夢を見るのに遅すぎるなんて事はない

夏目碧央

第1話 突如猫に転落

 「ふあー。」

大きく伸びをした。朝の5時。これから散歩に出かける。散歩から帰ってきたら、店の前の掃き掃除。俺の仕事はそのくらいだ。後は猫と同じ。ゴロゴロしたり、散歩したり。最近めっきり髪も薄くなって、寝癖を直す必要もない。

 ついこの間までは、東京の食品メーカーでバリバリ働いていた。俺は故郷の讃岐うどんを全国に広めようと、日々奮闘していた。簡単にあのコシのあるうどんが家庭で食べられるようになったのは、冷凍さぬきうどんが出来たお陰だ。その冷凍さぬきうどんを、安く販売出来るようになったのは、俺の働きが大きい、と自負している。俺は日夜問わず働き、趣味も持たず、休日返上で仕事をし、気がつけば婚期を逃し、そうして六十歳の誕生日を迎え、定年退職をした。

 信じられなかった。髪の毛が薄くなったくらいで、他は何も変わっていないのに、突然猛烈会社員から猫へ。東京にいても友達もろくにいないので、俺は故郷の香川県高松市へ帰ってきたのだった。

 高松には母親が1人で住んでいた。もうすぐ九十歳だというのに、未だにうどん屋で接客をしているのだから驚きだ。父親は20年程前に他界した。その父親と母親はうどん屋を営み、俺を育ててくれたのだった。

 家と店がくっついていて、玄関から外に出なくても店の中へ入れる。店は、父親が生きている時から働いてくれている千さんという人が今も立派にやってくれていて、店はそれなりに繁盛していた。アルバイトの店員も何人かいる。うちは高松駅からは多少離れているが、それでも朝も昼も会社員や観光客でいっぱいだった。

「清太郎、清太郎、母ちゃん店に出てくるからね。」

母ちゃんはそう叫ぶと、家の中の扉から店に入っていった。俺の朝ご飯は、テーブルの上に乗っていた。うどんだ。

 母ちゃんは店の仕事が終わると洗濯をし、掃除をし、また店に出る。それが終わると買い物に行き、夕飯を作る。

「掃除くらい俺がするよ。買い物にも行くよ。」

と言ったのだが、母ちゃんは今更自分の生活を変えたくないそうだ。

「楽(らく)しちゃったら、途端に老け込みそうだわ。」

だそうだ。じゃあ、俺はどうなのだ?こんなにぐーたらしていたら、一気に老け込んでしまうぞ。


 そんなこんなでモヤモヤした日々を送っている時に、ふと耳に入ってきたのが東京オリンピックのボランティア募集の知らせだった。

「オリンピックか・・・。」

2020年にオリンピックが東京で開かれると決まった時、世の中は浮き足立った。だが、その頃の俺はまだ仕事が忙しく、オリンピックの事など全く考えられなかった。忙しくて、テレビもろくに見ていない頃だったから。ところが、今は暇である。時間だけはたっぷりある。体力もそこそこある。実は金もある。退職金にも手を着けていないし、そもそも使い道もなくて給料も貯め込んでいた。母ちゃんは働いているし、養う妻子もいない。遊ぶ友達もろくにいない。それに、用事があって東京に行く事が、なんだか嬉しいというか、ものすごく懐かしいような気持ちがした。

 とにかく、ボランティアとはどのような事をするのか、いろいろと調べてみた。調べていく内に、どれだけオリンピックが大規模な大会で、どれだけ多くの人や企業が関わり、経済も大きく動くのか、いろいろ分かってきた。また、仲間と一つの事に向かって協力するという、あの連帯感みたいなものを感じたくなった。ほんの数日間の活動かもしれないが、きっと一生の思い出になるに違いない。

 俺は、ボランティアに応募する事を決意した。

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