第112話 僕は、僕が嫌い at 1995/7/12

(僕は、僕のことを嫌い、か……)



 その日の夜、僕は布団の中に潜り込み、カラダを丸めるようにして渋田が口にした言葉をもう一度繰り返して噛み締めていた。




 僕――いや、俺が管理部へ医師の診断書を提出し、休職扱いとなって自宅で療養しはじめた頃、真っ先に浮かんだ感情は『自分自身への嫌悪と失望』だった。




 上司やクライアントを含めた周囲の期待を裏切った俺。


 精神的なストレスとプレッシャーにたやすく押し潰された弱い俺。


 残されたメンバーに中途半端な業務を押しつける形になってしまった身勝手な俺。




 己の心が弱いばかりに心身に変調をきたし、数え切れないいくつもの混乱と厄介事を生み出しておきながら、平日日中だというのに自宅にこもってごろごろと怠惰な時を過ごしている。誰がどうみても、今の自分は社会不適合者であり、この世には不要の人間なのだ、そう思った。



 しかし、かといって、自らの手で『生』を終わらせる覚悟すらも持てない。

 ああ、なんと情けない人間であろうか――本気でそう思っていた。



(でも……二人、からな)



 叔父と、親交の深かった同僚、その二人の死が自棄な決断を踏み留まらせる一因となったのは確かだ。なぜ、どうして――そう血涙を流した自分が同じ選択をする訳にはいかなかった。だが、そこに見栄というか、余計な感情が働かなかったのかと問われれば否定できない。



(結局、そんな勇気も持てない卑怯で臆病な奴なんだ、俺は……)




 生きていたい。


 生きていたいのに、未来が見えない。


 未来が見えなくて、希望が持てなくて――なのにそれでも生きていたい。




 主治医の植村先生も渋田と同じことを言っていた――まずは自分自身を好きになること、と。




 ならば、逆に問おう。




 こんな無価値な人間の、どこを好きになればいいと言うのか。


 こんな女々しく卑屈で矮小な人間の、どこを愛せと言うのか。


 何もはじまらず、何も終わらせることのできない、この永遠に不変な日々を生きる俺の。






 だから、俺は俺を愛することができない――できないのだった。






(それを……やれって言うんだな、シブチン。やっぱ、お前って奴は……)



 もしかすると。


 この『リトライ』は、そのために課せられた試練なのかもしれない。最大にして最強の敵――自分自身と向き合うための。もしそうだとすれば、俺が向き合うことを避け、ここから逃げ出してしまえば、この『リトライ』は失敗に終わる。何も変わらず、何も変えられないまま。



(そんなのは……嫌、だ……二度とないチャンスなのに……。けれど……)



 舞台なれした一流マジシャンのように、ぱん! と手を打ち鳴らせば、すべてが劇的に変化して、何もかもが薔薇色に変わって万事がうまくいく、というわけにはいかないのだ。散々こじれて、よれて、複雑に重なり合ってしまっている『糸』を、ひとつずつていねいに解きほぐして本来のあるべき姿へと戻してやらなければ、もうどうしようもないところまで来ている。


 他人のことであれば、神のごとき視点に立って、打つべき一手を教示することができる。


 それこそが俺の強みであって、仕事現場ではその能力をいかんなく発揮して物事を解決してきた。うぬぼれやはったりなどではなく、それこそが会社から評価されてきた俺のスキルだ。



(けれど、いざ自分のこととなると、さっぱりなんだよなぁ……まったく、情けない……)






 僕にできることといえば――他の誰かの背中をそっと押してやることくらい。


 それだけだ。



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