2-後編

「え……だって、滑る前まではちゃんと川も木も見えてたんだよ。なんでいきなりそれが後ろに在るのよ!?」

「だから我が何度も言うておるであろう。ここは檻なのだと。出口を……鍵を見つけねば出ることは叶わぬ」

 すべては自分を封じる為にこの楓の大木を中心に空間が閉じられているのだと、皮肉げに頬を歪めて青年は天を仰ぐ。

 この少女はその目で確かめ、心から納得するまでは自分の話を信じないだろうと悟り、いままで好きなようにさせていたにすぎなかったのだ。

「出口も知らぬのに、我を起こしに来たがそなたの運の尽きよ」

 くつくつと笑って青年はいう。

 空高く天は広がり、周囲には赤々と燃える紅葉の木たち。本当にそれ以外はなにも存在していないかのように、聴こえるのは葉擦れの音ばかり。街を走っているはずの車の音も、人の声も。鳥のさえずりさえも聞こえない。

「……こんなことって、起こるのね」

 悠音はようやく事態の異常さを心から納得して、僅かに肩を震わせた。どこか他人事のようにこぼれ落ちたその言葉も、不安を隠せず揺れていた。

 別に彼を起こしにこの場所へ来たわけではないのだが、この空間が閉じられているというのは自分で何度も体験して納得せざるを得なかった。

 それでは ―― この青年が鬼だというのも、やはり本当のことなのだろうか?

 彼を封じるために空間が閉じられているというのであれば、それは確かなことなのだろうと思う。しかし……。

「じゃあ……あなたは本当に鬼なの?」

「なんだ。まだ信じておらぬのか?」

 くすりと、実斐は笑った。

 その笑顔は美しすぎることを除けばどう見ても普通の人で。さっきだって渇いた自分に水をくれたり、転びそうなのを助けてくれたりもしたのに。

「だって、鬼なら角があるはずでしょう? それに、暴力的で残酷で人を喰らうって聞いたことあるもの」

 昔話に出てくる鬼たちの姿を想像しながら、悠音は反論を試みる。

 くすくすくす。青年は心底可笑しそうに笑い声を上げた。そっと少女の頬に手を伸ばし、最初に会った時と同様に軽く撫でるように指を滑らせる。

 先ほどと同じ心地よい感触。逆らうに逆らえない、甘美な魔法のようだと少女は思う。それが不意に、刺すような痛みに変わった。

 爪を、強く立てられたのだとわかった。

「 ―― 痛っ!?」

 慌てて青年の手を振り払い、爪を立てられた場所を庇うように手をあてる。引っ掻くように出来た小さな傷には、玉のようにうっすらと血が滲んでいた。

「言うたであろう? 力戻ればそなたを喰らうと。まだ……戻っておらぬ。忌々しい封印が我を抑え込んでおるうちは、まだ人を喰らうだけの力が足りぬよ」

 青年は妖しい微笑を浮かべて僅かに血のついた指先を舐める。

「ふふふ。でもまあ、先ほどよりは戻っておるようだがな」

 さっきは少しの傷もつけられなかったのだからと、実斐は怖ろしいことを言う。

 もし彼が目覚めたあの時に"力"があったなら、自分はあそこで殺されていたのかもしれないとようやく悟り、悠音は血の気を失ったように蒼褪めた。

「完全に戻るにはもうしばらく掛かりそうだが……その前に出口が見つかれば喰らわぬよ。再びアレに封じられるその前に、我を起こしたはそなたの"功"だからの」

 少女の頬につけた傷を見やり、実斐は楽しそうに笑った。

 そうして再び、少女の頬に手を載せる。

 びくんと、逃げるように悠音は身を捩らせた。

「いやっ……」

「馬鹿者。動くでない」

 そんなことを言われても、悠音だって怖いのだ。そう簡単に青年の言うことなど聞けるものではない。

 けれども ―― 次にこぼれた実斐の困ったような口調に、思わず悠音は目を見開いて身動きするもの忘れた。

「今は喰らわぬと言うたであろう。傷を治すのだからおとなしくしておれ」

 傷を治す。確かに彼はそう言ったのだ。

 頬に触れた青年の手からふわりと暖かな熱を感じる。その熱を感じなくなる頃には、今までズキズキと疼いていた傷の痛みも嘘のように消えていた。

「喰らいもせぬのに傷付けて悦ぶような趣味は持ち合わせておらぬよ」

 驚いて目を見張る少女に、実斐は苦笑するように口端をつりあげた。

 でもさっきは傷付けたじゃないかと悠音が反論すると、実斐はふんと横を向いた。

「……いつまでたってもそなたが我を鬼と信じぬからだ」

 その口調も表情も拗ねた子供のようで ―― 悠音はやっぱり分からなくなっていた。さっき自分に傷を付けたのは確かにこの男なのに。治してくれたのもまたこの実斐なのだ。

 既に頭ではこの男がここに封じられていた"鬼"なのだろうということを理解していた。

 けれどもやはり、心のどこかでそれを納得したくない自分がいるのも確かだった。

「…………」

「分かったのなら、さっさとここを出る方法を探すのだな。我の力が戻る前に」

 まっすぐと自分を見つめてくるその漆黒の瞳に、悠音は思う。

 この人はもしかして、本当は自分を"喰らう"つもりなどないのではないだろか……と。自分に都合の良い勘違いかもしれなかった。

 しかし青年の漆黒の瞳はどこか暖かくて。優しげで。そして、強い。

 どうしても酷い人間……否、酷い鬼だとは思えなった。

「うん……。でも、少し休みましょう? もうどうせ神事には間に合わないし、少し疲れちゃった」

 身体は疲れていなかったけれど、心が疲れた。

 悠音は背負っていた弓道具を下におろすと、ぺたりとその場に座りこんだ。

「暢気な娘よ……」

 力が戻れば殺すと忠告しているにもかかわらず、悲鳴を上げることさえない。ましてや急いで出口を探そうとするどころか休憩しようなどと言う少女に、実斐は呆れたように肩をすくめて笑う。

 まだ信じていないのか、それとも単に暢気なだけなのか ―― 。

「休めばきっと、良い考えが浮ぶもの」

「ほう。それでは、その良い考えとやらを楽しみにしておるよ」

 からかうように笑顔を見せた鬼の青年に、悠音はさっきの『喰らうつもりがないのではないか』という思いを強くする。

 本当に相手を喰らおうなどと思っているのであれば、こんな優しげな笑みが浮ぶはずもないだろうと思うのだ。

 しかし ―― 何かと理由をつけて目の前にいるこの青年を良く思おうとしている自分に、鬼に魅入られるというのはこういうことかもしれないと、思わず溜息をついてしまう悠音だった。

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