目を閉じればなんだって見えてくるよ

武蔵山水

目を閉じればなんだって見えてくるよ

序章に代えて


"そうだわ 忘れたらたいへん!

目を閉じなきゃ

さもないと

何も見えないのよ"

ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』


第一章 不思議ではない存在者について


次の電車までまだ後、五時間もある。こんな片田舎に来るんじゃなかった、と俺は眼前の景色を目の当たりにしそう思ったが後の祭りである。仕方がねぇから改札を抜けた。しかし不思議なものでこの駅には改札なんぞはないのである。いや、正確に表現するなら改札機といった方が良いだろう。SuicaもPASMOも果ては切符さへ挿入する場所はみあたらないのである。

「すいませ〜ん」

俺は車掌室と思しきカーテンの掛かった方に声をかけてみた。しかし待てど物音ひとつしない。

「誰かいませんか」

俺はもう一度、今度はガラス戸を叩きつつ言った。チッいねぇな。俺はガラス戸を開けて中を確認しようとしたが開かねぇ。扉は硬く閉ざされていた。

じゃあ、どうすりゃ良い?このまま無賃で降りんのも気が引けるし、第一そんなことしたら後が面倒だ。俺にゃ家族がいる。ん?家族がいる?いねぇか。いや、いねぇか。まあいずれにせよそんな法に触れる様な事は避けるが良いだろう。俺はホームの朽ちつつあるベンチに幾枚か札を置き転がっていた石ころを文鎮がわりにした。


しっかしおい、何もねぇな。いや何も無いという事はありえないというかもしれないが本当に何も無いのだ。振り返りゃそ駅がる。とにかく行く末にはめぼしいものは見当たらないのである。

仕方が無いから俺は粗悪な飯屋に入る事にした。

飯屋は伽藍堂そのものだった。お世辞にも綺麗とは言い難い店内に即席でこさえたとしか思えないテーブルと椅子があった。テーブルと椅子というのもそれはその役割を成し得るというだけであってそれがそこら辺に転がっていても到底、それらには使用することはない様な代物である。

奥間からシワクチャの婆が出て来た。

「いらっせえ」

ひどくなまった婆である。俺は一礼し適当な場所に座った。水が直ぐ出てきた。

「何に致しやせう」

特に食いたい様なものも見当たらなかったからカレーを注文した。

カレーは直ぐ出てきた。


第二章 存在者の懐疑的態度に介在するもの


外は大雨だった。いや、大雨が降っている。俺は傘なんぞ持っていないからただただ走った。どこか俺はしらないがただ走った。果してなぜ俺は走っている。俺はどこへ向けて走っているのだ。それは誰もわからない。俺もわからないとなるといよいよ誰にもわからない。今の俺は何なんだ。知らぬ街を雨に濡れながら泥水を散らしながら一目散にどこかへ走っている。街、いや?村だ。俺はこの辺鄙な村を走っている。どこかも知らぬ村を走っている。行き過ぎるものは何もない。俺はとにかく走った。闇の中を切り裂く一筋の閃光の様に。その時、雷鳴が轟いた。ここはどこだ?あたりはアトミックボムの死を意味する光に包まれた。

「おい」

そこで俺は何かにぶつかった。俺は廊下に突っ立ていた。向こうには一人男がいる。少年だ。俺はその少年に声をかけられたのである。

「何で此処にきてんだ」

いや、それは...と言おうとしたが声がでない。

「此処はお前がくる様なとこじゃなぇのわかってるよな」

廊下はみるみる歪んでいった。ちょうど雑巾を思いっきりツイストした様だった。俺は少年に向かって走り出した。しかし、少年は俺の空想だった。或いは俺は少年の空想だった。もはやどっちか分からない。この妄想は俺の妄想なのだ。

俺はその捻れた空間を走った。海、川、砂漠それらを通過した。どこかも知らない場所に来て逃げる様にまたどこか知らない場所に行った。

いや、これは俺の妄想なのか?俺は妄想をする事が可能なのか?そう思った途端、やがて眼前の設けられた壁に激突した。

「ねぇ、あなた大丈夫」

優しい女の声だった。それは俺が告白できずにいた一人の女だった。

「何で楓ちゃんがここにいるの」

今度は声がでた。俺は楓ちゃんの膝を枕にしていた。

「何いってんの、大丈夫」

俺は立ち上がり辺りを見回した。ここは小さな公園のど真ん中だった。

「あんたが相当酔っ払ってたから、助けてあげたんじゃない。」

「ああ、そうか」

そういえば、そうかもしれない。

いつまでもこのまま彼女と一緒にいたいものだ。幸せを噛み締めたのであった。

しかしそれは長くは続かなかった。女との幸せは結局フィクションと同義なのだ。


第三章 男はフィクションを書いた


章題の通り『男はフィクションを書いた』

それは以下の通りである。


『問題は俺は如何にして存在を実証するかである』

                               0000


"甲でもあり、乙でもあり、丙でもあり、丁でもある離説的肯定はその裏面に、甲でもなく、乙でもなく、丙でもなく、丁でもない離説的否定を有っている。絶対者が「必然-偶然者」であることは絶対者が絶対有であるとともに絶対無であることを語っている。甲でないこともあり得るのに甲である偶然性は、有と無との境界線に危うく立脚する極限的存在にほかならない。"

九鬼周造『離説的偶然』


その事はさして大きな問題には当たらない、男はそう言った。ロスアンジェルスの裏路地には確かにそんな男はいるのかもしれない。しかし彼にとってそんなことは「さして大きな問題には当たらない」。

いずれにせよ彼はもう時期死ぬのであるから如何なる苦痛も死するのと比較すれば大した事がなかった。余命半年、そう宣告された時は驚き一人慟哭したが、よく考えてみればそこまで命の重みなんぞ感じていなかったくせに悲劇を演出するために涙を流した自分自身がひどく滑稽になった。結局彼は余命宣告を受けた次週から清々しい気持ちに成って行った。まるで悟りを開いた僧侶の様な心持ちになったのである。彼の元来持ち合わせる性格であるペシミスト、ニヒリスト的側面は死の宣告により徹底的に粉砕されたのだった。

彼はあまりにも人生、生命が持つ神秘性と呼ばれるものたちが滑稽に思えてきた。するとどうだろう。常にハイ状態になったのである。行きずりの男女に話しかけたりして毎日好きな人間とセックス三昧になれた。彼にとってみれば最早眼前に映る光景は、ゲームと同様なのである。それだけではない。自己の裡の観念も全て面白い、精巧にできたゲームなのである。

彼は遂に自裁する事を決意した。そして実行に移したのであった。


果して此処まで書いた。俺は彼を創造したし彼を存在者として扱った。しかし、問題はどこに俺自身がいるというのだ。俺は語り部としか存在していないのか。俺は彼の話をした。ある意味ではコレは私小説であるから俺は彼であり彼は俺だ。だが俺は彼を認知する事ができるが彼を当然の如く俺を認知することはできない。テキスト内存在としての彼は結局、俺の思想の一断片に過ぎない。俺の存在をやはり実証するには文字を、ナラティブを築くしかない。書いている以上は書いている人間が存在ししているわけである。しかしその書いている俺とは一体誰なのでああろうか。

次章では更なる自己の探究を行う。


男は筆を置いた。


第四章 存在証明の後に残るもの


俺は今となっては下らない小説家紛いの行為で一応の成功を収めた。そして自己が確かに存在している事は存在証明を主題とした小説あるいは論考を終えた後の現在においては限りなく不可能である事がわかった。俺はいつまで経ってもフィクションの中の人物だしそれ以上でも以下でもないのである。テキストより飛び出でて俺は俺の知らないもう一つの現実に介在する事はあるいは介入する事はできないという結論に達した。もちろん鼻からそんな事はわかってはいたが俺はそうする運命に課されていた。誰によって?それはもちろん俺を作り出した偶然によって。より正確を記すれば原始偶然、あるいは形而上学的絶対者に対してである。一体俺はまだ疑問が残っている。どこまでがフィクションでどこまでがフィクションではないかという点である。もちろん俺の存在は全体、フィクションであるがしかしこの様にして語っているという事、その観点から考えるとフィクションとはいえない。書かれている俺はフィクションであり、書いている俺はフィクションではないといいう結論に達するがどうだ。

今の俺は迷妄の中にいる登場人物ではなく作者としての俺、という事になる。が果してそうであろうか。少なくとも俺はこういう風に書いているが誰が俺に書かせているのか。偶然にこの物語は書かれているという事しか言えないのであろう。第一に俺は作者なのであろうか。

いつか廊下に立っていた。俺は少年と邂逅した。


最終章 ファイナル・デブリーフィング

「そこに腰掛けてくれ」

私は男に言った。

「作者は物語に介入できないんじゃないんですか?」

俺は男にそう言わせた。

「しようと思えばできるが、できない時もある。俺がその気分じゃ無い時はできない」

と俺は男というよりも読者に対して説明している。

「物語には時とタイミングがある。時間の流れと同様に。実人生だっていつでも抜ける事ができるだろう。でもしない。その時じゃないから。」

「でもそれは運命が決めるのであって自己自身が決めるわけじゃあないだろう」

「いやおなじだよ。運命も自己決定も。時は有限だろ。有限なのは自己だけにまとわりついてるからだよ。誰も他者の意識に介入する事はできない。それは人間が常に主観的でありそれ以外でも以下でもないからだよ。人間は自由意志なんぞもっちゃいない。」

恣意的に自己決定するにせよ運命が自己決定するにせよそれは結局、自分が行っているわけじゃなくてメタ的な次元にある集合的意識が恣意的に行っているだけである。それは神ともいい、原始偶然ともいいまた絶対者ともいう。創作者が創作するものの中に私たちは存在しているのみである。だからこの次元における我々に意識も、意思も時間も空間もありはしない。ただメタ次元にいる私にそれらを付与されているだけである。その様に、かの様に、我々は動いているだけなのである。

そうしていつでも


(了)





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

目を閉じればなんだって見えてくるよ 武蔵山水 @Sansui_Musashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ