絆の章(短編連作)

第1話『星、ひとつ』

1話-前編

 はあっと、悠音は深い溜息をついて図書館の天井を仰いだ。

 どういうわけだかこのところ溜息が多い。気がつくと溜息をついている自分が、何だかとても滑稽だと思った。

 すぐ隣の壁に立てかけるように置いた弓道の用具を見やり、ぷくりと拗ねたように頬を膨らませる。

 自分のこの溜息の原因が、あの弓道具から否応なく連想できてしまって、なんだかひどく気が滅入った。

「……もう、二週間前になるのかあ」

 この日何度目かの溜息をついて、少女はゆるゆると頭を振る。癖のある栗色の髪が、ふわりふわりと跳ねるように舞った。

 悠音が藤城神社の伝統行事である『神迎のかみむかえ神事』に参加してから ―― 紅い鬼と出逢ってから ―― もう二週間が過ぎようとしていた。

 あれから再び鬼の青年に出逢うこともなく、日はただ過ぎてゆくばかりだ。

 街々の景色あちこちを彩る紅葉の木々も、もうしばらくすれば見頃を終えて冬支度に入るのだろうと思われた。

「やっぱり……夢だったのかなぁ」

 多くの時間が経って少し冷静になって考えてみれば。あの時のことは夢だったのかもしれないと、そう思うこともあった。

 この世に"鬼"などという、不可思議なものが存在する訳がない。

 きっとあれは、あまりに美しい紅葉たちに惑わされて、自分はおかしな幻想を抱いてしまっただけなのだ。

 そう、悠音は何度か思おうとした。けれども ―― 。

「夢だったはずが、ないのよね。単なる夢だったら、この時計の説明がつかないもん」

 あのとき自分が持っていた小さな時計を眺めながら、悠音は自分自身が納得するように呟いてみせる。

 巾着袋の紐に提げられた時計の針は、"今"よりも五時間ほど先の時刻を指して動いていた。

 その五時間ちょっとの時差が。あの紅い鬼と自分が一緒にいた証であるような気がして、どうしても時計の針を直す気が起きなかったのだ。

 今日こうして図書館に来たのもそうだ。時間が経つに連れて現実味を失っていく感覚がなんとなくイヤで、かつてこの街に鬼が居たのだという"証拠"を伝承上でも良いから知りたかった。

 別にあの鬼の青年が恋しいとか、会いたいとか。そういうことじゃない。ただなんとなく……心にぽっかり開いた穴が、そういった行動をさせるのだ。

 あんなにも綺麗で異質な存在を見れば、誰だって忘れられなくなってもう一度"見たい"と思うのではないだろうか。今のこの自分の落ち着かない気持ちは、たぶんそういう類のものだろうと悠音は思う。

「でも、鬼の話なんか載ってないのよねぇ」

 さっきまで読んでいた、藤城町に残る大昔の伝承や言い伝えを簡単にまとめた本をぱらぱらとめくりながら、もう一度悠音は溜息をついた。

 この本には『動き出した地蔵』など愚にもつかないも逸話も出ているので、鬼に関する言い伝えがあれば必ず載っているはずだと思ったのに、当てが外れてがっかりだった。

「もしかしたら、あの神社にだけ伝わる話なのかな」

 藤城神社は『神苑』という、地元の人間にも知られていない聖域を持っていた。そういう閉鎖的な場所ならではの言い伝えがあってもおかしくはない。

「藤城神社に行ってみようかなぁ」

 今さら神社に行っても、あの場所……大楓のところには行かれない。神迎の神事が終わってしまえば自分は神社の関係者ではないのだから、神苑に入れないということは分かっていた。

 ただなんとなく。行ってみたいと思った。

 あのとき鬼の話をしてくれた神職の宇山はそんなに詳しくないようだったけれど。宮司ならもう少し話が聞けるのではないかと思ったのだ。

「綺麗な夕日……」

 ふと窓から差し込む紅い陽光に顔を向けて、悠音はぼんやりと笑う。

 西の空には明々と夕日が燃えていた。その美しい紅い陽光に鬼の姿を思い出して、悠音は心を決めたように立ち上がる。

 ひょいと、壁に立てかけていた弓道具を背負い、図書館を後にしたその足の向く先は、千年以上もの歴史を持つ由緒正しい藤城神社。

 あの紅い鬼が封じられていた聖域を領有する、その場所だった。



「おや、悠音ちゃんじゃないか。学校帰りかい?」

 藤城神社に向かう広い表参道を過ぎ、歴史を感じさせる古い大きな朱塗りの大鳥居をくぐったところで、悠音はやんわりとした穏やかな声をかけられた。

 白い狩衣と薄紫の藤紋が縫いとられた袴を着た壮年の男が、鳥居脇の木の下でにこにこと笑っていた。手にはレトロな竹箒を持っていたので、おそらく鳥居の周辺を掃き清めていたのだろう。

「あ、日向のおじさん。ちょうどよかった」

 少しはしゃいだ声で、悠音はその男に駆け寄った。

 日向と呼ばれたその男が、この神社の神職たちをまとめる宮司だということは、悠音も良く知っていた。

 氏子として昔からこの神社によく出入りをしている逢沢家の一人娘である悠音は、幼い頃からよく遊んでくれた気さくなこの神主が好きだった。

 神迎の神事では宮司という立場がら彼も忙しく、まったく話すことは出来なかったけれど、今日ならば ―― 。

「うん? 僕に用事かい? 珍しいね」

 にこにこと笑うその表情は若々しい。確か悠音の父親とは幼なじみのはずだったから、とうに四十歳は超えているはずだ。

 けれども宮司が普段身につける常装の明るい色合いのせいもあるのか、三十代なかばにしか見えなかった。

「えっと……おじさんに、この神社の歴史とか伝説とかを教えてもらおうと思って」

 なんとなく『鬼の話』が聞きたいとは言えず、悠音は困ったように笑った。

「この間の神事に参加したでしょ? だからちょっと興味がわいちゃったの」

「そうかぁ。それは嬉しいなぁ。神社の歴史に興味を持ってもらえたんだね」

 日向はうんうんと頷きながら濃い茶色の瞳を細め、どこか悪戯っぽい眼差しを少女に向けた。

「じゃあ、そうだね ―― この神社がここに建てられたのは朱雀天皇の御代。天慶三年の……」

「ああっ、待って! そ、そういうのが知りたいわけじゃなくてぇ……」

 滔々と神社の歴史を話し出そうとする宮司に、慌てて悠音は割り込んだ。そんなものまで聞いていては、いつになったら本題に入れるのか分からなくなってくる。

「あはは。分かってるよ。鬼の話が聞きたいんだろう?」

 にやりと、壮年の宮司は笑った。彼女が知りたいことが何なのか百も承知でからかったのだろう。その表情には悪戯な明るさがしっかりと浮かび、楽しそうに悠音を見やっていた。

「……もおっ。知ってたの?」

「神迎の神事で興味を持ったということは、それしかないだろう? あれは鬼を鎮めるための神事だからね。それに宇山くんから、君が神苑で"忘れ水"を見つけたという話も聞いていたしね」

 初老の神職 ―― 権禰宜ごんのねぎという役職なのだと日向は教えてくれたが ―― 宇山は、きっちりと彼女が道草を食ったことまで上司であるこの宮司に報告したらしい。

「あの神苑に、宇山さんは紅い鬼が封じられてるって言ってたから……」

 いささかバツが悪そうに、悠音は宮司を見上げた。

 日向はにこりと笑いながら悠音の癖のある栗色の髪をぽんぽんと撫でると、持っていた竹箒の柄にあごを乗せるように少女の目を覗きこんだ。

「悠音ちゃんは、鬼は居るって信じてるのかい?」

 今どきそんなおとぎ話のような存在を信じている者もないだろう。そう宮司の表情は語っているような気がする。

 けれども。悠音はあそこに鬼が居たことを知っているのだ。

「……だって、あの綺麗な紅葉を見たら、信じても良いかなって……そう思えるでしょう?」

 ハッキリと信じているとは言えずに、悠音はわずかに首を傾げた。

「うん。そうだね。僕も居ると思うよ」

 意外にも父の幼なじみである壮年の宮司はそう言って笑った。

 あまりにあっさりと言われたその言葉に思わず絶句して、悠音はきょとんと目をまるくした。宇山は信じていないと言っていた鬼の存在を、この宮司は信じているというのだろうか?

「僕は前回の神事の時はまだ生まれていないから、五十年前のことは知らないけど、確かに今年の神苑の紅葉は去年までに比べて奇蹟のように美しいしねえ。それに、本当に鬼が居たのでなければ、千年も僕や祖先たちが神迎えの神事をやってきた意味がないだろう?」

 穏やかに笑う宮司の目は、とても優しい色をしていた。

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