第16話

「そう嫉妬だね。でも「道」、のラストみたいに僕は泣かないよ」

「以前、研究会の上映会でみたあの映画のこと。家でも復習しましたよ。何度もみました。その映画を題材にしたのは…わたし、変な空想したんです。

センセイ、、って、女の人をああいうふうに扱うのかしら。私の知らない怖いところがあるのかしら。みんなのあこがれだから。独占なんてできない、でも…」


Mはほろ酔いのまどろみを軽く振り払って、A子の空のグラスにワインを注いだ。

「あ、私が、」

「いいよ、ほぅら、遠慮しないで」


店の中はそれぞれ個室で仕切られ、他の客の様子は見えない。満席でも、せいぜい10人ほどの店だった。微かに笑い声がもれてくる中、スポットライトが低木を照らす庭を後ろに、二人は見つめあっていた。


Mも久しぶりに酒に酔い、なんとなしに、まあ、こいつでもいいか、と異性の目配せをした時だった。

デザートの後、紅茶を飲みながら、「この近くにね…」

とMがスマホを取り出すと、


「やめろ!そういったはずだ!」

最後通達のようにはっきりと耳元でささやく者がいた。


「あそこでしょ!セ、ン、セ、イ、知ってますよ」

A子はMの左手をつよく握ったかと思うと、人差し指で手掌を軽くこすった。

「ワ、タ、シ、セーンセイ、のことは何でも知ってるんです、調度いい時間、行きましょう。おいしいお酒を酌み交わしましょう」

A子は逃がさないとでもいいたげに、Mの手首をしっかりつかんだ。


「運転手さん、N公園通りを右に曲がって…」

Mは黙っていた。

その間、A子はずっとMの手を握っていた。

放そうと思えばそうできたはずなのに、手を据えたまま動かそうとしなかった。

生暖かいA子の手が汗でぬれた手掌に絡んでいた。酒のせいも加わって、さっきから鼓動が激しい。


「えーと、あの信号を直線方向に…提灯のところで止めてください…はい、センセイ、降りて」


主人は私だというように、A子はさっさとタクシーから降りた。

予定の場所は確かにそこだった。

どうして?


聞く間もなく、暗がりの階段を上がって扉を開けると、いつものオーナー兼バーテンの挨拶を受けた。

「先生、どうぞ」


カウンターオンリーのその店では、左端の花瓶を前にした場所がMのお気に入りだった。


「先生はいつもお客さんを左に据えるんでしょ、私はここ」

左向きに会話するのが、Mの癖だった。A子はバーチェアに足をかけ、端に座って、Mを引き寄せた。


「私、お店のオリジナルカクテルで、センセイはいつもの、アイリッシュウィスキー、ロックよね」

小バカにしたような、その物言いが次第にMの怒りを芽生えさせた。


「30年ものが入ってますが」


バーテンは銘柄を聞くまでもなく、いつものそれだと解ったように、牛皮のコースターをそっと置いた。


「先生、私、酔ってる」

「お待たせしました」


バーテンに遮られて、A子を叱る瞬間が遠のいた。

すでにある回答がMの頭には浮かんでいたが、それが正しいのか、何度も打ち消しながらも、結局は事実だろうと認めるしかなかった。


A子は日記を覗いている。


仕事中のA子の残像は打ち消されて、Mの中に猜疑心がどくどくと流れ出た。明確な正体は見えなかったが、逃げなければ袋小路に追いつめられるような気がした。


「かんぱぁい、はぁ、おいしい。どれどれ、先生、いつもこれ飲んでるの。味見させて」

「…どうぞ」

ウィスキーグラスを引き寄せるA子の吐息がMの横顔に当たった。

「うわぁ、、酔っちゃうよ」

そういってグラスを置いた瞬間に、A子はMの左腕をさっとつかんだ。

「ワタシ、センセイ、好き」

Mは黙っていた。

「…前の店で飲ませすぎたかもしれないね。帰ろう、送るから」

「いやよ!だって次があるでしょう。次も予約してるから」

「次って、どういうことだい」

「そんなこと私に言わせるの。覚悟できてるよ、センセイ!」


A子は掴んだ手を放さなかった。放さないどころか、強く握り返し、Mが立ち上がろうとするのを止めた。


「ほら、飲んで、センセイ。お会計、済んでるから」


バーテンが、ありがとうございましたと、頭を下げるのをよそに見て、Mは背中を押された。

「タクシーすぐ捕まるといいんだけどなぁ」


A子ののんきな顔つきや酔った足の運びが憎かった。その憎悪を持ち越したまま、今ここにいることはできなかった。


しかし彼女は手を放そうとせず、魔術にかけたようにMを金縛りにさせた。

やがて5分もすると、彼女のなすがまま、ウィンカーの点滅したタクシーの中に入った。

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