第10話

「Sさん、才能ってどう考える?」

「才能…ですか」


セッションの終わり、Sは安心したように椅子に腰を据えていた。

そこへきた、Mのいつもと様子の違った問いに、即座に背を戻した。


「そう、才能。数学の才能、語学の才能、それを教える才能。いろいろあるよね、どう思う?」


Sは一息ついて、クライエントの立場を離れて、最近ではそういう余裕も出ていたから、落ち着いて頭の中に文章を作った。


「そうですね。私の仕事上、この才能をうまくみつけて育てるのが…」

「そう!!」


Mは不躾にSの口を塞いだ。

普段は顎に手を据えて薄く目を閉じながら、クライエントの言葉を感じ取っているはずのMの目つきが変わっていた。


「教育!そうだよ!まさに教えることが君の才能だよ。そろそろ現場に戻る時期だよ。そこに気づきさえすれば、もうここに来る必要はない。完治だよ。おめでとう」

MはSの両手を握りしめた。妙に体温の染み出した厚い手だった。

いままで聞いたことのない明るい声で完治といわれ、うれしい反面、説明できない不安がSの胸を通り過ぎた。


「まだ、自信がないのですが…」

「大丈夫、復職の診断書も書いてあげよう。明日にでも学校へ提出してはどうかな」

「…そうですか」

「それと、僕も時々飲んでいる薬があるのだが。これ…なんだけど。意外だろうけどね、こういう仕事をしていると、悩みが多いものでね。短時間作用で副作用はほとんどない」


Mはそういって、引き出しから取り出した赤いコーティングのカプセルをSの目元に置いた。

銀のヒートの裏にT,Yの横文字と、4の赤い数字が刻印されていた。


「調度10錠ある。新薬で、効果は控えめだから。これに変更しようかと思ってるのでね。良ければ正式に処方するよ」


SはMに勧められるまま、その場でカプセルを飲んだ。それは口を伝って食道の中を何事もなかったようにさらさらと降りていった。

これといって変化はない。以前出された抗うつ薬は、飲み初めに腹部をくすぐるような吐き気を感じた。


「すぐに効果はでないからね。睡眠の質に作用するという触れ込みだから。明日の朝の様子で体に合っているかわかると思うよ」


Sは席を立ち、いつもの礼をいって部屋を出た。

トイレを借りて受付の支払いを待つ間、先に支払いを済ませた女の声が聞こえた。


「次は、水曜日じゃなくて、木曜日に変えてもらえませんか。どうしても外せない用事があって…」


Sは遠のく、その声を聴きながら、お会計、と書かれた札をぼーっと眺めていた。やがて胃の中に変な生き物が泳いでいるような、軽い吐き気に襲われた。


(やっぱり、合わないな)


しかしその不快はほんの数分で、後には急速に胸のつっかえがとれてくるのに気付いた。長い間Sを苦しめ、額の上にどんよりと乗っかっていた靄が急に晴れてきた。

説明できない、あのつらい気持ちは患った者にしかわからない。その苦しさが不思議なほど、跡形もなく消え去っていた。

支払いを済ませ、提出用の診断書が入った封筒を受け取る頃には、健康で快活だった、みじんの迷いのない自分に戻っていた。


(なんだよ!!)


雷でも落ちたようにつよいしびれがやってきて、病気のせいで細くなったSの手足に強い力を与えた。


「なんだよ!!」


Sの大声に反応して、奥から事務員がやってきた。診断書を手渡した若い受付の女の顔が震えていた。


「いかがしました?何か、失礼が…」

「ありがとう」

「……」

「いいんだよ、ありがとう、そういうことだよ」

「…キミ、何が」


男が震える女に問いかけるのを横に、Sは薄笑いを浮かべて、クレジットカードを内ポケットに入れた。

細い瞼だったSの目がいきり立った動物のように変化し、瞳孔の黒い点が周りを刺すように拡大した。


(アイツだ!アイツが俺を擁護しなかったからだ)


よれたスーツに時代遅れの開襟シャツ、汗っかきの禿げ頭の残像が脳裏に浮かんだ。禿げ頭はあの政治野郎の父親に向かって、ペコペコ何度も頭を下げていた。


(校長…)


車に乗り込み、ブルートゥースのコネクトサインが出る頃には、Sは獰猛な野獣に変質していた。

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