第2話『白夢』
「――ゼントの兄ちゃん、もうここは戸締りするんだ。悪いけど………」
「はいよ――」
髭を生やし、腹に脂肪を蓄えた店主が彼のテーブルに近づいた。
巨体に似合わず申し訳なさそうな表情と声色で、彼に告げる。
彼は迷惑をかけているのはこちらだとばかりに、二つ返事で即座に了承した。
容器の中に半分残っていた液体を、喉に流し込む。
荷物を何一つ持たない彼は、すぐに立ち上がり出口に向かって歩き出す。
彼の寂しそうな後ろ姿を、多肉中背の店主は複雑な感情で見送っていた。
建物を出ると日はもう地平の彼方、あたりは薄暗い宵の口。
月明りの無いこの世界では、住宅の窓から漏れ出る火の灯りが、残っている唯一の灯りだ。
町には街頭すら存在しない。
そんな中、ゼントは自身の住処への道を急ぐ。
体全身を漆黒の衣装で身を固め、夜闇に紛れて歩く彼は、誰の目にも留まらない。
しかし、彼の方からは全てが見通せる。
この「ルブア」の町は昔も今もずっと変わらない。
街並みも、行きかう人々も、何もかもがだ。
だというのにその中、自分だけが昔と比べて、こんなにも変わってしまった。
感慨に耽る中、彼は見てしまった――路地裏で男二人に囲まれる少女を、
少女の方はフードを被り、顔はよく見えなかった。
口元は無表情だが、おそらく嫌悪の表れだろうとゼントは思った。
ここら辺ではまず見ないような姿だった。旅人だろうか?
そして男子二人の後ろ姿には見覚えがあった。自然とゼントの足取りは路地裏へ向かう。
「おい!何している――!」
男子二人は、驚き声の方向を見た。
少女の側は分かりやすく、喜んだように口を大きく開けたのが分かる。
路地裏に面した住宅の窓からの明かりで、二人の顔がぼんやりと見える。
やはりその顔は見覚えがはっきりとある。
「やっぱりお前らか……答えろ。ここで何をしている」
ゼントは彼らがしていることは分かり切っていた。
しかし、あえて彼らの口から言わせることで、罪を認識させる。
「いやぁー、なんでアニキがこんなところに居るんですか?」
「そうですよ!何でよりによってこんなところで………ゴフンゴフン!」
こいつらにアニキだなんて呼ばれる筋合いはない。
そして、どうやら彼らは自分たちのしていることを、白状する気は微塵も無いらしい。
しかしながらそれもいつもの事だ。さっさと話しを終わらせてしまおう。
「用件は一つだけだ。さっさとここから失せろ」
しかし、彼らは引き下がる気も無いらしい。
「いや、でも彼女、今晩泊まるところも無いみたいだから、うちにでも泊めてあげようかと………」
その発言にゼントに苛立ちは募らせるだけだ。
「この俺にもう一度言わせたいのか?」
「「はいぃーー!!!」」
彼らがいう事を聞かないがために、今度はドスの効いた声で威圧する。
すると、彼らは声を上げ、一目散に路地の奥へ消えていく。
まったく苛立ちの解消にはちょうどいい。
ゼントは残った少女へ目を向ける。
フードを被った少女は、その口元に笑みを見せる。
しかし、ゼントの反応はと言うと――
――ゼントは少女の口元に視線を遣ると、その瞬間、
目を見開き、足元はふらつき、動悸が激しくなった。
思考は激しく頭蓋を巡り、まるで天地がひっくり返ったようなめまいがした。
ゼントが突然そうなったわけ、それは――
――その口元の笑みが“彼女”にあまりにそっくりだったのだ。
……いやしかし、彼女がこの場に居るはずがない。
思わず頭を抱え、その場に蹲るゼント。
そして――
「――あの………」
後ろから少女が心配そうに声をかける。
しかし、その少女の声は、ゼントを更に激しい息苦しさに引き込んだ。
……かなり似ている。
記憶にあるものよりは、幾分か高いものの、それでも彼女の声にかなり似ている。
少女のフードを剥ぎ取れば、そして別人だと分かれば、すぐにこの動悸は収まるだろう。
でもさすがに、いきなりフードを剥ぐのは失礼であるし、間違いなく別人のはずだ。
そうだ。彼女がここに居るはずがない。なぜなら彼女は………
ゼントは自分にそう言い聞かせて、
そして数十秒かけて、ようやく落ち着きを取り戻す。
「――あの、大丈夫………?」
再び少女が後ろから心配そうに声をかけてくる。
どこか無垢のようで親しみやすい口調だった。
そして――
やはり似ている。
いや、今必要ない事を考える必要は無い。
こんなことで心を乱していたのでは、周りからどんな目で見られることか。
何とか取り繕おうと、立ち上がり、顔を少女の方へ向けた。
見ると少女は手を合わせ、指を組み、祈るようなポーズでこちらを怯えた様に見つめていた。
無関係な少女に、これ以上無用な心配をさせる必要は無い。
先手を打って、自ら少女に申し出た。
「取り乱して悪かった。そういえば、今晩の宿が無いのか?」
まるで先程の事が無かったかの事のように振舞う。
そして、蒸し返される前に無理やり話題を変えた。
「あの、でも…………いえ……大丈夫…です。もう見つけましたから……」
「…………そうか……こんな時間に一人で出歩くな。変な輩に絡まれるぞ」
「はい、以降気を付けます………助けてもらって、ありがとうございます」
自分が元凶とはいえ、これ以上面倒が増えなくてよかった。
何か変な言い方だったのが、少し気になるが………
ゼントが何故こんなにも、饒舌になっているのだろうか。
それは彼自身でも分からなかった。
わざわざ面倒事を負おうとしたり、ましてや忠告なぞしたりすることは、今の彼にはありえなかった。
それは、少女がやはり彼女に似ているからであろう。
彼は少女の感謝の言葉を聞くまでも無く、その場から立ち去った。
余計な時間を食ってしまった。これ以上暗くなる前に戻らねば。
不自然なことに路地に残った少女は、今晩の宿に急ぐ様子もなく、ただその場に留まり続けているのであった。
寝床に入る前、彼女に似ている人物に出会ってしまったからであろう。
夜、彼は夢を見た。
それもただの夢ではない。
――悪夢である。
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