空の端がどうなってるか、見に行ってみた
たかぱし かげる
1,はじめての夏
ふと見上げた頭の上、青い空が広がっている。
天頂は澄んだ深い真っ青で、大きく広がる布のように伸びて徐々に色を薄めながら遠いどこかへ降りていく。
白く薄められた水色の裾は、もやもやしながら山や丘の向こうへ消えていった。
少年は小さな
「おい、ヒアカ、どうした?」
畑の反対の隅で大きな鍬を動かしていた叔父から声がかけられる。急に止まってぼうと突っ立っていたから、甥が日に当てられたんじゃないかと心配したのだ。
少年ヒアカは叔父を振り返った。
「あの空の端っこって、どうなってるんだろ」
そう答えた甥に叔父は「そうか、お前も十五だものな」と呟いた。
空の端っこは、つまりこの世界の端ということになる。そこがどうなっているか、というのは誰もが一度は考えることでもあった。
「お前の親父も、空の端を見に行ったよ」
別に村では端っこを見に行くことは禁じられていない。
十五になったら好きに行ってみていい、というのが村のルールだ。
「父さんは、何て言ってた?」
少年の父親は、彼がまだ小さい頃に風邪をこじらせて死んでいる。
父親代わりの叔父はちょっと答えあぐねる顔をした。
「兄貴は……兄貴も、ネタバレしたくないから教えられないって、そう言ってたよ」
空の端を見て帰って来た人間は、なぜかみな揃ってネタバレとやらを恐怖する。だから知りたければ自分で見に行くしかない。
それが、ルールだ。
「叔父さんは見に行かなかったの?」
「俺は、まあ、行かなかったな」
十五になって空の端を見に行く人間もいる。行かない人間もいる。
何度も行く人もいたし、行って帰ってこなくなる人もたまにいた。
「……母さんは?」
「あの人も、行ってないと思ったが」
「他に誰か、行った人はいない?」
叔父は真面目に応えようと、記憶をさらってうーんと唸った。
「行ったやつ、あんまり知らないなぁ」
「……」
見に行く人の方が少数だった。
行って帰ってきた人間は「世界の果てを見た」「行って良かった」と口を揃えて言う。でも、帰ってきたときの顔ときたら、どうしようもなくしょんぼりしているのが常だった。
素朴で実直なこの世界の人間たちは、あんまり嘘がうまくない。しょんぼり顔をしていた以上、口ではなんと言おうとしょんぼりするようなものを見たのだろう、と察するのは簡単だった。
かくいう叔父も、兄のしょんぼり顔を見ただけに、まあ自分で行ってみようという気は起きなかったというわけだ。
「見に行ってみようかなぁ」
鍬に顎をのっけて遠くを見つめる甥っ子を、叔父は複雑な顔で見守った。
「母さん、俺、ちょっと空の端っこを見に行ってくる」
畑から帰るなりそう言った息子に母は驚いた顔をした。
「世界の端は、ちょっとで行けるような近場じゃありません」
驚いた割に真っ当な返答を即座に返した。
この村はこの世界で唯一人間が住んでいるところで、世界のほぼ真ん中にある。
端っこはとても遠い。
「そんなことは分かってるよ」
ちょっとというのは、気分的にちょっとつけてみただけのちょっとだ。
「端っこまで歩いて一ヶ月ぐらいだろ」
「森の中を一人で歩いて一ヶ月よ」
簡単なことではない。帰ってこなくなる人はどこかで不幸な事故にあったのだ、と村人たちは推測している。
「ちゃんと準備をしてから行くさ」
ヒアカも愚かではない。今日明日飛び出すつもりはなかった。
ちゃんと帰ってくるつもりで、戻ったら母たちに見たものを話したいと思っている。
「それに、十五になったら行っていいんだろ」
それがこの世界のルールで、ルールを越えて制限するような権限は、たとえ親でも持っていない。
素朴で実直な村人である母親は、十分準備すること、無理そうだったらすぐ戻ってくることを条件に息子の旅立ちを了承するしかなかった。
ヒアカが空の端を見るために村を出たのは、それから三ヶ月が経ったシアルの月の半ばだった。
村ではちょうど大麦の刈り入れが終わって、これから暑い夏が始まろうというころである。
荷物をぱんぱんに詰めたリュックを背負い、ヒアカは家族や友人に見送られて村の外れの小川を越えた。
丘をいくつか越えると森に入る。読み方を覚えたコンパスを握り、ここからずっと西へ向かうつもりだ。
村の外にはもちろん野生の獣が棲んでいる。そのほとんどは人間を警戒していて、襲ってくるようなことはない。
それでも知らず巣を脅かしたり縄張りを乱したりしてしまえば彼らも怒る。注意深く獣を避ける術もヒアカは覚えてきた。
他にも気を付けなければならないことは、たくさんある。
まず食料。焼き固めたパンは水をつけなければ半年も日持ちする。たくさん用意してきた。けれども運べる量には限りがあって、行って帰るのにぎりぎりしかない。少しも無駄にはできない。あと、正直あんまり美味しくない。
食べられる野草や実も教わった。が、だいたいよく似た毒物もあるものだ。見極めは慎重に慎重を重ねろと言われている。
道中あまり質のいい食事は期待できなかった。
少しばかりの慰めは、母が持たせてくれたシロップ漬けの杏子の瓶だ。大切に楽しもうと思う。
次に新鮮な水。
最初のうちは、村から一緒に流れ出た川の近くを歩いていつも水を汲むことができた。
けれども、やがて川は大地の裂け目に流れ落ちていった。
ヒアカは滝のように落ちていく川の水を追って崖の下を覗き込む。
どこまでも深いそれは底が見えない。
この裂け目は世界の底まで続いているという。落ちたら戻ってはこられない。
世界の端っこは、こうした大地の裂け目によって細く分かたれている、そうだ。
裂け目を避ける道を選びながら、ヒアカはまた空の端を目指し始めた。
川を離れてからは、水を得るために朝露を集め苔を搾ったが、ちょっと青臭かった。
夜になっても、特に火は焚かない。
森で焚き火を作ったり管理したりするのは難しい。どうしても必要なときだけにした。
幸い、寝られないほど寒い季節ではない。しっかりとした厚手のマントで体をくるんで丸まって寝た。
大地の裂け目と行き合っては避けるうち、行く先の道は徐々に狭まっていく。それでも、確実に世界の果て、空と端に近づいてきた。
森が途切れ、草原も果て、赤土の剥き出しになった一本道に出た。両側は裂け目で、切り立つ崖になっている。
もう道幅は人一人やっと通れるだけ。もはや視界を遮るものもない。少年の目に地の果てと空の端が映った。
空と地面が出会うところ。地面はとても狭いけれど。
道から落っこちないように注意して進み、とうとう少年は世界の果てに立った。
目の前に薄い水色のベールのような空が掛かっていて、ふわりふわり微かに揺れている。
そっと触ると、やわらかい幕を押したように、ちょっと揺らいでへこむ。母親がたまに焼くケーキのようにふわふわだ。
垂れ下がった空は、地面と接するぎりぎりのところできれいに切り揃えられたように消えていて、やはり微かに揺れていた。
地面のない裂け目には、空もずっと下まで垂れ下がっていて、その端っこはどうなっているか見えない。
少年は足下の空の端っこへ視線を戻し、そして思った。これをちょっと持ち上げてみたら、空の向こうがどうなっているか覗けるのではないか。
ヒアカは空の端をつまんでみた。触ったことがないほどすべやかな、薄絹のような手触りがする。少し冷たい。それをそうっと持ち上げて、ヒアカはわずかに捲ってみた。
壁があった。
やや色味を感じる、漆喰のような白いつるりとした壁。
その壁に沿って張られた幕が、どうやらヒアカたちの世界の空らしかった。
ずっとずっと上まで壁なのか。ヒアカはもうちょっとがんばって空を捲ってみた。世界を覆う大きな空は思ったよりも軽かった。
壁。壁。壁。ハズレ。
ちょうどヒアカの背の半分ぐらいまで捲ったら、壁に大きな字で「ハズレ」と書いてあった。
驚いてヒアカは空から手を離す。はらりと空が壁を隠す。
しばらく突っ立ったまま考える。ハズレ、と書いてあった。濃く、はっきりと、太い文字で。心臓がどきどきと鳴る。いや、でも、そんな。
もう一度、そっと捲ってみた。ハズレ。やっぱり書いてあった。
そうか、ハズレなのか。
一ヶ月がんばって歩いてきて、ヒアカはハズレた、らしい。
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