第196話『遥遠』

 



 ――翌朝、食後にゼントはジュリの処遇について考えていた。



 だが彼女に近づこうとしても、それとなくユーラに阻まれる。朝食も別々に出されたくらいだ。

 気を使ってくれているのだろうが、徹底は過ぎる気もした。しかしそれに対して文句を言うような立場にないことを彼は自覚している。

 だから言おうにも言い出せず、一人でジュリについて思案することしかできない。




 ――そんな時だった、ライラが家を訪ねてきたのは。

 突然、玄関の扉を叩く音が響き渡る。


 近くにいたユーラに目で合図し、ジュリが見つからないように対処してもらう。

 しかしそれも杞憂だった。相手は秘匿の正体を知っている者だったのだから。



「なんだよ、お前か……驚かさないでくれ」


 安堵と緊張の糸が解けて表情が緩む。そして次の瞬間には呆れた。声をかけてくれればいいのにと。

 でないと別の人間かと勘違いしてしまうてっきり、カイロスあたりが心配して、遣いをよこしてきたのかと。


 ゼントは満身創痍のように地面に座り込む。そして見上げると向こうの顔は少々怪訝だった。

 怒っているのか。いや、一昨日から特に何かを仕出かしたはずもないのに。

 だがなぜそんな表情をしていたのかはすぐに分かる。ライラが小声で呟いた、その一言で。



「……呼び方」


「へっ?」


 頓狂な声を出すも、ライラは構わず続ける。

 若干笑顔にも思える、威圧するような態度で。



「私は“お前”じゃない、約束したでしょ。これからはちゃんと名前で呼んでね」


「あ、ああ…………まあ、分かった。これからは気を付ける」


 わざわざ指摘されたので名前で呼ぼうとも考えたが、なんとなく呼ばずに流してしまった。

 ライラはまた言ってくるのかと思ったが、ゼントが了承した途端に顔には確実な笑みが浮かび上がり、そして仮面のように張り付く。

 調子付いたのか、その趨向に任せるまま話題を変えて言葉を続ける。



「それで今日は新しい依頼に行こうかと思って……」


「――悪い、まだ気分が優れなくて……申し訳ないんだが、また出直してくれないか?」


 子どものように明るく振舞うライラだった。まるで外に遊びに行くのが楽しみかのように。

 しかしゼントは笑顔に水を差さねばならない。気分が悪いというのは本当のことだ。


 原因として勿論ジュリの事もあるが、それ以上にサラの喪失が大きかったのだろう。

 加えて彼女の要望に応えられなかったこと、更に二度と会えないとわざわざ釘を刺されたこと。

 最後にも関わらず笑顔で見送れなかったこと、そして恋人をもう愛していないと言われたこと。



 他にも数え切れないほどの心残り。まだ整理もつけられていない。

 良くも悪くも、ジュリの対応で一時的に忘れていただけ。

 そのことを見透かしていたのか、一時的に口をへの字に曲げていたライラは不敵な笑みを取り戻す。



「もしかしてあの人のことで? だったら目を瞑って少しじっとしてて」


「――っおい……!」


 嫌な空気を察して制止の声をかけた。しかし既にライラは彼の眼下にまで迫って来ている。

 何らかの企みを持っていると思ったので咄嗟に握り拳で身を守り、皮肉にも防衛反射で言われた通りに目を瞑ってしまう。


 しかし次にやってきたのは、額と片耳に温かく柔らかい感触。

 軒端に吹く風に清涼を覚えながら、感じたのは不思議でもなんでもない普通の手だった。

 何をされている? ただ手を添えられているだけか……?



 それにしても、思っていたより触れられている面積が大きい気がする。

 視界が塞がれているのでよく分からないが漠然とそう思った。

 同時に、触覚しか機能しない暗闇の中でゼントは肩を竦ませる恐怖を感じる。


 そんなことがあるはずでもないのに、ふとこのまま首を折られて殺されるような気がしてしまう。

 頭の色々な箇所を触られていく内に脳裏に浮かぶのは、岩山の洞窟で惨めに死んだ女盗賊のこと。

 ライラという存在と言動はそれだけ得体の知れないものでもあった。




「――どう? 気分は落ち着いた?」


 しかし、時間にして数秒顔の周りをベタベタと触られただけで、すぐに彼女の接触から解放される。

 元々立っていた位置に戻り、しかしさりげなくゼントの手を握っていた。

 仕舞いには今伝えたばかりの情報を嫌味のように聞き返してくる。


 顔付近を触られる行為はどちらかと言えば不快に当たるだろう。こんなことで気分がましになることなんて……

 だがなんとなく一度だけ内省してみることにした。

 それだけ彼女の言には、落ち着きと説得力と信頼があったから。


 するとどうだろう。ほんの僅かに……いや、だいぶ改善された気がする。

 後悔がすっと、喉を通り過ぎて行く感覚さえあった。

 まるで嫌な記憶が意志を持って自ずから忘れ去ってくれたように。




「……ああ、少しは楽になった気がするよ。俺に何かしたのか?」


「過去の終わった人相手に執着しても気持ちが疲れちゃう。私が言いたいのはそれだけ」


 感謝の気持ちを伝えなくてはと思ったが、間を空けずにライラは笑みを見せてくる。純情可憐で邪の入り込む隙間もない表情を。

 しかし同時にまた誤魔化されるのか、とゼントは落胆の大きな息を吐く。気遣ってくれているのは理解できるのだが、少しくらいなら教えてくれてもいいのに。


 後ろ向きな思考を紛らわせる暗示のようなものか、でもこんな短時間で何をしたというのだろうか。

 人間の町での常識は無いのに、こういった生きるために役立つ小さな知恵はしっかり持っている。

 新しい体験ができたことは興味深い。ここまでされたらずっと邪険に扱うのも気が引けてきた。

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