雨上がり

雪屋双喜

雨上がり

 思い出すといつでも雨だ。大通りを車が行き交う。僕は立っている。また別の車が通りすぎた。右から左、左から右。ゆっくりと髪が濡れていく感覚で傘を持っていないことに気が付く。目の前にたまたま停まったバスにそのまま乗り込む。後払いだと誰かが笑って教えてくれる。やわらかくもない座席に体を預ける。ゆっくりと動き出す。通り過ぎる雨粒に街が歪む。聞き慣れないアナウンスが煩いほどに鳴り響く。雨の中で大きな生き物に飲み込まれたみたいに僕は眠りにつく。そんな夢を見る。

 僕は空虚です、そう言って笑われたのが先週の木曜日だ。みんなが笑えることが幸せなんだってどこかの偉人が言っていたけど、じゃあ僕を笑った人は幸せですね、嬉しいです、僕も幸せです。自分を題に書けと先生が言って、中途半端な人数だけが気怠そうに返事をする、その次の日が木曜日だった。風が吹く暖かい午後だった。

 僕は空虚です、みんなが笑う。先生は困ったように眉を動かした。みんなの幸せが収まるのを待って僕は続きを読み上げる。ゆっくりと息を吸い込んだ。



  僕は空虚です。振り返ればそこに何もないほどの空虚です。触れようとすれば

 そこに何もないのが分かります。だから、自分、について書けと言われても、そ 

 れは空虚を描写しろというのと同じことなのです。私にはできない。それ故に、

 私は不安なのです。このただの広がりが他の何かを、自分を超えて飲み込んでし

 まわないか、反対に形あるものに搔き消されはしないか。そしてそのまま無かっ

 たことにされないか。僕という空虚な存在がいまここで書くこの一文が、間接的

 に誰かを殺してはいないか。僕は空虚です。だからこそ、僕は何かに気付きたい。

 何かを守りたい。これが僕という空虚の正体です。



 あなたが笑顔でいる時、幸せだと顔を綻ばせる時、どこか遠くの鐘が鳴って、その鐘の音を聞く誰かは別の音に殺されているんだ。ここからは見えない。でも知っているはずで、気が付いた後に見えないふりをするのは、いけないことではないのですか。

 笑ってください。幸せでいてください。誰かを愛してください。そうして、みんなで作る狭い社会で何かを抑えながら死んでいってください。そんな願いは、届くだろうか。

 笑い声も聞こえなくなって、気が付けば、誰もいない広い部屋に一人でいる。やけに固い小さい椅子が、僕の体を辛うじて支えていて、そして誰もいない。そうか、これは僕だ。きしむ椅子は僕の心だ。誰もいないのはただそれだけの理由だ。広がり続けるのが宇宙だというなら、もはや誰もそれをとらえきれない。そんなのは酷く空しいじゃないか。それならいっそのこと、僕という存在を一つの小さな入れ物に押し込んで、どこかの知らない誰かの蒐集品にでもしてください。そのほうがずっと、今よりもきっと、僕は僕を許せるから。

 


 小説の中でしか生きない。これは、私が、あなたが、殺した、心の物語です。社会と呼ばれる大きな怪物が、雨の匂いのする怪物が、飲み込んできた物語です。みんなと呼ばれる不確かなものが蹂躙する物語です。あなたの心のどこかの物語です。

  

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雨上がり 雪屋双喜 @yukiyasouki

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