幽霊屋敷探検記(REMIX)

目々

踏み越える

 返ってきたテストでは完答したと思っていた物理の公式で次数を一つ落としていて、当てられた数学の例題はちょうど前後だけ解いて放っておいたやつで、昼食にと買っておいたコンビニサンドに齧りつけばリッチ化だか何だか知らないが苦手な生タマネギが大量に入っていた。


 もうどうでもいいなと部活棟の陰を縫うようにして校舎の裏口から飛び出した。その途端に高らかに鳴る昼休み終了のチャイムの音が時間切れだとこちらを嗤うように聞こえて、俺は腹が立つほど澄み切った空を睨んだ。


 幸いにも数十年前の先輩方が権利だの意識だのにうるさくていらっしゃったおかげで、俺の高校には『学生の意志を尊重して』制服が存在しない。なので余程目立つ真似をしなければ補導だの声かけだのを気にする必要は無い。だがそうだとしてものこのこと家に帰る訳にもいかないのが学生の泣き所だ。帰ったところで早退の理由を聞かれても、まともに答えられないことは自分が一番よく分かっている。なので学校にも行かず家にも帰らず、午後の授業分の時間をどこかで潰さなければならないのだ。

 近場の映画館は一昨年に潰れた。駅前のショッピングモールはテナント料で揉めた結果チェーン店が数件入っているだけの廃墟になり、唯一残っている本屋も官能小説と週刊誌ばかりが充実している有様だ。

 どうしたものかと考えて、横断歩道前で変わらない赤信号を眺めるのに飽きて周囲をぐるりと見回す。そうするとファストフード屋の傍らに置かれた公共灰皿の傍で店舗の壁に寄り掛かって煙を吐く人影、それに見覚えがあることに気付いた。


「坂城先輩」


 恐る恐る掛けた声にその人は見て分かるほどにびくりと身を強張らせて、俺の方をしげしげと眺めてから、煙草を咥えたまま手を振ってくれた。


※   ※   ※


「何してたんです、先輩」

「昼休憩、メシ済んだから一服してただけだよ……お前こそ学校どうしたの」

「切ってきました。やんなったんで」


 駅前広場の歩道。バスロータリー沿いに設置されたサンルーフの陰を先輩とのろのろと歩きながら、俺は胸を張ってサボりは学生の特権でしょうと答えれば、作業服姿の坂城先輩は短い笑い声を上げた。


「学生なら学業くらいは真面目にやれよ。俺が言えた義理でもねえけど」

「中退した人が言うと重みが違いますね」

「しょうがねえじゃん。かったるかったんだよ」


 入学したての一年生の時に、申込期間を過ぎてもふらふらしていたせいで業を煮やした担任に強制的に入らされた文学部。幽霊部員ばかりのそこで名目ばかりの部長として部室にのさばっていたのが坂城先輩だった。部活動なんてものをするような気概も理由も無かったのだろうこの人は、一応顧問が取り決めたらしい活動日には部室にいてくれはしたが、夕方になると無闇に日の射し込む畳張りの部室の中で風通しのいいところでひっくり返って見たことも無い表紙の本を読んでいるばかりだった。部長らしいことも先輩らしいことも何一つしないくせに、それでも気が向いたときに独り言のように話してくれる与太話やなんやは妙に興味深い代物ばかりで、カルトな作家の言行録や馬鹿な事件事故などのような人生に何一つ役に立たない類の知識は聞いているだけでそれなりに面白かったのだ。

 そんな妙な先輩は俺が入部して半年でいきなり高校を中退して、面倒になったのだろう顧問は他の幽霊部員に名目だけの部長を引き継がせたので、俺はさっぱり部室に顔を出さなくなった。噂じゃただの退学ではなく人を殴ったとか刺したとかそんなことも聞こえてはいたが、やっても不思議じゃないなと思う反面向いてねえだろうな、という感想が浮かぶばかりだった。

 そもそも誰を刺そうが殺そうが、俺にその暴力を向けてこないのならば至極どうでもいいことだ。だからそんなどうでもいいことは聞かず、俺はとりあえず目先の疑問を問いかけることにした。


「二年ぶりじゃないですか。今何やってるんです、先輩」

「下っ端だよ。何でも屋みてえな、そういうやつ」

「仕事中なんですか」

「これからな。清掃っつうか見回りっつうか……」


 お前暇なのと、エスカレーターの上段から俺を見下ろしながら先輩が問うた。エスカレーターを登り切って駅舎に入ってしまえば、あとは改札か八時には閉まる駅ビルぐらいしか選択肢がない。なのに話を切り上げようとしない俺に疑問を抱いたのだろう。そういう勘はきちんと働く人だった。


「当たり前じゃないですか。家帰る訳にもいかないし、この辺じゃ遊ぶとこなんざないのは先輩だって知ってるでしょう」


 少し間を置いてから、先輩が俯くように頷いた。そのままじっと俺の方を見てから、


「じゃああれだ、社会科見学でもするか?」

「は?」

「午後の仕事。余計な真似しねえってんなら連れてってやるよ。駅裏に車止めてあるから……暇潰しくらいにはなるだろ」

「いいんですかそういうの」

「良かねえよ。ただまあ、丁度いいって話だよ」


 先輩は口の端を歪めて、ひとりで行くには気の滅入る場所だからなと呟く。そのまま俺の目を覗き込むようにして、


「俺は誰にも言わない。あとはお前が黙っておけば、それで大体何とかなる」


 バレなきゃどうにでもなるもんだと言って、先輩はゆっくりと目を細めた。


※   ※   ※


 午後の日射しに微睡むように静まり返った住宅街のド真ん中。そこにひっそりとかつ堂々と鎮座するのは、地元では有名な幽霊屋敷。そこに真昼間に正面玄関から入る時点で十分刺激的ではある。

 箪笥のような二枚扉のドアノブにぐるぐると巻かれていた鎖と南京錠を無造作に外していく先輩の作業服の背中を眺めているうちに、遊園地のお化け屋敷の施設点検に立ち会ったらこんな気分になるのだろうかと、益体もないことを考えたりもした。


 室内は噂と想像を裏切る以上のものではなく、壁に無秩序に施されたスプレーの落書きや床に放り捨てられた空き缶や種々の雑然としたゴミの類さえも想像よりは控えめだった。窓から差し込む午後の日射しに照らされたそれらは、残骸として恐怖というより寂しさとこの廃屋の虚ろさを引き立てているようにさえ見えた。

 先輩は作業服のまま室内をうろうろしては、手元のクリップボードにかりかりと何かを書き込んでいる。とりあえず禁止事項もよく分かっていない状態では迂闊なこともできないなと思いながら、俺は部屋の入口に突っ立ったまま壁に殴り書かれた四字熟語の誤字を眺めていた。


「ここはリビングなんだとよ」

「そうなんですか」

「そう。家族団欒憩いの場、だったらしいけどな。見る影もねえけど」


 背もたれを裂かれてクッション材が飛び出たソファ。ひっくり返された挙句に脚が一本折られたテーブル。テレビは今時見ないような四角い箱じみた古臭い代物で、真っ暗な画面には荒れ果てたリビングの光景が映り込んでいた。


「先輩は何してるんですか」

「あー……記録。現状どうなってるかとか、そういうやつだよ」

「こんな廃墟でそんなことしてどうなるんです」

「廃墟ったって所有者とかそういうのはあるんだよ。そいつがやれっていうんなら、お代次第ではい分りましたって承んのが社会人だ」


 一応俺から離れんなよなと気のない調子の注意が飛んできて、俺は壁の誤字から先輩へと視線を向ける。先輩の目は忙しなく書類を追ってはいるが、時折窺うように俺の方へ黒目が向くのが分かった。


「一応心霊スポットでしょう。分かってますよ、一人になると大体危ないじゃないですかドラマとか映画とか」

「そういうのじゃなくても普通に危ねえからな、廃墟。老朽化とか不審者とか、季節によっちゃあ蛇だって出る」

「ロマンが無い危険ばっかりじゃないですか」

「そもそもが沢山死んだってだけの金持ちの家だよ。元から何にも無いって言えばそれまでだ」


 気の触れた息子が一家を皆殺しにした。押し込んだ強盗が家人を惨殺した。先を悲観した家族が心中した。一家が連れ込んだ人間を嬲り殺していた。

 この廃墟にまつわる噂は多岐に渡る。本当のことがどれなのかは誰も知らないのだろうし、知っているやつはきっと語りたがらない。ただこの廃墟は随分古くからここにあって、ずっと忌まわしいものとして扱われている。

 俺のような第三者にとってはそれだけで十分で、それ以上の何かが必要な訳でもない。およそのものはそういうもので、世の中の大半の情報も物も、普通に生きていく分には全く関わりがないものだ。


 ぱん、と先輩が手元のボードを叩いて、作業服の胸元にボールペンを差す。


「リビング終わりな。今日は一階だけで良いって言われてるから、もうちょいうろつくぞ」


 はぐれるなよという念押しのような先輩の忠告に、俺は素直に頷き返した。


※   ※   ※


 台所。風呂場。洗濯室。客間。広さも設備もまちまちの部屋を巡ったが、一向に面白いことも不穏なことも起こる気配はない。先輩は黙々とボールペンを走らせてはうろうろとおざなりに各部屋を歩き回るばかりで、俺はその周りを邪魔にならない程度にうろついては落書きや汚損の具合を眺めて暇を潰していた。時折先輩が手を休めずに廃墟にまつわる与太──廃墟が舞台の怪談の類似性や廃墟の如き死都を題材とした小説について──をぽつぽつと話してくれるのは、いつかの部活のようだなと考えて、懐かしいのか悲しいのか判断しがたい気分になった。


 日が少し翳ってきたなと、先輩の後をついて廊下を歩いていた俺はふと周囲を眺める。客間から出てすぐの短い廊下はそのまま玄関に繋がっているのだが、その手前の部屋、きっちりと閉められたままの襖に気づく。この原色のスプレーや降り積もる埃の中で、頑なに閉じられた襖は淡い午後の日射しに照らされて、無垢なほどに白々とした色をしている。


「先輩、一階ってんならあっちの部屋はいいんですか」

「あ?」


 怪訝そうな顔で俺の指さす方を見た先輩がびたりと動きを止めたので、あれは何か『よくないもの』なのだなとすぐさま見当がついた。


「先輩」

「……あそこは、仏間だって聞いちゃいたが」

「一階の部屋ですよ。回る必要は──」

「ない。帰るぞ」

「帰るったって玄関あっちですよ、近づいていいんですか」

「裏口回る。鍵は表から掛け直す」


 と押し殺した声で言って、先輩は俺の肩を掴む。食い込んだ指先がひどく冷え切っていて、この人は本気で怯えているのだと気付いた。

 唐突な状況の変化に追いつけずに動こうとしない足を無理矢理に持ち上げて、俺の肩を掴んだまま逃げ出そうとしている先輩に続こうとした瞬間、


 かあんと伸びやかな鉦の音がして、ゆっくりと襖が開いていく。


 真っ白な床。無機質な灰色の壁。取り付けられた手すりは艶々とした飴色で、貼られた鏡には怯えた顔の先輩とぽかんと虚ろな表情の俺が映っている。


「お疲れさまでした。もう一人、お乗りになれますよ」


 操作盤があるだろう左手側に、姿勢も美しく立つ制服の青年はそう言ってこちらに微笑を向ける。差し出された手は真っ白な手袋に包まれて、がらんとした籠内を示していた。


 エレベーターだ。ご丁寧にエレベーターボーイまでついている。目の前の光景を知識がそう判断するが、肝心の論理がどうあがいても繋がらないのでそれ以上にまともな考えが浮かばない。普通の家には据え付けのエレベーターなんてものはないし、あったとしても扉が襖なわけがない。そもそもあの場所は仏間だと先輩は言っている。

 それなのに今、俺の眼前で開かれた襖の向こうには、見事に何の変哲もないエレベーターがその籠内を露わにして乗客を待っている。

 まとまらない思考が浮かんでは意味を持てずに消えていく。エレベーターから溢れ出す照明は煌煌として、青年は脅すどころか急かす気配もなく、ただうっすらとした笑顔のまま俺を見ている。


 先輩が唸るような咳き込むような音を立ててから、畜生と分かりやすい悪態をつく。籠内を見つめたまま突っ立っている俺の肩を揺さぶって、かすれた声で呼びかける。


「見るな。帰るぞ……歩けよ、お前」

「もう一人って言いましたよあの人。乗せてくれるんですかね」


 口をついて出た言葉に、先輩が目を見開いた。肩に掛かった指が一瞬ぶるりと震えてから、もう一度掴み直すように力を込められて、薄い生地越しに爪が食い込んだ。


「耳を貸すな、誰でもいいんだ。この間の分で足りてるはずだから、これはただの気まぐれだ──そんなもんにお前が応える必要がない」


 相手にするんじゃないという先輩の顔色は真っ白で、何となくこの人はこうなる可能性を知ってはいても受け入れ切ってはいなかったのだろうなと思った。


「……誰でもいいってことは、俺でもいいってことでしょう」


 自分でも驚くほどに平坦な声が出た。先輩が戸惑ったのと同時にエレベーターの青年も僅かに表情を変えたような気がして、俺は相手がこちらをしっかりと認識していることに安堵する。

 つまるところお互いに意味のない八つ当たりと気まぐれなのだ。無作為の不運、偶然の不幸、因果も因縁も存在しない通り魔にも似た数々の不愉快な事象の群れ──それらの一つ一つは悲観するほど致命的でも達観するほど強烈でもない。ただ『普通』の濃度の、ささくれのような苛立ちども。普通の人生を送る以上はそんなものは常備されているものだと分かっている。


 それでも今日というたまたまついてない日に、どうしようもなく何もかもがうまくいかない日に、こんな絶対的な選択肢を突き付けられたのだ。それが幸運か不運なのかは分からないが、結末の見える選択肢ほど親切なものはないだろうと俺は思う。

 見え透いた毒を服んで往生するか、分かり切った救いの手に縋るか。どちらを選ぶべきかという理由は既に俺の中に存在している。

 絶望なんて大それたものでもない。鬱屈なんて仰々しいものでもない。うんざりしたというだけのことなのだろうと納得しているのだ。


「湯山、おい、聞いてんのかお前。逃げるぞって言ってんだろう」


 肩を掴む先輩の手を払いのける。先輩は俺の名前を呼ぶが、構わずに歩を進める。跳ねるように廊下を渡り切った先には光の零れるエレベーターが扉を開けていて、間近で見た籠内には塵一つ落ちていなかった。


「すんません先輩。俺はこれでいいです」


 ありがとうございますと一言だけを感謝を込めて投げつけて、俺は白々とした無機質な光に満ちた匣内へと、軽々と敷居を踏み越える。

 籠内の鏡、そこに肩越しに映った先輩に向かって手でも振ろうかと思ったがみるみるうちに背後の扉が閉まり始めたので、諦めて俺は目を瞑った。

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