捨てた男 ②

 地上を照らす太陽が、空のてっぺんに辿り着いた時分です。

 ようやく仕事を終えた波部は、急いで会社の最寄り駅へ向かい、ちょうど停車していた準急列車に飛び乗ったのでした。


「本日モ帝京メトロヲゴ利用イタダキ、誠ニアリガトウゴザイマス。帝京メトロデハ、FANSOファンゾウイルス感染症対策トシテ、マスクノ着用ヤ手洗イウガイヲ徹底スルトトモニ、車内デノ会話ハ控エメニシテイタダキマスヨウ御協力ヲオ願イシテオリマス――」


 一人分だけ空いていた席にどっかり座って、腕時計に目を走らせます。あと十五分で、約束の時間です。

 波部は、同じ車両に詰め込まれている乗客たちをそぞろに見ました。全員、一人残らず、マスクをしています。まるで昔から法律で定められているかのような様子で、中には二重にマスクをしている人もいます。波部の向かいに座っている幼稚園児くらいの子供までが、隣にいる母親が作ったらしい布マスクをしていました。


 ――汐見ちゃん、もう着いてるかな……。


 波部には、付き合って二年あまりの彼女がいました。

 現在の会社に入社する少し前、好きなバンドの初のワンマンライブで、たまたま隣の席にいた彼女に一目惚れしたのです。


「緊張しますね、初めてのライブ……」


 そう勇気を出して話しかけたところ、自分と同じ県の出身で、自分と同じバンドが好きで、その中でも特に好きな楽曲まで同じだとわかり、すっかり意気投合したふたりはそのまま、本当にすごい速さで、恋を育んでいったのです。


「返信きてる」


 波部はどこか落ち着かない様子でスマホを見ると、画面のど真ん中にこしらえてあるメールのアイコンをたたきました。

 彼女の名前をすぐに見つけてタップすると、


   駅についたよ 

   文芸フォーラム口で待ってるね


 絵文字のない質素な文章を、波部はじいっと、食い入るように、愛おしそうな目で見つめました。たった二行の文章には、波部にしか感じられない温もりがあるのでしょう。


   了解! こっちももうすぐ着く 

   外暑いからどっか涼しいとこで

   待っててね!


 早々と返信を打ったあと、波部はリュックサックの内ポケットから二枚のチケットを取り出し、日にちや席の番号などを確認してから、また元に戻しました。


「…………」


 もう一つ、内ポケットに忍ばせてあった、紺色のケースを取り出します。

 左右対称の美しいハートを上下に開くと、真っ白と真っ赤の宝石が、夜空を照らす一等星のようにきらきら輝いていました。あの黴だらけの汚い手に触られたとあって、波部は帰宅してからすぐに中性洗剤を作って、新品の歯ブラシをおろして、指輪を丹念に、ていねいに、目に見えないすみずみまで磨き上げたのです。


「ゴ乗車アリガトウゴザイマス。合楽町、合楽町デス。オ出口ハ右側デス。扉ニ、ゴ注意クダサイ――」


 波部はリングケースを大切そうに仕舞い、人混みに紛れながらホームに出て、彼女のもとへ急ぎました。




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