第 三 章 PROJECT ADAM

第七話 創設の理由

2011年3月22日、火曜日


 柏木夫妻の足取りを掴みました私は、本日、休暇でしたので、夫妻に連絡を取りまして、お会いしていただく事を頼みました。

 その時の電話向こうから聞こえてきます司さんの声は私の知っていました何時も陽気そうで親しみがありますそれとお変わりない様子。

 とてもその声では二人のお子さんを亡くしてしまったために落ち込んでいるといいます感情を量る事はとても出来ません。

「それでは麻里、行って来ます。それと今日の夕食は別々と言う事で本当に宜しいですね?」

 麻里奈は私のその尋ねに軽く頷いて見せて下さいました。

 本当は彼女も柏木夫妻の所へ、ご一緒しませんかとお誘いしたのですが、今日は友達と遊びに行くと言う事で、私、一人だけ夫妻の所へ向かう事になったのです。

 地上階の駐車場まで来ますと、HONDA CBR1000RXRに跨りまして、Engineを始動させますと暖気のため暫くそのままの姿勢で、曇り空を眺めていました。

 さて、柏木夫妻の所在なのですが、私の思っていました当初、日本には居ないものと思っていましたが、去年の夏の終わる頃から、海外のどこから帰国していましたようで、現在は三戸特別区の日本での住居に戻っていたのです。

 Digital表示の回転速度計の針の位置を見、頃合だと判断しまして、RXRを発進させました。

 東京都内から三戸まで、車などの交通機関を利用した場合、大よそ、四十分足らずでその街へ辿り着けます。

 勿論、この私のMotorcycleも交通規則に従いました速度で移動すれば同じくらいの時間で到着することが可能です。

 手ぶらで行くには申し訳なく思いました私は銀座プランタンによりまして、柏木夫妻が好みそうな物を購入してから、三戸を目指しました。

 私は自動車よりも幅の狭い作りでありますCBR1000RXRを運転しましても、緊急で無い場合を除いては車と車の間を縫います様な走行や、道路端を行くような自動車を運転する人から見て苛立ちを覚えさせて仕舞うような走り方はしませんよう努力しています。

 自動車と同じように道路の中央を走り、信号待ちなどの停車の際も車の脇に止めるような事はせずに他の車と縦に並ぶように待つようにしています。

 自動二輪の運転手はちゃんと規則を守った運転をしている方が自動車を運転する方々に比べますと少ない事へ私はすごく残念に思います。

 自動二輪走者が辟易されませんようにもう少し、道義を弁えて、運転してもらいたいものだと常々思うところですが私がこのような所で小言を口にしましても意味がない事ですがまあ、運転の法規を守れない事は最近の自動車を運転する多くの方達にも言える事なのですけどね。

 周りの景色が見知った三戸の街のそれへと変わり、私が今走っています路線を確認しますと、館那珂へと向かう道へ折れました。

 午前十一時、少し前ごろに、私は柏木夫妻の住まう分譲高層集合住宅へと辿り着きました。

 防犯の行き届いているこの建物は先ず玄関口で、訪問宅へと連絡を取り、遠隔で門を開けていただくような形になっていました。私はGate前に設置されています機械をそうさしまして柏木夫妻の所へ繋げさせていただきまして、『はい、柏木です・・・』とそこで言葉が切れてしまいました。

 家宅内から確認が出来ます映像で私の姿に驚いているのでしょう。

「どうも、大変ご無沙汰をしておりました。藤原龍貴の長男、龍一です。今日は大事なお話しがありまして、お伺いを立てたのですが・・・」

 私の言葉が終わりますと『ガチャ』と施錠が外れる音が響き、前門が開くのです。私は中へと入り、柏木家のある階層へElevatorを利用しまして向かいました。

 夫妻の処まで辿り着きますと司さんと美奈さん、二人で私を出迎えてくれました。二人の表情に私が生きていた事に対する驚きは見えないようでした。

 美奈さんは私の母親、美鈴の二歳下の妹でありまして、明るく少々間が抜けて居ます処にとても愛嬌が感じられます方で、母の話しでは仕事はとても出来るらしく、母が対抗心を燃やして仕舞うくらいだそうです。

 外見ではその様に窺う事は出来ないのですが。しかし、私の知っていた美奈さんは何時も、溌剌と陽気に見えましたのに今の美奈さんの表情はどこと無く暗く感じられます。

 理由はご察しいたしますが。

 それに対して司さんの方は、以前と変わりません飄々としました雰囲気を見せて下さいます。

 父曰く、『私の様な堅物の親友をやっていけるのは司くらいだろう』と物事を達観しているような表情の義叔父。

「今日、此方へお伺いさせて頂いた件ですが」

「龍貴の息子の癖に、なんだ?その堅苦しい口調は・・・ってそれは龍一君の元からの口調だったな、まあ、アイツも堅苦しい奴だったけどもそれが味だしな。まあ、まあ、あせらず茶でも飲みながらゆっくりと話そうではないか。美奈、用意を頼むよ」

「ええ」

 叔母は無理していますように見えます小さな笑みで、軽くお辞儀しますと、台所へと行ってしまいました。

 居間に通されました私は司さんから座るように促されまして、彼は座ろうとします動作と一緒に声を掛けてくださいます。

「で、話しってなんだい?大よそ、君が聞きたい事は分かるけどな」

 椅子の背に腕をだらしなく、回して居ます彼は私の聞きたい事が分かっている風な事を言葉にしていました。

「それでしたら、話しは早いです。ADAM。母、美鈴が祖父から多額の援助を受けまして、大きな研究施設を運営してまで、行われましたその研究とは一体どの様なものなのです。それと、そのADAMの技術が私の弟貴斗、従弟で有り、司さんのご子息、宏之君、さらに香澄君、詩織君に施されましたその理由をお聞かせして頂きたい」

「じゃあ、まず、龍一君は、アダムの概要だけを知りたいのかい?それともその設立の理由と今までの経緯を知りたいのかい」

「出来るだけ多くの情報が欲しいので後者の方でお願いいたします」

「ああ、わかったよ」

 義叔父は言葉を返して下さった頃に、美奈さんが珈琲を運んで来て下さいました。

 司さんは砂糖やCream等、何も入れずに妻から出されたそれを口につけまして、私はまず香りを確かめまして砂糖一匙とcream少々を入れまして、匙で掻き混ぜまして、口に運びました。

 一口啜った後、司さんは研究施設設立に至りました経緯を語って下さいました。

 初めに教えて下さいましたのは人物関係からです。

 父、龍貴と母、美鈴が運命的な出会いを果たしましたのは高等学校第三学年に進級するときだったそうで、転校して来ました母に父が一目ぼれし、いきなり求婚を申し出ましたと言うことでした。

 厳格で恋愛などしそうもありません父にその様な出来事があったなど信じにくいのですが、それを大学の受験のために頑張らなくてはならない第三学年に進級したばかり時期だといいますのにあっさりと受け入れて仕舞った母にも驚きですがね。

 それから、今話しをして下さっている司さんと父は中等学校からの先輩後輩の関係で大学では専攻が違いましても疎遠になることがなく、一緒に居ることが多かったそうです。

 美奈さんは性格上の違いはありましたが姉であります美鈴と興味を惹く対象や、思考が似ていたらしく姉が進む道を共に歩んでいました。

 父、龍貴と知り合った事により、母、美鈴や叔母、美奈さんは父の幼馴染であります双子の姉妹、藤宮詩乃・詩音、炎能剣(隼瀬香澄の父)、響能律(詩織の父であり、剣の遠縁)と知りあう事になりました。

 とても穏やかで、いつものほほんとしていました姿しか知りません、私にとって正直、理解出来ませんが、当時、母は秀才ではなく、天才だったそうです。

 1974年、大学に進学しまして、三年目を向かえました母、美鈴。

 普通の二十一歳を向かえる年でしたら第三学年生ですが、当時の学業では飛び級を許されても居ませんし、男尊女卑がまだ強かった時代、ここ日本では珍しく異例中の異例、母は既に、博士課程終了を向かえていたそうです。

 母の専攻は生命工学。

 先見の目を持っていました母は父、龍貴と祖父、洸大を説得しまして企業の将来のために医療部門を設立する事を強く願ったそうです。

 母を心の底から愛していたようでした父は祖父に母の願いを叶えて頂くように必死だったそうです。

 更に祖父も医学関係に疎く、興味もなかったそうですが、今後の為に医療関連の事業に手を出すか、出さないかと迷っていた矢先でしたので母の願いをすんなりと受け入れたようです。ですが、研究内容が当時の国内の倫理観では禁忌に近い物で有りましたため、国内での研究施設建設は無理だと判断しました父が、日本企業、政府と友好が深く、研究施設の建設を受け入れてくれそうな場所と判断しました国がSingaporeでした。

 さて、母が大きな施設を要求してまで、始めようとしていました研究とは一体どの様なものだったのでしょうか?

 それは、現代の万能細胞の根幹とも言われます、変核細胞の研究だそうです。

 変核細胞とは一体どのようなものでありますのか、私にはいまひとつ分かりませんが、司さんの説明では患部の症状によって、その役割を細胞が自動認識しまして、適切な機能アミノ酸配列に塩基配列の域で組織の再形成を行います細胞だそうです。と説明して下さいましたが、やはり理解出来ませんでした。

 まあ、所謂その研究が進めば、風邪薬の特効薬が出来たり、移植による拒絶反応が無くなったりと便利尽くめになるそうです。

 そもそも母がその様な研究を思い立ちました理由は幼少の頃に病気でこの世を去りました私の母方の祖母に当たる人が移植を受ければ助かったかもしれないといいます事例からだそうです。

 移植の技術が現代とどの程度の開きが有ったのか私には分かりませんが、母は医者になる事よりも今後その技術が発展し、寧ろ、その臓器提供者不足になる事を懸念し、それを人工的に生み出すことが出来る発見をするために生命工学の分野へと進んだそうでした。そして、父龍貴に出逢い、藤宮双子姉妹、詩乃と詩音に巡り会います事で手にする事になります一冊の書物の内容を知る事により、母の思いは必ず現実の物となると確信し、研究を続けますことを諦めなかったと。

 その書物が一体どの様な物でありますのか、ごく一部の方々しかご存知ないようで、司さんは知らないようでした。

 施設の建設着工から、大よそ三年の1977年、私が産まれました翌年に研究所は完成。

 その間に母が集めました初期の研究員は百二十名、施設保守運営のための技術員六十名と当時の民間研究所では大規模なものでしたが世間には殆ど知られないようにしていたそうです。

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