第129話 河東さんと僕は at 1995/7/17
一階には生徒向けの教室はない。
職員室と、いくつかの特殊教室があるばかりだ。
その一階の、一番端にある視聴覚室の扉の前に、僕と純美子はいた。
「……」
「……」
しばらく重く、息苦しい沈黙が続いた。
やがて、どちらともなく口を開く。
「「あ……あのっ!」」
奇跡のハーモニー、と素直に喜べる心境には、とても僕はいなかった。気まずさを紛らわせるかのように首を振りながら誰もいない廊下の壁の方へと視線を泳がせる。言葉が出てこない。
「あ、あのっ……! あのね? 聞いてくれる……?」
先に立ち直ったのは純美子だ。
僕はどうしたらいいかわからずのろのろ視線を戻し、ひとつだけうなずく。純美子は言った。
「きっ! 昨日は……! 昨日は、突然変なことを言っちゃったみたいで、ごめんなさい……」
「……別に」
僕は義務感に背中を押されて、酸欠に喘ぐかのように口を開いた。
「べ、別に、河東さんが謝る必要ないと思う。変……なことを言い出しちゃったのは僕だから」
「――!」
なにも、仕返しやあてこすりをするつもりなんてなかった。けれど、自然に僕の口は、純美子のことを『河東さん』と呼んでしまっていた。はっ、として顔を上げると――涙が見えた。
「いいんだ、僕のことは。河東さんが気に病む必要なんてないんだ。君は悪くないんだから」
「違う……違うよ、ケンタ君……! 違うの……っ! 違うのに……っ!!」
叫びたかった。何が違うものか、と。
あの時と同じ敗北感、それを二度も君から与えられたってのに。なんだ違うのかとお道化て笑ってみせればいいのか、そう牙を剥いて吼えたかった。
でも、駄目だった。
僕の心の中でふつふつと煮えたぎる黒々とした情念を掻き集め、復讐を果たすための鋭く無慈悲な刃に形作ろうと願えば願うほど、それは呆気なく砕け、指の間から逃げていってしまう。
どうやっても。
憎いと、許せないと、思い願うことすらできない。
それは完全で完璧なまでの『好きだ』という形をした敗北だった。
「あ……あのね? ちゃんとお話ししたかったの。お願いだから……聞いてくれる?」
「……うん」
「昨日……あたしは、ケンタ君とはお付き合いできない、って言った……言っちゃったよね?」
息が――止まった。
さすがにうなずくことができない。
うなずいてしまったら、僕はもうきっと――。
「あれは……ずっと、ってことじゃないの。今は『YES』って言えないって意味なんだよ?」
「………………え!?」
――どくん。
束の間止まっていた心臓の脈打つビートがゆっくりと、しかし次第に早く鳴り響き始めた。
「い、今は、どうしてもダメなの! 他に、す、好きな人がいるとかじゃないからね? 神様にお願いごとをしていて、それが叶うまで『そういうことは我慢する』って決めちゃったの!」
「その、お願いごと、って……?」
「言えない……言えないの。でもどうしても叶えたい、はじめて叶えたいと思ったあたしの夢」
――どくん。
そうまで言われてしまったら、お人好しの僕はもう、背中を押すことしかできなくなる。
「……わかったよ。なら、僕も応援する! だからっ……夢に向かって突っ走れ、スミちゃん!!」
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