第80話 幸福な姉と(2)

姉さんとキスをする姿を、姉さんの恋人である御剣さんに目撃されてから数日。

夏休み最終日である今日、私は姉さんと一緒にホテルに来ていた。


ホテルに、来ていた。


ラブいの。


なぜだ。


『ゆみも一緒に入ればいいのに』

「あ、うんと、またの機会に」

『あらそう』


あけすけなシャワー室から聞こえてくる、しゃわわわというシャワー音。

私はひとり、なんだか丸い天蓋付きのベッドの上にぽつんとしている。

それはもうふっかふかで、なるほどここで寝たらさぞ気持ちいいんだろうなという感じのベッドだ。むだにシーツとかすりすりしてしまう。


「……え、いやいや」


なぜだろう。

もちろん、まさか姉さんとそういった行為に及ぶわけではない。

たくさんの人となんともいびつな関係性を構築してしまっているこの現状で、たった一人を突然に選ぶなんてことできるわけもないし、したくもない。


だったらなぜここにいるのかと考えてみるけど……うーむ。

姉さんに拉致られた、という事実以上に推察できることがなにもない。

なぜ拉致られて、なぜここで、そしてなぜ姉さんはシャワーを浴びている?しかもあんな恥ずかしいシャワー室でだ!引っ張られそうになる視線を、私がどれほどの精神力で律していると思っているのか。


普段一緒にお風呂に入るのとはわけが違う。


なにせここはそういう用途の場所なのだ。

この場所でシャワーを浴びるというだけでよからぬことをイメージしてしまうのは、私が悪いわけじゃないだろう。


「うむむ」


考えてもわからないことを考えても無駄なのだと誰かは言う。

けれど今ここで、考えることへと注力する意識を一度でも手放せば……間違いない。私は姉さんとの不埒な妄想に頭を支配され、死ぬ。


死ぬ。


うん。

だからやっぱり私はうぐぐぐと考え込んでいて。

だけど蛇口をひねる音に体が弾んで、消える水音に生唾を飲んで、開く扉にベッドにうずもれた。


死ぬかもしれない……。


辞世の句を考えておくべきだろうかと遠い目にもなる。

そんな私を知ってか知らずか、姉さんの音は続く。

身体を拭く音ってえっちなんだなぁ、とかほんとは思いたくないのに。


「お待たせ、ゆみ」


お待ちしてません。

そう言いたいけど顔を向けられない私を布団から引きずり出して、コロンと転がされる。


バスローブに身を包んだ姉さんが私を見下ろして、なにか、とても熱い視線が、私の下腹部をじりじりと熱するかのようだった。


「姉さん、あの、私、」

「安心してちょうだい、ゆみ。あなたはなにもしなくていいのよ」


姉さんの優しい手が、私の頬をやさしくなでる。

この手にならすべてをゆだねてしまってもいいかもしれないと、そんな気持ちが、脳の内側に寄生する。


体から力が抜けていく。

姉さんが目の前にいるのに、いったい何を不安がっていたんだろう。

そんな風にさえ、思って。


そんな私を、姉さんはぐいっと抱き上げる。

ベッドのそばに寝かされて、そのまま、ベッドの下に。


……もしかして雲行き変わってきた?


「ね、姉さん?」

「そこでじっとしていてね」


姉さんは最後に一つキスをくれて、私をさらに奥へと押し込む。

暗いベッドの下で、私はベッドとにらめっこするハメになった。


どうしてこうなったんだろう。


そう思っていると、やがて部屋の内線が呼び出し音を鳴らす。

足音の後に、がちゃ、と受話器を取る音。

なにやら言葉を交わして、こんどはガチャリと受話器を置いた。


ほどなくして、扉が開かれる。


「いらっしゃい、ユキノ・・・

「……」


姉さんの声。

応えはなく、不快げな吐息が喉で対流するような、そんな沈黙の音。


ユキノ。

御剣ユキノ。

姉さんの恋人。

あの人が今、ここにいるのだと理解する。


……だとしたら、姉さんは、だからシャワーを?


「本当は、来る気はなかったんだ。アミ。なにをどう言いつくろったって、あんなの言い訳のしようもないだろう」

「ええ、そうね。言い訳をするために呼んだわけじゃないの」

「じゃあなんだい。まさか私を性で釣ろうだなんてそんなあさましいことを―――いや、すまない、私もまだ混乱しているんだ」


燃え上がりそうになった激情を、御剣さんは吐息ひとつで鎮静する。

どっかりとベッドに座る重みに、押しつぶされるような錯覚があった。


「君が、そんなことをする人間でないとは分かっているつもりだ。冗談が過ぎるところはあるけれど、それでも、冗談を過ぎることはなかった」


だから、と、彼女は言う。

姉さんの恋人として、姉さんを、もしかしたら私よりも知っているかもしれない、彼女は。


「だから―――あれはやっぱり、本気、だったんだろう……?」


あれ。

私と姉さんがしていたこと。

姉妹でのくちづけ。


私とあみさんの、キス。


彼女はそれを本気と呼んだ。

返答はなく、だけど、その沈黙は言うまでもないという肯定だ。

そんな事実に、ほっとする。


してしまう。


その瞬間に、私は、姉さんをほんの少しでも疑っていたことに気が付いた。

姉さんにとって大切な人は御剣さんで、ただわがままな妹の願いを聞いているだけで。


だからこの数日間私と触れ合おうとしてくれなかったんだと、そんな風に、疑っていた。


「君は、君の望みはなんなんだ?ゆみかちゃんをどうするつもりなんだ。君が妹思いなのはよく知っている。それが少し、並外れていることにも薄々は感づいていた。だけど、だからこそ分からないんだ」


御剣さんもまた、何かを疑っているようだった。

だけどそれは私の、あまりにも自己中心的な疑いではなくて。


「どうして君は、私がいるのにあんなことをした?君が大事に思っているはずのゆみかちゃんに、どうしてそんな、浮気のようなことさせたんだ」


浮気。

その言葉が、心臓を止める。


それはそうだ。

彼女の目から見て、間違いなく私と姉さんのしていることは浮気だ。

それを姉妹だからと納得できるのは、私たちが当事者だからで―――


いや。

もしかしたら、違うのだろうか。

それを姉妹だからと、姉さんは、本当に納得しているのか?


「それを知るべきだと思ったから、今日は、ここに来た。……思えば。君が話したいと私を呼び出したのは、初めてのことだったね」


いつのまにか。

御剣さんの声は、ずいぶんと優しい。

いつものような、恋人に向ける声だ。


二人の間にある強固な信頼が、声から、言葉から、伝わってくる。


ああ二人は間違いなく愛し合っているのだと。

そんな理解に、心臓が重い。

背骨を砕いて、床をぶち抜いて、落ちて行ってしまえばいいのに。


「あなたは本当に優しいのね、ユキノ」


こんな声聞きたくない。

私以外に―――私以上に、愛で語るな。

そんな姉さんいやだ。


それなのにここは、耳をふさぐにはあまりにも、狭い。


「私にとってゆみは……誰よりも、なによりも、大切な妹なの。……そうでなくては、いけないのよ」

「いけない、か」

「……だから、ゆみをもっと、愛したいの。キスだけじゃない。もっと先まで。もっと深く、ゆみを、愛したいの……そうしないと、あなたが、あなたが、いるから」

「!……君にとって私は、私はそんなにも、大きなものだったのか?」

「そうね……あなたを愛することは、いつのまにか、ゆみを愛するのと同じくらい、大切なことになっていたわ」

「だからあんなことを?」

「そうしないと、私は、いつかゆみよりもあなたを愛してしまうから。……何年後のことかはわからないけど、でも、きっとそうなってしまう」

「恋人に向けるものとゆみかちゃんに向けるものは、違うんじゃないのかい?」

「違うから恐ろしいの。どうやって比べればいいかも分からないのから、気が付いたときに……気が付かないくらいに、ゆみを、ゆみを大切に、できなくなってしまうかもしれない。そんなことは、絶対に許せないわ」

「どうして君は、ゆみかちゃんをそんなにも?仲のいい姉妹だとはわかる。だけど、君の想いはなにか、まるで、ゆみかちゃんを永遠に君の手元に置いておきたいような、そんな風に見える」

「そんなこと、当り前なの。だってゆみかは、大切だから、ずっと、私のそばに、だから、私はずっとゆみかを、」

「アミ」

「ねえ、お願いよ……お願い……ゆみかを愛させて。これからも。そうじゃないと私、あなたのそばにいられない。そんなの嫌よ、いやなの、離れたくない」

「アミ、アミ。……君のことが、少しわかった。君のそれは、あまりにも、危うい」

「だったらなに?私を見捨てるの?」

「……君は知らないかもしれないけれど。私は、君が思っているよりも、君のことが好きなんだ」

「ユキノ……」

「君の心に、気が付いてあげられなくてすまなかった。見捨てるだなんてそんなことはしない。アミ。私はたぶん、君のことを、もっと知るべきなんだろう」

「ありがとう……ごめんなさい、こんな、こんなこと」

「いいんだ。君が、君がゆみかちゃんをちゃんと大切にできるように、私も努力をする。だから君も少しずつ、ゆみかちゃんへの気持ちに折り合いをつけるんだ」

「そんな……!」

「君が、ただゆみかちゃんを好きでいるのならそれは仕方のないことだ。だけど、今の君のゆみかちゃんへの想いは、あまり健全とは言いにくい。それは自分でも、なんとなくわかっているんじゃないのかい?」

「……」

「その結果私を振って、ゆみかちゃんと添い遂げるというのならなにも言わない。だけど今の君は、だめだ。それをただの愛情と呼ぶことは、いたずらにゆみかちゃんを傷つけるだけでしかない」

「……わかったわ」

「そうか……」

「……少しだけ、ひとりにしてくれるかしら。ごめんなさい、私が呼び出したのに」

「いいんだ」

「明日のデートは、でも、なしにしたくないの。あなたに会いたいわ」

「分かった。また明日」




「ゆみ?ゆみ。ゆみ。ゆみ。ああ。泣いているの、ゆみ。かわいそうに。ごめんなさい。大好きよ。愛してる。これからも、ずっと、愛してる。うふふ。聞いたでしょう?ユキノが、あなたをちゃんと愛せるように手伝ってくれるんですって。これで私、ちゃんと、ゆみを一番大切にできるわ。うふふふふふ―――」

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