝える。それを聞いたとき、二人の顔は驚愕だけで染まった。
「なんと……」
「もしかして、これって変なんですか……?」
恐る恐ると聞く。
「う、ううむ。余り御伽噺を信じたくはないのじゃが、毒の力というやつを操っているとしか思えんのう。伝承の『
「『
「昔、そういうものが北の大陸にはおったと言われておる。多くの人を救った救世主様じゃ」
「救世主……」
胸の鼓動が少しだけ速まったような気がする。『王』と『救世主』という言葉は、幼い私の好奇心を揺さぶった。
「……まあ、別に悪いことではない。少し珍しい力じゃが、ティティーはティティーじゃよ。とにかく、わしらは大助かりじゃ。ありがとうのう」
お爺さんお婆さんが笑顔に変わったとき、私の胸の中に暖かいものが溜まっていく気がした。その暖かさは心地よく、自然と私も笑顔になる。
「えへへ」
両手を胸に当てて、その暖かさをしっかりと確かめる。
それだけで、生まれた意味を知ることができるような多幸感に包まれる。
「自慢の我が子じゃな」
「自慢できますか?」
「ああ、北の王都の誰よりも賢く、強く、逞しく育つに違いない」
村だけでは収まらぬ器だと言われ、私は顔を赤くする。
「その背中の翼も直に治り、すぐに絶世の美人となるだろうな」
お爺さんは私の背中を指差す。
服の中にはハーピィ交じりの魔人である証が残っている。南だと目立つので、自分でむしった痕だ。
「もしかしたら、ティティーは混じりの変異種ではなく、『翼人種』なのかもしれんのう。伝承では『
二人の話は続く。
そして、少しだけ真剣な表情に戻る。
「ティティー、ぬしは才能の塊じゃ。じゃからこそ、早めに聞いておくことがある」
その急な話に身体が震える。
「ぬしは色々な未来を選択できる。もっと別のところで、その力を磨こうとは思わぬのか? おそらく、何にだってなれる。ヴィアイシアの城のほうに仕えるのも夢ではない」
私の未来についてだった。
その表情から、贔屓目などなく、本当に私は比類なき才能があるのだろう。
だけれど、私にとっては――
「……行きたくないです」
そんな才能、関係ない。
要らない。
それよりも大切なものがある。いま、胸の中にある。
だから、私も真剣な表情で、未来について話す。
「北の街の人たちが悪い人じゃないのはわかってます。孤児院だって、立派なものでした」
一度、北の街までお爺さんとお婆さんが連れてってくれた。そのときには、私の別の道もあった。夢を見て店で住み込みで働く人や、孤児院でたくさんの仲間たちと笑う人。
あれは私のために寄ってくれていたのだろう。
この村だけが全てでないと、優しい二人は教えてくれたのだ。
だけれど、私にとっては――!
「それでも私は『ここ』でいいんです。……『ここ』がいいんです」
それが答え。
その答えを確信できるまで時間がかかってしまったが、いまはもう迷いなんてない。
『ここ』を私の居場所としたい。
そして『ここ』を、いつか、
そう……、思ったのだ……。
けれど、それは拾ってもらった身でありながら、我がままな要望だ。
お爺さんお婆さんにかかる負担や迷惑を考えてない話だ。
拒否されるかもしれない。いや、それが普通だ。
そんな暗い考えが頭の中を渦巻く。
だが、その暗雲はすぐに晴れる。
「――ぬしがそう言うのならば、構わぬ。いや、嬉しいぞ、ティティー」
「ああ、わしら自慢のティティーが『ここ』にいてくれることほど嬉しいことはない」
待っていたのは二人の笑顔。
心の底からの歓待だった。
「ありがとうございます……」
涙がこぼれた。
つぅーっと、暖かな涙がこぼれた。
ちっとも悲しくないのに、いま私は笑っているのに、『ここ』こそ安楽の地だというのに、涙が止まらない。
そんな私の頭をお爺さんとお婆さんは抱きかかえてくれた。
――こうして、私は家族を得た。
長い苦難の旅の末、心地よい世界に辿りついたのだ。
そして、私は二人のために、村でたくさん働いた。
お爺さんとお婆さんに少しでも恩返ししようと、私の持つ才能とやらを限界まで発揮して動き続けた。働きすぎだと、少しだけ怒られたこともあった。
一日、また一日と……暖かな日々が過ぎていく。
ただ、こんなにも暖かい世界だというのに、まだこの物語には続きがある。
忘れてはならない家族がもう一人いるのだ。
ああ、そうだ。
私にはお爺さんとお婆さん――そして、弟がいた。
その弟こそ、三人目の家族であり、最愛の家族。
あの馬鹿弟が現れるのは、確か――……
◆◆◆◆◆
「――お爺ちゃん、お婆ちゃん。こいつ、怪しいのじゃ。」
あれから一年経った。
とても長い一年だった。やっと一年分大人になれたけれど、その遅さにあくびが出そうだった。
いつの間にか、
まるで、『世界』が
だから、かつての
変わり映えのない家の中、足のぐらついている木の椅子に座ったお婆ちゃんは問う。
「それで、ティティー。その子を、どこで見つけてきたのじゃ……?」
「……ちょっと遠くで遊んでいたら、見つけたのじゃ」
「ちょっと遠く――もしかして、南へ行っていたのか? あれほど行くなと言っておったのに……」
「え、えーと、東の隣町へ遊びに行く途中で、ちょーっと南に逸れたかも?」
「はあ……」
あっけなく、
ため息をついたお婆ちゃんは
「大丈夫じゃ。もう安心してよいぞ。ここにおぬしの敵などいない」
「はっ、はい……」
男の子は怯えていた。
その警戒を解くように、ゆっくりとお爺ちゃんとお婆ちゃんは男の子から話を聞いていく。
「まずは名を聞こうか……」
「名前ですか……? わかりません。たぶん、ないんだと思います」
その男の子の言葉には聞き覚えがあった。
それはお爺ちゃんたちも同じのようだ。
「ティティーと同じじゃな。おそらく、似たようなところから逃げてきたのじゃろう」
もう余り思い出せないけど、いい思い出がないのだけはわかる。
おそらく、この震える男の子も、南で酷い目に遭ったのだろう。そう思うと、少しだけ親近感が湧いた。
そして、
かつての
いつも
自分の大切な居場所に異物が混ざったような気がして、口を尖らせて嫌味を言う。
「――でも、こいつ怪しいぞ。すごい怪しい。お爺ちゃん、こんなのを家に入れて本当に大丈夫?」
「怪しさで言えば……、ティティー、おぬしも似たようなものじゃったぞ」
「むむむう」
昔の
そんな私を見て、お爺ちゃんは苦笑しながら
「そうむくれるな、ティティー。同郷のものじゃ。よくしてやれい」
「同郷って言われても……」
見知らぬ他人過ぎる。それに
「いわば、弟じゃな。そうなると、今日からティティーはお姉ちゃんになるということじゃのう」
お婆ちゃんは嬉しそうに新たな家族を迎える。
その言葉は少しだけ
「おとうと……?」
ぽつりと呟き、もう一度ベッドの男の子を見る。今度は睨むのではなく、好奇の目で見る。
そこには土色の前髪を垂らし、目元から小さな涙をこぼす男の子がいた。
このいつかの自分と似ている男の子が、
その突然な出来事に戸惑う。
ずっと『ここ』には
そこに入り込んできた新たな家族。
――これが出会い。
これから先、長い時間を
そして、その翌日の朝。
ただ、そのいつもに、今日はいつもと違うものが混ざっている。
ぱたぱたと小走りする男の子が後ろを歩いてくる。
「なぜついてくるのじゃ? これは
振り返り、少し強めに咎める。
すると男の子は困った様子で、ぼそぼそと答える。
「で、でも、お爺様とお婆様は、ついていけって……」
男の子の言葉遣いは堅苦しいままだった。
呪われているかのような言葉遣いだ。
もしかしたら、
「むむむう」
大好きなお爺ちゃんお婆ちゃんを引き合いに出されれば唸るしかなくなる。
仕方なく、渋々と同行を認める。
「……邪魔はするでないぞ」
「は、はい!」
男の子は嬉しそうに元気のよい返事をした。そのまま、必死に早足の
なぜだろう。
大して話なんてしていないのに懐かれている。最初に拾ったのが
この男の子はそれを信じて――……、んー。
「のう、おぬし。名前は本当にないのか……?」
「ないです……」
ずっと、『おぬし』や『男の子』と呼ぶことになるのだろうか。
なんてことを考えて、じっと見つめていると顔を赤くした男の子は逆に聞き返してくる。
「えっと、姉様のほうは……」
「ね、姉様……?」
まだ慣れていないせいか、少しむず痒い。いや、別に嫌なわけではないのだが。
「はい。姉様の名前は何て言うんですか?」
「名はティティーじゃ。間違えるでないぞっ、童の名はティティーじゃ。お爺ちゃんとお婆ちゃんから貰った大切な名前じゃからのう!」
「ティティー姉様……。あと、少し気になったんですけど、なんで『わらわ』なんですか……?」
「ふふふっ、かっこいいじゃろう? お爺ちゃんやお婆ちゃんと同じように「わしじゃ」「わしじゃ」と言っておると、少し老けて聞こえて格好悪いからのう! 本を読み漁って、かっこいいのを見つけて借りたのじゃ!」
「……あ、はい。そうですか」
男の子は愛想笑いを浮かべて頷くだけだった。
むむ、反応が悪い。
ノリの悪いやつじゃ。
もっと驚いた反応が返ってくると思っていたが、どうやらセンスは合わぬのかもしれない。ここは「そういうことだったんですね! 流石はお姉様! かっこいいです!!」と手を叩くところだ。
期待していた反応でなかったため、少しだけ頬を膨らませて、のしのしと無言で
そして、いつも通りに川で水を汲む。とはいえ、いつかと違って、協力してくれる仲間の数が違う。ついでにいえば、その協力の質も違う。
川で待ってくれていた協力者たちに、
「――みな! 今日もありがとうの!」
そこに待っていたのは多種多様な動物たち――だけではない。昆虫や鳥、モンスターと呼ばれるような大型の獣たちも、
身体の成長に合わせ、動物たちと話す力も増していったのだ。
そのおかげで、運搬の手伝いだけでなく、物々交換までできるようになった。他にも困った事があれば相談に乗ってあげたり、異種間の仲裁もできる。
そういった交流を続けた結果、なぜかこの周辺の動物たちは
今日は山の幸がたくさん並んでいる。
むう、今日は魚が食べたい気分だったのだけど……。
でも
ただ、その様子を見た男の子は、驚き大声をあげる。
「す、すごい……! もしかして、彼らと意思疎通ができるんですか!?」
「うむ。そうじゃ」
「本当に!? その力があれば、一生、飢えなくてもすむじゃないですか!!」
なんだ。大きな声も出せるんじゃないか。
ぼそぼそとしか喋れないのかと思ってた。
「……別に、タダで貰っておるわけじゃないぞ。童が人間でしかできぬことをやって、みなにはみなにしかできぬことをやってもらっておるだけじゃ」
「それでもすごいですよ!」
「そんなにすごいか?」
「こんなこと、聞いたことないですよ! 南にはモンスターたちと話す人なんていませんでした! ティティー姉様の力はすごいです! 生活の根底から覆す力です!!」
お、おぉおう。
よくわからないが、男の子の琴線に触れたようだ。
少しだけびっくりしたが、すごいすごいと褒められるのは悪くない。
うむ、実に悪くない!
「ご、ごほん! ふははっ、当たり前じゃ! お姉様は
咳払いのあと、ぱちんと手のひらを叩く。
すると、周囲にいた動物たちが一斉に整列する。
緊急時用の合図を使われたみんなは不思議な顔をしているが許して欲しい。いま姉として、とても重要なところなのだ。
そして、思惑通り、男の子は目を輝かせる。
「す、すごいです……! ティティー姉様!」
「ふははーっ、そうじゃろうそうじゃろう!」
気分よく
そこへさらに、男の子は
「まるで、伝説の王様みたいです! あの『
「ぬふふっ、『
「『
「そうじゃろうそうじゃろう!」
なんだ!
悪いやつじゃないじゃん!
流石は
「本当にすごい……! 同じ南の出身なのに、自分とは全然違う……!!」
「そんなことはないぞ、我が弟よ! ぬしも努力すれば
「そ、そんな、なれませんよ……。自分は弱い種ですから……」
すぐに男の子は暗い顔となって、顔を俯けた。
力の差は、種の差であると思っているのかもしれない。
「はて、ぬしは何の魔が混ざっておるのじゃったか……。
「
「ド、ドリアード? どこらへんがじゃ?」
ぱっと見たところ、樹っぽいところは一つもない。
「見た目の特徴は全部むしりましたから……。もう隠れてるところだけですね」
そう言って、まず自らの茶色い髪を指差した。本来ならば、そこには樹人としての特徴が生えていたのだろう。
そして、次に服をめくって、隠れている特長を見せようとする。
「そうか。いや、見せんでもよい。ぬしにも色々あったのじゃろう」
その手を握って止める。
すぐに
「しかし、ぬしは、その――そうじゃ! 我が弟を、ぬしぬしと呼ぶのは、なんだか姉として嫌じゃぞ! ぬしの名前っ、まだ決まらぬのか!?」
「あ、は、はい……。決まりません……」
「自分の好きな言葉を考えるだけでいいのじゃ! 自分そのものを言葉にするだけじゃ! すぐじゃろう!?」
「そんな、自分なんてわかりません。好きなものなんて、ありませんし……」
弟は困ったような顔を見せる。
とはいえ、その気持ちも
だからこそ、このまま弟が名無しであるのは耐えられなかった。なんだか、とにかく嫌だった。
そして、自然と口が動く。
「――ならば、主の名は『アイド』じゃ! 良い名じゃろう!?」
「ア、アイド……? どうして、アイドなんですか……?」
「え、え――!?」
聞き返され、言葉に詰まる。
咄嗟に出した名前。それは、ついこの間死んでしまった茶色いくてちっこい動物の名前だ。お爺ちゃんお婆ちゃんが亡き大切なものの名前をくれたので、それを
「えっと、その、アイドはここにいる
やはり、死んだ動物の名前はまずかったか?
でも確か、元々『アイド』は『
「ここにいるみんなの先輩の名……? その『アイド』は……、どんな動物でしたか……?」
「どんな……じゃと?」
「はい、お姉ちゃんにとって、どんな存在だったのか、それを知りたいです」
弟は真剣な目をしていた。
それに応えるため、
「アイドはこの一年――毎日、一緒に遊んでおった友じゃ。そして、この『
「第一の家臣……」
「ああ、『ここ』で『
振り切ったつもりだったが、その小さな友達を思い出してしまい、少しだけ目頭が熱くする。いまも、この肩に『アイド』が乗っているような気がする。
「
そして、弟はその名を噛み締めて、賞賛した。
「か、かっこいいか……?」
「ええ、とても! とっても、かっこいいです!!」
その手放しの絶賛を聞き、
「ふ、ふふ、ふはは……、ふはははははー! まあ、
「ええ、有難く頂きます! 第一の家臣の称号に恥じぬよう、精進します! ティティー姉様――いや、『
「うむ!!」
王の任命というごっこ遊びに、アイドは楽しそうについてきた。
いま、ここに新たな姉弟が誕生した。
その瞬間を祝うため、動物たちが鳴き声で合唱する。
祝福の中、さらに
「ふははっ、今日も民たちの歓声が心地よいのう! そして、信頼できる新たな臣も生まれた! 余は満足じゃ! はっはっはっはっ!」
その絶頂の末、高笑いを響かせる。
そこへ
「――ふう。妙に遅いと思えば、面白い遊びをしておるのう。心配をして損をしてしまったわい。なあ、婆さん」
「ティティーには昔話を聞かせすぎたのう……。しかし、王国となれば、わしらは宰相あたりかのう?」
様子を見にきたお爺ちゃんとお婆ちゃんだった。
しかし、もう何の心配はいらない。無事、アイドは
「いえ、自分が宰相がやります! やりたいです!!」
やる気満々のアイドが手を上げた。その役に思い入れでもあるのだろうか、なぜか絶対に譲れないという表情だった。
「うむ、ならばアイドに宰相を任じよう! お爺ちゃんとお婆ちゃんは、国の相談役――元老院とかそこらじゃの!」
調子に乗りまくる
伝承に出てきた偉そうだった役を二人に譲る。
「ふふふっ、わしらは元老院らしいぞ。婆さん」
「ははっ、びっくりじゃの。このわしらが大層な役職をもらってしまったものじゃ」
笑いが木霊する。
透き通る川が光を反射する横で、誰もが眩しい笑顔を見せていた。
それに
「うむ! 今日も
「そうですねっ、『
弟と
それにお爺ちゃんとお婆ちゃんは苦笑しながら付き合ってくれる。
「ははっ。しかし、あの大人しい女の子が変わりに変わったものじゃ。とんだじゃじゃ馬じゃったな。うちのティティーは」
「これが本来のティティーの性格なのじゃろう。よいことじゃ」
明るい世界だ――
『ここ』は暖かくて、誰もが笑えるようになる素晴らしい場所だ。
新たな家族を迎えて、
こうして、
「――お爺ちゃんお婆ちゃん! アイドと行ってくるぞ!!」
日課を終えた
「今日は川で泳ぐぞ!!」
「姉様っ、川でですか!?」
「ああ! 明日は何をするかを考えながらじゃ! 時間は貴重じゃからな!」
「は、はい!」
その次は森で遊び、さらにその次は山で遊んだ。
草原で走り回る日もあれば、村の人たちの手伝いに奔走する日もあった。
――これがロード・ティティーの本当の始まり。
英雄譚に記せるような冒険ではない。
そのほとんどが失敗の積み重ねの間抜けな日々。
だけど……、確かに妾にとっては大冒険だった。
どんな英雄譚にも負けぬほどの冒険をした。
川に現れた精霊さんを
それがたった一年の間に凝縮されていた。
アイドという相棒がいてくれたおかげか、一日一日が波乱に満ちていて、一年という月日がとても長く感じられた。何十年もの冒険をしたような気がする。
そう。
子供時代は、毎日がとても長かったのだ……。
そして、また一年後。
『ここ』ですくすくと成長した
ずっと、この時間が続くと信じている
いつの間にか、身体は大きくなっていた。
成長が早い
若草色の髪は透き通るかのような翠色に変わり、むしった背中の翼も随分と形を取り戻した。都会で大人と言っても、通用するほどの変貌振りだ。
「――アイド! 東の森で、またあのでかぶつが出たらしいのじゃ! 共に退治へゆこうぞ!!」
ただ、やっていることは子供の頃と変わらない。
もしかしたら、死ぬまで変わらないのではないかと思えるほど、
それに対して、
「むむ? アイド、どうしたのじゃ……?」
残念ながら、弟のほうの背は余り変わらない。
その視線の先にあるのは白い花の木。
ぱらぱらと舞い散る花びらを一つ手にとってアイドは微笑んだ。
「好きなんです。この木」
この一年、アイドは草木を見つめることが多かった。その中でも家の隣にある木を見ている回数は飛びぬけている。
少し
「勉強以外のときは、いつもそうしておるな……。自然を愛でるだけとは、欲のないやつ」
「見ているだけでも楽しいですよ? 風で草木も僅かに動くんです。あと、数日前と比べて、どれだけ成長したのかを確認するのも面白いです」
「わからんでもないがのう……」
しかし、限度がある。
「本当にアイドは何も欲しがらんのう……。うーむ……」
これは問題だ。
この無欲にお爺ちゃんやお婆ちゃんも困っている以上、姉として――いや、従える王として黙ってはいられない。
「そうじゃ何でも望みを言え!
「え、ティティー姉様がですか?」
「うむ! これは褒美じゃ!」
「褒美……?」
「
「そ、そんな! いりませんよ!」
「なぬう、
少し意地悪して、強引に追い詰めてみる。
「い、いえ、そういわけでは……。『
「ならば、早く言ってみろ!」
アイドは困ったような顔を見せて、まず視線を隣の白い花の咲く木に向けた。
そして、そのまま少し視線をずらし、『ここ』の空を見上げた。
どこまで青く澄む空を見て――
「……なら、『いま』、この時間をもっと自分にください」
――
「む、むむう?」
せっかくのアイドの望みだったが、その抽象的過ぎる話に首をかしげてしまう。
「えっと……、ずっと平和に生きていたいってことです。『ここ』で」
「ああ、平和か欲しいというやつか。妾としては、もっとデンジャラーな望みがよかったのじゃがなー」
「いいえ、『
そう言って、アイドは笑った。
困ったような愛想笑いが多いアイドには、珍しい満面の笑みだ。
それに釣られて、
「それは童もじゃ……。
「でしょう? だから自分は、『いま』『ここ』さえあれば、他には何もいりません。ですので『
「ははっ、本当に無欲なやつじゃのう!」
「無欲じゃありませんよ。欲しがってますって、ちゃんと」
「『いま』『ここ』など、無料じゃ無料! 当然の如く、明日も来年も存在するぞ! ゆえに銅貨一枚分にもならぬ! 欲の内になど入らぬ! やり直しじゃあ!」
「そ、そうでしょうか……。自分にとっては金貨よりも大切な『宝物』だと思いますが……」
むむむぅ。
本当に固いやつだ。それはアイドの美点ではあるが、融通の利かないところでもある。
「はぁ、仕方ない! そんなに心配ならば妾が『約束』してやろう! 褒美として、この王が『約束』しよう! この『宝物』――『世界の平和』は妾が守ってやると宣誓しよう! ああっ、ずっと一緒に暮らそうぞ、アイド!」
「ふふっ」
褒美を約束され、さらに嬉しそうにアイドは笑う。
「――はい、『
切り妻屋根の家の隣、白花の散る草原の上。
両目を限界まで細くさせて、高潮した頬を膨らませて、半月の形になるくらい口を大きく開けて――笑って、答えた。
その過去最高の満面の笑みに満足し、
「よし! では、ついてこい! 今日は東へ行こうぞ!!」
「ええ、お供します!」
そして今日も、木影から二人の童が飛び出す。
次なる遊びを楽しむため、全力で草原を駆け抜ける。
駆けながら、
濃厚で深い青色が、最果てまで広がっている。
そして、その空にはフワフワの白い雲がたくさん浮かんでいる。その中央に、丸っこいお日様が燦々と輝いている。ぱぁっと眩い光が広がり、光のわっかが飛んでいる。
そこへ透き通るかのような風の音が、すーっと耳の中を通っていく。
下は見なくても、その綺麗な音楽のおかげで、地面の様子がよくわかる。
風が草と草の間を縫って、さらさらとした音が鳴っている。不規則に草が揺れて擦れて、自然の旋律を奏でているのだ。
いま、
寝転んで、手足を伸ばして、んーっと欠伸したくなるような広い広い草原だ。
自由の風となって、どこまでもどこまでも遠くへ行ける気がしてくる。
心がフワフワと天高く浮かび上がりそうだ。喜びの感情がぱぁっと弾けては煌いて、いまにも風の音に合わせて歌い出したくなる。
そして、走り続ける内に、少し息がきれてくる。
けれど、全く苦しくはない。
はあはあと吐きだす息が爽快なのだ。たらたらと汗を垂らして、とくんとくんっと心臓の音が速まるのも清々しい。
ああ、気持ちがいいな……。
『ここ』はとても気持ちがいい……。
――そう。
『ここ』だ。
この『いま』『ここ』こそが
そして、
この先、孤児院や城で何百年という時を過ごそうとも、『ここ』だけが
忘れたくないと思っていたのに、生きるにつれて忘れていってしまった……。あんなに必死に探していたのに、この本当の『楽園』から遠ざかり続けていただけだった……。
最も遠い……けれど最も暖かい
このときのアイドは、まだ童を遊びの張りぼての王だってわかってくれていた。
まだ
それはとても安心できて、とても楽しい日々だった。
これが私の宝物。子供の頃に見つけた『綺麗な石』の世界。
そして、二度と手にすることのできなかった本当の『宝物』。
……もうわかっていることだが、この世界は長くは続かない。
すぐに、あの『
書物にすれば〝南が魔人狩りを理由に侵略してきた〟という一文によって、この『
あれは北の街までアイドと二人で遠出したときの帰りの出来事。
あの草原が炎に呑まれているのを見る。
……思い出すだけで辛い。
けれど、辛いからと、これだけは忘れてはいけなかった。何があっても忘れてはいけなかったのに忘れてしまったのは、その現実を認めたくなかったからだろう。そんな『過去』はなかったと逃げたかったからだろう。……やはり、
村は倒壊していた。
南からやってきた兵たちによって、我が家は灰になり、村の魔人は殺され、森のみんなは食われ、あの草原が地獄と化していた。
魔人の死体の山の中には、お爺ちゃんお婆ちゃんの姿もあった。
それを見て、アイドは叫ぶ。
「お、お婆ちゃん!?」
「だ、駄目じゃ、アイド! 出れば死ぬ!!」
姉としての責任感からか、
弟の手を引いて、近くの茂みに身を隠す。
「こ、怖い。怖いです、姉様。一体、何が起きているんですか……?」
震えるアイドを励ます。それしかできなかった。
「大丈夫じゃ、アイド。
――
「姉様がいる……。あの姉様が『ここ』にいる……」
「ああ、そうじゃ! いつだって
「はい、姉様は強いです……。誰よりも強くて賢い……。自慢の姉様です」
「アイドの言うとおり、
「本当に姉様は誰よりも強いんですか……!? 本当に、あの伝説の『
――
「……と、当然じゃ。
――それに
「……よ、よかった! 『
――
「ああ、そうじゃ。
そう言って、
アイドを茂みに残して、敵の待つ燃え盛る戦場へと歩き出す。
これが英雄譚ならば――自らが『
確かに
ただ、この年にしては、辺境の村娘にしては……だ。
勝負になるはずがない。
けれど、アイドは信じていた。
姉ならば何とかしてくれると信じていたのだ。
ならば、姉として行かぬはずがなかった――!
「いま、みなを助ける! 待っておれ――!!」
だから、叫んでしまった。
復讐せんがために挑戦してしまった。
これが英雄譚ならば――〝ただの人では『風の理を盗むもの』に敵うはずもなく、自由の風の力によって全ての兵は切り刻まれた。そして、その一帯を一時的にだが南から取り返してみせた〟なんて書かれるが、これも違う。
本当は死んだのだ。
負けてしまったのだ。
千の兵たちを相手にするには、まるで力が足りなかった。
それなりに粘ったものの――殺された。
両腕を斬り落とされ、心臓を潰され、体中を矢で穴だらけとされ、失血死した。
「て、手こずらせやがって、この女……」
敵兵は
それを見て、とうとう耐え切れなくなったアイドが茂みから飛び出してしまう。
「――ロ、『
「まだいたのか……。うるさいガキだ。この女の親族か?」
「姉様っ、立って下さい!! 姉様は王様なんですよね!? 誰にも負けないっ、伝説の『
「ああ……。姉が死んで、狂ったか……?」
「違う! 死んでない! 『
「とりあえず、ガキのほうは連れて行くか。ぐちゃぐちゃとなった女と違って、こっちは売れそうだ」
死んでいるはずなのに――確かに、その会話を
地べたに転がった死体の耳が、それを聞いていた。
アイドは連れて行かれる間も、ずっと
だから、魂だけとなっても、この身体は打ち震える。
――弟が信じている。
たったそれだけのことで、
その期待に応えるため、魂が限界を超えようとする。
その見栄と強がりを本物にしようと、死体でありながら世界の法に懇願する。
――頼む。
心臓よ。潰れててもいい。
けれど、少しの間だけ、動く振りをしてくれ。
そう言って、ゆらりと立ち上がる。
かの『
けれど、少しの間だけ、その伝説の
そう言って、風を操る。
そして、命よ。なくてもいい。
けれど、少しの間だけ――!
――弟を助けるため、
そう誓い、世界から理を盗む。
不幸にも、その才能がティティーという少女にはあったのだ。
そう。
不幸にも、『ここ』で死ぬことができず、『理を盗むもの』になり、大切なものを『代償』に失っていくことになる。
「泣くでない、アイド……。
死体の口を動かして、
それを聞いた去り際の兵たちが振り返る。
ぎょっと目を見開いていた。まるで、ゾンビにでも遭ったかのような表情だ。
「控えろ、下郎。統べる王の前ぞ」
燃え盛る草原を背に、心臓がないのに動く血まみれの少女が、尋常ならぬ風を纏って立っているのだ。
そんな表情になるのも仕方がないかもしれない。
その間抜けな兵の顔を見て、くすりと
「ば、化け物……! なんだこれは……、なんなんだこいつは……!!」
「なんで、動いている!! 穴が空いているだろう! 心臓に穴が!!」
「うぅあああっ、ぁああああああっ――!!」
そして、兵たちは半狂乱しながら、『
それを悠然と
迎え撃ちながら、弟――いや、我が国の宰相の願いはしかと覚えていることを口にしていく。
詠み唱えるかのように誓う。
「――安心せよ、宰相アイドよ。この『
叫びながら斬りかかってきた兵を、風の刃で斬り返す。
血の雨が降った。
「――何より、
遠方から矢の雨が降る。それを全て風で払い、逆に風の矢の雨を降らせて、弓兵を鏖殺する。
その異常な光景を前に、兵たちは逃げ出そうとする。
しかし、その全てを
まさしくそれは英雄譚の一文――ただの人では『風の理を盗むもの』に敵うはずもなく、自由の風の力によって全ての兵は切り刻まれた――と呼べる光景。
そのご都合主義の逆転劇の果てに
「
こうして、『
遊びの王様が本物の王様に至る戦いが始まり、少女ティティーの時間は『呪い』によって止まる。
これが忘却していた子供時代の全て。
このあと、この虚偽の王は窮地に陥った北の民に担ぎ上げられる。そして、ままごとで始めただけの子供の王様が何十年も国に君臨してしまい、その無理が祟って北は崩壊。その果てに『
これが
本当の全て。
やっと、思い出せた……。
そうだ。
『楽園』は『ヴィアイシア』じゃない。
『家族』は『国民』じゃない。もちろん、ライナーでもカナミでもない。
『王』となったのは『国の平和』なんて大層なもののためじゃない。
『
それは国なんて大層なものじゃなくて、もっともっと小さな世界。
老夫婦二人が見守る中、子供二人が走れる程度の広さの草原のため。
この子供時代の草原が全てだったのだ――
――なのに。
それを誰にも言えなくなり、追い詰められ、抱え込んで、痩せ我慢してしまった。
きっと、それはお爺ちゃんとお婆ちゃんの教えが影響していたのだろう。助ける力があるのに、同胞の魔人を助けなかったなんてこと、天国の二人に報告したくなかったのだ。
そして、際限なく削れていってしまった。
けれど、ちゃんとその苦しみをアイドに説明していれば、あの結末は避けられたはずだ。渦波でなく、弟が最大の理解者になってくれたはずだ。しかし、くだらない姉としての見栄がそれを邪魔してしまった。
一言、
なのに、できなかった。
――だから、
ああ、やっとわかってきた……。
それは言葉にすれば簡単なこと。一言だ。
全ての人からの全ての期待を否定し、あの頃と同じ軽い身体に戻って、そして――
――
もう焼き払われたなくなってしまったあの家に――アイドの言った金貨よりも貴い『いま』『ここ』へ――帰りたい。
それが妾の――いや、ティティーという少女の本当の望み。
ああ、千年『ここ』で遊んでいても辿りつけないわけだ。
あの白桜の隣にある切り妻屋根の家に帰って!
お爺ちゃんお婆ちゃんに「ティティー」と名前を呼んで欲しい!
アイドからは『
あの心地いい風の吹く草原に帰って――また、全力で駆け抜けたい!!
ああ、そうだ! ずっと
なのに!
それがどうだ!!
一体、『ここ』はどこだ!?
――目を見開く。
目に飛び込んでくるのは六十六層の裏にある空間。
見上げても青い空もふわふわの白い雲なんてない。
あるのは虚無。人の世とは思えない空間。
奈落の底、永遠の牢獄、現世の地獄とでも呼ぶべき世界。
お日様どころか、光すら一筋も入り込みやしない。
深すぎる闇に心が沈み、悲しみの感情しか湧いてくれない。
当然、自由の風なんて少しも吹きやしない。
それどころか、空気すら薄い。いまにも息が止まってしまいそうだ。
だから、耳を澄ませても、風の音なんて聞こえない。
聞こえるのは世界崩壊の悲鳴だけ。絶命の音が、ずっと木霊してる。
ここには何もない。何もないから、どこにも行けない。
その事実に身体が凍える。冷たい。寒い。
ああ、狂いそうだ。吐きそうだ。
はあっはあっと吐き出す息が血生臭い。どくどくどくっと心臓が破けそうなほどに鼓動する。その匂いと鼓動が、不安で不安で堪らない。
ああ、気持ちが悪い……。
『ここ』は最悪だ………。
迷って迷って、必死に生きてきた結果、こんなところまで来てしまった……。
違う。
草原だ。
なのに、なんで――!
「
声が出る。出てしまう。
「
そして、『妾』は首を振る。
「
その声は、まるで柔らかい心の潰れる音に似ていて、
骨肉が二度と治らぬまで断裂していく音にも近くて、
断末魔の叫びであって、死後の呪詛でもあった。
――一言で言えば、
「うぁあああっ、ぁああアアアアッ、あアアアアああアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああアアアアあアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあアアアアアアアアあアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアああアアアアアアアアアアああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアア゛ア゛ア゛アア゛ア゛アアア゛ア゛ア゛アアアア゛ア゛アアアア゛ア゛ア゛アア゛ア゛アアア゛ア゛ア゛アアアア゛ア゛――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!」
溜め続けた悲鳴が迷宮に響く。
それは千年と百十一年分の『悲鳴』だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます