第176話 唯一の担任教師と一番で(3)
「―――いや違う。こうじゃない」
「む」
私が正気を取り戻したのは、いろいろと終わって生徒指導室を出ようという段階だった。
肩を抱かれるままに寄り添って、『ああ私ってとっても大事にされてるんだなぁ……』とか能天気に思ってる自分に呆れさえ抱く。
そもそもだ。
「あのですね先生。違うんです」
そんなことを言いながら体を離そうとしたら、不機嫌そうに口を尖らせた先生が抱く力を強めてきちゃうものだから、ちょろい私は少し浮かれてその体勢に甘んじた。
えへへ、じゃないんだよ私。
「そもそもですよ。私は先生に相談しようってんでわざわざお時間をいただいた訳なんですけど」
「そうだな」
「いや『そうだな』じゃなくて。全然私の問題は解決してもらってない気がするんですけども」
「ふむ」
首を傾げた先生はしばらく考える様子を見せて―――考える横顔が様になるんだよね。
それからなにを思ったか額にちゅっと口づけてきた。
「どうだ」
「どっ、どうだとは……?」
「今ので悩みも失せたろう」
???
「え。せ、先生ってそういうキャラでしたっけ」
「―――いや。すまない。間違えた」
「間違えた、って……」
顔をそむける先生だけど、私は困惑するしかない。
いったいなにをどう間違えたらそんなことになるのか。
まさか相手とか言わないよね。
普段奥さんにはそういうノリでいるとか―――
ぅ、わ、
「すまないな。お前は今は、相談を持ち掛けてくれた生徒なのだった」
「そっ、うですよ、ええ」
……間違えたのは『相手』じゃない。シチュエーションだ。
先生はつまり、TPOによってはこういうノリを私に向けてもいいと思っている……
ど、そっ、え、いやあの、え、は? 不貞行為じゃん……? なんだこの淫行教師。狂ってるのか? そんなんで奥さんに顔向けできるのかこの人……
「しかし、相談か」
私の驚愕とか呆れとかいろいろな感情を置き去りに、先生はふむりと考え込む。
そもそも相談内容を覚えているのだろうか、なんて危惧はさすがに杞憂だったようで、やがて先生は私に視線を向けた。
「私からあえて言えることなどそうはないのだがな」
「えぇ。先生なのに」
「私はアイツ以外に特別な好意を向けたことなどなかったからな。あまりお前に教えてやれるような―――どうした」
「いえ……」
話してる途中でそれはもうどうしてやろうっていうくらいに顔をしかめていた私。
先生がたずねてくるけど、あえて答えるつもりはなかった。
先生の『特別な好意を向けたことなどなかっ
続きを促すと、先生は多少気にした様子を見せたもののスルーしてくれる。
「要するに、偉そうになにかを言ってやれるほどに私は人生経験を積んでないのだ」
「でもほら、大人として言えることみたいな」
「恋愛などという複雑な感情の行為を多人数とするな」
「あはい」
そりゃあそうだ。
返す言葉もないし、私のわがままを解決してしまえるような方策をポンッと思いつけるような大人にはお近づきになりたくない。だって絶対ろくでもない。……ぐっ。自分の思考でダメージを負ったぞ……
「だが私はお前にそんな言葉をくれてやるつもりはないからな」
「なんだか気を使わせてしまってすみません……」
「いや。頼られたというのにまともに答えられんのは教師としての力不足だ。すまない」
「いやいやいや」
本当に申し訳なさそうな先生に、むしろこっちが申し訳ない。
力不足だなんて、そんな馬鹿な。
「とりあえず今は、だ」
恐縮する私にギュッと顔を近づけて、先生は笑む。
「お前を甘やかしてやるくらいしか私にはできんよ」
……もしかして、今日のことはつまりそういう意図だったんだろうか。
いろいろとあったけど、悩む私を甘やかして元気づけようと―――いやそんな感じでいい話風にまとめるとよくない気がする。騙されないぞ……!
なんて。
思ったところでね。
「……じゃあ、せんせ」
ずぃと見上げると、優しい笑みが首をかしげる。
「もう遅いので、送迎を希望します」
「しょうがない奴め。知らんだろうが、お前の家は遠回りなのだぞ」
「そんなこと聞いたら断固送ってほしくなっちゃいますねっ」
「やれやれ―――仕方がないな」
苦笑した先生は、またひとつ額に口づけをくれる。
なんかこういうことにためらいがなくなってないだろうかこの人。
「今日はもう遅いからな。特別だぞ」
そう言って先生は私を送ってくれることになった。
これがいわゆるひいきというやつだ。
まったくイケない先生だなぁ、なんて口に出したらあっさり捨てられそうなので、私はだまって無邪気に喜んでおくのだった。
……結局なんだかんだと言ってロクに実りもなかったのをごまかされている気はするけど、それでもいいかなって思わされるものが先生にはあるのだ。うむうむ。
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