207.光の理を盗むものとの遭遇
暗い――
暗い水底を歩いているような気がした。
そこは余りに深すぎて、全く光の入ってこない領域。指一つ動かすのも一苦労で、一歩進むのに何秒もかかる世界だ。
だからすぐに僕は身体の力を抜いて、水の中を漂うことにした。この暗く重い世界の中を、自分の意思で進んでいくのは難しすぎた。
少しずつ身体は浮力によって、上に昇っていく。上へ上へと昇り、少しずつ光が水の中に差し込んでくる。
その光の中には様々なものが映っていた。
氷の張った湖面の上に立つ黒髪の少女――薄暗い地下室で蝋燭の明かりだけで暮らす黒髪の少年――万をも超える書に囲まれながら
ここで自分が夢を見ているのだと気づく。
そして、目に映る全てが古い記憶なのだということもわかる。
少し前に同じような夢を見た。あのときは過去の記憶の整理が行われた。
今日もそれと同様の現象が起きているようだ。
使徒レガシィによって、継承失敗した始祖カナミの記憶の欠片たちが蘇っていく。
身の『魔力』の上昇を切っ掛けに、記憶が修復されていっているのは間違いない。水底から浮かんでくる泡のように、一つずつ一つずつ記憶が還ってきている。
その記憶群の中から一つ、選び取る。
本能的に僕が選んだのは、いま最も僕と縁深いやつとの記憶。
彼女との出会いの記憶――
映るのは――無数の民たちに歓待され、凱旋する翠の髪の少女。
獰猛そうな巨大な獣の背に乗り、何千という兵士を従え、賞賛の嵐の中を突き進む若き王の姿。
その無数の民たちは全て獣人だった。そして、その街がヴィアイシアに似ているということに気づく。僕も知っているヴィアイシアにある大通りを、翠の少女を中心に戦争に勝利してきたであろう兵の列が進んでいる。
――これが僕とロードの出会い。
歓声をあげる民の中に四人の旅人が紛れている。
なぜか魔法で変装をしていたが、その全員の名前はわかる。
金髪の女性は使徒シス。黒髪の少女は陽滝。最年少の少女はティアラ。そして、仮面の少年が始祖カナミ――僕だろう。
なぜか全員が猫耳と猫尻尾をつけていた。
この時期、北は獣人だけしか入れなかったのかもしれないが、そのチョイスから僕の独断的な趣味を感じ取る。何を馬鹿なことをやっているんだと過去の僕に呆れた。
だが凱旋パレードの中に佇む僕の眼差しは真剣だ。
真剣に、翠の少女――ロードを遠目に見ている。
いまの僕が知っているロードと違い、その翠の少女は尊厳と気迫に満ち溢れている。
いつもの質素な服ではなく、上等な絹の服を着込み、その上に並々ならぬ技術で打たれたであろうぶ厚い鎧を身につけている。頭の上には盛りだくさんの宝石をあしらった王冠が乗っていて、彼女が王であることを周囲に誇示している。もちろん、街娘のような尻尾頭は解かれ、気品溢れる翠の長髪を空に浮かせている。そして、その背中の翼を隠すことなく、悠然と広げていた。
その姿を見て、誰もが彼女を絵画に遺すに相応しい人物だと思うだろう。
――ああ、なんて立派な王だと。
それほどまでに、ロードの顔には一分の隙もなかった。
当然のように勝利を持ち帰り、民の大歓声を涼しげに受け止める姿。まさしく、王の中の王。女王であるはずなのに、まるで性別を感じさせないほどにロードの顔は凛々しく、気高く、孤高に、憮然としていた。
その王を、民衆にまぎれた『使徒』と『聖人』が評する。
「……えぇ、あれが『狂王』? 確かに、そう呼ばれるだけの風格はあるみたいだけど。……ティアラの目から見て、あれ、どう思う?」
「なんだかすごい人気だねー。南では『狂王』って呼ばれているけど、こっちでは『統べる王』様なんだね。えっと、噂って当てにならないなーって思った!」
使徒シスは肩に乗せたティアラに問うと、とても明快な答えが返った。それを聞いた使徒シスは「その通りね」と苦笑する。
「これからは国を超えての噂は信じないようにしましょうか。まさか、北の王様がこんなに美人だとは……――」
そして、妹の陽滝が話に続く。
だが途中で言葉は濁る。隣にいる兄――つまり始祖カナミの様子が変だったからだ。
始祖カナミはロードを『注視』していた。
「どうかしましたか、兄さん?」
心配そうに陽滝は問いかけ、それに始祖カナミは答える。
「いや、想像と違ったからびっくりして……」
「想像以上に美人でしたか?」
少しすねたように陽滝は返す。
「いや、違うって! そういう話じゃないって!」
「では何が違ったのですか?」
「なんだか……、あの王様、苦しそうだ。いまも、誰かに助けを求めているような気が……」
真剣にロードを見つめていた始祖カナミの評価は、いまの僕と同じだった。
ロードという少女は、いまも昔も変わらず苦しんでいて、ずっと助けを求めていると――そう思った。
だが、その大真面目な話に対する仲間たちの反応は酷かった。
「ああ、またですか。美人を見たら、いつもそれを言ってませんか?」
「はあ、盟友の悪癖には困ったものね」
「師匠、またぁ?」
その物言いから、いつも美人を引っ掛けていることがわかる。
いま僕は迷宮の奥底で苦労しているというのに、この始祖カナミは一体何をやっているのかと腹が立つ。いや、この始祖カナミも自分だとはわかっているのだが。
「いや、だからそういう話じゃなくて。本当にそう見えるんだって……。けど、相手は北の帝国の王様だからなあ……」
「絶対駄目だよ、師匠。私らは流れの旅人、それも正体を明かせない身なんだからさー。あのかっこいい王様に近づいたら、私ら北にいられなくなるよ?」
食い下がる始祖カナミだったが、周囲の反応は冷ややかだった。そもそもロードが助けを求めているとは思っていないようだ。
「いまやるべきことは、ただ一つ。『魔力』の収集だ。それを間違えてはいけないよ、盟友」
聖人と使徒に宥められ、始祖カナミは渋々と頷く。
「ああ、わかってる。わかってるさ……」
その中、一人だけ――陽滝だけは一言も喋ることなく始祖カナミの顔を窺っていた。その仮面の裏にある表情まで見透かそうと、その黒い瞳を向けている。
そして、王の凱旋は進んでいき、始祖カナミたちはロードの姿を見失う。
王が通り過ぎたあとも民の熱狂は収まらない。
その喧騒の中を四人は歩いて離れていく。結局、始祖カナミの話はなかったことにされ、極力ロードには近づかないことになった。
――そう。
初めての出会いは、すれ違っただけ。
そして、それを深く後悔したことを、よく僕は覚えている。
確か、始祖カナミとロードが協力し合うのは、もっとあとの話のはずだ。
陽滝が化け物になり、使徒シスやティアラと離反したあとだ。
だから、出会いの夢は一度ここで途切れる。
また僕は水底のような夢の中へ戻されてしまう。
水の中は少しずつ光で満たされていっていた。この光が水の中全てを満たしたとき、僕の夢は終わるのだという予感があった。
夢が終わる前に、できるだけの記憶を取り戻そうと僕は必死にあたりを見回す。
そして、次に僕が見つけたのは――城壁に囲まれた館の中を歩く少年少女の記憶。
その少年少女の髪色は黒く、とても長かった。
一瞬、二人が誰だかわからなかった。しかし、その顔を見れば名前は間違えようはなかった。
始祖カナミとノスフィーだ。
今度は、この二人の出会いの記憶のようだ。
ただ、どちらも僕の知っている姿と少しだけ違っていた。
ノスフィーは変わらず、フリルのついた黒い服を着た美少女だ。違いがあるとすれば、髪の色だけだろう。いまより、少し色素が薄いように感じる。ただ、元々全ての色を内包しているかのような色だったので、余り気にならない。
始祖カナミのほうは、胸元あたりまで伸びた黒髪に変わっている。いまの僕よりも、『世界奉還陣』から現れた最期の身体に近い。年月が過ぎたことで、髪が伸びたようだ。
その髪の長さから、先程のロードの出会いから、かなりの時間が経っていることがわかる。おそらく、妹が化け物となってしまい、使徒シスに復讐するため単独行動している時期だろう。確かノスフィーの話では、一度使徒シスに負けた僕は自失状態になっている。そのときの光景なのかもしれない。
始祖カナミの生気のない虚ろな目がそれを証明している。
まるで夢遊病患者のように敗北者である始祖カナミはふらふらと歩く。それをノスフィーが横から抱えて手助けしている。
話には聞いていたが、改めて見ると酷いものだ。それが自分の姿であることを信じられなくなるほどに。
「……渦波様、こちらでございます」
煌びやかな調度品の並んでいる館の回廊を二人は歩き続ける。
何度も転びそうになる始祖カナミを、ノスフィーは何度も抱えなおす。
そして、たった二人で歩き続け、館の中にある広い部屋の一つに入っていく。
中央には同時に二十人は使えそうな長いテーブルがあり、その上に二人分の食事が用意されていた。
「今日の朝食です。さあ、一緒に食べましょう」
ノスフィーは甲斐甲斐しく始祖カナミの世話を焼く。
二人だけで使うには広すぎる部屋だ。
床には美術館に飾ってありそうなきめ細かな模様の絨毯。天上には魔石造りの豪華なシャンデリア。壁には縦幅十メートルはある絵画がいくつも並んでいる。正直、金をかけすぎて趣味が悪いと言うほかにない部屋だ。
金持ちであることを喧伝するためだけに存在する部屋のようで、そして、その部屋にたった二人しか人がいないというのは奇妙だった。
「美味しいでしょうか? わたくしが早起きして作ったのです。渦波様の好きな料理を、たくさん……」
答えは返ってこないとわかっていても、ノスフィーは語りかけながら、スプーンでスープをすくって始祖カナミの口に運んでいく。
焦点の合わない目を彷徨わせながらも、何とか始祖カナミは食事をしていった。
痛々しい光景だった。
始祖カナミの悲惨な状態以上に、ノスフィーも見ていられない。
ずっと微笑が張り付いてはいるものの、乾きに乾ききっている。
始祖カナミと過ごす時間が嬉しいのだろうか、少しだけ頬は紅潮している。だが、その嬉しさを超えて余りある悲しみがあることも確かだった。
笑っているのに、いまにも涙が零れてしまいそうなほど目が潤んでいる。
泣きそうな微笑のまま、ずっと食事の世話をし続けている。
その途中のことだった。
「あっ、口元に……」
少し体勢を崩してしまい、始祖カナミの口の横にべちゃりとスープがついてしまった。
それを見たノスフィーは手を伸ばす。しかし、すぐに動きを止める。
薄らと張り付いていた表情が深まっていく。
喜びと悲しみの比率はそのままで、感情が膨らんでいっているのがわかる。
そして、何度も始祖カナミの頬に触れようとしては、手を引っ込める。
数分ほどの時間をかけて躊躇と決断を繰り返した結果、最後にはテーブルナプキンで口をぬぐった。
同時に涙が零れる。
とうとう僅かにあった喜びさえも消え失せたのだろう。、悲しみだけに囚われたノスフィーは目じりを下げてしまい――少女の黒瑪瑙の目からぽたりぽたりと涙を零した。
「
空を見上げ、呟かれる言葉は父という言葉。
その言葉の意味はわからないが、とても大事なものであったことは声色からわかる。
ただ、それを見ても始祖カナミは何も言わない。動かない。反応すらしない。
その事実に、一層と少女は悲しむ。
目を逸らしたくなる記憶だ。
けれど、これがノスフィーと僕の出会い。間違いなく、これが出会いだ。
夢であるとわかっていても、その少女の涙を止めるべく、自分の腕を伸ばしたくなる。
だが届かない。
もうこれは終わってしまったこと。過去のこと。
だから、ぽたりぽたりと落ちる涙の音は止められず、ついには……――そのときだった。
ぺちゃりと、僕の頬を湿った何かが触れる。
(――――!?)
僕……だけど、それは夢の中の始祖カナミの話ではない。夢を見て眠っているほうの僕の感覚だ。その刺激によって、ノスフィーとの出会いの記憶は中断されてしまう。
投石された水面のように、記憶は霧散してしまった。
…………。
このあとがとても大事な
もっとノスフィーとの記憶の続きを見たかったが、霧散してしまったものは返ってこない。
ぺちゃりぺちゃりと伝う生暖かい感触と共に、夢の水の中は光に満たされていく。徐々に夢から覚めていくのを実感する。大事な記憶変換の時間を邪魔され、寝起きの苛立たしさに似た感情が膨らむ。
そして、その目に痛いほどの明るい光は、僕の重い瞼を持ち上げさせて――
――完全に意識を覚醒させた。
◆◆◆◆◆
目が覚める。
瞼を持ち上げると同時に見えたのは、昨日とほぼ同じ光景だった。
鼻と鼻が触れ合う距離にノスフィーの顔があり、その黒瑪瑙の瞳が寝ている僕を映している。
ほぼ同じ光景――だが、違う点が少しあるが……その少しが致命的過ぎた。
昨日と違い、ノスフィーは寝ている僕の上にまたがり、その小さな口からピンク色の舌を伸ばして、僕の頬を舐めていたのだ。
ぺちゃりと唾液の伝う音が聞こえ、つーっと舌が這っている。
「――っ!?」
その状況を理解したとき、咄嗟にノスフィーを突き飛ばそうとする。
しかし、身体は動かない。ガタッと音が鳴り、両腕と両足に痛みが走っただけだった。
自動発動した《ディメンション》と『感応』が自らの状態を把握する。
いま僕は大きめのベッドで大の字に寝転がっていた。そして、両手足を魔法で出来た煌く紐のようなもので縛られている。よく見ると、右手の紐はベッドの裏を通り、左手の紐に繋がっている。両足のほうも同様だ。
力任せに動くだけでは抜けられない拘束となっている。
「……おはようございます、渦波様」
舐め続けるのを中断したノスフィーが起床の挨拶を笑顔で飛ばす。
「ノ、ノスフィー――?」
夢の中で聞こえたぺちゃりという音と生ぬるい感触はノスフィーの仕業であったことはわかった。しかし、わけがわからない。この状況に陥っている理由がわからない。直前に甲斐甲斐しいノスフィーの姿を見ていたせいか、酷い落差を感じる。
「お、おいっ、ノスフィー! 何を考えて、こんなことを――!」
困惑の極みの僕はノスフィーに強く問う。
「はい。
しかし、彼女は大して動じることもなく、僕の頬を撫でるだけだった。
「いや、よく考えてっ、なんでこんなことになるんだ! いいから、すぐにこれを解いてくれ!」
縛られた腕を動かしながら解放を要求するが、返ってきたのは頬を赤く染めた顔の首振りだった。
そして、僕の要求を放り捨てて、ノスフィーは自らの要求だけを言葉にする。
「か、
口で確認は取ろうとしているが、僕の答えを聞いていないのは丸わかりだった。何が構わないのかもわからない僕の頬を撫で、首筋を人差し指でなぞり、鎖骨を五本の指先でさする。淫靡な熱い吐息と共に、ノスフィーの顔がまた近づいてくる。
少しずつ、いまのノスフィーが何をしようとしているのがわかってきた。
その推測が当たっているのならば、それは余りに唐突で、余りに非常識で、余りに不潔だった。
「ええ、わたくしたちは元夫婦なのですから……! 夫婦の間柄ならば、何もおかしいことはありませんよね……? ねえ、渦波様……!!」
「まさか――!」
ノスフィーのしようとしていることを理解する。
僕の研ぎ澄まされた感覚――『感応』でも全く予兆を感じられなかったほど、それは予想外だった。
まずい。
とにかくまずい。
戦闘で感じる死の予感とは別物だが、確かにそれに比類する悪寒が背中に走る。
「ずっと異世界で……、それも迷宮に閉じ込められていたのですよね……? ならば、色々と困っていたはずです。その性欲をわたくしで発散させることだけ考えて頂ければそれでいいのです」
ノスフィーの発言から確信した。
理由や経緯はわからないが、この栗色の髪の少女は『そういうこと』を僕としたがっている。一瞬で自分の顔が引き攣ったのがわかった。
そして、頬が赤く染まる――のではなく、青くなる。
目の前の少女は美しい。ラスティアラと比類するということは、僕にとって考えられる限り最高の美しさと言ってもいいだろう。
透き通るような肌には染み一つなく、その栗色の髪は一本一本が蠱惑的に揺らめき輝いている。咲く白磁色の花が全てを吸い込むかのような魅力だ。
そして、その黒瑪瑙の瞳は、親しみ深い元の世界の人間を思い出させる。もし、彼女が僕の世界にいたら、アイドルやモデルの
その美少女過ぎる
普通ならば、戸惑いながらも少しは喜ぶところだろう。それが男子として正常な反応のはずだ。なのに、いまの僕が感じているのは興奮どころか、恐怖だった。
酷い言い草になるが、生理的嫌悪感すらある。
なぜだかわからないが、ノスフィーにだけは手を出してはいけないと思った。
たとえ、何があろうとも――
無論、常識的な判断として、この状況が犯罪的でもあるとわかっている。
だから僕は、ゆっくりとノスフィーを一般論で説得しにかかる。
「お、落ち着け、ノスフィー……。そういうのは好きな人同士がお互いの了承のもとでやるものであって、出会ったばかりの僕らがやることじゃない。それくらい、おまえもわかるよな……?」
しかし、止まらない。ノスフィーは眉をひそめながらも、這わせる手を動かし続ける。
「……お互いの了承があればいいのですね。では、渦波様、いま認めてください。これが一方的なものでなく、愛ある育みであるということにしてください。ええ、いますぐ」
「いますぐって……、この状況でか!?」
「ええ、いますぐです。――《ライトナイフ》」
にっこりと笑って、ノスフィーは魔法を唱える。とても切れ味のよさそうな包丁に似た刃物を光で生成し、それを僕の首元にそっと添える。
「刃物を突きつけるな! そういうのはお互いの了承って言わない!」
「あ、すみません。どうしても、癖で……」
「――癖!?」
爪を噛む子供が叱られたかのように恥ずかしがって、光の刃を消した。その手馴れた脅しに僕の混乱は加速するばかりだ。
「お願いします。後生ですから、わたくしの未練を果たさせてださい……」
「待て……。本気で落ちついてくれ。こんなのが未練だって言うのか……? 本当に?」
「はい、きっとわたくしは『証』が欲しいのです。『友達』だなんてものでは、全く心は晴れてくれませんっ。やはり、わたくしには渦波様しかいません! だから過波様との『証』が欲しい! 確かにわたくしと渦波様が繋がっていたと言える『証』っ、わたくしが使命を果たしたと言える『証』っ、その『証』さえあればわたくしは、きっと――!!」
とうとうノスフィーは似合わない叫び声をあげる。
勢いで押し切られるのが恐ろしく、僕も叫び返す。
「けどっ、僕を縛って、強引に襲って、これが正しいってノスフィーは思うかっ? 本当にこれでいいのか!? ありえないだろ!!」
僕の怒気を孕んだ声に晒され、ノスフィーは少しだけ勢いを削がれる。
「正しいなんて思うわけありません……。しかし、正しいことをやっているだけでは駄目だと言ったのは渦波様じゃないですか……」
「そういう意味で言ったんじゃない! 少なくとも、こんなことをして欲しくて言ってない!」
このまま何とか押し切ろうと叫び続けるが、すぐにノスフィーは意思を固め直す。
「なら、どういう意味だったのです……!? わたくしにとって、渦波様は絶対正義で完璧な存在でした! その渦波様が自らの言葉をぶれさせるから、わたくしは困惑しているのです! わたくしはあの素晴らしい渦波様に近づきたかった! 昔もいまも近づいて触れたいと思い続けています……! ええ、やはり、それだけがわたくしの未練……!! それは、わたくしの後悔でもある……!!」
叫びながら、ノスフィーの顔が近づいてくる。いまにも僕の顔に、彼女の小さな唇が触れてしまう。
もはや、言葉の投げ合いをしている場合ではなかった。
このままだと為すがままになると感じた僕は、最終手段である魔法を発動させる。
「――魔法《ディスタンスミュート》!!」
次元の壁をすり抜ける魔法《ディスタンスミュート》。
その力は攻撃が全てではない。少し前、鍵開けに使ったように、その使用用途は幅広い。腕全体を覆うのでなく、一瞬だけ両手足に展開して縄抜けを行う。
その慣れない強引な魔法構築により、ごっそりと魔力が失われる。錐で穴を空けたかのような痛みが頭に走る。だが、このくらいならばいつものことだ。
平静を保って、自由になった両手を使ってノスフィーに掴みかかる。
ノスフィーは光の縄による捕縛に自信があったのだろう。その反撃に対応できず、身体を入れ替えられ、ベッドに叩きつけられる。
そのまま、僕は部屋の外へ逃げようとする。
「渦波様! ――魔法《ライトスタッフ》!!」
しかし、窓を含んだ全ての出入り口に、光の棒が格子のように組まれる。その全ての光に馬鹿げた魔力がこめられているとわかり、足を止めざるを得なくなる。
まともに逃亡しては背後から捕まるだけだとわかり、身体をノスフィーに向け直す。
「ノスフィー! いまはそれどころじゃないだろう!? せめて、僕が記憶を取り戻してからにしろ! おまえだって、千年前のノスフィーのことを覚えている僕のほうがいいだろう!?」
ゆらりとベッドから立ち上がりながら、ノスフィーは微笑み続ける。
「ええ、わたくしも最初はそうしようと思っていました。順番で言うならば、わたくしの未練は最後に解決すべきですから……。だから、まず地上へ戻り、妹様を助け、ロードを救い、ゆっくりと渦波様の記憶を取り戻してから、わたくしの想いをぶつけようと思っていました。ええ、いまでもそれが正しいと思います。間違いなく、それが最も正しい道でしょう――」
「なら、なぜそうしないんだ……!!」
思った以上にノスフィーの受け答えは理性的だった。
いままでの会話にならなかった敵たちと比べると、その差は歴然だ。しかし、それが逆に恐怖を加速させる。つまり、ノスフィーは冷静にこの状況を選んだということだからだ。
「けど、ロードと渦波様を見ていて気づいたのです。いや、千年前も思っていたことです」
淡々と喋るノスフィーに混乱は見られない。
最初に言ったとおり、全ては熟考の末の行動であることがわかる。
そして、この理性ある暴走の理由をノスフィーは告げる。
「
「――な!?」
泣きそうな顔で、にっこりと笑って、短く理由を告げた。
その極めて明快な理由に、僕は言葉を失う。
もっと複雑で怪奇な理由を身構えていただけに、それは予想外すぎた。
「千年前――大人ぶっている内に、わたくしは何もかもを失いました。あのとき、せっかく渦波様を手に入れるチャンスがあったというのに、わたくしはそれを逃してしまった。正しいことをしなさいと教えられていたから、ちゃんと正しいことをしていたら、最後に残ったのは『死』と『後悔』だけでした。その結果に、わたくしは納得がいかないのです。善いことをした者に善いことが返ってこない世界。善いことをすればするほど不幸になっていった人生。そんな終わり方に納得など、できるはずがありません――」
その訴えは、未練として真っ当過ぎた。
人が生きる最中、よくある話過ぎた。
そこへ死した者の言葉の重みが加わり、手の付けられない叫びとなっている。
簡単に「違う」とは言い返せない。安易な慰めもかけられない。
言葉を失うしかなく、ノスフィーの心の叫びだけが続く。
「大人になって生きることで、損をすると言うのなら。
震えるノスフィーは、おそらく僕とロードを羨んでいる。
彼女の生来の性格からか、妬みといった黒い感情は一切なく、単純に羨んでいた。
だから、単純に真似をしようとしている。
そして、僕は理解する。
それは自らの勘違いの積み重ね――昨日の一連の騒動で最も心揺らいでいたのはロードでなく、目の前にいる少女だったということを理解する。
いま、ノスフィーは崩れかけている。
その心の根元から、折れかけている。
「ええ、ロードの言うとおりでした。流石は誰よりも大人だったロードです。よく人生というものをわかっています。いい子ぶっているだけでは何も変わりはしない……。正しいことをしているだけでは幸せになんてなれるわけがない……」
その心から漏れ出る原液にも似た掠れた声に圧され、動けなくなる。
ノスフィーを説得しようとしていた僕が、逆に説得され返されてしまうほどだ。
「正しくあれ正しくあれと教えられっ、教えられた通りに正しく生きて正しく生きてっ、最期には正しいまま死んでしまってっ! やっとそれに気づきました! 正しくあれなんてそんな言葉、教えた人の都合でしかありません! ええっ、薄々とわかっていました! 正しい人ほど不幸になるってことくらい!!」
正直に言って、ノスフィーの言っていることはよくわかる話だった。
それは必死になって生きた人ほど報われないという話。
どれだけ頑張っても、世界は無慈悲な結末ばかり用意するという話。
なぜか悪人ほど罰されることなく幸せに生きて、善人ほど死の運命によって罰されるという話。
心当たりがありすぎて、否応なく、その勢いに飲み込まれる
一歩も動けない僕にノスフィーは近づいてくる。
それを拒否できない。
なぜなら、
そこに悪意はない。もちろん、敵意もない。あるのは親愛だけ。
払いのけるには、綺麗過ぎた。
「だから、わたくしは思うのです。ええ、いまこそ、正直に申します。
ずっとずっとわたくしは――
そして、『光の理を盗むもの』の未練が明かされる。
幸せを求める少女の至る答えは、余りに
恨むかのように、自らの生きてきた全てを翻す。生涯の誇りすらも翻しているのがわかる。しかし、そうしなければ、もう息をすることもできない――それがよくわかる表情だった。
「間違いを犯して、間違いを犯して、間違いを犯し続けてでも、
いつの間にか、『
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