追い抜く(前)

 時刻表示のデジタル数字は零時を回って、左端のゼロはぼんやりと液晶の上で光る。窓越しの夜はひどく冷たく、車内の闇は暖房と人の体温だけでは温まり切らずに淀んでいる。


「なあ、こいつら誰」


 カーステから流れる聞き慣れない歌手の声に眉を顰めてから、助手席の兄が正面を向いたまま口を開いた。


「聞いたことない? ドラマの主題歌とかでさ、ちょっと前にランキングとかよく載ってたやつ」

「あんまり覚えてねえ。つうかだから誰なんだよ」

「知らない。家にあったやつ突っ込んでるだけだしさ」

「節操ねえなあ。こだわれよ曲ぐらい、ダセえ軽なんか乗ってんだからよ」

「あー……初心者の運転中にぽんぽん悪口言うなよ兄貴」


 事故ったらどうするんだという俺の言葉に兄は短く笑い声を上げる。


「事故ったってどうなんだよこの道で。さっきから対向も後続も何も来ねえぞ」


 精々猫轢くくらいだろと兄が嘯き、俺は返事の代わりに唸り声を上げる。

 事実兄の言う通りなのだから仕方がない。仮にも国道のはずなのに、周囲にめぼしいものは何も見当たらないのだ。国道沿いに延びる線路を走る私鉄電車はとっくに終電を過ぎており、街灯は道の端にまばらに光るばかり。点々と点在する建物は夜闇に死骸のようにうずくまっている。


「だってこの時間にここ走る理由があんまりないもの。高速乗るぐらいしかないだろうに」

「一応市内周辺だろこの辺。ファミレスもある」

「今の時間市内行って何ができんだよ真夜中にさあ……」


 十時を過ぎたら駅前暗いじゃんと答えれば兄はくつくつと喉を鳴らして、


「その真っ暗な市内でぐるぐる車走らせてるやつが言うなよ」


 営業を止めてから建物だけが残るガソリンスタンドに、八時には店を閉める地元客しか来ないような洋食屋。閉店中の錆びた札を立てた回転寿司のチェーン店は俺が物心ついた頃からいつまでも見事な廃墟のままだ。

 そんな忘れられた廃物たちが眠る市街を走っているのには、俺にはちゃんとした理由があった。


「免許取れたけど乗り慣れないからさ、練習したくって」

「だからっていきなりアパート前に乗りつけてから電話寄越すなよ。いなかったらどうする気だったんだよお前」

「どっか止めて帰ってくるまで待ってたよ」


 兄はじろりと横目だけを俺の方に向けてから軽く舌打ちしてみせた。


「……この時期にそれやんなよ。さみいだろが」

「さっきの電板の温度見た? 外気温氷点下だもんな、冬だよねもう」


 道凍る前に練習しときたかったんだと言えば、兄は深々と背もたれに寄り掛かった。

 差しかかった交差点の信号は無機質な赤色を夜闇に浮かび上がらせ、俺はゆっくりとブレーキを踏む。周囲に車の一台もない、無人の交差点で律義にブレーキを踏みしめている俺に、欠伸交じりの声で兄が言った。


「これ練習になんのかよ。朝走れ。ド早朝によ」

「やだよ起きたくないもんな四時とかさあ……というか今の時期だと四時だと真っ暗だろ。六時ったら通勤とか学校遠い学生とかわらわら歩いてるから普通に危ないよ」

「田舎だなあ……車乗んねえとどこにも行けねえのが救いようもなく田舎だ」


 どうしようもない土地だよなという兄の呟きに、俺は赤信号に気を取られているふりをする。一瞬だけ兄がこちらを向いたような気もしたが、フロントガラスに映り込むその顔はいつもと何ら変わらない。愛嬌のあるようでいてつかみどころのない、へらへらとした軽薄な笑みを気配のように纏っているばかりだ。


 似ていないな、と思ってから当たり前だと自嘲する。子持ち同士──俺の母と彼の父──が再婚した結果の義兄と義弟、便宜上発生しただけの兄弟だ。一切の血縁もなくただ世間様の雑な慣例に倣って設定された関係なのだから、似ている方がどうかしている。血の繋がりなどひとしずくもないのだから、関係でいえばバイト先の同僚とほとんど同じだろう。

 仲がいいかと聞かれれば、恐らく悪くはないだろう。互いに『実の兄弟』というものがよく分からないのもあったのが大きい。俺たちは異物同士で、だからこそそれなりとの敬意と気まずさに共感を共有することができたと俺は思っている。互いに致命傷を負わないように、それでいて世間から後ろ指を指されない程度には瑕疵のないように──ひどく儀礼的で打算的だからこそ、ある種心地のいい関係を築けていたはずだ。

 兄は中学から素行に問題があり、外見も言動も典型的な不良でしかなかった。だが本人の申告を信じるのならば『ただそうしたかっただけ』でしかなく、それには複雑な家庭環境俺や義母の存在は特に関係がないそうだった。俺としても義理の兄のそういった行状については何かを言える立場でもなく、また権利がないのも分かっていたので、黙って家族としての付き合い方を守り続けていただけだ。


 それが果たして間違っていたかどうかなど、今更知ったところでどうしようもない。


 それなりにひっそりとした問題を起こしながらもそのどれもが何故か大ごとにはならず、高校を卒業したと同時に兄は当然のように家を出て行った。 家財も何もかもがほとんどそのまま残してあったので、部屋が残っているのに本人だけが切り抜いたように存在しないというのはどことなくうすら寒い風景だった。

 別に生き別れだのそういった劇的なことでも何でもなく、成人し就職した子供が家を離れるのと何ら変わらない。俺には出て行った数か月後に連絡を寄越したのだから、蒸発や絶縁だのといった重大で派手なイベントは何一つ起こりはしなかった。父母と積極的に連絡を取ろうとはしなかったが、よくある家出人のように音信不通になることもなく、こうして兄弟間の交流は続いている。今日のように突然に初心者の練習を兼ねた深夜のドライブに誘っても、文句こそ言うが付き合ってくれるのだからありがたい限りだ。兄は俺の頼みを断らないだろうし、俺は解決できる範囲の問題を定期的に兄へと押しつける役割があると思っている。なぜかと言われれば、そうするのが典型的な兄弟らしいからという間抜けな理由しか出てこない。けれども兄もそこを了解しているからこそ、こうして助手席で素人の運転に揺られているのだろうと俺は思っている。


「いつの間に取ったんだよ免許」


 頭の後ろで両手を組みながらぽつりと兄が言った。

 カーステは相変わらず顔も思い出せない歌手のバラードを流していて、気怠い曲調はひと気のない深夜の市街には妙にしっくりときた。


「ん、この間の夏。大学生は暇だからさ、合宿で一気に取った」

「大学ねえ。勉強できんのはいいことだかんな、ちゃんと卒業して免許も取っときゃ仕事もやりやすいだろうしな」

「この辺だと車乗れないと話にならないしね」

「俺も仕事で使うしな。単純にデカい車だとモノが一気に運べて便利だし」


 真っ当に働いてんなら何よりだと言って兄は片目だけをこちらに向けて笑うように細めた。


 いつか映画でも見に行こうと兄と駅前で待ち合わせたとき、乗せてもらった車を思い出す。いかにも地方のヤンキーが好んで乗りそうな車種なのに、改造やなんやの形跡はなかったのが意外だった。明らかに多人数で乗るような無闇に広い車内では兄の好みの古い洋楽が流れているばかりで、背後の広々とした空席がいやに物寂しかったのを覚えている。

 真っ当な生活をしているのかと聞けば、きっと見慣れた薄笑いが返ってくるだろう。提案した俺が言うのもなんだが、まともな人間は深夜の呼び出しにおいそれと答えたりはしない。その上兄の服装といえば派手な刺繍が夜目にも鮮やかなスカジャンで、髪色は思い切り派手な金茶髪だ。都会ならこれでもそれらしい仕事があるだろうが、こんな地方都市でそんなものがあるわけがない。およそ正業に就いているとは思えない格好だが、金に困った様子も何もないのがより一層不穏ではある。実際兄は私生活についてはそれとなく聞いてもはぐらかすばかりで、俺も今のアパートの場所と連絡先以外は何も知らない。住所も勤め先も、何一つ明確なものは教えてくれていないのだ。連絡先と言ってもスマホしか兄は持っていないのだから、その気になればすぐさまいなくなってしまうだろう。

 だから俺にはこの人を問い詰める気はないし、本人が話す以上のことも聞きたくはない。俺にそこまでこの人に干渉する権限はないだろうし、そんなことをしてしまえば今度こそこの人は俺の前からも消え去ってしまうだろう。そんな確信に似た予感がある。


 本当は兄にとっては何もかもがどうでもいいことなのかもしれないと馬鹿なことも考えることがある。そうだとしても俺にできることなど何もないことを再確認して、胸に砂が溜まるような寂しさを覚えるけどもそれだけはどうしても言い出せずにいる。この人が世界をどう捉えていたとしてもそれは全く以て個人の趣味と哲学の範疇であって、そこに軽々に口出しをするのは血が繋がっていたとしても随分な暴挙だろう。ただの成り行きの義弟でしかない俺に、それだけの干渉をする資格も価値もない。そもそも義理や情などどれほどあっても、それが他人を侵していい理由だと言い切れるわけもないだろう。


 信号が温度のない青に切り替わり、俺はアクセルを踏む。


 この交差点を抜ければ、あとは道なりに行くだけで兄の住んでいるアパートに辿り着ける。深夜の市街は店の明かりもほとんどが消え、街灯の点る歩道には酔漢の一人さえも見当たらない。いやに一方通行の多い道路にも他の車は見当たらず、ただ静かな夜の暗さに全てが沈んでいる。


「兄貴、このままアパートで降ろせばいい? どっか寄るとこあるなら聞くけど」

「あー……コンビニ寄れるか、タバコ切らした」

「だから吸ってなかったのか」


 言ってくれれば最初に寄ったのにと言えば兄はぼんやりと窓の向こうを眺めながら唸り声のような応答をよこした。

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