224.童の長い人生(後編)
〝――それはとても永い物語〟
千年前の世界よりも、さらに古い時代を生きた『
当時、北の誰もがその英雄譚を知っていた。
その物語は、お約束通りに「昔々」という言葉から始まり、「辺境の村に住む二人の老夫婦が子供を一人拾う」と繋がる。ただ、その次にはすぐ老夫婦の死が綴られてしまい、子供時代の詳細は全く語られない。淡々と当たり障りのない文字の羅列が続いて、すぐに王の力の覚醒が語られ始める。それが『
……まあ、そういうものだ。
平和で平凡な生活まで、こと細やかに記す英雄譚なんてない。読むほうはあくびのまま、眠ってしまうことだろう。
そして、当の本人である妾の記憶も似たような状態だ。あの子供時代の記憶は、異様に霞んでいる。その辺境の村とやらも、老夫婦の顔も、上手く思い出せない。
しかし、幼少の頃の記憶なんて、そういうものだろう。齢二十を過ぎて、大人になってしまえば誰もが同じような状態のはずだ。
妾に至っては齢千才を超えている。霞んでいても、残っているだけで御の字と思おう。
……そう思おう。
感謝しないといけない。
だって、あの老夫婦との生活は、とても大切だったような……気がするから……。
どう頑張っても子供時代は思い出せないが、その次のことはよく覚えている。
老夫婦の死に続く、妾の覚醒。
それは鮮明に思い出せる。
あれは確か、魔人狩りが各地で盛んになっていた時期のことだ。
『魔人』――それは、突如世界に現れた種族――身体にモンスターの特徴を持った種族のことを指す。
偉い学者さんは、世界の『魔の毒』の影響によって、身体がモンスターに寄ってしまったなんて言っていた気がする。そのモンスター寄りの人間のことを、人々は『魔人』と呼んだ。なぜか、それは大陸の南よりも北のほうが多かった。そして、その数の差のせいか、北では個性として『魔人』を受け入れていても、南のほうでは病として扱われることになる。
こうして、地域によって認識の差が生まれたあとは、当然のように『魔人』を排他する動きが世界のどこかに生まれる。
その果て、南の国々では『魔人』という存在を撲滅するための国策が取られ、それに対して北の国々は反発し――大陸を二分する戦争が始まった。そのとばっちりで、各地で魔人狩りなんてものが起き始めたわけである。
そんな物騒な時代のある日のことだ。
妾たち姉弟が家路につく途中、遠目に見つけてしまうのだ。
それは書物にすれば「南の兵隊が魔人狩りを理由に侵略してきた」という一文だけだが、それを直に目にした妾たちは身体が震えて一歩も動けなくなったものだ。
その光景は余りに残虐で――全ての家は倒壊し、大切に育てていた家畜たちを惨殺され、仲の良かった隣人たちの死体が詰み上がっていた。
その死体の中に恩人である老夫婦たちの姿もあった。
だから――
――
だから、妾とアイドは立ち向かったのだ。
妾の『風の理を盗むもの』の力で……。それ以外にない……はずだ。
ああ、そうだ。
断片ずつだけれど思い出してきた。
あの燃え上がる草原、崩れた家屋、北の仲間たちの死体を見て、妾は憤った。そして、その非道を行った南の騎士たちに報復するため、その戦火へ飛び込んだ。
そして、妾は――叫ぶのだ。
南の兵たちに剣を向けられる中、叫んでみせたのだ。
世界全てに宣言するが如く、高らかに――
「――『妾』は大陸を支配する翼人の王! 最古の魔血を引きし末裔、この世全てを統べる王っ、『ロード』! ぬしらのような塵芥どもに敗れる道理などない!!」
と、自らが『
ただの人では『風の理を盗むもの』に敵うはずもなく、自由の風の力によって全ての兵たちは切り刻まれた。そして、その一帯を一時的にだが、妾は南から取り返してみせた。
それはまるでおとぎ話のような逆転劇だった。
それが物語の『一章』『統べる王の覚醒』の終幕。
その終わりの文はこうだ。
〝南の卑劣な兵たちによる侵略により、『
そして、次の物語である『二章』に入っていく。
…………。
ああ、何が二章だ。人の人生だと思って勝手に区切ってくれる。
……いや、もう関係ないか。そうだ、いまの妾にはもう関係のないことだ……。
こうして、なんとか故郷を取り戻した『
そして、舞台は北の奥深くへ移り、孤児院の物語が始まる。
このあたりも戦いがないため、書物では大胆にカットされているようだ。
確か移動の際に色々とあったはずだ。そこにはすでに孤児院の手配をしていた老夫婦たちの優しさとかがあって、とても感動的なものだったはずなのに……この英雄譚を記したやつは本当に戦いしか興味がないせいで、何も残っていない。
ちなみに、本に書かれている文は、こうなっている。
とてもあっさりとした時間経過の表現。
〝――孤児院へ移り、『
それは覚醒した幼き王の最後の休息の時。
桃色の花の咲く季節から、黄色い花の咲く季節へ。赤い花の咲く季節から、白い花の咲く季節へ。北大陸特有の不安定な季節を重ねていき、『
その頃、『
自らの才と特異性。その王たる所以。自らが『庭師』で収まらぬ器であることを知り、『
そして、力だけでなく、覚悟をも得た『
――なんだ、これは。
そんなかっこいい話ではなかったはずだ。
ここくらいの頃ならば、ぎりぎり思い出せる。
あのとき、妾は震えていたはずだ。
確か、怯えていたはずだ。
孤児院に当てられた自室の隅で、妾は震えていたのだ。
「――か、
孤児院に入ってから数年経過したとき、弟アイドの背は伸びに伸びていった。
子供でありながら大人顔負けの妾との差を、順調に縮めていた。
順調なのは当然だ。妾は余りに変わらなさ過ぎた。まだ成長期の年齢だと言うのに、全く背は伸びず、膨らむのは魔力ばかりだったのだ。
「もしかしてですが……、姉様は年を取っていないんじゃないでしょうか……」
その理由を同室で暮らす弟アイドは察していた。
妾より二回りは小さいアイドだが、その勘は大人のように鋭い。
「年を取っていないじゃと……? もしや、
全ては、あの日。
あのときからのことであると理解する。
「だ、誰にも言うでないぞ……。アイド……」
妾は震えながら、口止めをする。
これを周りに知られれば、白い目で見られるのは間違いない。同じ魔人ばかりの孤児院とはいえ、差別が全くないというわけではない。
「大丈夫です。絶対に自分が姉様を一人にはしません。
アイドは妾の手を取った。
「そ、そうか……。ならば、安心じゃな。妾には心強い臣下がおるからな……」
「ええ、『
心を強く保つため、無欠の王のように振舞う。
故郷の草原でアイドとやっていた
こうやって英雄のような心で作らなければ、その異常な事態に気が狂いそうだったのだ。
そう。
気が狂いそうなまでに妾は怯えていた。
それが『
『孤児院編』とやらの本当のところだ。
自らの運命を覚悟した王でなく、自らの運命に恐怖した弱い子供こそが妾。
そして、その怯える妾を苛めるかのように、間もなく孤児院は戦乱に巻き込まれていく。
妾が老いぬ身体に怯えていたとき、魔人誕生をきっかけに起こっていた戦争は決着を迎えかけていた。
各地での戦いに南は圧勝していき、北は領土のほとんどを失っていた。次第に北の人々は活気を失っていき、妾の住むヴィアイシア国の孤児院にも敗戦の影響が届き始める。
妾を含む、孤児院の誰もが怯えていた。
その迫り来る強大な力を相手に何もできず、ただ時が過ぎるのを見ていることしかできなかった。
そして、ついに孤児院の平和は終わる。
北の中心であったヴィアイシアの首都が、南の兵たちに占領されてしまったのだ。言い訳のしようのない敗戦の瞬間だった。
文にすれば〝――北の国々は、南の国々の猛攻により敗北してしまった〟だろうか。
当然だが孤児院も占領され、非戦闘員の『穢れた魔人』たちを詰め込む場所として使われ始める。
その周囲には、いつも南の『綺麗な人間』たちが囲むように見張っていた。
牢屋に入れられたかのように、孤児院の中にいる魔人たちは顔を暗くする。それは弟のアイドも同じだった。
その顔を、妾はいまでも思い出せる――
「――ティティー姉様……。これから自分たちは、いったいどうなるのでしょうか……?」
ぎゅうぎゅう詰めの孤児院の隅っこで、アイドが妾に聞いてきた。
アイドの背は伸びたものの、まだ妾のほうが大きい。妾より一回りは小さな弟が、目じりに涙を溜めて、下から覗き込むように見上げてくる。
それを見て、絶対に守らなければならないと思った。
ただ、本当は「どうなるのか」と聞きたいの妾だった。
しかし、弱気なところは見せられなかった。アイドの姉として。
何より、あの日に『
弟の目を見ればわかる。
アイドは、あの日の『風の理を盗む力』を頼っている。
いや、姉が伝説の『
姉ならば、国の終わりさえもどうにかしてくれると思っている。
「アイド……。わ、妾は……――」
迷い――言いよどむ。
当たり前だ。
実のところ、妾はアイドの知らぬところで『理を盗むもの』について『使徒』から説明を受けている。使徒ディプラクラのやつは一人目の『理を盗むもの』である妾は未完成だと言っていた。しかし、その力を使い続ければ、本当に『理を盗むもの』として完成してしまうらしい。
――怖い。
怖くてたまらないのだ。
あんな不相応な力……、振るえばどうなるかわからない……。
それなりに賢く、馬鹿でないからこそ、それが妾にはよくわかっていた。
あんな力、この世にはあってはいけない――と。
「ね、姉様は……、誰よりも強い『
追い詰められた可愛い弟の顔が目の前にあった。
そして、さらに周囲からも声があがる。
身内も当然の孤児院のみんなが、妾を見て話し出す。
「ティティーお姉ちゃんなら……、なんとかできるの……?」
「馬鹿言うな。どれだけ強くても、この敵の数をどうにかできるか」
「確かにアイドのお姉ちゃんは、あの伝承の『
「ティティーちゃんなら、もしかして……」
追い詰めるがごとく、見ていた。
それは慕ってくれていた孤児院の子供だけでなく、世話をしてくれていた大人たちまでもだった。確かに街では一番の剣の使い手だったかもしれない。体格は大人顔負けで、勉強も狩りも際立っていたかもしれない。いつも弟が、自慢げに妾の力を喧伝してたかもしれない。この絶望の中、小さな希望が眩しく見えるのも無理はないかもしれない。
けれど、まだ妾は子供だ。
なのに、大人までも妾に期待するのか……?
子供の妾を頼るのか……?
「――あ、ああ。妾は『
言いたい事はたくさんあった。
けれど、期待の重みに負けて、顔を下に動かしてしまった。
彼らの言うとおり、妾には力があった。
『理を盗むもの』の力を持つものとしての責任感が、恐怖を上回ってしまったのだ。
妾は恐怖など欠片も表情に出さず、孤児院の中央にある大広間へと向かい出す。それに妾のことを知るものたちはついてくる。妾ならばどうにかできるのではないかという期待で目を輝かせて、ぞろぞろとついてくる。
そして、大広間の中央にて、孤児院の知り合い以外のものたちに声をかける。
「妾の名は『
全員へ聞こえるように、堂々と誘った。
これから行うことは妾一人でもできることだが、皆が協力してくれるほうが成功率が高い。なにより、一人では怖いというのが本音だった。
その声に最初に反応したのは、孤児院での一番の友人だった。
「本当にやるのか、ティティー?」
巨漢の
なにせ、この青髪の男は何の加護もなく、『理を盗むもの』に覚醒している妾についてこられる魔人だ。妾の存在のせいで埋没しているが、この男も間違いなく、何かがおかしい。
「ティティーには恩がある。おまえが望むのならば、友として――いや、臣下として手助けしようとは思う。だが、本当におまえはそれでいいんだな?」
友セルドラは確認する。
妾と力が近しく、付き合いも長い彼は、この心の底にある恐怖心を見抜いているようだった。いまは、まだ――セルドラはぎりぎりのところで『友』だ。
「ああ、よい。頼む、セルドラ。そなたの力が必要になる」
それでも妾は首を縦に振る。もはや、後戻りはできないことを伝える。
「……わかった。ならば、これからは君のことを『
「セルドラは南と戦う意思あるものを集めて、左方からヴィアイシア城に進んでくれ。細かいところは、おまえの思うようにやってくれていい」
「了解した。我が『
セルドラとは、この『
「セルドラ、おまえに俺も協力させてくれ! このまま黙って殺されてたまるか!」
「わ、私も、やる!! ティティーちゃん――ううん、『
「ああっ、俺たちにだってやれることはまだあるはずだ!!」
その演技に騙された孤児院の仲間たちが、名乗りを上げていく。
座して死を待つぐらいならばといった気持ちだろう。それが恐怖にかられての暴挙だとわかっていても、妾は快く迎えるしかない。
「助かるぞ、皆……。そうじゃな。そなたらはセルドラでなく、アイドのほうと組んで欲しい」
そして、すぐに妾は反乱計画を詰めていく。
小細工は一切なしの、速さが勝負の計画だった。それこそが、『風の理を盗むもの』である自分の本領であると本能的に理解していた。
「アイドたちのほうは、協力して捕虜となっているヴォルス将軍たちを開放するのじゃ。その後、共に右方からヴィアイシア城へ向かってくれ。妾の方は一人で中央を突き進み、暴れるつもりじゃ。おそらく、妾が戦うことで、ヴィアイシア一帯は混乱に陥る。それに乗じれば、きっと解放と進軍は可能じゃ。何か不慮の事故があれば、暴れる妾を目印に合流するといい。何を引き連れてきても、必ず妾が何とかしてみせよう」
その滅茶苦茶な戦術の組み立てに、孤児院に避難していた一般の民たちがざわつき始める。
「お、おいっ。何を馬鹿なことを……!」
「無理だ! できるわけがない! 周囲には南のやつらがうじゃうじゃといるんだぞ!」
「もう俺たちは完全に負けたんだ! どうしようもないんだ!!」
翠髪の女が狂ったようなことを言い出したと思えば、その知り合いたちがそれを盲信して動き出したのだ。
当然だろう。
むしろ、そちらのほうがよっぽど正常だ。
だが、その正常な人たちを異常に落とすため、妾は一切の動揺なく言葉を足す。
「――妾ならできる」
当然のように、一般人たちから反論が無数にあがりかけるが、
「は、はあ!? できるわけが――」
「
一言で押し潰す。
恐ろしいことに、ごっこ遊びのし過ぎで極まってしまった物言いが、ここにきて本物の重みを帯び始めていた。この異常な状況で、誰もが絶句するほどの異常さを妾は身に纏っていた。
それは、後に語り継がれる魔を統べる才の片鱗。
その異常な量の魔力と特異過ぎる血が、ここにいる魔人たちの本能をくすぐるのだ。
妾に圧倒された人々を置いて、淡々と反乱の準備を進める。
「とりあえずはヴィアイシア城を取り戻すことが急務じゃ。拠点というよりも、象徴がなくては何も出来ぬからな。……急ぐぞ。妾の【自由の風】を合図とする。いや、狼煙としよう」
そして、ずっと隠してきた『風の理を盗むもの』の力を解放する。
柔らかで、それでいて力強い風が、孤児院の中を通り過ぎた。
ここにきて院内のざわつきは最高潮に達した。
「い、いま、風を起こしたのか……?」
「そんな馬鹿な……。それではまるで魔法じゃないか」
「もしかして、本当にあのおとぎ話の『
「まるで谷に吹く風が……」
「風が彼女の周りに集まっていく――」
「ほ、本当に、『
この時代のこの大陸ではおとぎ噺にしか出てこないような力を、当然のように使ったのだ。
混乱するのも当然だろう。
妾は風を纏いながら、いまだ決断できぬ人々へ優しく語り掛ける。
「まだ妾を疑うのならば、この背中を見るだけでも良い……。ただ、妾の力を認めてくれたとき、それを多くの同胞たちに伝えて欲しい。
それを最後に、妾は魔法を編む。
この時代には失われている超常の力を、惜しみなく高らかに謡う。
ここにいる全ての者を鼓舞するように――
「妾こそが、王の中の王! 大陸を支配する翼人の王! 最古の魔血を引きし末裔、この世全てを統べる王っ、『ロード』! あのような塵芥どもに敗れる道理などないのじゃ! ――《ワインド》!!」
轟音と共に、風の塊が上に向かって放った。
その風は孤児院の天井に穴を開ける。そして、その穴目掛けて、妾は飛翔した。
伝説の『
孤児院から見上げれば、誰もが見ることのできるように飛び、叫び続ける。
「我らの敵を全て、この妾が北から追い出してみせよう!! いまからっ、妾の力でじゃ――!! この風は、北の魔人たちの望む【自由の風】! 南の者たちを打ち払う希望の風!! 《ゼーア・ワインド》ォ――!!!!」
そして、南の人間たちにも『
それは、この時代では反則的な力。あらゆるものを破壊する風が妾の手から放たれ、周囲一帯が
一瞬にして百を超える死者が出て、千を越える怪我人が出る。
当然だが、南の人間たちは、天災に見舞われたかのように混乱した。
人を切り刻んでいく凶悪な嵐が、大量の血と悲鳴を産む。
妾は努めて表情を固め、その光景を空から見下ろす。
嵐の混乱に乗じて、セルドラたちが南の兵から武器を奪っているのを確認する。逆方向ではアイドたちがこっそりと孤児院から出て行っているのも見える。
子供の考えた計画が動き出した。
あとは妾がまっすぐ城へ向かいながら、暴れるだけだ。
高く飛びすぎず、速く飛びすぎず、南の人間たちの目に留まるようにヴィアイシア城を目指す。
北の同胞たちの目印となるように――『風の理を盗むもの』は『
そして、混乱していた南のものたちは少しずつ混乱から立ち直り、空を飛ぶ妾を落とそうと揃って戦いを挑む。それに妾は……――
――正直、ここから先は思い出したくない。
これから行われるのは、ただの虐殺だ。
風で人を切り刻み、潰し、血とハラワタをぶちまけていくだけ。
殺して、殺して、殺して、血の道ができるだけの話。
ただ、その血の道に、希望を見出した魔人たちの声が時々混じる。
「あ、ああっ。あ、あれが『
「翼人種の末裔など、そんな馬鹿な……」
「しかし、あの力は……、間違いなく……」
「圧倒的だ……。このまま、城まで行くのか……?」
「みなさんっ、『
その魔人たちの驚愕の声の中に、アイドの扇動の声も混じっていた。
「しかし、そのあとにみなさんの力が必要なのです! いま、『
アイドもアイドなりに戦っていると知り、妾の風はさらに強くなる。
無欠の王として、戦い続ける。
千の兵たちに囲まれようとも、万の矢に
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――!! 妾は『
南に占領された国に穴を穿つことだけを考えて、殺して殺して殺し続ける。
千の兵を風の刃で両断し、万の矢には万の風の矢で応戦し、数え切れない死体を作り出して、その果てに妾は城にまで到達する。
そこまで至ったときには、合流したセルドラとヴォルス将軍によって勝敗は決していた。妾が城門を壊すだけで、敵から篭城の選択肢は失われてしまい、攻城を行うまでもなかったのだ。
完膚なきまでの圧勝で――作戦は大成功で――敵の指揮官の捕縛も容易くて――何もかもが上手くいく。
そう。
皮肉にも、こんなごっこ遊びの進軍で上手くいってしまったのだ。
全ては、この恐ろしき『風の理を盗むもの』の力のせいだろう。
妾は不安で不安でしょうがなかった。この子供の夢を現実に変える理不尽な力――その『代償』は一体どんなものか、考えるだけで身体が震えそうになる。
しかし、それを表に出すことは、まだできない。
「ああっ、やった! やったぞ! 城を取り返したぞぉおお――!!」
「俺たちは勝ったんだ! 取り戻したんだ! あの南のやつらを殺してやった!!」
「ありがとうございます! 『
「『
「『
涙を浮かべて喜ぶ人々たちに囲まれてしまえば、不安な顔を見せることなどできるはずがない。
みなが安心できるように、『
「は、ははっ、ははははは……!」
そういえば……。余裕ある笑みを浮かべるのが上手くなっていくのはこのあたりからだった気がする……。
――これにて、物語の『二章』である『孤児院編』は終わりだ。
大勝利の逆転劇。奪還は大成功。文句なしの始まり。
次は『三章』。
『孤児院編』の次は、『ヴィアイシア防衛編』と本には書かれている。
しかし、『ヴィアイシア防衛編』か……。
ああ、本当に腹が立つ。勝手に他人の人生を編で分けるな。
誰にそんな権利がある。死人だからと好き勝手しおって。
それをしていいのは妾だけじゃろうが……!
……いや、それもいまは関係ないか。
それよりも、このあとは確か……――
占領されていたヴィアイシアの首都を取り返した妾は、城の玉座の間で一人、困り果てていた。
城下町では戦勝を喜び、宴のように盛り上がる民たち。
そして、無数の捕虜たちが城にいる。
――盛り上がるのはよいが、ここからはどうする……?
ごっこ遊びしか知らぬ妾に、この平和の維持などできるはずがない。
こっちは捕虜の扱い方も知らぬ素人だ。外交のやり方もわからない。
戦と政治に詳しい者は城におらぬのか……?
ここからどうにか休戦へもっていける者はおらぬのか……?
いや、それよりも
いつまでも妾が反乱の首魁だなんて駄目だ。もっと専門的な知識のある大人がやらないと……。
そうだ。
子供の妾には首魁など荷が重くて堪らないのだ……。
重くて身体が潰れてしまう。
「『
「お、おおっ。やっと終わったか!」
誰もいない玉座の裏に体育座りしていた妾は、孤児院の知り合いが入ってきたことに喜び、立ち上がる。
その者に頼んでいたのは、いま妾が考えていた問題を解決するための調査だ。
すぐに皆でその報告を聞くため、玉座の間にこの反乱の主要メンバーたちを集めた。
孤児院の大人たちにヴィアイシア家の将軍たち――そして、北の街の権力者たちだ。
しかし、妾の抱いていた期待は思いもしない報告に裏切られてしまう。
「――な、な!? いま城にヴィアイシア王家のものが一人もおらぬじゃと……?」
「はい。かなりの数が戦死したとはいえ、これは……。おそらく、半数は事前に亡命していたのかと……」
そして、国のお偉方たちがいるというのに、妾は素のままに怒ってしまう。
「そんな馬鹿な!! 民を捨てて、逃げたじゃと!? 王は民を守るから、王族でないのか!? その期待を背負いながら、何の責任も果たさずに逃げた!? 許されぬ! そんなこと、絶対に許されぬ! そんな者、王族とは言えぬ――!!」
妾を守ってくれぬ王族に腹をたて、お偉方の前で貶してしまった。
「――あっ……」
や、やってしまった……。
不敬罪で首を吊らされても文句は言えない……。
怯えながら、妾は周囲の様子を窺った。
しかし、なぜかそこには妾の発言を咎める者はいなかった。
それどころか、あの孤児院と同じ――
「会議中、申し訳ありません! 『
そのとき、伝令が玉座の間に慌しく入ってきた。
それは戦いが終わらないという無慈悲な伝令だった。
「も、もう敵が来たじゃと……!? しかし、いまここには王族がおらぬというのに……!!」
「え? お、王族ですか……? 『
報告してくれた伝令が、純粋な疑問を浮かべた。
「問題あるに……決まって……――」
決まってると言おうとした言葉が詰まる。
伝令だけではない。周囲のみなが同じ表情をしていた。
孤児院の大人たちがヴィアイシア家の将軍たちが、そして街の権力者たちが妾を見ていたのだ。
――な、なぜ、そこで妾を見る?
『
伝説の『
確かに『風の理を盗むもの』の力は凄まじかったかもしれん!
しかし、ただ強いだけならば、他にも適任者はいるじゃろう!
おかしいとは思わぬのか!?
ここで一番若いのは妾じゃぞ!
年を聞けば、ぬしらが腰を抜かすほど幼いのじゃぞ!!
いま、ここにいる大人の中で一番強そうなのは――なんだ、隅のほうにいるではないか!!
「み、南から敵軍が迫っているのならば……ヴォルス将軍っ! これからは貴殿が妾の代行を――」
妾も聞いたことのある歴戦の将軍様だ。
その身体は大きく、風貌からも貫禄を感じる。
きっと彼ならば、妾の代わりをやってくれる。そう思った――が、その提案はヴォルス将軍の副官と思われる男に遮られる。
「申し訳ありません、『
よく見ればヴォルス将軍の顔に生気がない。
この世の全てを失ったかのような顔をしている。端に立っていたのは何か事情があったようだ。
「そうか……。しかし、軍属のそなたらが妾を『
ならば、この副官さんにトップの代行をしてもらえないかと思った。
だが、当然のようにその期待も裏切られる。
「いえ、そのような不敬……できません。私たちは『
「そ、そうか……」
よく周囲を見回せば、どいつもこいつも同じような顔だ。
ああ、あのアイドの顔に似ている。
妾ならばどうにかできるのではないかと、期待している顔だ。
「――臨時だな。おまえ以外にやれるものがいない」
そして、後ろから小声で話しかけられる。
友のセルドラだった。
「わ、わかっておる……」
セルドラは冷静に状況を理解していたようだ。
その期待を認めたくない妾とは違い、早々に『
「ならば、セルドラ! 悪いがおぬしにはもう少し付き合ってもらうぞ!!」
「ああ、それも俺以外にできるものがいないだろうからな。『
友の協力を得た妾は、僅かな勇気を手に入れる。
そして、その勇気に任せて、会議の途中で叫ぶ。
「――みなのもの!! 妾は迎撃に出たいと思う! すまぬが、この『
交渉なんてできないから、率直に頼む。
妾にできるのは破壊することだけ。
「ええ、もちろんです。『
そして、当然のようにその案は全面的に支持されてしまう。
『
その勢いのまま、妾は城を歩き回り、孤児院の知り合いたちにも声をかけていく。
当然、中にはアイドもいた。
「ね、姉様――いえ、『
「敵の増援がくる! ゆえに打って出る部隊を編成する! アイド、そなたも手伝え!!」
「はい、もちろんです! 自分は『
弟は嬉しそうな顔で承諾した。
ああ、重い……。
それが重くて苦しいのだと、なぜこの弟はわかってくれないのだ……。
そんな不満を顔に出す暇もなく、妾は反撃の準備をしていく。
城下町では「『
その期待に背中を押されて押されて、妾は軍を率いてヴィアイシア城から出るしかなかった。
相手は南の人間たちの大軍で……ただ、もう言わずともわかると思うが、これにも妾は圧勝する。
ごっこ遊びの延長の戦術で、見事勝利してしまうのだ。
呪われているかのような勝利だった。
そして、勝てば勝つほど、妾の表情は固まっていく。
ごっこ遊びの『
それはまるで少女ティティーの成長する時間を、『
恐ろしい速度で、妾は『
――そして、少しずつ、体感速度が加速していく。
転がり落ちるかのように、『三章』から『四章』へと続く。
編で分ければ、『ヴィアイシア防衛編』から『北方奪還編』だ。
……ああ、もう怒る気も起きない。
なにせ、ここから先はもう、落ちていくだけの物語だ。何もかもがどうでもいい――
勝利に勝利を重ねることで、防衛戦だけでなく領土も少しずつ拡大していく。国としての形にはまだなっていないものの、戦力だけは一丁前にあったのだ。
その途中、南から逃げてきた魔人たちにより、城下町が溢れ返りそうになったことがあった。
爆発的に増えていく民に、妾は混乱したものだ。
急遽設立したキャンプ場を見て周り、妾は側近に詳細を聞く。
「こ、これは何事だ……。どうして、こんな急に……」
「それが『
「北の果てに楽園……? そう言ったのか……?」
こ、『ここ』のどこがじゃ?
子供が遊びでトップをやっており、財政はギリギリ、組織としての形は崩壊寸前だ。それでも『ここ』を楽園と呼ぶのは、なぜだ?
そもそも、その『楽園』へ行きたいのはぬしらでなく、妾のほう――
「『
「返還……? 何のじゃ?」
「逃げた魔人たちです。彼らは南国のものであると主張しています」
「――!? な、何を馬鹿なことを言っておる!! こう言い返してやれ!! 我らには我らの法がある。南から逃げてきた同胞は全て我らの家族じゃ――とな!! 返す事などできぬ!!」
「了解です。『
「あっ、ああ……」
また悪い癖が出た。
怒りのままに、魔人たちを守ってしまった。
『
そして、その妾の様子を見ていた民たちの目の色が変わる。
いつものように――また、「流石は『
ああ、もうわかってる。
こっちは顔が引き攣って、元に戻らなくなってきたところだ。
その期待に応えればいいのだろう?
幸い、その『楽園』へ誰よりも行きたいのは妾だからこそ、その偽物くらいなら用意してやれると思う。
こうして、北の反乱軍は移民を受け入れ、その生活を維持するための政策を考えさせられる羽目になる。
その移民受け入れを実現させたのは弟のアイドの力が大きかった。戦闘においては何の才能のなかったアイドだったが、こと地道な作業と小細工において右に出るものはいなかったのだ。
何より、国のために身を削ろうとする覚悟がアイドにはあった。
ただ、アイドは妾の負担を考えない。
弟は『
恐ろしいことに、それを繰り返し続けることで、少しずつ北は国として成り立ち始めていた。
妾を王として、新生のヴィアイシア国が生まれ落ちようとしていたのだ。
その現状を見て、友であった男セルドラは冷静に分析する。
「――王族のほとんどが消えてしまったのが痛いな。そのせいで誰もが、おまえに王族としての振る舞いを求め、その上総大将としての計算高さを求め、革命家としてのカリスマまでも求めてる」
「セルドラ……」
「そして幸運にも、おまえはそれを叶える器があったようだな」
それは不幸にもと言うのだ。
相変わらず、我が友は他人の心がわからない……!
「そんな器、妾にはない……。ないのじゃ。全て偶然じゃ。運がよかっただけじゃ……。何もかも、ぬしたちの勘違いじゃ」
二人しかいないから、妾は弱音を漏らした。
妾に匹敵する力を持つセルドラにだけは言えた。
「そうなのか? いや、どちらにしろ、俺は不器用だからな。手助けすることしかできないが……」
しかし、その弱音は届かない。
もう友でさえも、妾が『
それを見て、もはや妾に相談する相手はいないと知る。
「……い、いや、ぬしはぬしで大変じゃろう。手助けしてくれているだけでも、妾は助かっている」
「助かってるのは俺だ。不謹慎だが、この立ち位置は俺の病気の薬になるからな」
「そうか、それはよかった……。悪いが、少し一人にしてくれ……」
そのときからセルドラに相談することはなくなった。
もう誰にも頼ることはできない。
自分だけで何とかするしかない。
「やるしかない……! この妾が……!!」
そう心に決めてしまい――落ちていく速度が、さらに加速していく。
開き直った妾は、戦争を終わらせることだけを考え出す。
防戦から強気な攻勢に移り、北の領土の奪還を行い始める。それをできるだけの力が、いまの妾にはあった。
認めたくないが、単純な力だけでなく、指導者としての能力までもが身についてきていたのだ。いつまでもごっこ遊びをしていては終わらないと思い、南と戦うために一人で寝る間を惜しんで勉強したせいだ。城の文献を読み漁り、自分なりの戦い方を構築していった。
その結果、民心を掴み、臣下からの信頼も得ていく。
ただでさえ個人としての異常な力を保有していたというのに、人の助けを得た『風の理を盗むもの』は無敵に近かった。
そして、数年後――、あっさりと妾は悲願を果たすことになる。
「――やった……! 北の領土を、戦争前まで戻してやったぞ! ははっ、やっと取り戻したのじゃ……!!」
魔人たちの戦い方を根本から見直したのが大きかった。
妾頼りの戦いをしなくても、南に対抗できるようにするのは時間がかかった。しかし、元々、人と魔人単体で考えれば、魔人のほうが強いのだ。その強い個たちをまとめる将さえいれば、南に遅れを取ることなんてなかったわけだ。
それを証明するかのように、北は連戦連勝を繰り返した。
統率された魔人軍だけでなく、本当の魔物を率いた妾もいたのだから当然だった。
辺境で暴れていた竜を従えたときは、敵からも味方からも恐れられたものだ。
そして、塗り換わっていた地図を戦争前に戻すことに成功した。
北の国々は力を取り戻し、それを妾が一つにまとめた。北と南のバランスは均衡状態に戻り、休戦協定を結べるだけの状況になった。
すぐさま妾は休戦を進め、見事それを成功させる。
妾が故郷の草原にいた頃と、同じ世界情勢まで戻してみせたのだ。
ああ、これで……。
これでやっと――!
「北は元に戻った……! これで、これで!!」
――
そう思ったのだけれど……。
「――やりましたね、『
「…………」
当然の話だった。
側近の魔人は淡々と、次のことを話す。
「南との外交はもちろんですが、西国と東国との外交も推し進めましょう。この革命は彼の国たちの協力なくしては成功しませんでしたからね。きっと、色々と要求されることでしょう。あとは――」
「と、途中ですまぬ。亡命したヴィアイシア王族たちも戻ってくるという話はどうなった……?」
「え? ヴィアイシア王家の者ですか……? ああ、『
それがどうしたか?
その言葉の意味がわかってしまい、絶望してしまう。
けれど、妾の固まった表情は変わらない。
憮然とした表情の完璧な王様が、側近の報告を聞いている。
ああ、身体が重い……。顔が動かない……。
何より、それに慣れてきた自分が一番嫌だ……。
「いや、戻ってきてくれるのならば喜ばしいことじゃ」
誰かが王族さんたちを神輿にして、この玉座を狙ってくれるかもしれない。その可能性を得ただけでもよしとしよう。
それがいまの妾に期待できる可能性だった。
ただ、その期待は当然のように裏切られていく。
これから先、何年経とうとも北では反乱なんて起こらないのだ。
そして、国務に忙殺される毎日が始まる。
英雄譚的に言えば――桃色の花の咲く季節から、黄色い花の咲く季節へ。赤い花の咲く季節から、白い花の咲く季節へ。北特有の不安定な季節を繰り返していく――か?
おそらく、銘打てば『五章』の『覇王編』だろうか……。
ああ、もうそれすらもどうでもいい……。
王としての立場が確固としたものとなり、落ちていく感覚が強くなっていく。
雪玉が転がり膨らむかのように、身体に色々なしがらみがまとわりついていく。
国民の期待どころか、よその北の国の期待までもが背中にのしかかる。
重くて潰れてしまいそうになる。けど、妾が潰れるわけにはいかない。いま妾がいなくなれば、北の国々はまた南に呑み込まれてしまう。
だから、やるしかない。
妾がやるしかないのだ。
こうして、妾は本物の『
ティティーの喪失は、心に多大な影響を与えた。
少しずつ、自然と自分が何をしているのかもわからなくなってくるのだ。自意識さえも喪失していき、時間感覚が更なる加速――どころか、狂い出す。
あの日から、何年経ったのだろうか……?
そんなことを考えながら、今日も妾はヴィアイシア城で臣下たちを迎える。
以前と全く変わらぬ姿で――しかし、伝説となった『
磐石となった北の国を纏め、さらに磐石なものとするのが、いまの妾の仕事……。
確か、そうだ……。
そして、これは仕事なのだから、仕方がない……。早く行かないと……。
「――『
立派な宰相に成長したアイドが妾を呼ぶ。
弟は老けていた。
いつの間にか、妾の背を追い越している。あどけない顔つきから、大人の顔になっている。少し身体は細くて不健康的だが、妾と違って立派な大人になれている。
「ああ、アイド……。いま行こう……」
そして、今日も妾はヴィアイシア城の玉座の間に赴く。
北を象徴した旗を背に、玉座へ腰を下ろす。
『
しかし、見慣れぬ顔も増えてきたものだ。ここにいる有力者たちの数が、そのまま北の領土の広さというわけだ。あの反乱の日の十倍は超えている。
「では、『
「ああ、始めよう」
あの反乱の日から定例となった会議が始まる。
けれど、何年経とうとも何も変わらない。
誰もが妾に期待した目を向けている。国の最高位の将軍であるヴォルスさえも、妾の言葉を肯定するばかりだ。
そして、国の宰相であるアイドも、この通りだ。
「はい。全ては『
全員が妾に頭を垂れる。
いつもの会議は、またいつものように終わった。
玉座の間から有力者たちは出て行く。
『
それは妾の思い描いていた会議と違いすぎた。
この会議であらゆる意見をすり合わせ、それを北の方針とするのが妾の作った国の在り方のはずだった。そうすれば妾に頼らない国になると思っていたが、全くそんなことはない。妾がいなければ瓦解する国のままだ。
完璧な王であり過ぎてしまった結果だ。
なにせ、軍務も政務も、妾が出れば全て解決する。魔人たちの幸せを願う妾は、何があっても成功させてしまう。わかっているのに、身体が勝手に動く。
少女ティティーではなく、『
そして、完璧な王であればあるほど、時間が進むのが速くなるような気がした。激務に忙殺されているという次元の話ではなく、自分がそこにいないかのような感覚に襲われるのだ。まるで夢を見ているかのように、高速で時が進んでいく。
そんな悪夢の中、いつかもわからぬ時間に、妾は一人呟く。
「――も、もう終わりじゃ。妾の役目は終わりじゃ。なのに、いつまで続くのじゃ。これは……」
その問いに、答えは返ってこない。
まず、妾は年を取らない――これが一番の問題点なのだ。
これのせいで隠居の計画すらできない。
「妾は変わらぬ……。変わらぬから、終われぬのか……?」
自問自答を続ける。
まだこの国は後継者を考えられるレベルじゃない。教育レベルも低く、人手が全く足りていない状態だ。もちろん、それを解決するための施策はしている。ただ、数十年後にその問題を解消したとしても――
――民は『不老の王』なんて都合のいい存在を手放すのか?
それも暗殺されようのない強さを持っている最強の魔人。毒を盛られても、ちょっと腹を下すだけですむという身体に、大陸最強の魔力と魔法。戦は百戦錬磨で、政務も最高レベルに達している。老いないのだから、その能力は劣化することはない。いや、それどころかいまも能力は伸び続けている。永遠に成長期であり
自問自答せずとも答えは出ている。
妾は妾である限り、ずっと王のままだ。
それを理解したとき、千の剣に囲まれても震えない身体が揺れる。
「む、無理じゃ……。正気でなどいられぬ……」
ずっと王のまま……?
そのずっととはいつまでじゃ?
もし本当に不老ならば、百年どころの話ではないかもしれん。
百年どころか千年。千年どころか永遠に、王をやり続けなければならぬのか?
一人、王の自室で妾は首を振る。
そして、その恐怖のまま、妾は王の部屋を出た。
誰かに助けて欲しかった。
一人で苦しむことに、もう耐えられなかったのだ。
まず頭に浮かんだのは友であるセルドラだったが、すぐに頭から掻き消す。いま、あいつは南端にて戦っている。そもそも、ここにいたとしても、いまのあいつには話が通じるか怪しい。そうしてしまったのは、王である妾だ。もう『友』はいない。あいつは前線の『総大将』として新しき人生を歩んでいる。
ならば、弟だ。
弟のアイドしかいない。
弟は守るべき存在だが、もう限界だ。
姉だからなんて、言ってられない。
もうやめたい。
全部やめて、家に帰りたいっ。
あの故郷と似たところを探して、逃げてっ、ひっそりと二人で暮らそう――!
そう言いたくて、アイドを探す。
城の中を駆けて、宰相の部屋を目指す。
ああ、アイド……。
苦しいのだ……。助けてくれ……。
「アイド、アイドアイドアイド、アイド――!!」
回廊を駆け抜けて、妾は辿りつく。
宰相の部屋の扉を開けて、その中には――
「ああ! 丁度いいところに『
アイドがいた。
いつの間にか、長身痩躯の大人となった弟だ。
そのアイドが、まるでどこかの化け物と同じように、異常な存在感を放っていたのだ。
「え?」
守るべき弟など、そこにはいなかった。
あの妾より二回り以上も小さかったアイドが、妾より大きく――強くなっていた。
長い間、妾の隣を歩いたせいで、アイドは『
その上、妾と同類の『理を盗むもの』にまでなってしまっていた。
「見てください! この力、どうでしょうか!? 自分も使徒様の助言に従い、『理を盗みました』! ああ、これであなたを助けることができます。もはや、『
そして、キラキラと輝く目で妾を見ていた。
ただでさえ重かった身体が、何倍にも重く感じた。
その重みのまま地面に穴を穿ち、奈落の底に落ちるような気がした。
「ようやく! ようやく自分の願いが叶いそうです! 『
「あ、ああ、アイド……」
舌の根が乾いて、うまく言葉が発せない。
けれど、有頂天のアイドはそれに気づいてくれない。
「ふふ、もしかして昔過ぎて忘れましたか? いつか『魔人』という言葉を世界から忘却させるという話です!」
「ア、アイド……」
「『魔』という言葉には、どうしても穢れのイメージがつきます。それよりも適切な言葉、もっと自然の恵みを意識できるような――例えば『獣人』なんていいかもしれません。少し荒々しそうなイメージがつくかもしれませんが、割といいとは思いませんか? 我らの強みもはっきりと知らしめることができます」
違う。そうじゃない。
そんなことはどうでもいい。
「アイド、待て……」
「あ、少し呆れていますか? もちろん、そんな先のことよりも目先のことのほうが大事なのは、自分もわかってます。世界中の人間の意識を根底から変えるなんて……、もし、それを為そうとすれば、大陸をまとめあげた上で、何百年という時がかかることでしょう。千年後、実現していればいいというレベルです。それでも、自分はこのヴィアイシア国の宰相として、願わずにはいられないのです。いえ、北に生まれた魔人としてでしょうか……。ふふっ」
もう妾は国など、魔人と人の軋轢など、興味ないのじゃ。
心底、どうでもいい。
そんな他人のことより、妾自身のことが一番大事なのに――
「――そ、
「はい、共にこの国を守りましょう! 『
もう無理だ。
アイド――いや、このヴィアイシア国宰相殿には何も言えない。
こいつは弟だからこそ、この国の誰よりも妾に期待している。
千年後、大陸全員を洗脳するまで王が戦い続けるのは当たり前――とまで思っている。
いや、この顔は千年どころじゃないかもしれない。
ずっとだ。永遠に、やる気だ。
ずっとずっと、妾の臣下をやる気だ。
そのために、不老の王に合わせて、自らも不老となったのだ。
もう確信した。
こいつは――弟に戻る気など、全くない。
二度とない。
「ははっ、ははははっ、ははははは――!」
「ふふっ、先が楽しみですね。ふふふふ――!」
王と宰相は笑いあう。
ああ、いつの間にか……。理解者がいない……。
自分をティティーと認識してくれる人がいないから、自分が自分であると証明できなくなってきている。このままでは、無欠の王という概念に成り果ててしまいそうだ。
妾は一人、王の自室に戻るしかなかった。
――そして、はっきりと独りであることを理解し、また時間は加速していく。
何度も何度も、季節が過ぎていく。
合わせて、背中から響く歓声が増えていく。
率いる人々が増えていく。
守るべき人々が増えていく。
戦うべき人々が増えていく。
どこまでも妾の背中に背負わされていく。
それを心の弱い妾は断れない。放り出せない。
もう限界を超えているというのに、誰もが『
もう両手も両足も、その重みで麻痺して、ろくに動かない。
それどころか、時間感覚さえ、麻痺してしまっている。
妾の見ている世界が、
――さらにさらに、時間は加速していく。
…………。
……………………。
ああ、いまはいつじゃ……?
何がどうなっておる……?
いま、妾は何者として、何をしておる……?
そう自問自答しながら、王として戦い続ける。
いつの間にか、空が暗雲に覆われるという異常事態があっても――、『理を盗むもの』だけの特権であった魔法を人々が使い始めても――、妾は何の動揺もなく完璧な王として働いた――、戦い続けた。
皮肉なことに、自意識が薄れていても、妾の才があれば北を治めることは容易だった。
北で内戦あれば、『
それを繰り返した。
何年も何年も繰り返して、繰り返し、繰り返し、繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し――、時間感覚が加速しても、加速して加速しても――、繰り返し続けて――……
……――その途中に、一つだけ見過ごせない異変が起きた。
幸いにも、『
突然、南の敵兵の中に、なかなか倒れぬ者が急増してきたのだ。
さらに南での魔人誕生の確率が激減し始める。
繰り返しの作業に変化が生まれ、
まず確認したのは強い騎士たち三人。
アレイス、ランズ、ヘルヴィルシャインを名乗る三人の才ある人間の男たち。
続いて、それを率いる聖女ノスフィー・フーズヤーズの登場。
まるで妾が台頭を表したときと同じように、そのノスフィーという少女は急に救世主として現れた。
敗戦を続けていた南が反撃に出始める。
とはいえ、それでもまだ維持はできる。
こちらには経験という分がある。
北が崩れるには足りない。
――
そうだ。
このとき、妾は国の崩壊を願ってしまっていたのだ。
いまかいまかと待っていたのだ。
妾の国――いや、『
そんな救世主の存在を願う。
他でもない救世主と称された妾が願う。
――そして、とある戦場で巡り会うのだ。
風により地形は変わり、死者の血で染まった戦場で、一対一。
化け物の妾が、同じ化け物と向き合い、言葉を交わす――
「――やっと会えたな、『狂王』。いまから僕が、おまえを助けてやる」
『
「……そ、そなたが、あの『カナミ』じゃと?」
興味はなかったが、王として情報は持っていた。
間違いなく、この黒髪黒目の騎士が南という国を盛り返してみせた始祖様だ。
若いと、まず思った。
しかし、すぐにそういう次元の話ではないとわかる。
その魔力は余りに特異すぎた。
使徒に試作と称された妾以上に、未完成。
なんと不安定な『理を盗むもの』だ。
そう思った。
「欲しいものを言え、ロード」
「待て。なぜ、この妾にそんなことを聞く?」
「いいから答えろ……! おまえみたいなやつを見てると、こっちはいらつくんだよ……!!」
その男は妾に似ていた。
妾と同様に絶望し、狂っている。
王として考えるならば、間違いなく殺さなければならない相手だ。戦わないといけないとわかっている。しかし――この狂人は妾のことを理解してくれていた。
北にいる誰よりも。いや、世界の何ものよりも。
「生意気な口を利く……。妾は『
「何が王だ。嘘つけ、この馬鹿女。……見ればわかる。おまえは王様なんて器じゃない。おまえも僕と同じで、無理して生きているだけの弱い人間だ。ああ、騙され虐げられ、都合よく生かされてるだけの弱者だ」
妾に生意気な口を利く敵はいる。
しかし、ここまで妾の内情を当てたものは、味方も含めて初めてだった。
「妾は無理をして……、おるか……?」
「ああ。似合わないんだよ、その喋り方。もっと別の喋り方はできないのか?」
「あ、あぁ……、それは……」
「チッ、イラつく。早く答えろよ。このノロマ……」
「いや、どうじゃったか、上手く思い出せぬのじゃ……。別の喋り方をしていたような……。確か、これは間に合わせで始めた喋り方で……、その……」
二人きりのときに、急に心の底まで切り込まれたせいか、妾は上手く喋ることができなかった。
こんなにも自意識をはっきりとさせたのは何年ぶりだろうか。
妾が妾として話してるのは、いつ以来だろうか。
とにかく、舌が上手く動いてくれなかった。
「ああ、もういいっ。わかったっ。とにかく、欲しいものを言え!」
「妾が欲しいもの……?」
なんじゃったか……。
たくさんあったような気がする。
行きたかった場所があった気がする。
しかし、もう
「わ、わからぬのじゃ……。しかし、『
唐突な理解者に困惑しつつも、吐き出すかのように懇願してしまった。
それを黒髪黒目の男は受け止める。
「――呪術《ディーリング》。よし、それで『契約』成立だな。ただ、『ここ』から『
「む、無論っ、いますぐとは言わん! いつかでいい! お願いじゃ!! このままじゃと妾が妾でなくなってしまうのじゃ!!」
「あ、ああ。わかってるって……。見捨てはしないから安心しろ。おまえが望むものがあるなら、それをできるだけ叶えてやりたいって思ってる」
こうして、妾は裏切りの騎士を北に迎えることになる。
色々と反発はあったが、そこはいままでの妾の実績あってか、なんとか身内人事を通すことができた。
「――よし。これで『
「ああ、頼むぞ……」
「その代わり、一度だけ北の軍を使わせてもらうぞ。手駒がなければ、南の使徒を守る壁を打ち崩せないからな」
「そのくらいは容易い話じゃ」
「ティーダ、ローウェン、ファフナーの三騎士。そして、ノスフィー。この『理を盗むもの』たちを、おまえの持つ王の力で抑えてくれたら、その間に僕が元凶の使徒を殺す」
南を急成長させている原因である使徒の殺害。
それは北にとって悪い話じゃない。長く見れば、北の王としても賛同できることだ。
そう。
妾は裏切ってない。
裏切るのは渦波で、妾は誰の期待も裏切らない。
それはとても甘美な逃げ道だった。その道に逃げ込まざるを得なかった。たとえ、それが渦波の策略であったとしてもだ。それほどまでに妾は限界だったのだ。
「待ってろ、ロード。すぐに僕は裏切る。そして、おまえの国を滅ぼしてやるよ。正直、ずっとこの国にはむかついていたんだ。ここは使徒の勝手で生かされてる無能どもの国だ。その上、こんな頭の悪い少女を『理を盗むもの』にして、『
「そ、そこまで言うか……?」
「僕のいたところじゃ考えられない。北も南も異常すぎて、正直気持ちが悪い」
「むむう……」
南の始祖からの我が国の評価が低く、少しだけ頬を膨らませる。
王として反論すべきところだったが、妾は何も言い返さなかった。
その話に妾の王ではない部分が賛同していたからだ。
渦波と同じようにむかつき、気持ち悪いと心の片隅で思っていたのだ。
やはり、渦波こそ妾の理解者なのは間違いない。
そして、渦波を護衛騎士として迎え、さらに月日が過ぎていく。
時間感覚が麻痺しているおかげか、そのときが訪れたのはすぐだった。
いつかはわからないが、とても早い段階で渦波は妾に告げる。
「――もう終わりだ。算段がついたぞ。セルドラとアイドのおかげで、三騎士の分断に成功した。これから僕はこの国を捨てて、使徒シスを追い詰めに行く」
「ようやく、終わるのか……?」
「ああ、終わる。逃げるならいましかないぞ。おまえの心配してる悪名は、できるだけ僕一人に向かうように下準備はしてる。まあ、最悪でも、悪名は僕と半分になるはずだ」
「な、ならば妾も逃げる……。逃げたいのじゃ……」
こうして、北と南の戦いが最高潮に達したとき、王である妾と近衛騎士団長渦波はヴィアイシアから消える。
独りでなく、二人であることが足を軽くしてくれていた。
限界だった身体だが、理解者が先導してくれるというだけで、なんとか動いてくれた。
闇夜に紛れて、妾たちは北の国から逃げ出していく。
戦地の中を泥にまみれながら、走って走って走り続けた。
そして、国境を越えて、名もない村へ辿りついたところで、妾は礼を言う。
「渦波……。妾を裏切ってくれて感謝する……。妾の国を見限ってくれて、本当にありがとう……」
「これでおまえは自由だ。北も南も関係ない。さっさと別の大陸まで逃げろ」
国外にある夜の草原で妾は泣いていた。
王とは思えぬ襤褸切れを着て、自慢の翠の髪を結い上げて、村の町娘のようになった妾は、もう誰の目にも気にすることなく、子供のように涙を流した。
もう妾は王ではないという解放感に、全身が打ち震えていた。
ただ、その震えは歓喜によるものだけではなかった。
少し恐怖も混ざっている。
いかに自身が王の役目を放棄したとはいえ、民たちはそれを認めないだろう。もしかしたら、北の国々は妾を探すかもしれない。
さらに言えば、妾のいなくなったヴィアイシアの今後を想像するだけで怖い。
絶対に破滅するとは決まっていないものの、その可能性が増したのは間違いない。
そう。
いまこのときも、戻ったほうがいいかもと考えている自分が怖いのだ。もちろん、それ以上に、またあの地獄に戻るのを恐れている自分がいるから立ち止まれている。
様々な要因が混じり、身体の震えは全く止まらなかった。
ずっと泣き続ける妾を見て、渦波は嘆息をつく。
「……はあ。もし一人が怖いなら、僕と来いよ。それだけで随分と違うはずだ」
手を差し伸べる。
心細くて死にそうだった妾は、その手を反射的に取ってしまう。
そんな迷いのない妾に、さらに渦波は呆れる。
「本当に来るのかよ、おまえ……。ついてきても、利用されるだけだぞ。そう簡単に騙されるな。この馬鹿女……」
そして、情けなさ過ぎる妾を憐れみ、自らの思惑を事前に伝えてくれた。
だが、わかってる。それでも妾はついていきたいのだ。
「……構わぬ。もっともっと妾を騙して利用してくれていい。だから、もう少しだけ、そなたについていかせて欲しい」
正直、これから一人で何をすればいいかわからなかった。
故郷に帰るとしても、共に暮らす誰かがいなければ寂しくて発狂する自信がある。
なにより、妾の唯一の理解者である渦波を手放したくないという本音もあった。
「ふふっ。それに、そなた一人では荷が重いじゃろう? 三騎士の隔離は成功しても、使徒には『光の理を盗むもの』がまだ残っておる。この『魔王』の力、本当は欲しいのじゃろう?」
「ああ……、もう! 本当に馬鹿だな、おまえ! あれだけ貢いでおいて、今度は命まで捨てる気か……!?」
「いいのじゃ。付き合わせてくれ、渦波。少し、そなたの手助けをしたい気分なのじゃ……」
「別に駄目だとは言ってないっての……。戦力があって困ることはないからな……」
――こうして、南の使徒討伐パーティーが生まれる。
それはこの時代のこの大陸で考えられる限り、最高の対使徒パーティーだった。
その後、妾と渦波は国境から南下していき、使徒がいるであろうフーズヤーズの城を目指した。
ただ、当然だが……途中、追っ手があった。
まずは北の完全無欠の宰相様、『木の理を盗むもの』アイドだ。
「――渦波様ぁあ! なぜっ!? なぜ、自分たちを裏切ったのですか!?」
「アイド……。悪いが、おまえと話すことはない……」
ヴィアイシア国宰相の追及に、渦波は応じない。
「ならば、『
「さよならじゃ、アイド……。妾は渦波と行く……」
「ロ、『
「結局のところ、妾はただの
「『
最後まで姉を王と呼んだ弟を置いていく。
そして、次は因縁の敵である南の御旗様『光の理を盗むもの』ノスフィーとの戦い。
非戦争地域を隠れながら進み、フーズヤーズの城へ背後から近づいていたときだった。
誰もいない闇の中、光り輝く少女ノスフィーが一人待ち受けていた。
「ロード……、ロードロードロードロォ――オオオオド!! なぜ! なぜあなたが渦波様と共に二人で、ここにいるのです!?」
「そ、それはこちらの台詞じゃ……? なぜ、ノスフィーがここにおるのじゃ……? そなたは南の希望の旗なのだから、ちゃんと前線におれ!! 南が危なくなるぞ!?」
「いまのあなたに言われたくはありません……。そもそも、わたくしの目的は渦波様、唯一人……! たった一人です!!」
その迷いのない返答に妾は驚く。
もはや、戦場の力関係は滅茶苦茶だ。
妾の出番があるとすれば、もう少し後だと思っていたが、予想以上にノスフィーの登場は早かった。
「渦波、ここは妾に任せよ」
言い出しづらいであろう渦波の代わりに妾が先に提案する。
「……ああ。頼む」
少し迷った末に、渦波は駆け出した。自分を追ってきたであろうノスフィーに何も言わずに、一瞥もくれることなく走る。
その背後をノスフィーは追いかけようとする。
「ま、待ってくださいませ! 渦波様! わたくしの話を聞いてください! あの日の出来事は全てっ、勘違いだったのです!! まずはお話を――!!」
「相変わらずじゃのう、ノスフィー。しかし、渦波は忙しいゆえ、少し妾と遊ぼうか。なに、ここで戦いの決着をつけるのも悪くないじゃろう?」
しかし、妾が間に立ち塞がることで止める。
当然だが、ノスフィーは激怒する。
「邪魔です! ロードォオオ――!!」
叫び、襲い掛かってくるノスフィー。
その手の旗と、妾の銃剣が打ちつけ合わされる。
――妾にとっての最後の戦いが始まる。
そして、妾の終わりのときでもある。
だから、このあと渦波が使徒たちとどうなったかを妾は知らない。
知っているのはノスフィーと自分の最期だけ。
「――ア、アアァ!! アア、ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
ノスフィーは『
北と南の代表同士の戦いは、周囲を更地にするどころか城下町まで及んだ。
千の嵐に襲われたかのように、南の首都は崩壊していく。
そのほとんどが南の救世主であるはずのノスフィーの仕業だった。
モンスターの如く咆哮するノスフィーの姿は、もう人の形を保っていなかった。
「これは、光の蛇――!? いや、
全ての力を解放したことで、ノスフィーは半身が蛇と化していた。
限界を超えた力によって命が削れ、半分死んでしまいながらも戦い続ける姿は、もはや『光の御旗』どころではない。光そのものになろうとしている。
けれど、まだ足りない。
いかに限界を超えようと、ノスフィーは『理を盗むもの』として新米すぎる。それに対して、妾は最古の『理を盗むもの』だ。
その絶対的な経験の差によって、勝負は決する。
「わ、わたくしのほうが劣っている!? ならば、もっと力を――! もっともっと力を――! この『世界奉還陣』からならばぁああ――!!」
しかし、敗北をノスフィーは認めなかった。
いつの間にか大陸に張られていた魔法陣から、ノスフィーは力を引き出そうとした。
だがそれは余りに巨大すぎる力で、たった一人で扱いきれるものではなかった。
「駄目じゃ、ノスフィー!! そんなことはさせぬぞ――!!」
このままだと魔力が暴走する。それも前代未聞の規模でだ。
放っておけば、南に多くの死人が出る――どころじゃなく、大陸が吹っ飛んでしまう。
そう確信できるほどの魔力が、その魔法陣には詰まっていた。
大陸が吹き飛ぶ。
つまり、北も巻き添えにするということ。
もう王などはやめた。
北とは関係などない。
いまの妾はただの旅人だ。
しかし、だからといって見捨てることなんてできなかった。
罪なき人々の死なんて見たくない。
その思いは妾の
皆を助けたい一心で、全力をもってノスフィーを止めようとする。
その戦いは、もはや人の戦いとは呼べなかった。
妾も本気を出すことで『
しかし、その世紀の決戦の結末は、第三者の手によって終わることになる。
唐突に魔法陣が全く別の動きを見せ、ノスフィーを呑み込もうとしていた。
「――な!? ノスフィーが自壊していく!? いや、陣に呑み込まれている!? まさか、この陣の真の目的は、妾たち『理を盗むもの』の捕獲――いや、吸収!? 『魔法陣』に干渉するのを止めるのじゃ、ノスフィー! このままだと共倒れじゃぞ!?」
それは大陸の全てを溶かしていくという悪魔的な魔法陣となった。
「やめませんよぉお!? これが『理を盗むもの』をも殺すと言うのなら! ロードも苦しいでしょう! むしろ、これをわたくしは好機と捉えます!! ええ、いつだって前向きに生きることこそ、わたくしの全て! 清く正しくっ、前へ前へ前へ進めばっ、いつか願いがァアアアア――!!」
確かに妾の身体にも影響が出ている。
けれど、それ以上にノスフィーが危ない。
「止まるのじゃ! 妾はそなたを死なせたくないというのがわからぬか!」
「死なせたくない!? 何を言っているのです、ロード! わたくしたちは敵! 敵ですよ!!」
「違う!! 出会い方さえ違っていれば、友達にもなれたはずじゃ!! そうっ、少しでも運命が違っていれば、誰もが仲良くできるはずなのじゃ!! 今日までの戦いで、妾はそれを知った!」
「遅い!! 何もかも遅いのです! ロードォオオオオオ――!!」
――結局、説得などできるはずもなく、妾たちは相打ちとなる。
いや、正確には魔法陣によって二人とも殺されてしまった……のほうが正しいか。
大陸に呑み込まれながら思う。
もしかして、この魔法陣の力は渦波の仕業だったのかもしれない。彼は世界もだけど、特に『理を盗むもの』を嫌っていた。
最初から、ここで妾とノスフィーをまとめて消すつもりだったのかもしれない。
消えていく身体を感じながら、自嘲する。
ああ、渦波にはまんまと騙されたなあ……。ははっ……。
けど、思っていた以上にいい死に方で安心した。
ヴィアイシア城で王をしていたときと比べれば、そんなに苦しくない。
少なくとも、これで永遠ではなくなった。
永遠の苦しみからは逃れられたことこそ、妾にとって一番の救いだ。
魔法陣に呑まれて、身体は粉々になって、妾は闇の中に消えていきながら、妾は笑っていた。
ああ、これが死。これが終わり。
消えて、無になる。
正直、少し怖い。
けれどそれ以上に安心できるのだ。
これで、解放される。やっと、何もかも、終われる。
終われる……、やっと……。
あの人た……ちのと、こ……ろへ、
それが妾の最期の言葉。
――
少し時間が経って、異常に気づく。
闇の中、いつまでたっても意識が消えない。
無のまま、自分という自我が保たれ続けていのだ。
……あ、あれ?
妾は死んだはずだ。
なのに、どうしてまだ意識が残っているのか不思議で堪らない。
そして、その困惑以上に怖かった。
まだ終わらないという事実に恐怖し、魂が震える。
……これはどういうことじゃ?
そう疑問を頭に浮かべたとき、『迷宮』と『
――死した『理を盗むもの』は『
……これは渦波の声?
この不可解な状況の説明が、かつての理解者の声でされていく。
――使徒の産んだ『理を盗むもの』は不老であり不死であること。未練がある限り、簡単には死ねないということ。そして、中でもロード・ティティーの未練は濃いから、困っている――と教えられた。
……急に未練なんて言われても、こちらも困る。そんなのわからない。
……え? なら、欲しいもの?
再度、いつかと同じ話を持ちかけられる。
しかし、それもわからない。
わからないから、渦波についていって死んだのだから。
……わからないなら、見つけろ?
……過去を思い出せ?
そう言われても、見つけるものもわからないのに思い出しようなんてない。
けど、それがわからないと終わらないって言うのなら……努力はする。
いま、ぱっと思いつけたのは、置いてきたヴィアイシア国のことだ。妾がいなくなったあとのヴィアイシアが、ちゃんと南に勝てたのかが気になる。もしも、妾のせいで滅んでいたとすれば、それは未練と言う他ない。
あと他に思い残しがあるとすれば――、『過去』?
当たり前だが『過去』に全ての答えがあると思う。
闇の中、そう渦波に答えると、短く「わかった」と返される。
そして、渦波の存在が遠ざかっていく気がした。
……か、渦波!
唯一の理解者を引き止めようとしても、伸ばす手はない。
当然だ。もう妾に身体はない。
こうして妾は一人、闇の中に取り残される。
その後、長いような短いような時間が過ぎていき――『英雄譚』は『エピローグ』に続く。
あの裏切りから死までが『最終章』だとすれば、このあとは『エピローグ』が妥当だろう。
……ああ、そうだ。
これで妾は終わりではなかったのだ。
むしろ、これからだった。
ここから、妾の『
もはや息苦しさなど超えて、息は止まっている。
加速しすぎた人生は、恐ろしい落下速度で死を潜り抜けてみせた。
身体は滅び、この世から跡形もなく消えた。
――
まだ物語は終わらない。
思い返すだけで心が壊れる『千年の後日譚』が残っているのだ。
それは余りに長い後日譚。
長くて、長くて、もう読みたくない物語。
どれだけ早送りにしても、心を蝕む物語。
妾が狂ってまで忘れようとした物語。
けれど、その物語は確かに存在していた。
それも、妾は思い出していく……。
◆◆◆◆◆
いつの間にか、妾は座っていた。
玉座にて、いつもの王の服装で、いつものように座っていた。
唐突な意識の覚醒に困惑しながら、妾は視界に映る世界を確認する。
「ここは……」
石造の壁に並ぶ切れた蝋燭。窓からは薄らと埃を可視化する光が差し込んでいる。
背後にはヴィアイシア国を象徴するタペストリーが飾られていて、高価な絨毯が出入り口まで敷かれている。かつて居た場所と似ていると思ったが、すぐに違うとわかった。
ヴィアイシア城は年季の入った建物だ。至るところに老朽化が見て取れるはずなのに、この玉座の間は余りに新しすぎた。間違いなく、ここは造り直されている。
「もしかして、これが『迷宮』というやつか……?」
迷宮の説明は、あの闇の中で受けている。
そして、未練の濃い妾には特別な空間を用意すると、渦波は言っていたような気がする。
状況を確認しながら、玉座から立ち上がり歩く。
窓まで寄って、外の世界を見回した。
そこには、『過去』のヴィアイシアが広がっていた。
戦火に呑まれる前の世界。
確かにそれは、特別に都合のいい世界だった。
「しかし、何をすればよいのじゃ……? いや、そもそも妾はどうして死んだのじゃったか……」
妙に頭が重い。
記憶が途切れ途切れで、はっきりと昔を思い出せなくなっている。
しかし、何とかノスフィーと戦っている途中に、魔法陣に飲み込まれたことだけは思い出す。流石に、死の間際の記憶は印象深い。
死因はわかった。
自分がどこにいるのかもわかった。
しかし、余りに説明が足りなさ過ぎる。
不自然だ。目を凝らして外を見たところ、北の国々はあれど――正直、不完全で未完成としか思えない。
あの神経質な渦波らしくない。
『次元の理を盗むもの』の魔法に相応しくない。
もしかしたら、何らかの事故があって空間構築に失敗したのかもしれない。
だが、ここは確かに妾が望んだ『過去』なのは間違いない。置いてきたヴィアイシアが丸々ある。
渦波には妾にわからぬ何らかの思惑があるのかもしれない。
「ならば、妾のするべきことは……」
玉座の窓から外へ飛び出す。
暗雲の広がる空を飛び、建造物を確認していく。その途中、街中の色々な場所に光るものが落ちているのを見つける。
それは魔の結晶――魔石だった。
「魔石? そういえば、迷宮には《
適当な魔石を選び、触れる。
「――っ!」
説明を受けていたおかげか、すぐにそれの正体がわかった。
『理を盗むもの』の才覚が、魔石の使い方の当たりもつける。
「あの魔法陣に呑まれたヴィアイシアのみんなが、魔石となって散らばっているのか……。つまりこれを使って、ヴィアイシアを元に戻せということじゃろうか……? 確かにそれならば、どんな『過去』も再現できるが……」
未練を果たして完全に消失することが、いまの妾の目標だ。
しかし、自らの未練に確信はできない。
いま頭に思い浮かべれる手近な未練は、置いてきたしまったヴィアイシアだけ。
死の間際まで、それが気になっていたのは間違いない……。
だからと言って、『ここ』でヴィアイシアを平和にすれば本当に終わりになるのか……?
「いや、ヴィアイシアの平和は、妾の願いであり義務のはずじゃ……。いや、『約束』じゃったか……? 何にせよ、戻さなければ何も始まらぬ……。まずは平和。一つずつ、虱潰しにやっていくしかない」
まずは思い当たるものから解消していこうと、城の庭に落ちていた国の臣下たちを拾い集める。
そして、スタート地点の玉座の間から順番に戻そうと、魔石から再生を行おうとする。この空間に施されていた特殊な結界が反応したのを感じ取る。そして、『ここ』だけに存在する奇跡が発動する。
魔石を中心に空気中の魔力が集まっていき、仮初の肉体が構成されていく。
これが《
しかし、渦波がでたらめなのはいつものことだ。冷静にそれを見守る。
まず一人目。
側近として働いてもらっていた臣下の一人を起こす。
「ぁ、ぁあ……。こ、ここは……」
先ほど起きた妾と同じ言葉を発する。
しかし、ろくに何も考えず起こしてしまったが、この場合、臣下は『いつ』の臣下になるのだろうか。
その答えは、すぐにわかった。
「え、あ、あぁっ、ロ、『
そのまま再生すれば、直前の記憶を引き継ぐ。
当たり前だ。何も手を加えなければ、ありのままの彼らになる。
「あ、えっと、それは……」
「しかし、『
臣下は輝く目で、裏切り者の妾を見た。
驚くことに、何の説明もなく逃げ出した妾のことを、まだ彼は信じているのだ。
理性ではわかっていても、いままでの積み重ねのせいで裏切りを受け止めて切れないのかもしれない。
人の心を読むのに長けた妾は、弁解を願われているとわかってしまう。
だから、つい答えてしまう。
それは人生全てのこもった処世術だった。
同胞である魔人たちを救い、喜ばせる――そのためだけの受け答え。
「あ、ああ、当然じゃ。もう戦いは終わった。妾が姿を消していたのは、南の諸悪の根源である使徒シスとノスフィー・フーズヤーズを倒すためじゃったのじゃ……」
「ああ! やはりですか!?」
臣下の顔が喜びで一杯になる。
その表情を保つため、妾は窓の外を指差す。
「外を見ろ。もはや、『ここ』に敵などおらぬ。とうとう我らが魔人の血族は、真なる平和を手に入れたのだ。ああ、これから『ここ』は平和になる。それを妾が望んでいる以上、必ずそうなる」
戦火の消えた綺麗な町並みを見せる。
当然、そこには人っ子一人いない。
「……しかし、状況が少し特殊でな。すぐに説明しよう」
妾も完全には理解できていないものの、上に立つ者が不安を見せれば下の者に伝播してしまう。完璧な王らしく自信のある振りをして、戦いが終わったことと『ここ』がヴィアイシアの平和を今度こそ実現させる場所であることを伝える。
それは妾自身の情報の整理にもなった。
その説明を聞いた臣下は、まず自らの死に困惑した。当然だが、この死後の世界のような空間は、『理を盗むもの』のような異常者たち以外にとっては受け入れがたいものだ。
妾はその混乱を収めるのに半日かけ、さらにこの特殊な状況を受け入れさせるのに、もう半日かけた。
翌日。
なんとか冷静さを取り戻した臣下に、今後のことを話していく。
「これから妾は魔石に変わったぬしらを一人ずつ戻していく……。そして、全員揃って、完璧で幸福なヴィアイシアを再生させる。それが『
「……取り乱して申し訳ありませんでした、『
「うむ……」
こうして、妾による二度目の『ヴィアイシア』の再興が始まる。
今度の目的は唯一つ。
きっちりと最後まで見届けて、妾をきっちりと殺すこと。
今回はゴールがはっきりとしている分、気持ちは楽だ。二度目だから、事が進むのも早いだろう。
妾は玉座の間で十分な準備をした後、二人目の臣下を再生させようとする。今度も、そのままの再生で、あるがままの最後の臣下を呼ぶことにした。
もし、ここで平和だった頃の民たちだけを再生し続けたとしても、それが真の平和であると妾は思わないだろう。民たちには
重要なのは妾の未練が果たされることなのだから、誰にも記憶を弄れることは教えないつもりだ。
そして、二人目――
自意識を取り戻し、『ここ』の説明を受けた二人目の臣下は、何よりも先に妾へ叫んだ。
「――ァアアア! あそこで! あのとき、あなたが抜けなければヴィアイシアは滅びなかった! 滅びなかったのです、『
糾弾の言葉が妾を待っていた。
おそらく、一人目の臣下は戦いの早期に死んだのだろう。だから、冷静だった。
だが、二人目は戦いの終わりまで生き残っていたため、恨みが積もりに積もっていたのだ。
「……すまぬ」
謝る他に術はなかった。
正直、渦波に連れられて逃げ出したときから、罪の意識はあった。逃げたことを後悔し続けた。だから王として、贖罪をする準備はできていた。
だが、思いもしない言葉が割り込んでくる。
「待て! 確かに、あのとき『
一人目の臣下が庇ったのだ。
それを聞いた二人目は勢いを削がれてしまう。
「別の場所で……。しかし、それならばそうと言ってくれていれば、もっと別の結果があったのではないか……」
「それができぬ事情があったのだ……。そうですよね、『
どう答えろと言うのだろうか。
その重すぎる期待に応える方法など一つしかない。
「……うむ。落ち着いて聞いて欲しい。妾の話を」
そう言うと、二人目は素直に耳を傾ける姿勢を取った。
――その姿に悪寒が走る。
つまり、この男もだ。
こいつも妾を心のどこかで信じていたのだ。
それだけが救われる道だと知っているから、王の弁解を期待しているのだ。
妾は同じ話を繰り返すしかなかった。
幸か不幸か、その王として完璧な説明は、二人目の怒りを和らげるに十分な力があった。
そして、三日に入り、三人目の再生。
これもまた二日目と同じことの繰り返しとなった。
また同じ話を繰り返した。
さらに四人目、五人目、六人目と続いていき、その度に話をしては――
「――
なぜか、妾がフォローされる。
そして、一人、また一人と救われていく臣下。
なんだこれは……。
茶番にもほどがある……。
いかし、やらねばならない。全ては、妾が消えるためだ。
「ああ、申し訳ありません……。『
いつの間にか、十を超える臣下たちに囲まれていた。
そして、妾は最期までヴィアイシアに尽力した王となっていた。
「ああ……」
頷く他に術はなかった。
しかし、一度頷く度に、懐かしい重さが身体にのしかかる。
もうどうしようもなかった。
ここで本当のことを言ってしまっては、ヴィアイシアの平和の再現は難しくなるだろう。そうなれば、妾は生前の未練の一つを永遠に果たせなくなる。消えられなくなる。
それだけは避けないといけない。
だから、もう、そういうことにするしかないのだ。
「――
妾はノスフィーと戦っていたのだから許せなどと傲慢な言い訳をする。
「いえ、構いません。それを知れただけで、気持ちが晴れました。ありがとうございます、『
そして、それを受け入れられてしまう。
人は信じたいものだけを信じる生き物だと生前の経験から知っていても、それは茶番過ぎた。また、あの世界が
――次々と、妾は城の者たちを平和的に再生していく。
数ヵ月後には、かつてない穏やかなヴィアイシア城が戻っていた。
それは妾が庭師として城に仕えていた頃のように、外敵に脅かされることのない世界だった。戦時中の誰もが望み、死ぬまで求めた世界だ。
ゆえに、それは起こった。
一人の臣下が妾の前で感謝の言葉を述べているときのことだった。
「ああ、ようやく私たちは辿りついたのですね……。全ての魔人たちが目指した『楽園』へ……。ありがとうございます、『
一人の臣下がこれ以上ない笑顔を見せながら、身体を光の粒子に変えていった。
そして、その身体全てを光に変えて空に昇っていき、黒い空に浮かぶ星となってしまったのだ。余りに非現実的でメルへンチックすぎるが、死んだと表現するしかない光景だった。
「こ、これは……」
その唐突な出来事に、誰もが驚いた。
しかし、すぐにその光景の意味を妾だけは察する。
つまり、これが未練を果たすということなのだろう。
ここにいる皆は
それは目に見える希望だった。
未練さえなくせば、終われるという証明がされたのだから当然だ。
すぐに『ここ』にいる他のみんなのためというのを建前に、その粒子化の現象の詳細を調べ始めた。もちろん、本音は自分自身のためだ。
その調査の結果、空に浮かぶ星――魔石には、人格は残っていても、自我は残っていないとわかる。どうやら、屍のようなもののようだ。
さらに、
――よかった。やはり、ちゃんと考えられて『ここ』は作られておる。
『ここ』のルールが解き明かされていくにつれ、妾は自らのやるべきことがはっきりとわかってくる。
それを踏まえて、妾は蘇った臣下たちに宣言する。
「みなのもの、心配の必要はない。全てに納得したものは天寿を全うし、魂が世界に還る。それだけのことじゃ」
「納得、ですか……?」
一部の臣下は疑問の声をあげた。
すぐに説明の補完をしていく。
「ああ、簡単に言えば、心の底から幸せになったと思ったとき、そのまま終わることができるということだ。二度と無念のまま死ぬことのないように、『ここ』はそうなっておる」
もう何も心配することはないと、自分へ言い聞かせるように説明していく。
「『ここ』は
「ら、『楽園』……!」
その単語に臣下たちの間にどよめきが走る。
誰もが望んでいたものなのだから当然だろう。
それは妾の望んでいたものでもある。
「無論、それを生前に用意できなかったのは妾の責任じゃ。このような死後の楽園など本物でないと思うものもおると思う。しかし、『ここ』を地上以上の楽園にすると妾は約束する。本物よりも素晴らしい楽園にしてみせる! だから、どうかみなにも協力して欲しい! 共に『ここ』を世界で最も平和な国としよう――!」
絶対に完成させてみせる。
『ここ』こそが『楽園』であり、なにより『妾の墓場』だ。
ああ、そうだ。ずっと妾はそこに帰りたかったはずだ。
その強固な意志が伝わったのか、全ての臣下たちは両手を挙げて歓声を沸かせた。
「ああっ、『
「流石は『
「やっと! 私たちはやっと辿りつける! あの真の平和へ!!」
「誰もが目指した『楽園』へ! そこで私たちは誰にも脅かされることなく幸せになれる!!」
「我らが『
耳に痛い声だ。
吐き気がする。
しかし、いまは我慢しよう。
全ては未練を果たすため――今度こそ、完全に死ぬためだ。
「よし、そうと決まればすぐに動くぞ! 次は城の外じゃな。街の者たちを戻そうぞ! 全ては北の『楽園』を作る為に!!」
そして、臣下たちを引き連れて城下町の復興作業が始まった。
ただ、その魔石の量は城の比ではない。
長い年月をかけての作業になる。
――また一日一日、いや何年も何年もかけて、妾は『楽園』を目指す。
その途中、再生された国民に睨まれ罵られることは何度もあった。石を投げられたこともあれば、刃物で刺されたこともあった。しかし、全ては未練を果たすために、理想の王として受け入れた。
罵倒されながらも、忍耐強く謝罪し続けた。
血を流しながらも、痛みに耐えて弁解し続けた。
それでも恨みが絶えぬことは多かった。
その民の叫びは地獄の釜の底から聞こえるかのようだった。
「――ぁああっ、ああぁあ、あああアア!! 『
狂乱する民に納得してもらうために何ヶ月もかけたこともあった。
けれど、めげることなく、一日一日一人一人、丁寧に話をしていく。
ヴィアイシアの城下町が終われば、周囲の村落もだ。それが終われば、隣国もだ。『楽園』を作るには、北全てを蘇らせ、平和にしていく必要があった。
その地道な作業の結果、ヴィアイシアを中心にして平和が構築されていく。
同時に妾の名を讃える声も世界に響く。
「我らの『
顔が引き攣っていく。また表情が固まっていく。
古傷をえぐられる気分だった。
渦波のおかげで逃げ出すことのできたのに、また戻っていくのがわかった。
いや、落ちている。
また奈落の底に落ちていると思った。
この時間の加速の感覚には覚えがある。自分が削れて行く感覚だ。
落ちる速度が速過ぎて、息苦しい……しかし、今度はゴールがある。その底にもう一度行けば、死ねる。それがわかっている。だから、耐えることができる。
まだ頑張れる……――
――こうして、万歳万歳と賞賛の声が止まぬまま、
無限の期待を背負い、全身が重くて仕方ない。意識が朦朧として、時が進むのが速く感じる。落ちるかのように世界は加速していくというのに、妾は一度もミスすることなく完璧な王であり続ける。平和を作るためだけの存在となる。
また『
「――ああ、『
「ああ、こちらこそ感謝しておるぞ。幸福な民が増えることこそ、この妾の幸せじゃからな……」
何十年もの時間によって完成された処世術によって、全自動で受け答えをする。
その受け答えは完璧だ。
けれど、意識は朦朧としている。色々なものが加速していっている。
生前と同じ感覚だ。
風邪を引いているかのように、妾の頭はくらくらする。頭は鈍っていないので、そのくらくらがはっきりとわかるのが気持ち悪い。
平衡感覚は失われ、上下も逆さまになっている気分――。重力は下へ向かっているのに、暗い空の闇へ落ちてしまいそうな感覚――。徐々に徐々に、足を地面にひっつけて、ぶらさがっているような気がしてくる――。いまにも空へ落ちそうで、心が不安で一杯になる――。
気分の悪さを突き抜けて、自分が何をやっているのかわからなくなってきた。
その果てに、時々思う。
……なぜ、また妾は王をやっておるのじゃ?
わかっている。
王をやめるために王をやっている。
けれど、王をやっていては、王をやめることなどできるはずもない。当たり前のことだ。ならば、いますぐ王をやめればいいのかもしれないが。王をやめるには王をやらないといけない。
わかってはいるけれど、わけがわからなくなってきた……。
死後、限界を超えてまた何十年も王をやってしまったせいか、身体が重くて堪らない。
身体が重い。重い重い重い……。
重いのは辛い……。苦しくて堪らない……。
そして、視界が歪む。
誰もいない玉座の間で気が緩んでしまったのかもしれない。
「あ、あれ……? なぜじゃ……。なぜ、涙が……」
止まらない。
ぼろぼろと大粒の涙が瞳からこぼれ出していた。
誰かにも見られるわけにはいかない。すぐに妾は玉座の裏へ隠れた。
そこで何とか溢れる涙を止めようとする。
これは死ぬために必要なことだと、必死に自分へ言い聞かせる。
確かに辛い作業かもしれない。けれど、全ては未練を果たすまでの我慢だ。全国民への謝罪を終わらせ、北を平和の楽園に変えて、罪を償い切りさせすれば――今度こそ、憂いなく、未練なく、満足して
やっと死ねる。
今度こそ、ちゃんと死んで、終われる。
だから頑張れ。
もう少し頑張れ。
頑張れ、頑張れ……!
頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ……!!
そう心の中で繰り返しながら、溢れ出る涙を拭う。
そして、玉座の裏から完璧な『
北を平和へ導くために、今日も『
こうして、また一年、また一年、また一年経ち――……
「ありがとうございます、『
――という、もはや何を褒められているのかも聞き取れない歓声に包まれながら、
「う、ぅぅ、うぅうう……、うぅううう――!!」
また一人で玉座の裏で泣く。
民の再生にともなう呪いの声が、確かに妾の心を傷つけ――そして、その新しい傷に皆の期待の声が塩を塗りたくっているのだ。
みんなは『
その泣いている姿は誰にも見せられない。
万全を期して、城には誰も入れないようにした。
臣下や騎士たちは解職した。もう敵はいないのだからと言えば、納得してもらうのは簡単だった。いまは全ての民が、平和を堪能している。
そして、全ての国民が『
「ああっ、感謝します『
「う、ぅぅ、うぅうう……! 我慢しなければ……、これは終わるため、なのじゃ……! 終わるため、じゃがっ、ぁあ、あああ、ああああ……!!」
うるさい。
うるさくて堪らない。
妾は我慢し切れずに城を歩き出す。
どこか遠くへ。この声の聞こえぬところへ。
その一心で、迷子のように歩く。
ふらつきながら壁に頭をぶつけ、何度も転びながらも歩く。
その果てに辿りついたのは城の書庫だった。
本のあるところならば静かなはずだという考えだったが、まだ歓声は届く。もっと遠くへと逃げようとして、書庫の奥にある扉を見つける。
すぐさま扉を開けて、その中に入る。
その部屋は――『保管庫』だった。
保管されていたのは絵画。
このヴィアイシア城の主である『
王冠を被り、翠の髪をなびかせ、誇り高き表情を見せる王。
それは他者から見た自分の姿。最も認めたくない自分がそこにあった。
「あ、ぁ、ぁあああ……!! ぁあああアアっ、ああああああああああぁああああアアアア――!!」
悲鳴をあげる。
けれど、いまだなお歓声は届く。
もはや限界だった。
全自動で王らしく動いていたはずの身体が、激情のままに暴走し始める。
「――
手当たり次第に絵画を掴んでは、地面に叩きつける。その完璧な表情を見せる絵画の自分を爪で引き裂いていく。高価な額縁ごと折って、壁に向かって投げては壊す。
荒らして荒らして荒らして、何もかもをバラバラにしてやった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ! ひゅうっ、はぁ、はぁっ!!」
息苦しい。
化け物じみた体力はあるのに、なぜか息が切れる。
空気を吸っても吸っても、水の中で溺れているかのように苦しい。
「ひゅ、ひゅうっ! ――ひゅう! はっ、はっ、はっ!!」
なぜだ。
こんなにも吸ってるのに。吐いているのかもわからないほど吸ってるのに、まるで息苦しさが消えてくれない。むしろ、肺の中の空気が抜けていっている気がするほどだ。
苦しい。
ああ、息苦しい。
このままでは……、壊れてしまう……。
自分を失い、『
同じことを繰り返し続けて、わけがわからなくなってきた。
いまはいつじゃ?
どれだけ妾は頑張った?
いつから王をやっておる?
そもそも、いま妾は
地上では、妾は何歳で死んだのじゃ?
「あ、あぁ、ぁああ……」
グールのように呻きながら、保管庫から出る。
丁度よく、ここには書庫がある。
妾のことが書かれた本を探して、読む。
それはヴィアイシアの歴史書と『
読んでいくうちに手が震えた。
今日まで生きてきた人生の重さ――いや、その中身のない軽さに驚愕したのだ。
英雄譚の始まりの年と死没した年を計算することで、出てくる答え。
それは――
そんな馬鹿な……。
わ、妾が百歳を超えているじゃと……?
そんなはずあるものか! この身体は!
あの日から、何も変わっていないのじゃぞ!
なのに、あのお爺ちゃんお婆ちゃんよりも年上になったのか!?
あの二人よりも大人!? 信じられぬ!!
いまでも妾は、あの人たちに泣きついて甘えたいというのに!!
「ぁ、あぁああぁ……、あぁあ……」
わけがわからない
妾は百歳のお婆ちゃん……?
その実感がない。
まだ自分を子供だと思ってる。
自分が自分でないような時期が長かったせいだろうか。ああ、間違いなく、例の時間感覚の加速のせいだ。まるで、時間を飛んだかのような気分だ。
そして、恐れていたことが深刻であると理解する。
妾はティティーという名の少女だというのに、『
じゃりじゃりと不快な音を立てて、存在そのものが食われている。
妾が妾でなくなってしまう。
それが気持ち悪くて、堪らない。
素肌に肉食の虫が
「ああ、あああぁ……、ぁあ、あああぁあ゛アアアアア゛ア゛ア゛ア――!!!!」
く、狂ってしまう。
身体も心も死ねぬというのに、壊れてしまう。
そうなってしまっては未練は果たせない。
それだけは駄目だ。
駄目だ。どうにかしないと――
「そ、そうじゃ! 渦波に教わった『詠唱』ならば精神に干渉できる……。『詠唱』を少し変えれば……、『代償』とやらでこの気持ち悪さを取り除けるかもしれん……」
もう正気でなかったのかもしれない。
手を出してはいけないとわかっているものに、妾は手を出してしまう。
「――『私は歩む道を選ばない』『私は風』。『世界全てを歩き続ける』『そう願ったのを覚えてる』――」
風の『詠唱』は心を軽くするものが多い。
心を軽くする――それは心を削ぐということに他ならない。
肉よりも大事な心を、ナイフでごっそりと落としていくのだ。
まともなものであるはずがない。
しかし、いまの妾には必要だった。
妾のまともでない部分を削ぐのに、どうしても必要だった。
そして、妾は『詠唱』を昇華していく。「私」でなく「妾」を殺ぐため、自分のための『詠唱』を考える。
自分のために、自分だけのための言葉で、自分の全てを表すことこそ『詠唱』の真髄であると妾は知っていた。
「――か、『加速する』」
自然と口に出た。
それがいまの妾そのもの。
それを口に出して、妾の身体から全て出し尽くしたかった。
「『加速する』、『加速する』『加速する』『加速する』。……『妾は加速する魂』」
心の底から人生を紡ぐ。
その『詠唱』によって、あらゆるものが軽くなっていく。
耐え難い不安と恐怖から、一時的にだが解放されていく。
「あ、あぁ、あはっ、はははは……! うんっ、『加速した』! ううんっ、もっと『加速する』『加速する』『加速する』――! 『加速して、全て終わってしまえ』! 『速く、もっと速く』『加速しろ』! 『加速して頭をぶつけてっ』『死んでしまえ』! 『速く終われ』! あは、あははははははは――!!!!」
あんなにも重かった身体が羽のように軽くなったことに歓喜する。
とても大切なものを削っているのはわかっている。
けれど、とても楽になれるのだ。
狭い箱の中で生きているような感覚が消えて、確かに広い世界を生きている気がしてくる。息苦しかった肺の中に、確かに澄んだ空気が滲みこんでいる気がしてくる。
ああ、気持ちいい……。
禁断の快楽によって、少しだけ自分を保てるようになる。
こ、こうするしかないのだ。
『代償』よりも、狂ってしまうことのほうが怖いのだ。
だから削って削って、恐怖は忘れよう。
じゃないと、妾が
いまは消えることだけを考えるしかない。
そのための手段は問うな。
未練だ。未練とやらを果たせば、それで終われるのだから、何を『代償』にしても構わない。
どうせ、いつかは消えるのだ。
妾も『ここ』も、何もかも。
削って何が悪い。
軽くして何が悪い。
「『加速して、加速して、加速して』……、死のう……。早く消えよう。きっとあと少し……、あと少しなのじゃ……」
消えるためなら、何でもしよう。
そう言葉にして、妾は書庫を出て、城からも出る。
そして、いつもの日課を行う。
もう大丈夫だ。
苦しくなれば風の『詠唱』をすればいい。
再生と『代償』を繰り返していけば、いつかは終わる。
――終わる。
だから今日も民を再生していく。
再生と謝罪、説得と感謝を続ける。
平行して国の再興させ、完全なる平和を創造する。
『詠唱』を呟きながら、それを義務のように繰り返す。
繰り返しては繰り返し、繰り返しては繰り返し、繰り返し、繰り返し繰り返し繰り返し――。比例して、時の進みが『加速』していき――。繰り返し加速して、加速して、繰り返して加速して加速して――。余りに同じことを繰り返し続けたせいで、世界が早送りのように感じて――。けれど、そのおかげでやっと――
――
十万に届く北の全国民に謝罪しきり、その全てに納得してもらい、世界が平和へと至った。
完璧だった。
恨みを持つ人など一人もいない。
もちろん外敵など一つも存在しない。
理想の北の国々となったのだ。
これ以上は何も求めようがない。
『
「――ああ!
城に集まってくれた人たちへ宣言する。
そして、帰って来る歓声。
もう何を言っているのかもわからない。
妾の名前を呼んでいることだけはわかる。
――「『
妾を洗脳するかのように、名前だけが頭の中を反響する。
もちろん、城だけではなく城下町にも知らせに行った。
周辺の町も、偏狭の村も、北と同盟していた隣国にも赴いた。
宣言して回った。
それと同時に民の半分は消えた。妾は笑顔でそれを見守る。
ただ、残った人たちのためにも、魂のなくなった
こうして、北の国々は平和を謳歌する。
少しずつ民は空に還っていく。
とても順調だ。
けれど、なぜだろうか。胸騒ぎがする。
妾の『理を盗むもの』の力が一向に減らないのだ。
「ああっ、納得しました――! 私たちは『
「この平和な世界こそ、俺たちの目指した国……! 『楽園』……!!」
「満足です。最後にこの平和を目に収められて満足です……」
胸騒ぎに襲われている間も、目に見えて魂持ちの民は減っていく。
残り少なくなっていた民が一人、また一人と空へ還り、眠りについていく――
――そして、妾に確認できる範囲でだが、とうとう民の全てが星となった。
「あ、ああ……。やっと……、終わった……?」
城の高台から、魂の抜けた民の歩き回る城下町を見下ろす。
もう一度、国を目に入れる。
穏やかな世界が広がっている。
戦いに心を脅かされることなく、ただ平和を享受するヴィアイシアが『ここ』にある。
そして、その国に残っているのは妾だけ。
魂の濃すぎる妾が一人、ぽつんと城に一人だけとなった。
「あ、
達成感よりも先に、虚無感に襲われる。
『ここ』こそ、妾の念願の『楽園』だ。
生前、どれだけ頑張っても手に入らなかった宝物のはずだ。
しかし、おかしい。
何も感じない。
全く『理を盗むもの』の力が減っていない。
皆のように笑顔で消えていける気が、ちっともしない。
未練を果たしているという実感がないせいか、一瞬だけ頭に『最悪』がよぎる。
これが終わってしまえば、次にやるべきことは思いつかない。
未練とやらを果たす手段がゼロになる。
もしかしたら、このまま妾だけ――
妾だけ――?
「――ひゅっ、ひゅう! はぁ、はぁあ、はあっ、はぁっ!! ――『加速する』『加速する』『加速する』! 『妾は加速する魂』!!」
息が止まりかけた。
しかし、『詠唱』することで、その『最悪』を振り払う。
そんなことありえない。
たぶん、時間が足りないのだ。
妾の他にも、完全消失するのに時間がかかっている者はいる。生前に魔力との適応力が高かった者たちだ。彼らがまだ残っている。そして、妾は適応力で言えばトップクラスだ。普通の人たちよりも、もっと平和を堪能しないといけないのだろう。
「は、ははっ……。そうじゃ。そうに決まっておる……。ははは……」
だから――ほら、もっと感じろ。もっと笑え。もっと楽しめ。
平和じゃ。これが妾の未練なのじゃろう?
誰が欲しがっていたのかなんて忘れてしまったが、ずっと目指していた平和のはずじゃ。
だから、笑え、妾……。満足するために……。
もっと笑え……。
妾は城から出て、城下町に繰り出す。
妾の作り上げた最高の国を、もっと堪能するために。
だって、『ここ』こそが『楽園』。
百年かけて手に入れた私の宝物なのだから。
「――た、たから……、もの……? ははっ、これが妾の宝物……?」
口にしながら、自然と語尾が震えた。
輝いているか……?
この色さえついていない世界を、宝と言えるか……?
賑わう城下町。多種多様な魔人たちが行き交っている。物騒な武器防具を身につけたものは一人もいなくて、誰もが何の不安もなく笑っている。老若男女関係なく、生活に苦しむこともなく、永遠に続けるのことできる平和を謳歌している。
ただ、そのほとんどの中身が抜けている。
全く中身のない平和。
その事実に、呆然と妾は立ち尽くす。
そして、中身のない一人の子供が、全自動で役割のまま、気さくに話しかけてくる。
この平和な世界では王様とだって気軽に触れ合えるのだから、とてもいい話だ。
だが、多くの魂を見送ったいまとなっては――
「どうしたの、王様!? 顔色が少し変だよ!!」
「あ、ああ……。そう見えるか……?」
「もっと笑おうよ! もう私たちは誰とも戦わなくてもいいんだからさ!」
空っぽの人形が笑っている。
しかし、そこに魂はない。
だから、気味の悪さしか感じない。
「ははっ、そうじゃな……。確かにぬしの言うとおりじゃ……」
この娘が人形ならば、それに笑い返す妾は何だ?
これでは一人で
「んー……、なんだか元気なさそうに見えるねっ。王様の喋り方ってお婆ちゃんみたいだから、疲れて聞こえるのかな? ねえ、王様も私みたいに喋ってよ! なら、自然と元気になると思うよ!」
「いや、しかしな。妾は王として――」
「王様は王様だけど、もう厳かにすることなんてないよ! だってここは平和なんだから!」
娘は両手を広げてみせた。
確かに、その通りだった……。
ここにいる妾は、もう……。
「そ、そうだな。確かに、もう王らしくする必要はないな……。もう誰とも戦わなくても、いや『ここ』には、もう他に誰も……――」
「うん! 平和なんだよ!」
「そう平和となってしまった……」
「そう! 全部、王様のおかげ! それに、もし何かあったっとしても王様が何とかしてくれるからね!」
「あ、ああ、それはもちろんじゃ……!」
念を押されるように、王であることを確認されてしまった。
人形さえも、妾を期待している。それは余りに怖いことだった。
「んー。その、じゃって言うの禁止!」
「それはもちろん……、だよ……?」
「そうそう!」
喋り方を変えるくらいは構わない。
どうせ、何の愛着も……――なかったか?
それも思い出せない。
『ここ』で余りに長い時間を過ごしたせいか、もう生前を思い出せなくなってきている。
当たり前だ。また百年経ったのだ。
子供の頃の愛着なんて……、余りに遠すぎる……。
「王様! 私と一緒に遊ぼう!」
「あ、ああ……。そうじゃな……。それも悪くない」
いや、もう考えるな。
平和を堪能すると、さっき決めたはずだ。
それが未練の可能性は高い。
いつだって、妾の心にはこういう『平和な世界』がこびりついていた。
だから、もっと遊ぼう。
この平和の中、この子供たちと遊んでいれば、きっと満足できる。
妾も納得できる。
みんなと同じように消えられる。
消えられるのだ。
消えられないとおかしい。
消えられるに決まってる。
だって、いまの妾はもう、他の未練なんて見当もつかない。
だから、これで消えるしかないのだ。
絶対に消えられる。
そう信じて――
――『ここ』での生活が
時間の感覚は麻痺どころか、完全に壊れた。
昨日が十年前のように感じられて、十年前が昨日のように感じる。
それでいて、唐突に百年前のことを思い出したりして、だけどずっと変わっていない姿のせいか、それが昨日のように思えてくる。もうわけがわからない。
時が過ぎていく速度が速まる。
それは落下に似た加速。ころころと坂を転がり落ちるかのように、もう一度、一人分の
また繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し……『加速』し続けていく――
「――ねえ。大丈夫、王様?」
馴染みの遊び友達が、毎日のように妾を心配する。
「だ、大丈夫だよ……。だって、
それに笑い返しながら、心の隅で思うのだ。
――
何度も何度も心の中で「まだ?」と繰り返すせいか、毎日顔色が悪い状態だ。
そう。毎日。
二百年、毎日毎日毎日、毎日だ……!!
ああ、もしかして、このまま消えることもできず、本当に永遠に苦しむことに――
――そ、そんなことない!
だ、大丈夫だ。
いざとなったら地上へ行けばいい。
ちょっと暇を持て余してたから、表の迷宮に続く扉を探したら、すぐに見つかった。そこを通って、上を目指せば、地上に――
――『ここ』を置いて、行ってどうする?
地上は『ここ』と違って、都合のいい作りにはなっていない。
ただただ理不尽な世界だ。
誰も彼もがいがみ合い、周りには敵ばかりで、いつまでも終わらない戦いを続ける。
それが本来の世界。
そんな世界を歩いて、妾が人助けを我慢することはできないだろう。そして、この『理を盗む力』がばれてしまえば、またどこかで戦わされる羽目になるのは間違いない。一度でも集団の中で一番強いとわかってしまえば、また必然と期待されてしまう。
その果て、また王になってしまう可能性は高い。奢りでも何でもなく、そう確信できるだけの力が
それに、もしかしたら地上では
同じだ。
地上に行っても、また同じ終わりを迎えるだけ。
それは嫌だ。
別に皆が悪いと思っているわけではない。
だって、人は期待する生き物なのだから
仕方ない。
だけど、嫌なものは嫌だ。
だから地上じゃなくて『ここ』でどうにかするしかない。
『ここ』でどうにか納得して、未練をなくせば……――
そう思って、また繰り返し続けて。
繰り返し、繰り返し、繰り返し繰り返し加速して繰り返し加速して加速して繰り返し繰り返し繰り返し加速して加速して加速して加速して繰り返して――
――そして、
妾は今日も城で目を覚まして、平和なヴィアイシアを歩く。
もう日課となった……いや、もう全自動の行動だ。
……少し前、この状態をどうにかしたいと思った。
けれど、もうそれもどうでもよくなってきた。
だって、考えると苦しい。
だから、遊ぶしかない。
今日も子供のように遊ぼう。
それはとても楽しいのだから。
「――あははっ、ロード様! さすがぁ!」
「ふふっ、でしょー? もっともっと
王である間にはできなかったことをするのは楽しい。
遊んで遊んで遊んで、遊んでいれば少しだけ救われる。
「ねえ、ロード様! 一緒にお絵かきしようよ!」
「いいよ! 童ってば、絵は得意だからね!!」
『ここ』で子供として生きるのは悪くない。
よくはないけど、悪くもない……。
だから、これで構わない。
「できた!」
「おっ、うまい! ねえ、ベス。それはお父さんとお母さん?」
「うん、私の大切なパパとママ。あとこっちは……」
「わかった。ヴォルスの爺さんだ!」
「うん、大好きなお爺ちゃん!」
「それで、王様のほうは?」
「
「へえ、これが王様の家族なんだ……」
「童の大切な家族。お爺ちゃんとお婆ちゃん、それに弟も……」
「うわぁ、綺麗なところだね」
綺麗?
目がぼやけているせいか、自分の描いたものもわからない。
色のない白黒な世界どころか、線さえもはっきりわからない。
妾は何を描いた?
こんな状態で、どんな綺麗なものを描けたというのだろう。
『ここ』に足りないものが、そこにあるのならば知りたい。
けど、加速していく世界のせいで、それを見ることすら――できない。
「あ、せっかくだから額に入れようよ! お爺ちゃんの屋敷にあった気がする!」
「ふふふー! それならば
「いいの!?」
「もちろん!」
いや、もうそれもいい。
何も考えたくない……。
疲れた……。
休みたい……。
『ここ』は綺麗だ……。
『楽園』と言っていい……。
間違いなく、いつか妾の求めていたところと似ているところには辿りつけたと思う……。
いや、それどころか、その上位互換。
『綺麗な宝石』の世界と言えるだろう。
完璧な『楽園』だ。
ならば、もうこれでいいだろう……。
これ以上はいい……。
――
諦めてしまった。
妾が妾であることを放棄した瞬間だった。
それにより、時間感覚の加速は、もっともっと加速していく。
加速に加速が重なり、どこまで早く早く世界を落ちていく。
『加速』し続ける世界。
――そして、さらに
変わらない日々を過ごした。
繰り返し続けた。
もう時間を感じ取ることもできない。
時の崩壊した世界で、今日も妾は無邪気に笑う。
もはや、習慣や処世術ではなく、それが妾そのものとなってしまった。
魂の伴わない『
「今日も平和だね。ロード様」
「ああ、童の国は今日も平和……! この平和な国で『庭師』として働くのが、とても
「楽って、もー……。もしかして、ロード様、さぼってる?」
「さ、さぼってないよ! 人聞きが悪い!!」
「でも、いつもロード様って遊んでばかりだし……。大人なのに……」
「皆がそういうから、こうやって道を綺麗にしてるんでしょ! こういうお手入れは得意なんだから! プロも顔負けなんだよ!!」
「ふふっ、そうだね。ロード様のおかげで、こんなにもヴィアイシアは綺麗!」
「でしょ! こんなにも『ここ』は綺麗!」
…………。
……………………。
………………………………。
……疲れた。
何も考えたくない。
こうして、加速して加速して加速していく中――
『ここ』ならば永遠も悪くないと思い始めていた。
何も考えず平和に遊ぶ
そうすれば、妾も全自動で動く人形となる。
みんなと永遠に平和に生きられる。
永遠もあれば流石に消えられるだろう。
永遠でも駄目ならば、結局何をやっていても無駄だったってことだ。
なら、もうこれで全部解決。
これ以上、どうしろって言うのだ。
間違いなく、解決した――つまり、終わりだ。
これが終わり。
妾の終わり。
ああ、ろくな人生じゃなかった。
王として戦って生きて、何も得られず死んだ。
死後も王として奔走して、何も得られず孤独となった。
最初の百年でわけがわからなくなって、次の二百年で自分が壊れて消えた。
三百年経てば、もはや人が生きていい許容範囲を超えてしまい、子供に還ってしまった。
四百年の頃は、とうとう世界を認識することも出来なくなった。
五百年に届いたとき、もはや生きているとは言えない存在になった。
六百年から先は、記憶さえ残っていない。生きてさえいないのだから、何も残っていない。
もう妾に中身などないだろう。
魂はあれど、風化して全く動いていない。
世界を認識できないから、眠ったあとのように、いつの間にか時間だけが過ぎていく。
余りに早い日々。
その早さに自意識が追いつかなくなる。
時は崖を落ちていくかのように加速して、加速して、加速して、加速して、加速して――
――そして、地の底にぶつかる。
けれど、まだ死ねない。
消えられない……。
…………。
……………………。
………………………………。
この奈落の底は整然としていて綺麗だ。
だから、いつか『ここ』なら妾を優しく消してくれると信じている。
こうして、さらに
平和な『ここ』で、遊んで、笑って、楽しく生きる。
ただ――
――ときおり正気に戻るのが辛い。
ずっと壊れていたいのに、思い出したかのように自意識が戻るときがある。
そのとき、いつの間にか過ぎ去った年月に驚愕し、怯え、震え、子供みたいに泣きそうになる。もう誰もいない城の中、玉座の裏で泣いてしまう。
もう泣きたくなんてない。
悲しいのは嫌だ。
ずっと笑っていたかっただけなのに……、なんでこんなことになったんだろうか……。
妾が望んだのは、そんなに大層なことだっただろうか?
こんなにも大変なものだったのだろうか?
妾が欲しかったのは……――
ただの『石ころ』だったはずなのに……。
もう、その宝物は――
――
◆◆◆◆◆
――
そして、
「ぁあ、ああぁあああ、ぁああ、あああああぁアァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――!! あぁっぁあアァアアア゛アァッアアッア゛ア゛アアア゛――――!!!!」
それを思い知らされ、一時的に妾は夢から現実に戻ってくる。
渦波の魔法《
その魔法の力は凄まじかった。
渦波と出会うまでの妾の記憶――その物語を見せられてしまった。
ああ、あれは妾の人生だ。
人生っ、ろくでもない人生っ!
死にたくて消したくて、なかったことにしたいけれど、そんなことはできない人生!!
リセットしたくともできない!
その終点が『ここ』だ――!!
千年かけて作った平和なヴィアイシアを妾の手でぶち壊し、世界は虚無となった。
まだ『ここ』で妾は、さらに加速し、さらに底へ落ちていっている。
また奈落に向かって走り続けている。
あらゆる加速が止まらない!
「カァ、ナァアア、ミィイイイイイイイイイイイイイイイイイ――!!!!」
呪うかのように過去を思い出させた相手の名を叫ぶ。
目の前で妾の胸に手を入れている黒髪黒目の男を睨む。
なんて!
なんて嫌な
ああっ、なんて凶悪な魔法! なんて卑劣な攻撃!
身体が心がっ、いや、魂が引きちぎられる! 幻痛だけで気が遠のく!!
あああ、ああ、あ、あああああああアアアアアア――!!
「もう見せてくれるな、渦波!! 妾が狂っておることなど、もうわかっておる! わかっておるわ、そんなことぉおおオオオ! ――だから! いま、ぬしとライナーを必要としておるのじゃろうがあああああ!! 消えるためっ、『ここ』に足りないものを少しでも補おうとしているじゃろうがあああああ――!! 納得するためにぃいいいっっ、ああぁ、ぁあああああああああアアアアアアアアアア――!!」
叫ぶことで、意識をはっきりとさせようとする。
しかし、魂に刻まれたダメージは誤魔化せない。
やはり、妾にとって、王として生きた記憶は『傷』だ。最も触れられたくない『古い傷』だ。その『古い傷』をえぐられたことで、魂が悲鳴をあげている。
魂に深手を負ったことで、身体が死の間際と判断して変異を始めだす。
それは理を盗むものたちが死ぬことで発生する『呪い』。
『呪い』だが、間違いなく最強の力。
「ぁあ、ああぁあああ、ぁああ、あああああぁアァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――!!」
風の繭の中、羽化するかのように妾は『
まず、魔法の擬態が溶けていく。
風を凝縮して作っていた翠の翼が掻き消え、みすぼらしい自前の翼が露になる。
その翼は酷使し過ぎて、もう飛べないほど傷だらけとなっていた。
続いて、モンスターとしての特徴が前面に出てくる。
耳と手足から羽毛が生え出し、新たな羽となっていく。
その姿を伝説の『翼人種』と勘違いした人もいた。伝説の『
似たモンスターの名を挙げるならばハルピュイア。
正確に魔人名で言うならば
そう。
妾はどこにでもいるハーピィ混じり!
魔物とのハーフ! ただの魔人獣人! 伝説的な何かなんて何もない!!
だが、それでも妾は『
それでも妾は伝説の翼人種で! 天の御使いで! 伝承の再来!
そう――、なって――しまったのじゃ!!
「渦波ぃいいイイイイイイイイイイイ――!!」
『
その力を使って、妾の魂を掴んでいる敵へ反撃に出る。
最も無防備なところに触れられているせいで、少し動くだけで激痛が走る。
しかし、目の前の男への怒りがそれを凌駕する。
ああ、なんてなんてなんて! なんて魔法を妾に叩き込んでくれた!!
渦波は卑怯だ! 相変わらず、卑怯な戦い方をする!!
こんなものが戦いだとは認めぬ! 妾は認めぬ!!
ゆっくりと妾は両腕を、目の前の渦波の首に伸ばす。
そのとき、ずっと歯を食いしばっていた渦波が、妾の咆哮に負けぬぐらいの声で叫ぶ。
「――動くなぁああああっ! まだだ! まだ僕の魔法は終わってない! ここからだ! ここから先が大切なんだ!もっともっと先へ帰るぞ!! 一緒に帰るぞっ、ロードォオオ――!!」
何を言っている。
先などない。
帰る場所もない。
だから、『ここ』なのだ。
『ここ』が終わりなのだ。
もうどこへも行けないのだ。
「もっと先ぃいいい!? 帰るじゃと!? どこへ帰ると言うのじゃ!? 『ここ』が妾の全てじゃろうがあ!!」
「違う! 『ここ』が全てじゃない! おまえにはおまえをここまで保ってくれた過去があるんだ! その未練が、確かに過去にあるんだ! それをおまえは忘れているだけだ!! ああっ、『理を盗むもの』になってしまったせいでっ、その罪の『代償』でっ、失っているんだよ!!」
「な、何を!!」
――何を馬鹿なことを言っている。
そう言い返そうとした言葉が、渦波の顔を見て途切れる。
目の前の敵も、妾と同じ表情をしていたのだ。
歪み苦しみ、魂から悲鳴をあげている。
そして、その苦悶の理由を妾はわかってしまう。まるで『繋がり』があるかのように、敵である渦波の内情を知ることが出来た。
いま、渦波は苦しんでいる。
その理由は妾の人生の追憶を、魔法をしかけた本人である渦波も行ったからだ。
ゆえに、ここにいる渦波は誰よりも妾の人生を理解している。
渦波は理解者――そんな生前の言葉を思い出す。
記憶を失った渦波が『ここ』に落ちてきたとき、もう誰も理解してくれる人はいないと思った。渦波は全てを見なかったことにして、『ここ』から逃げていくのだと思った。――許せなかった。
けれど、
渦波は過去と向き合い、妾を理解しようとしている。
もう過去から逃げださないため、記憶を取り戻そうとしている。
『繋がり』から、その決意が伝わる。
それだけじゃない。
妾に放った魔法《
やろうと思えば、妾を即死させることは可能だっただろう。
けれど、渦波はそれを選択せずに、共に追憶することを選んだ。
世界で一番大切な妹の命を削って、自らの大切な未来さえも削って、この壊れた妾に手を差し伸ばしているのだ。
渦波の首へ伸ばした手が止まる。
そして、渦波の言葉を繰り返す。
「わ、妾の未練じゃと……?」
過去にあったはずの未練。
もっと先とはどこだ……?
いまの記憶よりも先ということか……?
それは『
ヴィアイシアという国ではなく、もっと別の場所。
王でもない庭師でもない――もっと昔!
それはつまり、子供の頃。
ああ、いつでも妾はそれを知っている。本能が望んでいる。
子供であることは素晴らしいと――いつだって、そう思っていた。
それはなぜだ?
「もっと先……? あ、ぁあ、ぁあああ……!!」
目のかすみ具合が強くなる。
いや、光だ。
魔法による追憶の光が、妾を呑み込んでいる。
孤児院よりも昔。
その先の世界は、いまの老いてしまった妾の目には眩しすぎた。
けれど、その眩しさは目に痛くはない。
それどころか心地よい。
暖かな光だ。
それは妾の英雄譚に記されていない時間。
けれど、確かに妾の人生の中にあった時間。
思い出そうとしても、遠すぎて影も形もつかめない。
日にすれば千万にも届く昔、久遠の彼方の記憶。
まるで夢幻のように儚くて、幽かな情景。
けれど、それは存在していた。
確かに存在していたのだ。
それをいま、やっと妾は思い出しかける。
……確か。
あれは、草原だ。
そう。そして、その草原の横には切り妻屋根の家があったはずだ。
そこに妾は――いや、
それを思い出したとき、時の進みが停滞していく。
どこまでゆっくりと遅くなっていく。
あんなにも加速していた世界が、子供の頃はこんなにも遅かったことを思い出す。
世界が色づく。
あの光の向こうにあるのは、翠――ではなく草色。
一面の草原だった。
ああ、もっと見たい。
渦波、見させてくれ。
その魔法で思い出させて欲しい。
『理を盗むもの』となってしまった妾を助けてほしい。
あの『楽園』を。
あの『綺麗な石』を。
あの――、素晴らしき妾の
「――、――っ! ――――!!」
そして、渦波の魔法を心の底から受けいれたことによって、遠くから声が聞こえた。
とても年季の入った……しわがれた声だ。
光のまどろみの中にいる妾は、その声を拾っていく。
それは生まれたばかり赤子が、反射的に母の指を握るのに似ていた。
「――お、おぉ! 婆さん、起きたようじゃぞ!」
鼓膜を揺らすのは家族の声。
忘れていた声。
けれど、その独特な喋り方は、覚えている。
忘れまいと、ずっと大事に持っていた。
ああ、確か。
その声のぬしは。
いや、その声のぬしたちは――……!!
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