第九話 翔子危機一髪!え?姉貴もだってぇっ!

~ 2011年5月30日、月曜日 ~


 今も、明確な進路を決められず、喫茶店トマトでパートをしていた。

 現在もSICXに戻らない俺の事を見ていた店長の夏美ちゃんはこのまま、ここに俺が残るのだと、勝手に決め付け始めてしまう始末。

 それは俺が仕事上がりの時間だった。

 どういう理由なのか、彼女、藤原翔子さんが俺に会いに来ていた。

 品の良い可愛らしさで俺を呼ぶ、青碧色のスーツを着こなした翔子さんは柔らかな笑みを俺に向け、軽く手を振ってくれていた。

 淑女の名に相応しい動作で、俺の方へ歩み寄ってくると、何か大事な話しがあるから、時間を作ってくれないか、と尋ねて来た。

 最近は右京の望みどおり、仕事は午後六時半まで、家への帰宅は七時までに着ける様に努力していた。

 笑い事じゃないが、この歳である意味門限とも言える物に縛られちまった。

 何も連絡せず、遅くなると右京に文句を言われそうだったから、妹へ連絡し了承を貰ってから翔子さんに返事を戻していた。

 はぁ、なんで、こんな事で態々、右京の許可を頂かなくちゃならないんだか、兄として、本当に情けねぇよ、まったくな。

 同僚に一席借りるといって、空いている席を見つけると、翔子さんと一緒にそこへ向かった。

 翔子さんに最近出したばかりの飲み物を奨め、俺は最近妙に嵌まってしまった水出し珈琲を頼んでいた。

「で、俺に用事って何すか、翔子先生・・・」

 睨まれた。

 注文の品を持ってきた同僚は翔子さんの今の表情を見て、ぎこちない、挨拶で物を置いていくとそそくさに立ち去っていた。

 で、翔子さん、双眸を閉じながらSOLEILって名前の紅茶を一口飲むと静かに持っていた器を皿の上に戻す。

 それと同時に瞼を上げて、冷静な顔を俺に見せてくれた。

「慎治君、私への敬称、いま、何とお呼びしてくださいました?」

「ええ?俺、ちゃんと翔子さんって言いませんでしたか、あははは」

 どうして、学校に居るときはそう呼んでも、怒る事なかったのに、私生活の場で先生と呼ばれることがそんなに嫌なのか、俺には理解できない、今でも。

 それで俺の返答の仕方に嘘を吐いている事を理解しると軽く呆れた顔を作ってから続きの言葉を呉れる。

「まあ、いいですわ。ですが、お忘れしないでください、私はもう教職には就いておりません事を・・・、・・・、・・・。早速ですが、今日こちらへ、慎治君の所へ参りました用件についてお話しさせて頂きますわね」

 そう言って、翔子さんは用件について話し始めた。どんな内容かというと・・・、俺は眉間に皺を寄せ悩んだ。

 翔子さんは俺にSICXに戻るくらいならFHTD(Fujiwara High Technology Development organization Group

=藤原先端技術開発機構団)に入社してみないか、って。

 貴斗が生きていたなら、間違いなく、俺はFHTDのヤツが任されるだろう、会社に入っていただろう。しかし、俺はSICXへ就職していた。

 FHTDに行かなかった理由・・・、それはFHTDに居れば、どうしても失っちまった貴斗や他の連中の事を意識してしまいそうで、心が簡単に折れてしまいそうで、それが嫌だったから、機構団に入社する事を諦めた。

 よく考えれば、その頃から、もう俺は、俺の本当に進むべき道、目的から逃げていたのかもしれないな。

 俺が真剣に悩み続けている。

「慎治君、何をその様にご決断をお迷いになられているのですか?シノハラ・インダストリーよりも、断然、好条件をご提供していますというのに」

「っていうか、何で翔子さん、今すぐ決断しろ、ってそんなに焦っている様な言い方をする訳?」

「慎治君、貴方でしか、できないのです、今お話させていただいたプランは、それにですよ、もし、慎治君が、我が社に来ていただければ、貴方のお父様の会社であります、請負の量も多くなる事でしょう」

「家の親父はそういう取引、好まないぜ。まあ、その事はあっちに置いて、有り難い話しっすけど、今すぐに答えは出せないな」

「そうですよ、翔子さんっ!八神さんはここでずっと働いてくれるって決めてくれたんです。へんなお話を持ってこないでください」

「おいおい、何をいきなり、話に割り込んで来るんだ、夏美店長は。それに誰が、何時、何処でそんな事を決めたって言うんだよ」

「そうで御座います、夏美さん。これは私、と彼とのお話です、部外者は口をおはさみにならないで頂きたいものですわね。たといに夏美さんが隼瀬家の血縁でありましても、わたくしに意見する事はお許しできません事よ」

「ああ、そうやって、権力を振りかざしちゃってっ!ずるいですよ、翔子さんは」

「それが権力というものです、ご理解してください」

 翔子さんは冷静に夏美ちゃんを見据えると力の篭った声でその様に言い切っていた。

 二人は睨み合っている。

 周りの視線が、徐々にこちらに注目し始めていた。

「二人とも何を見詰め合っているのか知らないですけどねぇ、そういうのは外でやってください。それに何を翔子さんも夏美店長も俺の進路を勝手に決めているんすかねぇ。俺の道は、俺が決める。誰にもこの権利は侵害させないから、そのこと覚えておいて欲しいな。はいっ、この話しはここで終わりにしましょう。帰るとしましょうか、翔子さん、外まで送りますよ。偉い人なんだから、どうせ外に車が停めてあって、そこまででしょうけど。じゃあな、店長また明日」

 俺は店長に言いながら翔子さんに手を差し伸べていた。

 やっぱりどこぞの貴婦人は俺が出した手の意味を判ってくれた様で、軽く握り返し、立ち上がる。

「それでは、夏美さんご機嫌よろしゅうございます」

 彼女は店長に何かの意味を含めた笑みを向け、会釈していた。

 策略的って言うか、それとも案外子供じみているというのか、まったく。

「翔子さん、相手は年下なんですから、もう少し優しく言ったらどうだったんですか」

「私はその様に接していたつもりですが。しかれど、相手の増長をお許しできるほど、器量はよくありませんわ、私も」と不満げな表情で返す、彼女。

 六差路の近くに停められている日産シーマの兄妹車、純白のプリンセス。

 まあ、周りに照明はあるが、この暗さでは色がそれであるか、どうかわかり難いだろう。

「慎治君、お乗りになります?ご自宅までお送りいたしますわよ」

「いや、いいっすよ。俺も車でトマトへ仕事に来ている訳だし、大丈夫です」

 彼女が近づくと、車内から、運転手が現れ、後部座席の扉を開けていた。

「それでは慎治君、京ちゃんに宜しくお伝いくださいませ」

 そう言ってドアに手を掛け、乗り込もうとした、その時、その瞬間、予想外の事が迫っていた。

 信号を無視して、俺らの方へ向かってくる一台のSuburbanが急接近していた。

 一体何キロ出しているんだよっ!と思った頃には眼前まで迫っていた。

 俺の脳内には何故、どうして、という言葉だけが浮かんでいた。

 せっかく、自分を取り戻せ初めたって言うときに死ぬのか、こんな所で俺は?

 心ではそんな負の感情が過ぎってしまっていた。

 もう翔子さんも俺も、彼女を出迎えていた運転手も駄目なんだ、って心では思っちまっていた。だけど、だけど、俺の体は勝手に動いてくれていた。

 翔子さん、運転手どちらも俺より身長が低かった。

 二人の胸の辺りを背後から腕を回し、プリンセスの扉を蹴り飛ばし、後方へと身体を飛ばす。

 出来るだけ、車の進路から遠ざかった。

 因みに運転手も女だ。

 この状況で女性の胸に力が篭っていたとしても、不可抗力だ、これは決して弁解じゃない事だけは付け加えておこう、そう間違い無くこれは不可抗力だ。

 え?何、どんなに取り繕った所で、女性の胸を触ったという事実は変わらないだろうって・・・。ふぅ。

 ええぇいっ、そんな阿保な考えは脇に置いて、この実状の把握が先のはずだ。

 何かの不注意で、運転不制御をしたのなら、そのままプリンセスに突っ込む勢いだった。

 だけど、またもや俺の頭の中に『え?』と思うような行動をその車は取っていた。

 Suburbanの運転手は急に姿勢制御を試みたのか車は急停車を掛けていた。

 だが、車体の重量と加速が思わぬ方向へ転がり、俺が飛んだ先に本当に物凄い勢いで転がってきやがった。

 吃驚したまま、俺は体勢を立て直し、その場所から逃げようと、二人を掴む腕に更に力を入れて動き出した。

 流石に転がる車体がその方向の軌道を修正できるはずも無いから最後は歩道の並木を何本か薙ぎ倒すと、動きを止めてくれた。

 俺はそれを見て安堵の溜息を大きく吐いていた。

 俺の凶運はどうにか、この危機を乗り越えた。

 いまだに、どんな状況なのか理解できていないで硬直している翔子さんと運転手。

 俺はいたって冷静だった。

 多分、今までの経験が、そうさせてくれているのだろう。

 周囲にざっと目を向けると、あれだけの大型車が暴走していたって言うのに、人的被害は皆無に近かった。

 死者が出てなさそうという意味ではな。

 暫く、俺の周りに居る人々は沈黙を保っていた。それから、どれくらいの時間がたったのだろう?

 やっと周囲の人々が状況を理解し、悲鳴やら、なにやら、いろんな声が飛び交っていた。

 俺の近場では、翔子さんが急に泣き出し、運転手は気絶した。

 こんな状況下で俺は何を思っちまったんだろうか・・・、

翔子さんの泣き顔が凄く印象的でどうしようもなく、可愛らしくて、愛しく思っちまった。

 護ってあげたいと思う程に。

 これって若しかして、あれか?

 良くある、危機的状況に陥ると生殖本能が刺激されてその場の異性を好きになってしまう、ってあれ。

 うぅ~~む、まあ、そんな事を考えられるほどに俺は冷静だったって事。

 交通事故って言うのが、貴斗や涼崎春香の事を弥が上にも連想させてくれる。

 若しかすると、翔子さんはその事を思い出しちまって、自分がそれに遭遇して、怯えているのではなくて、貴斗の事を思い出しちまって泣いてしまっているのかもしれないけど、俺は気絶してしまった運転手、その女性から腕を離し、地面に寝かせると、翔子さんを強く抱き締めた。

「大丈夫、大丈夫だって、ほら、俺達ちゃんと無事だろう?」

 彼女の芳しく、手入れが丹念に行き届いていると思う長髪を撫でていた。

 優しく、抱擁していくら待てども、翔子さんは俺の上着を掴んだまま泣き止んでくれなかった。

 多分、違うな、確実に今の彼女の涙を止めることが出来るのは俺の言葉や態度じゃなく、家の姉貴、佐京だけなんだろう。だから、姉貴に連絡をする事にした。だが、連絡がつかない。

 数え切れないほどの救急車がサイレンを発報しながら、各方面に向かっている。その方角の一つは済世会に通じる道。

 医者である姉貴。

 今、姉貴は病院で運ばれてくる患者で手がいっぱいなのだろう。

 仕方が無い、もうここは俺だけで、何とか翔子さんを宥めるしかないんだ。

 それから、いろんな言葉、思いつく限りを彼女に向けて、翔子さんが泣き止んでくれるよう努力した。しかし、なかなか、立ち直ってくれそうに無いし、俺の言葉も尽きていた。

 口にしてはいけないと思われる名前を使った慰め言葉以外は・・・。

でも、言うしかないだろう、それしか方法が無いなら、だから、即決。

「翔子さんっ!何時まで泣いているんだ、何で泣いているのか判ってあげられないけどさ、そんなに、泣いていると、いつまでもめそめそしているとあっちにいる貴斗や藤宮達、翔子さんの大事な家族が心配しちまうだろう?だから、泣き止んで呉れよな?それに今の姿、家の姉貴にだって見られたくないだろう?笑われるぜ、きっと」

「慎治君って・・・、女性には非常にお優しいとお聞きしていましたのに、学園にいた頃の貴方の姿勢もその様にわたくしの目には映っていましたのに・・・、存外にデリカシーがありませんのね・・・」

 俺の非難を口にして呉れる翔子さん。

 涙を流しているのかもしれないけど、嗚咽は止んでいた。

「俺が人の心に繊細じゃなくても、いいんだよ。翔子さんが泣き止んでくれれば・・・。こんな所にいてもしょうがない。さっさと、運転手を起こして帰ろうぜ・・・」

 そういって、俺の方が先に立ち上がり、翔子さんの手を取って立ち上がらせようとした。

 彼女も掴んだ俺の手に力を入れ起き上がろうとする。

 浮かび上がった彼女の腰。だが、腰に力が入らなかったのか、蹌めこうとする、彼女。

 素早く彼女の腰に手を回し、倒れないようにしたら、

「シン、吾の大事な心友に何をしようとしている?よもや、そのまま押し倒して、淫らな事をするのではあるまいな?」

「姉きっ、なんで、ここへ?」

「何をシン、貴様が連絡をよこしたのではないか?手が離れたから、駆けつけたのだ」

 佐京姉貴の後ろ側を見ると日産KUGA、愁先生の車が見えた。

 車の運転できない姉貴がこの場所まで直ぐに駆けつけるには一足では無理だろう。

 だからって今は慌しいと思う状況の病院の外科主任の愁先生を足代わりに使うなんて何とも恐るべし。

「京ちゃん、慎治君にその様な事を言うのは可愛そうでありますわ。私の命を救ってくださいましたのに」

「判っている。シンは女性を押し倒してまで情交出来る様な男ではないからな。しかし、よくやった、私の大事な心友を護ってくれた事、一生誇りに思ってよいぞ。流石は私の弟だ。私も誇りに思うぞ、フフ」

 平然と恥ずかしい単語を交えながら、翔子さんに返していた。

 それを聞いて真っ赤な顔をする翔子さん。

 翔子さんも、女性運転手も見た目、外傷を追ってはいない。しかし、姉貴が念のためと、診察の為に病院へと連れて行く事になった。

 独り残された俺は自分の車が止めてある、喫茶店トマトの社員駐車場へと歩き出していた。

 建物から漏れる少ない光にぼんやりと姿を見せる俺の車。

 俺が所有する事になる二代目の車。

 一代目のマークⅡワゴンは数年前にボコボコになっちまって、修理するぐらいなら買い替えろと母親と姉貴に言われた。でも、その時はこれっていう気に入った車が無かったので、親父が置きっぱなしのままにしていた車を使っていた。そして、2009年にTOYOTAからでたMarkⅩⅩ wagon(マークダブルエックスワゴン)が何故か気に入って、それまで貯金していた金を全部使って一括で購入していた。

 その車に近づくと鍵を使わずとも非接触カード・キーが扉の鍵を解除する。

 乗り込み、椅子に座ってから、押しボタン式の始動機構の為にそれを押していた。

 静音性の高いダブルエックスは始動時に軽く車体を揺らすと直ぐに何事も無かったように静かになった。

 ディジタル式の速度計やその他が点灯し始める。

 今になって俺はさっきまで鈍感になっていた恐怖心が一気に込み上げ、操舵を握る両手が震えだし、それが全身にまで波及していた。

 額を、警笛を鳴らさすその部分に軽く乗せ、体の震えが止んでくれるのを待った。


~ 2011年5月31日、火曜日 ~

 昨日は、本当に大変な事に巻き込まれちまった。だけど、今日は至って平然としていた、表面上はな。

 トマトでの仕事も騒動を起こす様な作業間違いも出さずに、就業時間を迎えていた。

 仕事が終わってから、佐京姉貴を迎えに行かなくちゃならなかった。

 愁先生は夜勤だから、一緒に帰宅できない事が理由だった。しかも、歩いて帰ろう等と姉貴は言いやがる。だから、トマトまでは愁先生が送ってくれていた。

 店長に帰宅の挨拶を交わしてから、済世会病院へバスに乗り込んで移動した。

 高校以来、乗るのが随分と久しい車両に揺られながら、窓の外を眺めていた。

 外灯と店々の中から漏れる光りに照らされる遊歩道。

 その道を行きかう多くの人々。

 あいつ等と一緒に歩いた道も、以前と変わらない風景を俺に見せてくれていた。

 外国人は昔も多かった。でも、今はもっと増えているように感じられた。特に違和感は無いのが不思議な街だ、ここ三戸はな。

 済世会病院がある場所は双葉という地名の場所だ。

 喫茶店トマトから、渋滞に遭わなければ三十分程度で到着する。

 車内放送が病院前を告げたから、俺は降りる準備をした。運賃の支払いはRakuPaって名前の非接触IDを使った物だ。

 携帯電話を端末に翳し、支払いを済ませると、ロー・ライダー・バスだから階段を下りずに歩道へと移動していた。

 バスから降りながら、腕時計の時刻を見ていた。

 ディジタル表示が十九時十二分と映し出していた。

「帰宅が、遅くなっても右京が文句を言うことはないだろうな、今日は姉貴と帰るって事を知っているんだから」

 独り言の様に呟くと病院内の敷地内に入り、佐京姉貴が居る筈の第三外科に向かった。

 今時分の全国の病院事情なんか知らないが、ここ済世会は夜の十時まで面会を許されているみたいで、現時点でも患者と病院職員以外の人々が出入りしているようだ。

 第三外科に到着し、扉の無いその部屋に声を掛けながら、中を見回すと、姉貴と愁先生が複数のレントゲン写真を見ながら、ああだ、こうだと意見しあっていた。

 愁先生は今も勤務中だから白衣を着ているけど、姉貴は帰り仕度が整っているようだ。

 俺の声に気が付いて、振り向くその二人。

「うむ、ちゃんと約束を守って迎えに来てくれたのだな。愁、先に帰らせてもらうが、無理するなよ」

「ええ、判っていますよ。慎治君、佐京を頼みました」

「へいへい、わかってますって。んじゃあ、帰ろうぜ、姉貴」

 佐京姉貴は椅子から立ち上がると、まだ勤務中の職員に軽く頭を下げ、挨拶を交わしていた。

 俺も釣られて、頭だけを下げると、先に歩き出す。

 俺よりも若干背の高い姉貴が直ぐに隣に付く。

「シン、夕食はどうする?外で済ませてしまおうか?」

「え?だって、そうしたら、右京がすねるぜ。案外母さんだって不満を漏らすかも」

「ああ、それなら、私が既に先手を打ってあるから大丈夫だ。だが、家に戻ってからにしたいと言うなら、それでも構わぬが」

「実は結構腹が空いていて、このまま歩いて帰るのは辛いかな、って思っていた処だから外で食べよう。たまには弟の俺が出してもいいぜ」

「言うじゃないか。だが、私が出そう。いつも、お前には家族の事で負担を掛けさせてしまっているのは姉として重々承知だからな。こういう時は遠慮せず、私に甘えてもいいのだぞ」

 姉貴は毅然と言いでそう語ると、最後に嬉しそうに笑っていた。

 外に出て、繁華街方面へ歩き出した。姉貴は迷いの無い歩みで目的地へと進んでいた。

 病院から十五分歩く。

 到着した店の前で佐京の姉貴は立ち止まり、建物を眺める。

「ここだ、シン」

 その店の全体を見て、俺は眉間に皺を軽く寄せ、一瞬その光景をどこかで見た事がないか記憶と会話をした。

 確か、何かの雑誌に載っていたような・・・。

 ああ、因みに家の姉貴は食道楽だ。

 中華酒家・宝賓楼。俺の頭の中には一体どのくらいの金額なのだろうかと想像してしまった。

 やめよう、考えてしまうと多分、食が進まなくなるだろうから。

「何を突っ立っている。入るぞ、シン」

 姉貴を何処ぞの、貴婦人と接するように手を差し伸べると、嬉しそうな表情で俺の出した手の上に姉貴の手が乗っていた。

 中に入ると、客以外の飛び交う言葉は日本語じゃなかった。

 英語でもない・・・、間違いなく中国語だろう。

 佐京姉貴は冷静な表情のまま、その中国語で、席を用意しろと言っていた。

 俺には北米語と日本語以外喋れないけど、ここに御座す、我が、姉君はなんと日本語、英語、中国語、ドイツ語、最後にイタリア語。

 その五ヶ国語を何の淀みも無く話す事が出来る様だって誰かから聞いた事があったけど、実際に日本語以外を喋っている所なんて今日が初めてだ。

 席に案内され、そこに座ると、俺にはどんな料理なのか判らない品書きを眺めていた。しかし、佐京の姉貴は普通に迷いも無く、注文をし始める。ここは姉貴に任せるしかない。

 ある意味・・・、・・・、・・・、姉貴に任せたのは過ちだった。

 少しは俺の意見を伝えて置くべきだった。

 たった二人で満漢全席並みの料理を平らげていった。

 平気な顔で、どんどん胃袋に収めていく、佐京姉貴、細身の体で、一気に大量の物を胃に詰めれば、その辺りが膨れてくるはずなのに、どういう原理かしらねぇが、まったく体系を維持していがやりますよ、姉貴殿・・・。

 俺なんかは少しでも、胃に隙間を作るためにゲップして、体内の空気を出していた。

 最後の一口、杏仁豆腐を何とか飲み込んで満腹だという溜息を吐いていた。

 言うまでも無く、佐京姉貴は平気な・・・、なんとなく、まだまだ行けそうな雰囲気を感じさせる。ためしに、空になっている姉貴の湯呑みに茉莉花紅茶を注いでやった。

「うむ、矢張り気が利くな、シンは・・・」

 俺の思惑なんか理解しちゃ居ない、姉貴は嬉しそうに温くなって飲むのには丁度いいそれを、ゆっくりと飲み始めていた。そして、飲み終わると満足げに、器を食卓の上に戻していた。

「さて、余り遅くならぬ裡に帰るとしようぞ、シンよ」

 佐京の姉貴はそう言い、呼び鈴で支配人に会計を知らせていた。

 AMEXのPlatinumをその男に渡していた。

 出した、Cardの色が黒だったら、さぞかし、驚いていただろうけど、姉貴ならプラチナなら所持していても違和感はない。

 それから、会計が済み、手元にAMEXを戻した姉貴は静かに椅子を後ろに移動させると、立ち上がり、俺にも帰ることを促す、目を向ける。

「佐京姉貴、ご馳走様」

 両手を大円卓の上に突き立ち上がる動作をしている間、姉貴は俺の言ったそんな些細な事が嬉しかったらしく双眸を閉じ、笑みを浮かべていた。

 店を出ると、案外肌寒かった。

 佐京姉貴は結構寒がりで、今来ているスプリング・コートでは寒いだろうと思った。

 俺はと言うと、食べ過ぎの所為で、胃が過剰に活性化し、腕を巻くっても大丈夫なほど火照っていた。だから、俺が着ていたジャケットを姉貴の背中にかけてやる。

 佐京姉貴は言葉に出さず、感謝意を表情で見せてくれていた。

 ここから、自宅まで歩くのは時間が掛かりすぎる。だから、姉貴にTAXIで帰ることを提案するとあっさりと承諾してくれた。

 なんだよ、本当は歩いて帰るのが目的じゃなくて、ここに中華料理を食いに来るための口実だったのかと今になって気が付いたよ。

 繁華街だから、近場にTAXI乗り場があるから、そこまでは徒歩で移動する事にしたんだ。でも・・・、それは選択ミッシング

 乗り場まで半分くらい手前まで近づいた時のことだった。

 店と店の間の一本道。その暗がりから、意味なんて理解できない奇声を上げる男が飛び出して来た。

 男は腕を振り上げていて、逆手で何かを握っていた。

 その男が外灯の光りに映し出されたとき、その手に何を持っているのか直ぐに判別が付いた。刃物だ。

 男が振り下ろす刃の軌跡・・・、それは佐京姉貴の顔を狙っていたんだ。

 即座に反応して、襲ってくる男を倒すなんて反応は出来ない。でも、姉貴を庇うと言う反応は瞬間的に働いていた。

 姉貴と俺の体、背中が入れ替わる。

 飛びのいていればよかったんだろうけど、前回の翔子さんの時、車の衝突と違って距離が近すぎて、そこまでの動作は出来なかった。

 俺たちの位置が代わるのと同時に、鈍い音が俺の耳元と、他二人にも届いていただろう。

「うぅぅ」

 声を漏らし、歯を食いしばり、痛みに堪える、俺だった。

 姉貴はどんな事が今、行われたのか、理解した時、物凄い剣幕で俺の首脇を掠める様に即座に腕を出し、俺の裏に居る男の手首を掴むと、渾身の力を指先に篭めた。

 見知らぬ男が握っていたナイフから、手が容易く放れると、腕をねじ上げ、そのまま、力任せに投げ飛ばしていた。

 相手の肩が脱臼する音が聞えた様な気がした。

 更に、佐京の姉貴は追い討ちを掛けるかの如く、男の人差し指を掴み、有らぬ方向へと曲げていた。やはり、聞いてはいけない音がした。

 このまま、姉貴を放うって置くと、殺しかねない。

 背中に突き刺さったままの刃物。

 刺さった場所が良かったのか激痛は感じるが致命傷じゃないようだ。だから、痛みを堪えて、佐京姉貴の更なる追撃を止める為に羽交い絞めにした。

「佐京姉貴、俺は大丈夫だって、それ以上、やったら、しんじまうだろう?医者のするこちゃぁねぇえって。後は警察呼んで、そいつらに任せようぜ、んなぁ?」

「シン、この男の眼球の不規則な動きを見ろ。これは薬類の中毒症状だっ!精神錯乱状態で逮捕されて裁判にかけられても、この男の罪は麻薬取り扱いで、お前への傷害罪は無視される。なら、私が、ここで裁いても同じことだっ」

 姉貴は男を取り押さえたまま、鋭い視線を俺に向けていた。

「ばかいえっ、それで姉貴が殺人罪に問われちゃ、幕末迷走・・・、違った、本末転倒。それに医者なら、先にするべきことは俺の怪我の応急処置だろうがっ!」

「くっ、お前は甘いっ!だが・・・、だが・・・、お前の負ったそれをそのままにしておく訳には行かぬな」

 やっと冷静になってくれたんだと俺は思った。

 姉貴は立ち上がりながら、小さく、溜息を吐くと、携帯電話を取り出し、何処かへ掛けていた。

 それから直ぐに、いつも持ち歩いている鞄を開けるとその中から、なんと、簡易的な医療器具が顔を見せていた。

「姉貴、いつもそんな物を持ち歩いてんのかよ」と言いながら、動かなくなった男の方へ一瞬目を向けた。

 泡を吹くって表現があるけど、その時事実だと知った。

 本当に白目を剥いて、口から、泡状になった涎をたらしている様だ。

「当たり前だ、私は医者だぞ。何時誰が、何処で、怪我をするか判らぬゆえ、手助けできるように持ち歩いているのだ」

「おい、おい、そこの男に痛手を御座せたくせに、そんな事を言うのかよ・・・。だけど、佐京姉貴のその言葉、姉貴の弟として、誇りに思うぜ」

「ふぅっ、言うなシン、有難う・・・。だが、その薬中男の結果は自業自得と言うものだぞ、獣食った報いであろうが」

 姉貴は言いながら、俺の背後に廻ると俺の背の刃物の刺さっている辺りを見ながら、アンプルの先端を折って、その中に注射針を挿入し、瓶内の液体を吸い上げていた。

 針を空中に出すと注射器内の空気を抜くために軽くピストンを押していた。

 それから、それを俺の背中に刺し込む。それは部分麻酔だった。

 俺は姉貴が治療を始めようとしている間、警察に電話をかけようと思ったが、さっき姉貴がかけていたところはその警察だった。

 だから、俺のやろうとした事は直ぐに中止される。

「おとなしくしていろ・・・。抜くぞ、痛くとも、がましろ、いいな、シンよ?」

 佐京姉貴はたっぷりと止血剤を染み込ませた白い布を刃の近くに押し当てると、一気にその刃物を引き抜き、直ぐに、傷口に布を当ててくれた。

 肩の辺りの止血点があるらしく、そこを圧迫する針が刺さっていたから、飛び散るような出血は無かった。

 その後は、縫合器具を使って十数分で傷口が縫われて行く。

 後は化膿止めの染み込んだガーゼが宛がわれ、その上から繃帯を巻かれた。

「うむ、よく我慢できたな・・・」

 佐京姉貴がそういった頃に、警報音が近づいてくることに気が付いた。

 音が止む。到着したのは良くある、白黒のあれじゃなくて、覆面の方だった。

 中から、偉そうな風、官僚の風貌を漂わせる若い男と、叩き上げだと、肌で感じる恰幅の良く見える壮年の刑事らしいその二人が俺達の方へと走って来た。

 事情徴収とかで、任意同行とかされるのか、と思ったけど、どうしてなのか、エリート風の刑事が姉貴の話しを簡単に聞くと、気絶したままの男に手錠を掛け、連れて行く。どうして、二人の刑事は通常通りの業務で俺等を任意同行させなかったのか、気になる所だが、今は佐京姉貴へ追及しないほうがいいだろう。

 それから、俺等は帰宅せずに、済世会病院に行き、愁先生にちゃんとした、治療を受けた。でもよ、先生は、

「これだけ、しっかり、施術できていれば、私のところへこなくとも良かったでしょうに。ですが、流石、佐京と言いたい所ですね。見事ですよ」

 愁先生のその言葉に、姉貴はほんのりと頬の辺りを紅く染めていた。惚気かよ、まったく・・・。

 その後、先生は俺の怪我の原因を追究してきた。

 心配するだろうから、と俺は適当に誤魔化そうとしたけど、姉貴の方が正直に答えちまって、先生も姉貴が襲われそうになった事を知ってしまった。

「そうでしたか・・・・・・。しかし、よく護りましたね、慎治君。君のその行動、誰でもが、簡単に出来るものでは在りませんから」

 褒める様に言いながらも、何故か先生の顔は神妙極まりなかった。

 顎に左手の指を沿え、何かを考えているような仕草を暫くしていたんだ。どうして、先生がそんな表情をしているか気になってその意味を聞こうとした。だけど、俺が言うよりも早く、姉貴の方が、先生に尋ねたんだけど、愁先生ははぐらかす素振りもしないで、きっぱりとした声で言う。

「どんなに、佐京が強く言及してもこれに関しては何も答えませんよ。貴女には関係ないことですから、寧ろ、関係してはいけない事ですので。私が言いたい事、お分かりになってくれますね」

 七、八割がた、愁先生の言う事には従順な佐京姉貴だから、今回、姉貴はそれ以上なにも問い質さずに口を引いていた。

 ここで、俺が聞いたって、答えてくれるわけねぇから、何も言葉に出さず、視線を適当にそらし、自分には如何でもいいような風の態度をとって見せていた。

 本当は凄く知りたかったんだけどな。 だから、今度、姉貴が居ないときにでも聞いてみようと、心に留めて置く事で、この場は治めよう。

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