第225話『境目』

 



「――ライラ、もう一度言う。俺のところまで戻ってこい」



 生きるか死ぬかの戦地の真っただ中、おどろおどろしい声が辺りに響き渡る。

 身の毛もよだつ状況に、ゼントは冷汗を垂らしながら彼女の横顔を鋭く睨みつける

 だがしかし、ライラにはその篤い視線の中身までは伝わらないようだ。



「これは私の戦い。大丈夫だからゼントはそこで見守っていて」


「“お前だけ”の戦いじゃない! いいからさっさと戻ってくるんだ!」


 何かが彼女の闘争心に火をつけたらしい。今は原因を探るよりも今は早く呼び戻さないと。そんな危機感がゼントの中にはある。

 今までの魔獣ならまだしも、今回の相手は未知に近い。まだこちらの想像の及ばない危険があるかもしれないのだ。


 何より、彼はライラを失うのが怖くてたまらなかった。優秀な実力の持ち主だからではない、ただあくまで一人の人間として。

 過去の悪夢の再来、それが現実に起こったのだとしたらまた正気を保てなくなって、恋人との約束も平気で破ってしまうだろう。

 どうすれば彼女を呼び戻せるのか分からない。飛び出して無理やり引っ張って逃げてもいいが、明らかにそれは論外だと理解できる。


 ゼントは地下の大洞窟で竜に出くわした出来事を思い出していた。

 下手に手を出せば迷惑どころかここが二人の墓場になることだってある。

 しかし一体どう声を掛けたらいいものか。



 迷走する想いも本能だけで動く敵の前には無意味。

 二つの声の発信源を捉えて、蹌踉樹の中から飛び出した乙はどうやら一瞬どちらから始末するか迷って固まっていた。

 だが近い方から殺ることに決めたらしい。ただ自分が生き残るために襲撃者を殲滅するのみ。


 初めはどんよりと地面の上で佇んでいた相手は、今や見違えるほどの俊足でライラにその身を賭して襲い掛かる。

 無論、ライラなら避けることには難はないがあろうことか彼女は正面から迎え撃った。

 ただ切りつけるだけでは攻撃は効かない。それを見越してか、魔術具の権能を用いて自身の正面に巨大な氷の壁を作り出す。


 刹那の見切りに乙は巨大な氷に衝突する。乙の体は多分に水分が含まれているのか、ぶつかった衝撃で思いっきり形を変えて、一部は辺りに飛び散る。

 だがライラは盾を作って防いだだけではない。氷と敵の体が接触した箇所から氷の力は浸食していく。



「――捕まえた……」


 ライラの口元には必然と嘲るような笑いが零れる。卑しくも可憐で不浄な笑みを。

 だが相手も猪突猛進の能無しではないらしく、何が起こっているのか咄嗟に理解し後ろに飛び退く。

 相手にどれほどの知能があるかは分からないが、少なくとも判断と動きの速さは人間を軽く凌駕していた。


 しかしそれに涼しい顔でついていけるライラも凄まじい。相手が後ろに下がるを確認するや、氷の壁を一瞬で解除して追撃に出た。

 能力を把握し自分の手足のように多彩に操る。これが魔術具本来の戦い方。

 属性によって武器の使い方は大きく異なるのだが、それぞれの特性を大いに生かし工夫できる。今のライラが良い例だろう。



 だが――ここからの動きは芳しくなかった。


 ライラ自身は目にも留まらぬ速さで動けるのだが、対応する魔術具の攻撃はそうもいかない。

 一振りするたびに冷気が飛び出て乙の身体を徐々に氷漬けにしていく。しかし相手も動きに慣れてきたのか、だんだん攻撃が当たらなくなっていた。

 これ以上意表を突くか動きを完全に予知するしかない。だがそんなことは普通の人間にできるはずもなく。


 ゼントはただ一人、その光景を後ろで眺めていることしかできない。

 腰抜けと罵られても、それでも構わなかった。自分の実力は自身が一番よく分かっていたから。

 戦闘員として加勢もできず下手に指示すると気を散らせる要因になるのでそれもできない。

 無能な自分を見せつけられている。事実は事実と認められた上で、まだ自尊心が削られていく。



 しばらく膠着状態が続いていた。少しずつ乙の体は削れているものの、減少傾向はより緩やかになっていく。

 ライラの顔にも少しずつ険しさが戻っていた。どうやらこんなにも苦戦するのは初めてらしい。

 やがて痺れを切らした彼女は、呼吸を整えては唐突にこう後ろに言い放った。



「――ねえ、ゼント。私のこと見てる?」


「ああ……しっかり見ている。俺ができるのはそれだけだから」


 変な質問だった。だがゼントは真摯に答える。それがせめてもの誠意だ。

 以前剣の柄に手を握りしめたまま。本能では飛び出したくも、理性でそれを抑える。

 すると次の瞬間、ライラから聞こえたのは流石に誰も予想できないものだった。




「――じゃあさ、今からかくれんぼしない?」


「はっ?」


 ふと頭の中がお花畑に包まれかける。ここは一体現実なのだろうか、という気持ちにかられたから。

 だがここは紛れもない現実、もとい戦場だ。しかも状況は悪く、聞き間違いでもないらしい。



「い、言っている意味がよく分からない! 今の状況を把握してないのか!?」


「だから、私がかくれんぼしたくなったの。十秒間だけ“目を瞑ってて”くれない? その内に全て終わらせて隠れるから。……いいから早く!」



「わ、分かった! 十数えるから待っていてくれ」


「途中で目を開けたりしちゃだめだよ。絶対に……」


 珍しくライラが怒号にも近い声を張り上げて、次には真面目な声色で命令される。ゼントはただただ黙って従う他無かった。

 慌てた様子で目をこれでもかと強く閉じて両手で瞼を抑える。更には魔が差して手の隙間から見てしまわないように後ろを向いて。


 この時ゼントが感じていたのは、あえて表現するなら以前ライラが迫って来た時と同じような恐怖だった。

 意味が分からないという状況故ではない。ただ彼女の姿が見えないという常軌を逸した何かをだ。






 ふとライラの姿を最後に捉えた時、見てはいけないものを見てしまった気がする。

 乙の攻撃かどうかは分からないが………彼女の左手が宙に舞ったように見えた。


 いやそんなはずはない。きっと何かの見間違いだ。


 ゼントはそう自分に言い聞かせて、ゆっくりと心の中で数字を数え始めた。

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