第65話 椎名遥②


『おはよう、彼方』


『……』


『あら、やっぱり起きてたのね』



 あの日から少しだけ変わったことがある。私が彼方に声を掛ける機会が増えたということだ。彼方の看病に加えあの後もしっかり休んだことで私はすっかり元通り元気になった。そして名前も呼び捨てにすることで親近感を出す。その甲斐あって、より前向きに彼と向き合えるようになっていた。



 彼と向き合うようになって、いくつか気づかされたことがある。私と彼方の生活リズムの違いについてだ。


 私はよく彼方が閉じこもる部屋に向かって声を掛けていた。最初は拒絶されてて無視されているのかと思っていたのだが、どうやらその時間彼は眠っているのだ。さらにお風呂やトイレなどは私が学校に行っている間や眠った後に部屋を出て済ませているらしい。



(それに、最初から部屋に鍵なんてかかってなかった)



 この部屋の扉には鍵がつけられている。私は彼方の部屋が厳重に閉ざされていると思っていたのだが、どうやら彼方は最初から鍵をかけていなかったらしい。私が鍵がかかっていると、そう思い込んでいただけなのだ。



(私は拒絶されていると思っていた。そう、あのままではそう思い込んで終わってた)



 どうやら彼方は私が思っている以上に私はお父さんに興味を持っていたらしい。しかし直接関わりたくはないのでできる限り生活時間を合わせないようにしたのだとか。なんというか、矛盾した精神状態だ。彼なりの配慮なのか、本当に拒絶しようとしているのかはわからないが。


 ただ一つ言えるのは、私たちの関係性が少しずつ変わろうとしているということだ。少なくとも、私が思う限り良い方向へ。



『朝ごはん、食べないの?』


『……食べた』


『ゼリーを、でしょ? まったく、こんな食生活を送ってたなんて』



 彼方の部屋に入れるようになって新たに発覚した事実がある。彼方は私が夕飯を作って部屋の前で呼んでいるときは間の悪いことに眠ているのだが、適度にゼリー飲料を摂取していたようだ。昨日のレジ袋に入っていたゼリー飲料も恐らく彼方が自分で食べようとしていたものだったのだろう。いったいそのお金はどこから出ているのだろうか?



『カーテン閉め切ってないで、陽の光を浴びたら? このままじゃゾンビになっちゃうわよ』


『べつにいい』


『まったく……体にカビが生えてきても知らないからね』



 私はそう言って部屋の扉を閉める。扉を開けることができるようになっても、その中に踏み込む勇気まではさすがにない。だが彼方が鍵をして最初から拒絶してこないあたり、ある程度の信頼は獲得できているのだと思う。そうでなければ私は最初から無視され熱の時も放っておかれていただろう。



『夕飯、今日は絶対に起きてきてね』


『……』


『たまには、誰かと食べたいから』


『……』



 私はそう言って静かに部屋の扉を閉めて学校へと向かう。休んでしまった分授業の遅れを取り戻さないといけないし、部活だって顔を出せなかった。忙しいことには変わりないのだが、今の私にはやる気で満ち溢れていた。その理由は間違いなく彼方なのだが、その詳細まではよくわからない。もしかしたら、あの子に一人ぼっちだった自分の面影を重ねてしまっているのだろうか。



(そんなこと言っても、あの子はキョトンとして困るでしょうね)



 きっと彼方の方が私なんかよりつらい体験をしている。幼少期はもちろん、話には聞いていないが中学校だってきっとそうだ。ならば私は、そんな弟に寄り添って太陽のもとへと連れ出す。傷のなめ合いなんかじゃない、お互いを支え合うために。



『そのために、私も頑張らなくちゃね』



 食べてくれるかはわからないが、トーストなど簡単なものを作り置きしておいた。扉をもう一度開けてそのことを彼方に伝え、そのまままっすぐ玄関に向かった。



『……いってきます!』



 いつもは挨拶などしないのだが、この日は特別だ。いや、これからが特別になるのだ。彼のことを変えるには、まずは自分から変わっていかなければならない。


 私はそう奮起して学校へと向かった。弟の見本と自慢になれるくらい、最高の姉にならなくてはならない。そうでなければ、あの子は話もまともにしてくれないだろう。だが、別に見限られる恐怖はない。その時はまた倒れて休めばいいだけだ。



(とにかく今できることを全部やって、できないことを後回しに)



 私はもともと器用な方じゃない。だからできることは全力で行い、できないことは家に帰ってから取り組めばいい。家庭学習や宿題とは、本来そのような役割のはずだ。授業のすべてを理解する必要はない。矢をすべて的に当てる必要はない。そう考えた途端に一気に集中力が上がった。



 心に余裕ができたからだろうか、その日の授業は遅れているにもかかわらずすんなりと理解することができた。心なしか弓道だっていつもより矢が的に命中していた気がする。きっと普段より心が落ち着いていたからだろう。先輩や顧問の先輩も珍しく褒めてくれた。



『ただいま』



 私はそうしていつもより早めに帰宅すると、いつもはしない挨拶をする。二階で閉じこもっている彼方にも届くような声で。案の定反応はなかったが、言葉にするだけでもいつもと違う気分になれた。そう、家に帰って孤独にむせび泣く椎名遥はもういない。



『夕飯に起きてきてって言ったんだもの。それ相応のお料理を作らなくちゃね』



 そう言うことで私は得意のパスタ料理に挑戦することにする。本当はスイーツ系で責めたいところだがそれはあくまで私の好みなので今回は苦渋の思いで選択から外すことにした。



(男の子だし、お肉を使った方がいいわよね。えっと、それじゃひき肉とトマト缶があったし、ミートソースでも作ってみようかな)



 そうして私の威信をかけた料理が始まった。野菜を細かく切ってお肉を炒め、トマト缶やケチャップ、そしてその他の調味料を加えていきミートソースを作っていく。その間にパスタを茹でる。ちなみに私の好みはアルデンテなのでそこだけは譲らないようにした。彼方も麺の硬さにこだわりはあまりないだろうと信じておくことにする。



『ふぅ、レシピとか見ないで作ったけどそれっぽくできたじゃない』



 こうしてミートソースを手作りしてお手製のミートパスタが完成した。さすがにそれだけでは寂しいので傍らに簡単なスープも用意しておく。あとは彼方が降りて来るのを待つだけだ。


 そうして完成から待つこと三分、五分、十分……



『降りてこない……か』



 もしかしたら寝ているのかもしれないし、起きたうえで無視しているのかもしれない。余ってしまうパスタは帰ってくるお母さんの分に回せるので問題ないが、それでも自信を無くしてしまう。



『しょうがないわね。時間制限があるわけじゃないし、今日も私一人で……』



 そうして席に座ろうとしたとき、階段から足音が聞こえてくる。パッとそちらを振り向くと、こちらのことを伺うように彼方が降りてきていた。私と目が合うと彼方は気まずそうに目を逸らした。



(私が姉。私から話を切り出さないでどうするの)



 そうして私は意を決して彼方に話しかける。その際、私がイメージする年上口調に少しだけ変えてみることにした。



『さあ、できてるわよ。早く食べましょ』


『……寝坊した』


『そう、なら仕方ないわね。次からは気をつけなさい』



 いつまで経ってもはっきりせず、うじうじしている彼方を督促するように席へ座らせる。もちろんお腹が空いていないなどの異論は認めさせない。今日は絶対に二人で夕食を食べると決めていたのだ。事前にアレルギーがないことは聞いていたし、問題はないだろう。



『いただきます』


『……いた、だきます』



 そうして私たちは揃ってパスタを食べ始める。うん、自分で作っておいてなんだけど結構いい出来じゃない。ちょっぴり味が濃い気がするけど。彼方もゆっくりと口をつける。



『どう? 結構いい感じに出来たと思うけど?』


『……まぁ、うん、おいしい』


『あら、何か言いたげね?』



 口に運んでから難しい顔を始めた彼方に私はムッとする。一応かなり自信をもって出したのだが……


 すると彼方は、恐る恐るといった感じでこの料理の総評を並べてくる。



『もう少し、コンソメ薄めた方がいい。あと、たぶんニンニク入れてないから牛臭い』


『うっ』


『あと、玉ねぎの切り方が少し大雑把。たぶん使ってる油は……』


『わ、わかった、わかったから!』



 言わせてしまったのは私だが、ちょっと泣きそうなくらいズタボロに言われた。いや、レシピを見ずに作ったのは私なので悪いが、一口食べただけでそこまで言われるとは思ってなかった。もしかしたら私の弟は意外とグルメなのかもしれない。



『……に……べた』


『え?』



 私が自分の中のプライドと格闘していると、目の前で彼方がボソボソと喋りだした。またこの料理の評価を続けようとしているのかと思いゾッとしたが、彼方は私のことを静かに見つめてきて言い直した。



『……久しぶりに、誰かの手料理を食べた』


『……そうなの?』



 思わぬ告白に思わず目を見開いたが、聞き及んだ家庭事情を考えれば無理はないのかもしれない。どうやら彼方は、かなり悪辣な環境で育ってしまったらしいから。お母さんだって、仕事が忙しいし面倒を見切れなかっただろうし。そう、すべて運が悪いとしか言いようがないのだ。


 だが、そういう意味では私も似たようなものだ。



『それを言うなら私も、久しぶりに食べた』


『……ぇ』


『不幸自慢なら、私も簡単には負けないわよ』


『……ぁ』


『食事の時くらい、お互い嫌なことは忘れましょう』



 そうしてお互いに頷き合い再びパスタを食べ始める。二人の間に会話はなくいつもと同じで静かな食卓に変わりはないのだが、それでも一緒に食事をしてくれる誰かという存在は二人にとって特別なものだった。



『ごちそうさまでした』

『ご、ごちそうさまでした』



 そうしてパスタを食べ終わったとき、私が二人分の食器を回収して洗い始める。最初は食器を回収されておどおどしていた彼方だったが、椎名家では作った人が最後まで責任を持つというのが決まり。食べた後の皿洗いも立派な料理の一部分だ。だからこそ私がやると主張して彼方を制した。



 私は洗い物を終えるとそのままリビングで勉強することにした。テストが近いので、遅れた分を取り戻さなければならない。一方の彼方はすぐに部屋に戻ることはなく、椅子の上で三角座りをしながらスマホを弄っていた。


 時折チラチラと私のことを見てきているし、もしかしたら新しく家族となった私という人間のことを知りたいのかもしれない。思えば、今の今までまともな会話をした記憶がないし仕方のないことだ。


 私としても少し話してみたいが、自分が会話を長続きさせられる自信がなく話しかけずらい。もし変に気まずい空気を作り出そうものなら、僅かながらに構築できていた信頼が泡になってしまう。


 加えてそれとは別で取り組んでいる参考書から手が離せないというのも事実だ。今度の期末は範囲が広いため油断していたら余裕で赤点のラインを切ってしまう。とにかくそれだけは何としてでも死守しなければならない。



『すぅ……はぁ』



 思わず大きく息を吸い込んでしまう。今取り組んでいるのは苦手科目である数学だ。ようやく数学Ⅰ・Aが終わったかと思えば、すぐにⅡ・Bが始まってしまった。しかも今回のテスト範囲には双方の問題が含まれており、理解できていない部分は急いで理解しなければならない。



 だからまだ理解しきれていないⅡ・Bの方から急いで取り掛からねばならないのだが……



『……ダメね』



 彼方がいるのに思わずそう口に溢してしまう。それほど私は数学が苦手だった。中学校の頃はそうでもなかったのだが、高校の数学はまた別物で苦戦が必至。こんなのをパッと理解して解けるのなんて神童か天才のどちらかで……



『判別式の正解は異なる二つの虚数解のはずなのに、二次方程式の途中式を間違えてるせいでただ一つの実数になってる』


『……え?』


『数列も累乗の有無で使い分けるために二つあるはずの和の公式を覚えきれてないせいで、1/2と1/6を間違えて違う答えになってる。教科書の暗記不足』


『え、あ……そういえば』



 私は教科書を指し確認ししっかりと公式を覚え直す。判別式の方も最初から不等号と解の公式を間違えないようにしながら解き直したらその通りになった。



『凄い解けた……って、え、なんでわかるの!?』


『ケアレスミスが多いだけ』


『し、失礼ね! 私だって何度も確認してるし、その上で間違えたりしてるんだから仕方ないじゃないの』


『そう』


『そうよ!』



 何というか、言葉を重ねるたび醜態をさらしているような気がしてならない。とりあえずこれ以上ボロを出さないためにも再び問題演習に取り掛かる。すると今度は全問正解で終えることができた。



『彼方、あなたってもしかして天才か何か?』


『そんなんじゃない』


『頭いいならそれをもっと発揮していけばいいのに』


『……』


『あ、ごめん。そうよね、少し難しいわよね』



 今のはさすがに言いすぎてしまったと反省する。彼方はそういうのが嫌いそうだし、学校にも通えていないので知識を披露する場所もない。だからこそ、彼方が不憫で仕方ないのだ。



(私が力になれることなんて、一つもないのよね)



 どのような中学校生活を送ってきたのかは知らないが、それが彼方のことを苦しめている。それを修正することなどできるはずもないし、新たな生活を始める妨げになっている。このまま何も変わらなければ、彼方は不自由な人生を送ることになってしまうだろう。そんな彼方は見たくない。



『ねぇ彼方、もし高校に通うとしたらどんな高校がいい?』


『は?』


『あくまで仮定の話よ。一応もうすぐ冬休みだし、あなたと同じ歳の子たちは受験シーズン真っ盛り。だからもし通うとしたら、どんな学校が良いのかなって』


『……人』


『ん?』


『人と関わらないところ』



 あ、これ思った以上に重症なやつだと私はこの時再認識する。人と関わらない学校などあるはずもないし、それが最低条件ならどのような学校にも通うことができない。どうにかしてその考えを変えなければ、彼方が家の外に出ることはないだろう。


 いったいどうすれば彼方はもっと前向きになってくれるのだろう。いや、どうすれば彼方が生きやすい場所を作り出すことができるのだろうか……


 誰かが、行動を起こさなくてはならない。



『それならさ、ひとつ面白い提案があるんだけど』




 この時の私は特に何か考えがあったわけでもないし、単なる思い付きで言っただけだった。そう、本当に行き当たりばったりなのは誰あろうこの私だ。だが、何かが変わるきっかけになればいいと思って。



『私が通っている一之瀬高校を受験してみない?』

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