4章.私と貴方がここにいる証明

131.プロローグ


 魔石船『リヴィングレジェンド号』の甲板で、僕は静かに吹き流れる潮風を目一杯まで吸い込む。鼻腔をくすぐる潮の匂いが爽やかで心地良い。


 濃い青空がどこまでも続き、真っ白な太陽が放射線状に光のレースを広げている。丸い日輪が空に1つ、そして海へ反射して10余りほど輝き乱れる。


 水平線まで続く大海原は、空よりも少し薄い青色だ。水色よりは濃く、青色よりは薄い、空色とは違う綺麗な海の色。海のキャンバスの中には、まばらに黒に近い青や、独特な藍色が不規則に塗られている。おそらく、海の深さによって色が変化しているのだろう。自然界にしかない芸術を超えた色遣いだ。


 銀色の魚が海面を跳ねる。遠くの空に白い鳥が羽ばたく。

 静かなさざなみの音に、海上の音楽が鳴り響く。僕はそれを目を瞑り、耳を通してゆっくりと自分の中に染み込ませる。


 安らぎを感じる。

 何に追われることなく、何に囚われることなく、何もせずに目を瞑る。


 それだけで、世界はこんなにも優しい。

 しかし、僕の胸中は穏やかではない。正反対だった。


 不安になるような速度で心臓が脈打つ。

 息苦しさと共に、口内炎が痛む。

 心なしか肌が荒れてきたような気がする。

 目のくまの濃さが深まり、疲れを隠せていない。


「胃が痛い……」


 心の底からの一言を、僕は青い空に呟く。


 そして、よろめきながら僕は甲板にある木製の手すりへもたれかかる。

 睡眠をろくにとれなかったせいで、身体がふらついていた。


 本土へ向かう航海は順風満帆だ。

 しかし、対照的に僕は疲弊しきっていた。


 心底から疲れた。

 今すぐ手すりを乗り越えて、入水したくなるくらいだ。


 なぜ、僕がここまで疲弊しているのか。

 それは船旅の初日に遡る。


 まず、マリア、スノウ、ラスティアラと続く仲間たちとの約束の清算。そして、狭まっていく死の包囲網。自分の素性を明かしたことで発生した問題。船という閉鎖空間に男一人という窮屈さ。仲間たちからの過剰なスキンシップ。納得いかない連合国での僕の立場。敵船の迎撃で不本意に高まっていく名声。目的とモチベーションの不一致。迷宮探索の難航。なかなか辿りつけない四十層。

 そして、僕は――


 ――極めつけに、一番の悩みの種となっている少女と出会ってしまった。


 どこか見覚えのある白髪白皙の儚げな少女。


 見覚えのある顔つきなのは当然だろう。なにせ、彼女の材料もととなったのは――



◆◆◆◆◆



 グリアードの港へ出て、僕たちはようやく何にも追われない自由な時間を手に入れる。


 僕とリーパーで船の航海を安定させたあと、ラスティアラ主導で船の部屋割りを決めていく。

 各々が自室へと入っていき、『舞闘大会』の疲れを癒そうとする。


 僕は備え付けられた白いベッドへ倒れこみ、部屋の天井を見つめる。


 ローウェンを見送るだけでも大仕事だったというのに、ラスティアラのせいで賭場カジノ荒らしまで重なってしまった。

 今日はゆっくりと休息を取ろうと思い、目を瞑ろうとしたところでノックの音が響く。


「カナミさん……、いますか?」


 マリアの声だ。


「……大丈夫。入ってもいいよ」


 予期せぬ来訪に驚いて立ち上がる。

 僕はマリアを自室の中へと招き入れた。


「すみません。すごく疲れているとは思いますけど、少しだけ時間を私にください」

「いや、気にしなくていいよ。ぜんぜん平気だから」


 マリアは真剣な表情で話を始める。

 僕は気を遣わせないように、元気であることをアピールする。

 別に嘘ではない。体力が限界なのは確かだが、それは戦闘ができないという意味でだ。話をするだけならば何も問題はない。


 そう。

 話だけなら問題ない。

 ここでマリアが目の光を失って戦闘でも始まらない限りは、アルティばりの火炎魔法で船が炎上でもしない限りは、ディアとかラスティアラが混ざっての乱戦にでもならない限りは大丈夫だ。


 今、僕たちはパリンクロンへ反撃するために一致団結している。そんなことは起こりようがない。絶対に大丈夫――と自分に言い聞かせつつ、僕は腰に下げた『アレイス家の宝剣ローウェン』を確認し、スキル『感応』を全開にして、マリアの話を聞く準備を終える。


 よし。

 マリアの話を聞こう。


「それで、何か話でもあるの? マリア」

「はい、大事なお話です……」


 大事なお話らしい。

 震え出す身体を抑えつけ、僕は笑顔を保って話す。


「……大事な話なら僕もあるよ。今なら大丈夫だから、ゆっくり話そう」


 僕はマリアの様子から、話の内容を感じ取った。おそらく、僕とマリアの話は同じだろう。

 連合国に居る間は切り出せなかったが、今なら時間はたっぷりとある。


「あの聖誕祭の夜、アルティと一緒にカナミさんと戦ったときの話です」


 マリアは顔をうつむけながら、話を切り出す。


「ああ……」


 僕も同様に顔を暗くする。

 あの日の戦いは、お互いにとって深い精神的外傷トラウマを残している。僕もマリアも、深層心理ではなかったことにしたいと思っているはずだ。――だからこそ、僕たちは顔を上げて、あの日のことを思い出す。


「あの日、私はカナミさんを裏切りました。受けた恩を仇で返し、カナミさんの命さえも奪おうとしました……」


 ぽつりぽつりとマリアは話す。

 後悔で顔は歪み、体中を震わせていた。ただ、僕も同じような顔をして体を震わせていることだろう。


「気にしなくていい、悪いのは僕のほうだ。あの日、言っただろ? 君は僕のたった一人の家族に似ていた。だから僕は君を金で買い上げて、傍に置いて、贔屓して、自己満足の道具にした。相手のことなんて何も考えず、恋心なんて聞かなかったことにして、マリアを傷つけ続けた。その報いだよ」

「いいえ、カナミさんは何も悪くありません。奴隷を救い上げ、傍に置き、優遇した。……誰が聞いたって、どこも悪くありません、むしろ、善行だと思います。奴隷のことを考えず、恋心を聞かなかったことにした。……これは、普通です」

「ふ、普通っ?」


 僕の渾身の主張を、マリアはざくりと斬り捨てる。


「カナミさんは人が好過ぎます。他人の愛には応えるのが当然だなんて思ってそうですが、実際は逆です。世の中、気づかない振りをしたり利用したりする人のほうが多いです。厄介だと思って無視するのもよくあることですよ。相手が奴隷なら、なおさらのことですね」


 淡々とした様子で、マリアは僕と真逆の価値観を話す。

 その冷淡な恋愛感がマリア特有のものか、それとも異世界では一般的なのか、僕には判断がつかないため言い返せない。


「それなのに、カナミさんは罪悪感から「私のものになってもいい」「死んでも構わない」とまで言いました。馬鹿です。本当に大馬鹿です……」


 僕は思い出す。

 アルティの『試練』に追い詰められた僕は、全てをマリアに賭けようとしていた。


「ああ、確かに馬鹿なことをたくさん言った気がする……。けど、追い詰められたら、僕なんてあんなものさ。もし、マリアが僕の代わりに最深部へ行くと誓うなら――妹のことを約束してくれるなら、それでもいい。今でもその気持ちは変わらないよ」


 本当はよくない。が、僕は嘘をつきたくなかった。

 ゆえに、理性と感情の間をとって、判断をマリアへと委ねる。


「……もう、私に『目』はありません。だから、カナミさんが嘘をついているかもわかりません。私はあなたを信じるしかないんです」


 マリアは僕の言葉を嬉しそうに受け止め、悲しそうに歩み寄ってきた。

 そして、頭部を僕の胸へと預ける。少しの間を置き、両手を僕の腰へとまわして言う。


「私はカナミさんの代わりになんてなれません。だから、カナミさんを私のものになんてできません。なにより、もう必要ないんです。だって、カナミさんは私に言ってくれました。「もう一人にしない」「置いていかない」って――。私はそれを信じます」

「ああ、もう一人にしない……、絶対に」


 マリアは契約を拒んだ。

 信じられないから拒むのではなく、信じているから拒んだ。


 そこにマリアとの絆を感じた。

 打算と条件で繋がる契約よりも、遥かに尊い絆を彼女は選んだ。

 マリアは僕の傍を離れ、顔を上げる。そこにはもう、悲しげな顔はない。


「これで安心しました。カナミさんは無駄に律儀ですから、私のものになってるつもりかと思ってました。繰り返しますけど、カナミさんは誰のものでもありませんからね」


 いつものマリアの顔だ。

 かつての空虚な顔でもない。絶望に染まった顔でもない。

 迷宮探索を二人でやっていたときのマリアに戻っていた。

 僕もかつてのように笑顔となる。


「ああ、そうだな。僕は誰のものでもない」

「ふふふっ、そうです。逆ですよ。あえて言うならば、私がカナミさん・・・・・・・のものなんです・・・・・・・


 マリアは良い笑顔で話を反転させる。

 いつものマリアに戻ったものの、聞き捨てならない言葉だった。


「ま、まて、マリア。今、とても良い感じに話が終わりそうだったろ? こう、人はみんな、誰のものでもないってかんじでさ。だから、僕は誰のものでもないし、マリアも誰のものでもない。それで話を終わらせるのがベストじゃないか?」

「いえいえ、それとこれとは話が別です。カナミさんに罪なんてありませんでしたが、私には罪がたくさんあります。 実際、カナミさんを殺す気満々でしたよ、私」

「うん、全部許してるから。それはもういいよ――」

「――ええ、それは絶対に許されないことです。だから、私はその罪を償わないといけません。家を燃やし、土壇場で裏切り、殺しかけたなんて、並大抵のことでは償えませんね。どうすればいいでしょう? 仕方ありませんので、私の全てを差し出すしかありませんね。ええ、そうすることでしか罪を償える気がしないのですから、そうする他ありません。奴隷なんて立場をも超えて、アイカワ・カナミの完全なる所有物になるしかありません」

「今、許してるって言ったじゃん……」

「そうですね……。もう『ご主人様』は嫌ですから、『所有者様』とでも呼びましょうか?」

「人の話を聞け……! マリアに罪はない。だから、誰かのものになるなんて言わないでくれ」

「罪はない? ……カナミさん、冷静にお互いの罪を比べてみてください。どう考えても、私のほうが罪深いです。第一、元々この案はカナミさんの案ですよ? カナミさんが最初に、身を売って妹さんを助けようとしたんですよね? 自分は良くて、私は駄目なんですか? ああ、また例の贔屓ですか。これからも私とは対等になってくれないつもりなんですか?」

「わ、わかった。贔屓しない。対等に扱う。だからもう勘弁してくれ……」


 マリアの急な反撃に僕は降参する。

 それを見たマリアは溜飲が下がった様子で話す。


「そういうことです。いきなり、あなたのものになりますって言われても困るだけなんです。それを忘れないでくださいね。放っておいたら、数日後には違う誰かへ同じこと言ってそうですから。カナミさんは」

「わかった。軽はずみなことは言わないようにするよ……」


 どうやら、今の無茶な話は僕の行動を戒めるためだったようだ。

 その旨を理解し、僕は頷く。正直、軽はずみな発言には覚えがありすぎる。


「ええ、気をつけてください。でないと、私の好きな人が、いつの間にか違う誰かのものになってる事態になります。そうなったら、私死んじゃうと思います」

「……え、えっと、冗談だよね?」

「いえ、冗談じゃありませんよ。ちなみに、先ほどの話も9割9分ほどは本気です。たとえ『所有物』となっても傍にいたいと思っています。もう一時も離れたくないんです。……私はカナミさんのことが大好きです。もう、何もかもばれているので何度でも言いますよ。いいですか? 私ことマリアはアイカワ・カナミを大好きです」

「は、はい……」


 余りにも直球過ぎる告白に、僕は敬語になってしまう。

 もうわかっていることとはいえ、平時に仕切りなおされて言われると照れるものがある。


 それはマリアも同様だった。

 笑顔のポーカーフェイスを張り付けたままだが、それでも僅かに耳が赤くなっている。


 かつての僕なら、その赤色に気づこうともしなかっただろう。


 けれど、今の僕ならわかる。

 話を反転させ、延々と嫌味を言い続けているのは、全てマリアの照れ隠しだ。弱いところを見せたくないがために、強く見せようとするのが癖になっているのだろう。


 不安になればなるほど、不遜な態度をとる。好かれたい相手の前になると、可愛くないことしか言わない。他人への甘え方が、致命的にひねくれている。

 それがマリアだ。


 その姿は少しだけ僕の心に傷をつけた。

 マリアがそうだとすれば、アルティという女の子もそうだったはずだ。ローウェンと違い、アルティとは最期まで理解し合えなかった。

 今となっては、それが大きな後悔として残っている。


 きっと、あの最期まで不遜だった女の子は、おそらくずっと――


 僕は顔を歪ませる。

 それを見たマリアは慌てた様子で言葉を足す。


「え、えっと。それで……、実のところ、私の本題はここからなんですが……」

「あ、ああ、わかってる」


 あの戦いを乗り越え、マリアは素直になろうとしているのがわかる。

 僕もマリアも、隠し事をしないと誓ったからだ。


 マリアは直球に直球を重ねる。


「それで、カナミさんのほうは私のことをどう思ってますか……? 贔屓や罪悪感は除いて言ってください。カナミさんは、あれだけのことをした私を、本当に傍へ置いてくれるのですか……?」


 僕はマリアの質問に懐かしさを感じた。

 かつて、迷宮の中でアルティとラスティアラに似たことを聞かれた。けれど、そのときは即答できなかった。誤魔化してしまった。


 今度こそ、僕はマリアに伝える。


「もちろん、傍にいてくれたら嬉しい。僕もマリアのことが、す、好きだからね。……ただ、異性として愛しているとは言えない。やっぱり、心のどこかでマリアを妹と重ねているんだと思う」


 卑怯な言い方だと自分で思う。

 普通ならば拒否したも同然の返答だろう。けれど、マリアは満足そうに微笑んだ。


「……いえ、十分です。私にとっては、十分な言葉です」


 彼女はわかっていた。僕の「妹と重ねている」という言葉は最上級に近い好意だということを。

 僕はマリアの目を見て、告白を続ける。


「傍にいてくれたら嬉しい。もう一人にしない。嘘だってつかない」


 呼応するかのように部屋の温度が上がる。

 頬を焦がすような、ちりちりとした魔力がマリアからうねり溢れる。


 マリアは溢れ出る熱を抑えながら、赤くなった顔を背けて言った。


「……ありがとう、ございます」


 僕も微笑んで、マリアの頭に手を置く。

 マリアは心地良さげに手の感触を噛みしめる。まるで猫のように身をよじらせた。


 これで僕たちの関係は元通りだ。いや、それ以上の絆で結ばれたと思う。

 贖罪とトラウマというネガティヴな要素での繋がりかもしれない。けれど、確かに血の繋がりにも近いものを感じることができた。


 僕はマリアを撫でながら、今後のことを伝える。

 

「マリア……。明日にでも、僕の全てを話すよ」


 これからの戦いには相互理解が必要だ。

 特に心の隙を突いてくるであろうパリンクロンには必須と言ってもいい。だからこそ、僕は異世界のことやスキルのことを、仲間の全員へ伝えようと決めた。


「カナミさんの全て……」


 マリアは断片的にしか僕の異世界の事情を知らない。

 その全てを聞けるとわかり、真剣な表情で頷いた。


「ああ。ただ、今日はもう夜遅いから明日にしよう。明日、みんなを呼んで纏めて話そう。これは、マリアにだけってわけにもいかないからね」

「はい、わかりました」


 マリアは晴れやかな顔で了承する。

 ずっと溜まっていた澱みを吐き出し尽くしたかのように、今までにない表情だ。

 僕も、ずっと掛け違っていたボタンを直せたような安心感がある。


 そして、マリアは「今日はこれで」と言っては部屋から出て行こうとする。

 扉を開け、出て行く寸前。別れ際にマリアは話す。


「……カナミさん。正直なところ、「カナミさんのもの」になる程度では、罪を償いきれないって私は思っています。だから、残りの分は少しずつ返していこうと思います」

「言っておくけど、僕もマリアと同じことを考えてる」


 僕はマリアの失った両目を見ながら返す。

 お互いがお互いへの贖罪を望んでいた。

 マリアは歪な絆を再確認して、いつかと同じように別れの挨拶を告げ合う。


「それじゃあ、お休みなさいませ。――私の所有者様・・・・・・

「――嫌味だ」


 しかし、いつかと違い、僕たちに鬱屈な感情は一つもない。気の許せる友人を相手にしているかのように冗談を叩く。

 いつの間にか、身体の震えは止まっていた。


 本当の意味で、僕とマリアは仲間になったと思える瞬間だった。

 今日までの戦いが報われていく。そんな気がした。

 充足感で満たされていく。


 だが、長くは続かない。およそ、数十秒ほどの間だけの充足だった。


 すぐに次のお客様が、マリアと入れ代わりでやってくる。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る