【短編】デリヘル呼んだら幼馴染兼元カノが来た。

じゃけのそん

第1話

 初夏を知らせる大雨の日。

 度重なる日々のストレスと、脳裏を侵食する過去の苦い記憶に嫌気がさし、俺——羽柴智樹はしばともきは、人生で初めてのデリヘルを家に呼んだ。


 その手の事に詳しい友人に勧められるまま、勢いだけであらゆる個人情報を記入し、期待と不安の間で交差する気持ちを何とか抑えながら、ご奉仕してくれる女性の到着を待つ。




 ピンポーン。




 そして家のチャイムは鳴った。

 一体どんな女性が来てくれたのだろうか。可愛い系か、それとも綺麗系か、もしくはとんでもないブスか、デブか、それとも年増か。


 多少の期待ははらみつつも、俺は女性に対してそれほど大きな希望は抱かなかった。


 ただ一発抜いて貰うだけの関係。

 そう割り切れば、どんな形の相手でも大体は許容することができたから。








「智樹……だよね」


 しかし俺の浮ついた気持ちは、その相手を前に崩れ落ちた。


 茶色に染められた今時風の短い髪。大きくてパッチリとした瞳に、ナチュラルメイクなその形は、綺麗系というよりも可愛い系。


 細身ながらも出るところはしっかりと出ている、まさに男ウケ抜群のルックスからして、一般的に見ればこれほど大当たりなことはそうそうないのだろう。


「やっぱり……そうじゃないかとは思ってた」


「愛紗……お前どうして……」


 だが俺にとっては、これほど反応に困るハズレは他になかった。なぜなら今俺の目の前にいる女性は、俺の幼馴染兼元カノ——椿原愛紗つばきはらあいさだったからだ。


「詳細を見てアレ? って思ったの。でもまさかなと思って一応は来てみたけど……ほんとに智樹だったんだね……」


 声を聞いても今だに信じられなかった。

 この今時風の美女があの愛紗だなんて。


 彼女と最後に会ったのは、半年ほど前の雪の日。クリスマスと記念日を間近に控えたそのタイミングで大喧嘩をし、それ以来愛紗とはずっと疎遠のままだった。


 俺が知る愛紗はどちらかというと物静かで、昔から自分を必要以上に着飾ることが嫌いなタイプの女の子のはずだった。


 でも半年ぶりに俺の前に現れた彼女は、耳にピアスを開け、髪を黒髪ロングから茶髪ショートにリメイクし、デリヘル嬢という看板をその背中に背負っていた。


「お前何してんだよ」


「何って何」


「春から銀行に勤めたんじゃねぇのかよ」


 最初こそ衝撃や気まずさに支配されていた俺の脳内は、変わり果てた彼女を前に、やがて失望の色に染まっていく。


「なんでデリヘル嬢なんてやってんだよ」


「これは」


 あれほど真面目に、自分に正直に人生を歩んでいたはずの愛紗が。どうしてこんなにも容姿を変えて、デリヘルなんて低俗な仕事をしているんだ。


 俺と別れる直前までは、ごく普通の女子大生だった。銀行から内定を貰って、四月からは仕事頑張るんだって、嬉しそうに話してくれたことを俺は今でも覚えてる。


「まあいい。とりあえず中入れ」


 聞きたいことは山ほどあった。

 しかしこのままでは、濡れた愛紗が風邪を引いてしまう。


「安心しろ。お前に何かしてもらうつもりはない」


「でも」


「いいから」


 目に見えて渋る愛紗を、俺はひとまず家にあげた。

 前もって高めていた私欲を全て捨てて。





 * * *





「紅茶でいいか」


「うん、ありがと」


 愛紗と二人きりの我が家の空気は、まるで別の部屋かと思うほどに淀んでいた。


 緊張とはまた違う、胸の辺りがざわつくようなこの感覚。最初こそ気にせずいつも通りにしようと思ったが、どうも落ち着かず、気づけば俺は部屋のあちこちを歩き回っていた。


「それ飲んだらシャワー浴びてこい」


「えっ」


「え、じゃねぇよ。風邪引いたら困るだろ」


「ああ……」


 そんな会話をしながら、俺はクローゼットから適当なシャツを引っ張り出し、同じく気が落ち着かないであろう愛紗めがけて放り投げる。


「脱いだ服はその辺のハンガーに掛けとけよ」


「ごめん。気遣ってもらっちゃって」


「別にいい」


 そして愛紗は濡れた身体を温めるためシャワーへ。部屋に一人残された俺は、その妙に艶かしい音に晒されながら、悶々として帰りを待った。








「シャワーありがと」


「おう、服乾きそうか」


「うん。そんなに濡れてなかったし、少し干せば乾くと思う」


「そうか」


 一応除湿機はつけてるから、乾くまで一、二時間ってとこか。


「服が乾いたらさっさと帰れよ」


「ほんとごめんね。私がここに来たばっかりに」


「いいって。お互い知らなかったんだから仕方ないだろ」


 本当なら今頃、俺は何もかも忘れるくらいの絶頂を迎えていたのかもしれない。


 だがあいにくと、うちに来たのは幼馴染兼元カノ。一度関係を拗らせてしまった間柄故に、何かをする気はこれっぽっちも起きなかった。


「ねぇ」


「ん」


「ほんとに何もしなくていいの?」


「だからそう言ってるだろ。服が乾いたらすぐに帰ってくれればそれでいい」


「でもさ、智樹もうお金払ってるよね」


「いいよそのくらい。社会人五年目舐めんな」


 とは言いつつも、正直五万は相当痛い。


「お金貰っておいて何もしないのは、私の良心に反するんだけど」


「んな事知らねぇよ。お前の尺度で勝手に物事決めつけようとするな」


「今なら幼馴染のよしみで入れるのもありにするよ?」


「バッカ。んなもん誰も望んじゃいねぇよ」


「そうなんだ」


 俺が否定すると、なぜか愛紗は少し残念そうに口を噤む。そりゃこれだけ可愛い子が相手なら、俺だって少しは何かを望みたくはなるけど。


「そもそも俺らは元カップルだろ。あんな終わり方しといて今更抱けるかっての」


 気持ちの歯止めとなっていたのは、半年前の苦い記憶だった。


 些細なすれ違いがきっかけで起きた、カップルにはありがちな口喧嘩。普段は鎮火するはずのその出来事も、あの時だけは取り返しのつかない致命傷になってしまった。


「お前だって嫌だろ、俺に抱かれるのは」


「別に嫌とかはないけど。前は普通にしてたし」


「前してたから嫌なんだろうが」


 愛紗のガバガバ過ぎる貞操観念に、無性にイライラがこみ上げてくる。


「それで、銀行の方はどうなんだよ」


「どうって何が」


「四月から勤める予定だっただろ。ちゃんと続けられてんのか」


 気分を変えるための話題変更のつもりだったが。


「辞めたよ」


「はぁっ⁉︎」


 愛紗の口からとんでもない事実が飛び出した。


「辞めた⁉︎ 銀行を⁉︎」


「うん」


 取り乱す俺に反して、愛紗は至って冷静に頷いてみせる。


 この感じからして、おそらく冗談ではないのだろうが……だとしてもたった二ヶ月で仕事を辞めるというのは、あまりにも早過ぎやしないだろうか。


「ってことは、今はこっちが本業ってことかよ」


「まあそうなるね」


「マジか……」


 衝撃的すぎて言葉が出てこない。

 俺はてっきり副業的な意味で、このデリヘルの仕事をしているのかと思っていたから。まさかたった二ヶ月で銀行を辞めていたなんて。


「お前……それ両親には話したのかよ」


「まだ何も」


「はぁ……お前なぁ、ちょっとは親の身にもなってみろよ」


「そんなの……関係ないし」


「関係なくねぇよ。自分の可愛い娘がたった二ヶ月で仕事を辞めて、こんな低俗な方法で金を稼いでるんだぞ? もしその事実を知ったらどんな顔すると思ってんだ」


 愛紗の両親とは俺も仲が良いからよくわかる。あの二人がどれだけ愛紗のことを大切に想っているのか。どれだけ愛紗を愛しているのか。


「銀行の内定が出た時、母ちゃん泣いて喜んでたんだろ? それくらいお前のことを大事にしてくれてるんだよ。なのにその気持ちを裏切るような真似して、恥ずかしいとは思わないのか?」


 言い方がきつい自覚はあった。

 でも疎遠になっていたとはいえ、俺たちは幼馴染。幼馴染が目の前で道を踏み外そうとしているなら、俺にはその間違いを指摘する責任があると思うんだ。


「いいか愛紗。お節介かもしれないがお前の為を思って言うんだ。何か事情があったのかもしれないけど、親を泣かせるようなことだけはしちゃダメだろ」


 歪んでしまった愛紗の心に語りかけるように、俺はあくまで真剣な口調で思いを伝えた。


 これを機に愛紗が元の正しい道に戻ってくれれば、両親の前に胸を張って顔を出せるようになってくれれば、失ってしまった俺の五万もきっと報われる。


「悩みがあるなら力になるから、だからもう一回頑張れよ、な」


 そして俺は久しぶりに愛紗に触れた。すっかりと変わってしまったその髪に。少しでも支えになれればいいと、そう心から願って。








「……しらな……せに」


「えっ」


「何も知らないくせに!!」


 宥めるつもりで触れていた俺の右手。それを振り払うようにして、突然愛紗は声を荒げた。


「智樹は何も知らないくせに! 知ったような口聞かないでよ!」


「知ったような口って……俺は別に」


「だってそうでしょ⁉︎ 半年間も離れ離れになって、その間私はずっと智樹とのことを引きずってたのに……智樹は連絡すらくれなかったじゃない!」


 離れ離れ? 連絡? 

 一体愛紗は何を言ってるんだ。


「それにお母さんたちが悲しむのは、私だってわかってるよ! でも生きていくためにはこうするしかなかったの! お金を稼がないといけなかったの!」


「だからお前は銀行に就職したんじゃないのか?」


「ええそうよ!」


 目に薄っすらと涙を浮かべ、愛紗は続ける。


「初めは良かった。仕事は楽しいし、給料はちょっと低いけど残業もなくて。ここで頑張っていくんだって、いっぱい稼いでお母さんたちに恩返しするんだって、そう思ってた」


「じゃあなんで……」







「私には無理だったの」


「無理……?」


 力の無い声で愛紗は言った。


「いじめられてたの、私」


「いじめって……嘘だろ……」


 続けて耳を疑うような言葉が愛紗から飛び出す。それには俺も憤る気持ちを忘れて、押し黙る他なかった。


「私の指導係だった人が若い男の人で、その人絡みで色々と問題があったの」


「問題って」


「私が勤めてたとこ、三十歳ぐらいの女性社員が多かったんだけど、どうやらみんなその人狙いだったぽくてね。新入社員の私が親しくしてるのが嫌だったみたい」


 愛紗の話だと、そのいじめは入社して一月も経たずに起こったらしい。


 しかもそれは個人ではなく、集団規模の嫌がらせ。愛紗の指導係だったという男性を巡って、毎日のように陰湿な攻撃をされていたのだとか。


「それだけじゃないの」


「まだ何かあるのか」


「私の指導係だった人、青木さんっていうんだけど。嫌がらせをされ始めて少し経った頃かな。どうしても職場に行くのが辛くてね、思い切って青木さんに相談してみたの」


 日に日にエスカレートしていくいじめに耐えきれなくなった愛紗は、ある日その事実を指導係である男性に相談をした。


 初めこそ親身になって、あくまでも善意で愛紗の相談を聞いてくれていた彼だったが、いつからか見返りを求めるようになり、最終的には見返り無しでは動かない、愛紗にとって追い討ちをかけるような存在になってしまった。


「私は嫌だった。もう誰も信じられなくなって……凄く辛かったの」


 ボロボロと零れ落ちる涙が、その状況の悲惨さを物語っていた。


 希望とやる気に満ち溢れて就職した、銀行という立派な職場。きっと愛紗は真っ当に生きようとしていた。社会人として正しい道を歩もうとしていた。


 でもそれを周りの人間が歪めてしまった。彼女の貞操観念がバグってしまうほどに、愛紗はこの二ヶ月間、たった一人で悩み続けて来たのだ。


「ほんとはもっと早く誰かに慰めて欲しかった。話を聞いて欲しかった。でも私の隣にはもう誰もいない。智樹だって……」


 半年前にあんなことがなければ、変わらず俺がずっと側にいてやれれば……きっとここまで愛紗が追い込まれることはなかったと思う。


「だから寂しさを埋めるためにこんな仕事をしてるんだよ。嫌だけど、逃げ出したいけど、それでも生きていかないとだから……だから私は自分を押し殺すことに決めたの」


 何かを切り捨てないといけない選択で、愛紗は自分の心を捨てることを選んだ。その結果たどり着いたのが、身体を売ってお金を稼ぐデリヘル嬢だったのだ。


(俺が側にいてやれれば……)


 胸の奥底に押し殺していたはずの後悔が、これ見よがしに蒸し返してくる。いざという時に力になれなかった自分が情けなくて、心が焼けるように痛い。


「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ……」


「そんなの言えるわけない。だって私たちはもう……恋人じゃないから」


 愛紗の言う通り俺たちはもう恋人じゃない。



 でも——。



「俺はお前の幼馴染だろ?」


 恋人よりももっと強い関係で俺たちは繋がってる。ガキの頃からずっと変わらないこの関係は、恋人じゃなくなったからといって、そう簡単に終わるもんじゃない。


「辛い時は俺を頼ればいいだろ。なんでお前は一人で背負い込もうとするんだ?」


 俺も気づいてあげられたらよかった。

 でもそれは今思い返しても難しいことだ。


 愛紗にも色んな事情があったのはわかる。でもそれで自分の心まで捨ててしまうのは、生きるために何もかも犠牲にしてしまうは、正しい選択じゃないと思うんだ。


「我慢しなくていいんだ愛紗。辛い時は誰かに泣きついてもいいんだよ」


「私だって……ほんとはそうしたかったよ」


「じゃあなんで——」


 じゃあなんでそうしなかったんだ。

 俺のその言葉を愛紗の叫びが上書きした。







「だって智樹のことが好きだから!」


「えっ……?」







 予想だにしなかった言葉に俺の思考は停止する。


「今俺のこと好きって……」


「そうだよ! 智樹のことが大好きだから、連絡したら色々思い出してもっと辛くなるから……だから智樹には何も言わなかったんだよ!」


 涙ながらに語られるその内容は、すんなり受け入れられるほど単純じゃなかった。


 半年前に起こった、俺たちが別れるきっかけとなった大喧嘩。あの時の俺は愛紗の気持ちもろくに考えず、高ぶる感情そのままに多くの失言を吐いてしまった。


 そのせいで大切な人を傷つけて、半年経った今でも頻繁に思い出してしまうほど後悔して、過去に囚われた自分を変えるために俺はこうしてデリヘルを呼んだ。



 でも——。



 いざ玄関を開けたら愛紗がいて、希望や目標、更には自身の心を捨ててしまうほどに傷ついてて……そして俺と同じ想いを抱いてくれていた。


「まだ俺を好きでいてくれたのか……?」


「当たり前でしょ! 初恋をそんな簡単に忘れられるわけない!」


 意外だった。


 あれだけの喧嘩をして、まだ好きでいてくれてたなんて。あの日に後悔を残したのは、俺だけなのかと思っていたから、愛紗の言葉は何というか……俺の救いだった。


「どうやったら智樹とやり直せるかな、許してもらえるかなって、必死になって考えてた」


 俺もだ……。


「でも連絡する勇気はなくて、諦めるしかないって思った時に偶然智樹に再会して……私、ほんとは凄く嬉しかったんだよ?」


 俺もだ……!


「温かい紅茶を淹れてもらって、濡れた私を気遣って服まで貸してくれてさ。ああー、やっぱり智樹は優しいな、大好きだなって、そう思ったの」


 愛紗の一言一言が、後悔ばかりで救えなかった俺の心に染み渡った。この半年間必死に押し殺していた感情が、想いが……これ見よがしに溢れ出てくる。


「だから智樹、今日はありがとね。智樹のおかげで少し気が楽になった」


 彼女の笑った顔を見れば見るほど、その透き通った優しい声を聞けば聞くほど……溢れ出た感情や想いが確かなものとなって全身を包む。


「それじゃ服も大丈夫そうだし、そろそろお暇するね」










「……居ればいいだろ」


「えっ?」


「このままうちに居ればいいだろ」


 帰り支度をする愛紗に気づけば俺はそう言っていた。


「それってどういうこと……?」


「仕事辞めて金に困ってるからデリヘルなんてやってんだろ? 親を頼れる状況でもないだろうし、どうせ一人暮らしするならこのままうちに住んじまえばいいじゃねぇか」


 ただの思いつきだった。

 感情任せの身勝手な提案だった。


 でも……それでも俺は今度こそ愛紗の力になりたい。こんな俺をまだ好きだと言ってくれる、あの日のことを同じように後悔してくれてる愛紗の力に。


「そりゃうちはワンルームの狭い部屋だけど、たった一人で過ごさなきゃならない今までよりは、相談役もいるし数段良い物件だろ?」


「そうだけど……でも迷惑じゃないの?」


「んなまさか。何年お前と幼馴染してると思ってんだ? 今更同じ部屋に暮らすことになっても、これっぽっちも迷惑じゃないね」


 むしろ近くで愛紗を見守れるのは、願ってもないことだった。


 またどこで躓くかもわからない。もしかしたらもっと大きな壁にぶち当たるかもしれない。そんな時一番に頼れる存在に、俺はなりたかった。



 それに——。



「それに、俺も愛紗のことが大好きなんだよ」







 こうして俺は半年間という長い後悔から抜け出し、一度は途絶えてしまった愛紗との関係をもう一度やりなおすことにした。


 その過程で愛紗は、無理をして続けていたデリヘルを辞め、髪を元の色に戻し、普通の社会人として新たな人生を歩んでいくことになったのだった。

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