日常

@hitono2004

日常

張り詰めていた空気、緊張、そういったものが扉を開けた瞬間に糸が切れるようにプツンとした音と共に弾ける。

「ただいま」

 少し空元気のような声を出して貯めこんだ息を吐き出す。すでに靴を脱ぐことすら億劫になる。

「疲れてるね、大丈夫?」

母があきれ顔をしながら、リビングから顔をのぞかせる。その母の何気ない一言に、じわっと何かが広がった。

「うん、別に大丈夫だよ」

ボソッと一言だけ呟いて、カバンを置き、靴を脱ぐ。上がり框に腰を掛けた瞬間、外で感じた疲れやそういったものがお尻からじわじわと広がっていく。

立ち上がる気力が板に吸われていく。

 唐突に、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。すると、今まで立ち上がることまで億劫だった足に少しだけ生気が戻っていく。

 我ながら実に単純な体だ。ふらふらとリビングに体を飛び込ませると、そこには父と妹がすでに帰宅していた。

「お帰り、遅かったね」

父親がソファーに座りながらそう話しかけてくる。

「いつもより部活が長引いちゃってね」

否、嘘である。ほんとは部活になんて行っていない。

部活に行く前に部員の一人と少し喧嘩をした。いわゆる方向性の違いというやつだ。学生にはありがちとはよく言うが、こっちにだって譲れないものくらいはある。

 だからというべきか、なんとなく部活に行くのもバツが悪くなって今日は休んだ。ただ、親にこんなかっこ悪い話は聞かせたくない。

「いやさ、今日部活で佐々木がさ……」

そんなたわいもない部活の話をそれっぽく両親に話し、今日部活に行ったということを疑われないようにする。

 安っぽい芝居だということは分かっている。それでも、変な心配はかけたくなかった。

「先に、お風呂に入ってなさい」

 好物の唐揚げを食べて満足していると、母がそのように言ってきた。

「今日は、いつもみたいに筋トレしないの?」

脱衣所に入ろうとしたとき、母は何気なくそう聞いてきた。

確かにいつもなら筋トレをしている。ただ、今日はそんな事をする気分にはなれなかった。

「うん、今日はいいかな。部活ですっごい疲れたし」

そう言って少しはにかんで見せる。

「あ、そう。ならさっさと入っちゃって。後がつっかえるから」

ほら、行きなさい、と手で払われそそくさと脱衣所の中に入っていく。

 一枚一枚の服を脱ぐたびに、まるでそれが鋼鉄の鎧であったかのような重さを感じる。

実際のところは二百グラムにも満たないような軽いものではあるが。

 一枚、また一枚と脱ぐたびに少しずつ心の中のわだかまりやそういうものの皮ははがれていく。

そして、風呂場でシャワーを全身に浴びた時には体の中のものが全て流れていくようであった。

「今更になって、足にきてる」

部活に入っていないが、家に帰るわけにもいかなかったので、どうにかして時間を潰したかった。

 ただ、生まれてこの方彼女もいない自分におしゃれなカフェといった場所に入ることには抵抗があった。

 結果、いつもなら電車に乗って十五分ほどで着くような距離を歩いた。たった一人で。

 特にこれと言って目的地があったわけでもないのだが、揺れる陽炎の中をいつも乗っている路線の沿線に沿って歩いた。

「ねえまだー?」

外から妹のせかす声が聞こえた。湯舟からのそっと立ち上がると、滴る水滴は水面に何重もの円を描きながら跳ねる。

 困ったときは歩いて頭を冷やす。良く先人がやった知恵ではあるそうだが、本当にそんなものが役に立つのかと思った。

 ほんの出来心だったが、今となっては足が痛いという記憶しか残ってない。冷やすどころの騒ぎではなかった。

 妹にやんややんや言われながらも風呂から出ると、母はいつもよりニコニコとしていた。

「これは、行けるのでは?」

そそくさとゲーム機を棚から取り出し、あくまで自然に起動させる。

 普段ならばやらせてもらえるはずはないのだが、母もご機嫌そうなら大丈夫だろう。

 父も、基本こういう時は何も言わない。たぶん自分も昔に同じような経験があったのではないかと勝手に思っている。

「よし、クリア」

疲れてはいたが、意地で目標を達成する。時間は立ってしまったが、何とも言えない達成感に包まれた。ちなみに、妹はすでに寝てしまっている。

「じゃあ、おやすみなさい」

そう言ってリビングから出て自室に入ると、猛烈に眠気が襲ってきた。

 あ、ダメだ、意識が遠のく。アニメのようなセリフは頭の中に反響し、ベッドに横になった時から記憶は抜け落ちる。

 ただ、嫌なことの記憶はなんとなく薄れ、明日からはまた何とかやっていけそうな気がした。

 とりあえず、明日朝一で謝るか。深く遠のく意識の中で、そう思った。



「寝たかな?」

隣で妻がそう尋ねてくる。さっきしっかり確認してきた。少し布団が乱れてはいたが、しっかり寝ているとは思う。

「ああ、しっかり寝ていたと思うよ。しかし珍しいね。君が夜にゲームをすることを認めるだなんて」

疑問になって問いかけてみた。妻は、普段から何も言わない自分とは違って、息子が夜にゲームをすることをあまりよく思っていない。

 しかし、今日に限ってはそんなことはなく、息子がゲームをしていても鼻歌を歌っているだけだった。

「多分あの子、学校で何かあったんじゃないかしらね」

「そうなの?」

そんな話は初めて聞いた。息子も、あまりそんな様子はなかったと思う。

「あの子から直接聞いたわけじゃないけど、なんとなくそんな気がしただけよ。ちょっと様子もおかしかったし」

自分とは違ってしっかりと子供のことが分かっている妻に自分は少し恥ずかしくなった。

 湯冷めする前に、リビングから出て自分たちの寝室に入る。

「たぶん、心配かけまいとしているんじゃないかしらね」

下手な芝居するくらいならしっかり話しなさいよと少し笑う妻。そんな妻を少し尊敬した。

「親なんだから、きちんと子供には笑っていてほしい。どれだけ嫌なことあっても、次の日には笑ってまた過ごしてほしい。私はそう思うかな」

今日のことは、あの子には言わないでね。

 そう言って目を閉じる妻の姿に感心しながら、

「あいつは、君の努力に気付いてないかもしれないけど、たぶん救われているよ」

今も、これからも。自分でそこまで言いながらも恥ずかしくなったので、勢いよく目を閉じる。

 

また目を開けると、いつもと変わらない日常が始める。

ただそれは、誰かが裏で支えてくれるからこそ続くものだと、強く思った。

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