4ー後編

 潤朱色の筒袋から弓を取り出し、慎重に弦を張る。もうひとつの巾着袋からはユガケを取り出し、しっかりと右手にはめた。

 これをはめるとき悠音はいつも心が落ち着くような気がする。これから自分は弓を引くのだという気持ちが自然にわいてきて、とても静かな気持ちになれるのだ。

 そして普段の筒袖の道着とは違う神事用に着ていた霞色の小袖の、揺れる袖を留めるように手際よく襷がけをする。

「じゃあ、やってみるね」

 緊張と不安を払うように悠音が青年の顔をちらりと見やると、実斐は微かに笑んだように見えた。

 なんとなくほっとして、心を落ち着けるように呼吸を整える。しっかりと足場を確かめるように姿勢をつくり、空を見上げた。

 あの太陽……鍵を壊せば、この閉じた空間から抜けることが出来るのだ。

 ―― ここを出たら、もう実斐とは会えないのだろうか?

 ふと。悠音はそんなことを考えて、僅かに眉をしかめた。

 これではまるで、自分があの鬼と離れたくないみたいではないか。確かにあの美しい鬼の姿に見惚れはしたけれども……そんなことは有り得ない。

 そんな馬鹿な思いを振り払うように軽く頭を振ってから、悠音は心を決めるように弓に矢をつがえ、もう一度太陽を見やった。

 眩しい。けれども目を細めるように眩しさを抑え、射るべき"的"を視線の先にしっかと捕らえる。そうしてゆっくりと、矢を頭上に掲げるように弓を起こした。

 ―― 心を無にして。ただひたすら的を見つめなさい。そうすれば、真実が見えてくるよ。

 弓道を始めてスランプに落ち込んだ時、師に言われた言葉が脳裏に響く。

「……私はただ、あれを射る。それだけだわ」

 すべての雑念を振り払うように呟いて、的を見つめて弓を引きしぼる。ギシっと弓のしなる音が悠音は好きだった。気持ちまでもがキリキリと引き締まるような気がする。こうなると、自分は迷いも何もなくなるのだ。

 不意に、太陽の中に何かが見えた。眩しさをこらえて目を凝らすと、それは珠のようにも見える。あれが鍵だと、悠音はそう直感した。

「ほう……」

 弓を構える少女の身体全体。そのすみずみまでに神経がいきわたっているのが分かる。身体は微動だにもせず、弓と一体になって的だけを狙っている。

 一心に射を行うその姿が美しいと、実斐は思った。

 思わず呼吸をするのも忘れるくらいに少女の姿に見入っている自分に気がついて、紅い鬼は苦笑する。

 あと少しで自分はようやく解放され、千年ぶりに自由になれるというのに。その嬉しさの中に漂う一抹の寂しさはなんなのだろうか?

 実斐が困惑するように目を伏せたとき。びぃんと、何かが弾ける様な重厚な音がした。

 はっと顔を上げると、悠音の右手が矢筈から離れ、風を切るようにまっすぐと的に向かって飛び去る矢が見えた。

 刹那、ぱり……んと珠玉が割れるように高く儚く玲瓏な音がして、太陽がゆらゆらと崩れるように揺らめいた。

「やったあっ!」

 矢が"的"に当たったことを知って、悠音は思わず青年に飛びついた。

 突然飛びつかれて、実斐はやや慌てたように少女の身体を抱き留める。けれどもすぐに賞賛するように目を細め、彼女の栗色の髪を優しく撫でるように微笑んだ。

 たったの一矢にて決めるとは、さすがに思っていなかったのかもしれない。

「これで、出られるんだよねっ」

「そのようだな。空間が、開かれた」

 にこりと笑った青年のその表情がとてもすこやかで。綺麗で。悠音は何故だか嬉しくなった。

「ねえ、実斐さん。あなたは……」

 自由になったらどうするの? そう訊こうとして ―― 悠音は一瞬立ち竦んだ。

 閉じられた空間に開いた穴。そこに吹き込むように、ごおっと音をたてて突風がわきおこっていた。

 木々の紅葉や落ち葉を巻き込んで、紅い竜巻のように風が吹く。

 その紅の風に溶けるように。

 紅い鬼の姿は唐突に彼女の目の前からかき消えていた ―― 。



「逢沢さん……一瞬消えたように見えたから、驚きましたよ」

 不意に、ぽんっと肩を叩かれて悠音は驚いたように振り返る。そこには神職の宇山が苦笑するように立っていた。

「宇山……さん?」

「もう準備されたんですか? 射場まであと十分ほどかかりますけど」

 ぼんやりと自分の名前を呼ぶ少女に、宇山は首を傾げる。いつのまにか、少女が巾着袋から荷物を取り出して弓の準備を終えているのが不思議だった。

「……え?」

 何が起こったのか分からなくて、悠音は目を瞬いた。周囲には相変わらずの美しい紅葉が広がっている。

 さっきと何も変わらない。違うのは、隣に居るのがあの美しい鬼の青年ではなく、この初老の男ということだけだった。

 ふと天を見上げれば、太陽は天高くに輝いている。

「いま……何時ですか?」

 おそるおそる、悠音はそう訊ねた。

 ちらと見やった自分の時計は……既に五時に近い。

「えーっと、はいはい。ああ十一時二十分ですね。いそいで射場に向かいましょう。神事に遅れては大変ですから」

 宇山は腕にはめた時計を見やり、そう答える。

 ―― 戻ってきたのだ。

 悠音は深く溜息をついた。自分は、あの閉じられた空間へ行く前の時間に戻っているのだ。

 あれが夢や幻などではないということは、今の自分の格好を見ても、五時を刻むこの時計でも分かる。

 あの閉じられた空間は"時の流れ"が失われていたのだと実斐は言っていた。

 だから、あそこに居たあいだの"時間"は、元居たこの場所ではになっているのだろう。そう思った。

 だとしたら ―― あの鬼の青年も、やはり彼が封じられたという千年もの昔に戻ったのだろうか? もう、会えないのだろうか?

 何故だかぽっかりと心に穴が開いたような気がして、悠音は泣きだしたいと思った。けれども必死にこらえるように深く呼吸をする。

 俯いたその目にさらさらと細く流れる水が見えて、少女はそっとしゃがみこんだ。

「…………」

 落ち葉に隠れるようにたゆたう細い水の流れに手を浸し、ゆっくりと水を掬いあげる。あのとき青年がくれた水のように、甘い香りはしなった。

 やはり"あの場所"と違うのだ。そう言われているようで、少し哀しくなった。


「ああ、逢沢さんが見に来た"水"って、これのことだったんですか」

 とつぜん神苑の中に踏み込んで行った少女の"道草"の理由を知って、宇山はにこにこと笑った。

「驚きましたねぇ。こんな所に水流があるとは……。前からあったかなぁ?」

 考えるように首を傾げる。しかし思いだせなかったのか、男は軽く肩をすくめた。

「こうやって人知れず、木々の合間を絶え絶えに流れる水を『忘れ水』と言うんだそうですよ。こういうのを見つけると、ちょっと得した気分になりますね。逢沢さんが駆け寄った気持ちも分かりますわ」

 白髪まじりの髪をくしゃくしゃとかきまわして、宇山は何度も頷いた。

 しかし少女に起きた出来事を知るはずもない初老の男は、それ以上の感慨は当然のように抱かずに、諭すような表情で悠音を見やった。

「でも、あまり見ている時間はありませんよ。そろそろ射場に参りましょう、逢沢さん」

 急かすように少女を促して、宇山はゆっくりと来た道を戻るように歩きだす。

 ―― もう、封じるべき鬼はここにはいないのになぁ。

 悠音はちょっと寂しげに笑った。

 千年もの永い時をこの忘れ水の流れる楓の許で眠っていた紅い鬼は、既に自分が解き放たってしまったのだから。

 けれどもそんなことをこの神職の男に言えるはずもなく、ここでじっとしていても仕方がないので、諦めたように荷物を背負うと悠音は宇山の後ろにつくように落ち葉の道を歩きだした。


 ざああっと、ふいに強い風が吹いた。

 紅く燃える木々の葉が大きく揺れて舞い上がる。

『いつかそなたを喰らいにゆこう。我は ―― 欲しい物は必ず手に入れる。覚悟しておくがよいぞ』

 美しく心地よい鬼の声が聞こえたような気がして、悠音は風に揺れる木々を仰いだ。

 そこにはもちろん、鬼の姿はなかった。けれども ―― 。

「喰らう気なんか、ないくせに」

 くすくすと、悠音は笑った。

 鬼の青年の髪の彩と同じ。紅く染まる木々の葉が、ざわざわと葉擦れの音を響かせる。夢幻的なまでに美しい紅葉の天幕が風を孕み、少女の見上げる空いっぱいに広がるように優しく雅に揺れていた。


 再び彼女にまみえんことを、約するかのように ―― 。



 ----『忘れ水に眠る鬼』 出会いの章 終 ----



***

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

このあとは、『絆の章』に続きます。そちらもどうぞ、よろしくお願いします。

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