猫と終末論な過ごし方
家々田 不二春
猫と終末論な過ごし方
十月のある金曜日。
「辞めるのかい?」
「はい。正直疲れました」
「そうかい。残念だよ」
取り敢えず、仕事は辞めた。
なんでって言われても、もし残業中に地球が滅んでしまったら嫌だし。
とにかく、あの嫌味な上司から解放されて、胸は不安どころか希望に満ちている。
「何して過ごそうかな」
私、小張由紀。
つい先ほどまで、東京勤めの独身アラサー社畜OLでした。
10月中旬にもなったのに、まだ25度越えの気温。
汗ばむほどではないにせよ、真上からさんさんと降り注ぐ日光に殺意を向けながらデモ隊の間を縫って自宅に向かっていた。
こんな時間に外回りでもないのに街を歩いているのは新鮮だ。
休日は大抵、家で飼っている猫のジェニィとダラダラして過ごしている。
ちなみに、猫の名前の由来は昔読んだ小説から。
大体、休日もろくになかったから日の光を浴びるのは出社の時くらいなのだ。
「そんな生活ももう終わりだぁ!」
随分とすがすがしい気分だった。
大学の頃から数えて十年近い付き合いのアパートは、あまりにボロい。
木造ではないにしろ、水漏れはするし窓はひび割れているし狭いし、2LDKトイレ・バスタブ付き(ボロい)のボロアパートである。それが私の城だ。
ギシギシ鳴る玄関のドアを開けると、ジェニィが玄関先の廊下で出迎えてくれた。
「にゃー」
3歳のヨーロピアン・ショートヘアのジェニィは甘えたように顔を摺り寄せてくる。
「にゃーかわいいねぇーこいつはー」
私は変なテンションで私の足首にすりすりしてくるジェニィの頭を撫でる。
ジェニィは若干ウザそうな顔をしつつ、私の手をすり抜けてリビングに向かう。
それを追って私もリビングに入る。
そこには大量のビール缶と何枚もの紙皿が積み上げられたダイニングテーブルと床に無造作に投げ出された着替え。
「あぁ……」
正直に言って、片づけは苦手だ。
残業(残業代なんて支払われた覚えはない)が終わって帰ってくると、途中で買ったコンビニ弁当を食べてそのまま捨てるもんだから皿洗いなんてほとんどしていない。
朝食は食べないことのほうが多い。食べたとしても昨晩ついでに買ったおにぎりだ。
「まあ、時間あるし」
時計を見ればまだ午後一時だ。時間ならたっぷりある。
「にゃー」
ソファにちょこんと座ったジェニィが早く片付けろ、と言わんばかりに鳴いた。
「なんだこれ」
リビングの片づけを終わらせ、自分の部屋(ベッドと小さなデスクにこ服が積まれてた)の片づけも終わったので物置代わりに使っている部屋を片付けていたところ、私の眼には特徴的なフォルムのバッグが映った。
「あぁ、懐かしいな」
よくよく見てみるとそれはソフトタイプのギターケースだった。
確か、上京するときに山梨の実家から持って来たんだったか。
どこからともなく現れたジェニィが興味深そうにギターケースをつんつんしている。
「気になるの?」
「にゃー」
「じゃあ、ちょっと弾いてあげるね」
同意とも無関心ともとれる鳴き声を同意と受け取ってギターケースを開ける。
取り出したアコースティックギターは、若干埃が付いていたが弦は切れていない。
手に取って少し鳴らしてみると。
「うっ……」
わかりきっていたが音がズレている。
ポケットから出したスマートフォンを開き、チューニングアプリで一弦ずつ音を合わせていく。
すごく懐かしい感覚だ。
「よし!」
六本の弦の音がすべて合った。
「にゃー」
早く弾け、ということだと思う。
何を弾いてあげようかな、と考えているうちに勝手に指がG メジャーに合わせていた。
「じゃあね、私が一番好きな曲を弾いてあげるよ」
「にゃー」
猫と元社畜による小さな演奏会が始まった。
「あ、もうこんな時間か」
気づけば午後三時だ。
つい懐かしくてやりすぎてしまった。反省。
「なんかおいしいものでも作ろうか、ジェニィ」
「にゃー」
ギターを置いてリビングに向かい、キッチン脇の冷蔵庫を開けると。
「…………なんもないじゃん」
見事にすっからかんだ。
そりゃ食事がほぼコンビニ弁当だったとはいえ何かしらあるかと思ったが、あるのはビールとさきいか(食べかけ)だけである。
「あぁ……お母さんがいればなぁ……」
ふと零れた呟きが、自分とジェニィ以外居ない部屋で反響する。
「実家に帰りたいなぁ……」
そうつぶやいた瞬間、唐突にテレビの電源が入る。
驚いて振り向くと、どうやらジェニィがリモコンを踏んだらしい。
「……地球に急接近した流星は……」
無機質なアナウンサーの声が昨日から同じニュースを報道し続けている。
どの放送局を見ても大体が同じニュースだ。
「もう、ジェニィったら……」
リモコンの上に座ったジェニィをどかして、下敷きになっていたそれの電源ボタンを押す。
暗いニュースを見ていたら、こっちの元気まで無くなってしまう。
「コンビニでも行こうかな。ジェニィ、お留守番よろしく」
「にゃー」
気怠そうに返事をする飼い猫は、そのままステステとベランダに向かってしまう。
ツンデレな感じがかわいい。
「じゃ、行ってきます」
「あっっっっっっっっっちい」
今にも死にそうな声を発しながら、タイトスカートとYシャツという仕事着のまま歩道をふらふらと歩いていた。
車通りは少ない。
というか、人通りも少ない。
「この様子じゃ、コンビニもやってるか微妙だな……」
なんて呟いていると、自宅から徒歩三分のコンビニに着いていた。
幸い、コンビニはやっている。
広い駐車場には、一台だけポツンと自転車が置いてあるだけだが、店内の光はついている。
「らっしゃせー」
自動ドアをくぐると、クーラーが効いていて肌寒いくらい涼しい。
品揃えの少ない店内を物色して、いつもは高くて手を出さないウイスキーに手をかける。
今日くらい良いだろう。
見るからに高そうな缶詰、気になっていたけど手を出さなかったビール、ジェニィ用の猫缶、ついでに暑いのでアイスも。
「物好きですね、こんな日にコンビニとか」
レジにカゴいっぱいの酒やつまみを持っていくと、店員がボソッと話しかけてきた。
「そういうあなたもじゃないですか?」
「……確かにそうですね」
長身で細身の男性は僅かに笑う。
釣られて、私も細く笑う。
「では、こちら商品になります」
満杯になった二十号のレジ袋を渡された。
「あの、お代は……」
「僕のおごりです。良い週末を」
優しい笑みを浮かべながら、彼は言った。
私はお礼を言ってかなり重いレジ袋とともに店を後にした。
「ただいまー」
「にゃー」
家に帰ってきた。
荷物が尋常じゃないほど重いのでジェニィを潰さないよう気を付けながら玄関に置く。
「まだ時間あるな」
玄関の壁にかけてある時計は午後三時四十分。
「でもまあ、楽しいことは早くやりたいよね!」
ジェニィに向かって笑いかける。
「にゃー」
ジェニィが笑い返してくれた。かわいい。
茶色くて若干小さいダイニングテーブルが、一気にパーティー会場になった。
ポテチ、コンビーフ、牡蠣のオイル付け、チーズ、ビール、ワイン、ウイスキーなどなど。
まともに買えば二万はくだらない買い物だ。コンビニのお兄さんありがとう。
「よーし、飲むぞー!」
食器棚の奥深くに眠っていたワイングラスにワインを注ぐ。
ワインを飲むのは、大学時代の飲み会以来だ。
向かいにいるジェニィの目の前には、高級な猫缶(八百円)が二つ入った皿と水の入った皿が置いてある。
「じゃあ、退職おめでとー!私!」
「にゃー」
右手のワイングラスを傾ける。
慎み深い風味と絹のような舌触りが心地いい、なんて昔読んだ小説はワインの味を表現していたが、素人からすれば美味しい以外の感想なんて浮かばない。
でも、とりあえず美味しいのは確かだ。
「こんなに美味しかったのかぁ、もっと飲んどくべきだった」
ジェニィはまず鰹の猫缶にがっついている。かわいい。
「美味しい、ジェニィ?」
チラッとこっちを見たジェニィだったが、何も言わずに今度はマグロのほうの猫缶を食べ始めた。
かなり美味しいらしい。
ニコニコしながら私はカマンベールチーズに手を付ける。
日も沈み始めたボロアパートの一室で猫と宴会をする私はしばらくの間、時間を忘れて美味しいお酒とつまみとツンデレ気味な猫を堪能していた。
日は完全に沈んでいた。
にもかかわらず、空は明るい。
幾つもの流星が、光の尾を引いて降り注いでいるのだ。
私は狭いベランダで、これまた棚の奥で眠っていたロックグラスにウイスキーを注ぎながら空を眺めていた。
「綺麗だね、ジェシィ」
柵に器用に座るジェシィもまた、空を眺めていた。
ウイスキーが舌を刺激する。
高級な食パンを濃縮したような香りと甘み、そしてアルコールが喉を焼く。
「東京に来てから、ほとんど星空なんて見てなかったな……」
街は、異様に静かで暗闇に包まれている。
もちろん、チラホラと明かりや話し声が聞こえてくるが、いつもと比べれば無いも同然だ。
「世界の終わりってこんな感じなのかぁ……」
ジェニィがステステと部屋の中に入ってしまった。
「お母さん、元気かなぁ……」
唐突に、テレビの電源が入る。
また、ジェニィがリモコンを踏んだらしい。
「地球に急接近した流星は、直径がロンドンほどの大きさに達しており、大気圏で燃え尽きずに地球に衝突するとみられています」
無機質な女性の合成音声が流れ続けている。
「まあ、こんな週末も悪くないかもね、ジェニィ?」
私は最愛の飼い猫に問う。
「にゃー」
ジェニィが、無関心とも同意ともとれる鳴き声をあげた。
猫と終末論な過ごし方 家々田 不二春 @kaketa
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