第270話『背反』

 



 もうどうすればいいのか、いよいよ脳内の全てが闇に包まれた。

 手早く解決する方法はあるにはある。全てを忘れて、予定通りこの街から自分たちだけで逃げ出せばいい。

 それが可能ならどれほど楽なことか。この期に及んでゼントは潰滅的に懇篤であった。例え自身の命と引き換えであろうとも、この真情だけは覆らない。


 しかしカイロスの取った行動も理解できよう。彼の社会的、保護者的立ち位置から止めざるを得ないことを。

 開いているようで閉じている心。ならせめて黙って見逃してくれればいいのに。残念ながらゼントとは解釈違いだった。

 愚痴を零したところで見返りがあるわけでもなく、徒に時間を浪費するだけだった。



 気が付くとゼントは家の前に居て、手には家から持ってきた小型の刃物が握られている。あの時からずっと手から離さず持っていたようだ。

 いっそのことこれを使って、今ここで首を掻き切ってしまおうか。いや、やめておこう。

 なぜならこの行為自体も時間の浪費だと悟ったから。加えてジュリが家の中からこちらを見ていることに気づいたから。


 声を上げることもなく、扉の隙間からただじっとゼントを見つめている彼女。一体ジュリはゼントの様子を見て何を思っているのだろう。

 彼が自害するなら今すぐにでも飛び出して止めてくれるだろうか。ゼント自身はそう考えると同時に、なぜ自分がそんなことを考えているのか分からなくなった。

 きっと頭が疲れているのだ。今更戻ったところでこの調子では何もできそうにない。今夜のところは大人しく体を休めよう。



 分かっている。本当はこんなことをしている場合ではないことを。

 処刑は明日にでも行われるかもしれない。どうして休むことができようか。

 心の隙間を埋めるためなら自分の全てを差し出してもよかったかもしれない。


 しかし……精神的にどうしようもなかった。カイロスに殴られたせいか妙に冷静になっていて、今はこうするのが最善だと分かってしまっている。

 何も考えず詰め所に突撃できたらいくらか気分も晴れたかもしれないが。



「――ライラ、俺はどうしたら……今こそ傍にいて助けてほしいのに……」


 今までだって十分にゼントを打ちのめしてきた重圧。更に、よりによってこの時にかつてないほどの心労が彼を襲う。

 寝床の中で毛布に包まって無意識に呟いた。まだ目には涙が乾かないうちに、震えながら心の底から助けを求める。


 しかし果たしてそれは……どちらのライラに対する言葉だったのだろうか。

 少し前の彼に見せたら即答できるだろう。これは恋人へ助けを求めたものだと。


 だが、亡き者に頼ったところで一体現状の何が変わるというのか。そういう意味では例の黒い彼女に頼んだ方がよほど好転に期待できる。

 彼の者ならなんら問題もなくセイラを救い出してくれるはずだ。命令すれば喜んで遂行してくれるかもしれない。

 元凶である人殺しの化け物に頼みごと……縋れるものは何でも縋りたいばかりに選択肢をより狭めていた。



 今上に示した疑問を放った本人も直後に気づいていた。しかしどちらへ向けたものなのか自分でもわかっておらず。

 混乱しては余計に心を乱し、そして恋人に対する不義と改めて感じてはますます自分が許せなくなる。

 辛くて一刻でも早く眠りに就きたくなった。あるいは別の考えごとをしなくては。


 ジュリが心配そうに近づいて来たが既に自分の事で頭がいっぱいだ。

 肩を揺らされても構っている余裕などは到底なく、目の前にあった毛布にしがみ付く。


 眠れなくて、それでも少しでも前向きな思考を導き出したかったのに。それすらも邪魔が入ってできず。

 もう眠りに誘われるしか手段なかった。もう深夜を越えていて眠かったこともあり、比較的容易に達成できる。




 翌日、朝一番に紙に添えられた情報が玄関前に落とされていた。もしかしなくてもカイロスの仕業だろう。

 紙に書かれた内容は予想できたとはいえ驚愕のそのもの。しかし、心身ともに衰弱しきったゼントは特別驚きもしなかった。


 最近町を恐怖に貶めた殺人鬼が明日、処刑されるとの事。見せしめのため、正午に中央広場にて斬首に処する。

 それはもうご丁寧に詳らかな内容で、どうやら自警団が配布したビラらしい。

 遠ざけようとしたはずの絶望の瞬間が来てしまった。でも彼は驚くだけの元気がない。


 ユーラに起こされ、彼女の作った朝食を食べ、顔の痣を指摘される。

 しかしそれを適当にはぐらかし、気分転換すると伝えて裏の森の中に繰り出した


 何のために森に来たかといえば、家で心配してくる二人に煩わされたくなかったから。

 今は一刻を争う時なのは流石に分かっている。だからこそその場しのぎだとしても、落ち着いて一人で考えられる時間が欲しかった。

 それと賭けたい可能性がもう一つ。



 そもそもセイラが人を殺す動機などあるわけがないだろうに。元から他人とは距離を置く性格みたいだったし、どの被害者ともこれと言った接点が見られなかった。

 そして今になって自白した理由も分からない。穴だらけの捜査だと自警団は分かっているのだろうか。


 矛盾が矛盾を呼び、しかし気が付いているのはおそらく自分とカイロスだけ。

 だが自警団に指摘できない。愚かしくも現実として成り立っている状況に嫌気が差す。

 ゼントがここに来た理由は最後の賭けをしに来たのだ。これで駄目なのなら全てを諦めるつもりでいた。

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