夜の一篇

九十谷文乃

第1話 彼の死

 友人の博士が風変わりな機械を持って訪ねてきた。昔のカメラのように、大仰な箱にレンズとのぞき込む穴が備えられている。なんでも、それを使うと人間の持つ自意識を確かめる事が出来るらしい。

「私は常々、私と他人の在り方には決定的な違いがあると思えてならなかった。他人について分かるのは、表情や声といった外部に出ているものだけだろう? 中身がロボットと同じだったとしてもわからないのだ。これは恐怖だよ。だがこれを使えば、他人にも意識があるのだと確認出来る。素晴らしい、とてつもない発明だ。世界は一変するぞ」

 博士は興奮して私に言った。促されて覗き込んだ機械の中の景色は、私が普段見ているものとほとんど違いがなかった。違うのは、機械に映っている人間はぼんやりとした何かで覆われている事くらいだ。温度などを示すサーモグラフィーが誰が誰だかを判別できるようにかかっている、というのが近いだろうか。人によって色が違う。博士が言うには、その覆っているものが「自意識」らしい。一体これで何が変わるのか、私には見当も付かなかった。世紀の発明なのだと豪語する博士の手前何も言わなかったが、この機械がどう役に立つのかもわからない。おそらく、似たような不安を持つ人は安心するのだろう。だが、それがなんだというのだろうか。私は博士のように自分と他人の在り方に違いがあるかもしれないなどとは考えた事がなかった。

 私は屈んでいた腰を戻すと、博士に視線を移した。何か気の利いた感想を言えれば良かったのだが、生憎と言葉は出てこない。しかし、博士は私の感想になど興味はなく、関心は別のところにあるようだった。

「……この機械を発明してから、恐ろしい事に気が付いた。私以外はおそらくわかっておらんだろう。ああいや、今は君がいたな。だが、これは本当に恐ろしい事実なのだ」

「はあ。一体なんです?」

「流行病だよ。いや、病というのは語弊があるが、便宜上だ」

「流行病? これは他人の自意識を確認する機械なんでしょう。それになんの病があるっていうんです」

「それなんだよ。私が気付いたのは、自意識が消える病なんだ。一大事だというのに、この機械以外では判別出来ん。何せ確かめようがないからな」

 私は余程間の抜けた顔をしていたのだろう。博士は事がどれだけ重要なのかをこんこんと説き始めた。

「いいかね。自意識というのは、私が私であるということそのものだ」

「心があるってことですか」

「違う違う。心があったとして、それが『私』であるということだ。私は他人に心がないだの、ロボットかもしれないだのとは思っとらん。他人にだって心があって、笑ったり泣いたり、本当にしているだろう。ロボットだってあるかもしれん。だが、それとはまた別に、『これが私なのだ』と確かにさせる自意識がある。少なくとも、私にはな。見たところ、君にもあるようだ。流行病はまだ我々を蝕んでいないようだ」

「……ふむ……? それで、流行病にかかるとどうなるんです? 感情がなくなるんですか?」

「なくならん。私たちの生活は滞りなく進むだろう」

「じゃあ、問題ないんじゃないですか」

「大ありだよ。私は私のままであり続ける。名前も、感情も、性格も、記憶も同じだ。端から見たら何も変わらん。だが、私が私であるという、肝心要のこの事実は失われるのだ。それは間違いなく私の死だよ。さらに言うのなら、そこから開ける世界の死だ。私が誰になろうと、それが『私』であるならば『私』だ。だが、流行病はその『私』を殺す。見たまえ、この人物は……」

 博士はまだ説明を続けていたが、私には、博士の言うことがわからないままだった。名前も感情も性格も記憶もそのまま、私は私のままでありながら、私が私であるということはなくなる? 一体どういうことだ。何がどう違うというのか。

 私は興味を失ったが、博士はなおも研究を続けていたようだ。周りも呆れていたらしい。そうして過ごすうち、博士は流行病で死んだ。博士の言う「自意識が消える流行病」などではない。そんなもので人は死なない。そうして、私の元には形見分けという形で、博士の作った機械が残された。

 

 そしてある日の朝、彼は再び機械を覗き込んだ。やはり世界の見え方は同じだった。彼は首を振ってその機械をしまい込んだ。博士の言う「流行病」など、おそらくなかったのだ。彼はそう結論づけ、二度とその機械を覗き込む事はなかった。それでよかったのだろう。彼は、生涯彼に起きた異変に気付く事は出来ないのだから。

 それは彼にも誰にも気付かれず、世界は何も変わらなかった。だが、間違いなく彼の死であり、世界の死であった。

 私は死んだのだ。

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