救いの手
みやび
第1話
私は昔、大きな罪を犯した。
小学二年生のある雨の日。下校中、私は用水路の横の道を歩いていた。水色の傘をくるくる回しながら鼻歌混じりに歩いていると、淡紅色の傘をさした女の子が、用水路の側でしゃがみ込んでいるのが見えた。何を見ているのか気になって、少女の視線の先にあるものを見る。せき止め板に、白い帽子がひっかかっている。少女は帽子を取ろうと手を伸ばすが、細い指に当たって帽子が押され、遠ざかってしまう。
私はその少女のことが気になって、話してみたいとずっと前から思っていた。今がチャンスだと思った。私は少女に近づいて、肩のあたりをトンとたたいた。少女は体勢を崩して、そのまま用水路に倒れ込んだ。水しぶきが上がる。いくつもの水泡が、水面でぶくぶくと音を立てて弾ける。私は一瞬、何が起きたのかわからなかった。少女が水面から顔を出して荒い息をする。目が合った。目が、合ってしまった。
「助けて」
少女は雨で増水した冷たい水の中で必死に救いを求めた。けれど私には、その言葉は聞こえていなかった。頭の中が真っ白になった。まさか落ちてしまうなんて、思っていなかった。話してみたくて、声をかけようと思って、軽く押しただけなのに。私は少女を落としてしまった。すぐそばを通りかかった人が、用水路に落ちている少女に気付いて、少女を用水路から引き上げてくれた。大きな怪我はなかった。しかし私は、少女の心に大きな傷をつけてしまった。
次の日から、クラスのみんなは私を遠ざけるようになった。声をかけてくれる人は、一人もいなくなった。みんな知っていた。私がしてしまったことを、みんなが知っていた。わざとではない、落とすつもりなどなかったと何度も言った。誰も信じなかった。みんな私を、信じてくれなくなった。
孤立した。
小学四年生のとき、私はクラスの全員からいじめられていた。仲間外れにされ、どん底に突き落とされた。学校でいじめを受ける毎日の中で、私は自分の犯した罪の重さを知った。いじめられることよりも、私があの子に辛い思いをさせてしまっていたことが辛かった。
中学に上がり、私を知る人は少し減った。その中学校は、一学年九クラスの大規模な学校だった。クラスには知らない人の方が多い。もう大丈夫だと思った。人と関わっても大丈夫だと思った。しかし、私にはもう、一歩を踏み出す勇気はなかった。人間が怖かった。自分の過去を知られることが怖かった。
私はそのとき、人と関わることを諦めた。
高校では、小学生の私を知る人はほんの数人になった。隣の席の子が話しかけてくれて、友だちもできた。
もう、膝を抱えて「助けて」を噛み締めることはなくなった。静かに涙を流して布団に包まることもなくなった。そう思った。しかし神様は、そう簡単に私を許してはくれなかった。
二年生に進級して、私の過去を知る人と同じクラスになってしまった。その人はもう忘れているかもしれない。もう九年も前のことなのだ。覚えているはずがない。けれどもし、万が一、あの事件を覚えていたら・・・。そう思うと怖かった。恐怖に耐えられなかった。夜は悪夢にうなされる日が続いた。
恐怖はいつからか、疲れに変わった。
そして私は落ちていく。ヘッドライトが行き交う夜の闇へ、私は真っ直ぐ落ちていく。
遠くで真っ赤なサイレンの音が、誰かを呼ぶように、鳴り響いていた。
* * *
ピピピピピピ・・・
目覚まし時計の音が鳴り響く。寝ぼけた状態のまま時計のボタンを押す。数秒間ぼーっと部屋の壁を眺めた後、ベッドから出て洗面所へ向かった。まだ寝ぼけているのか、視界がいつもより低い気がする。冷たい水で顔を洗い、タオルで顔を拭いて鏡を見る。
「へ?」
鏡に映っていたのは、幼い頃の自分の顔だった。訳がわからず、頭が混乱する。
「綾ー朝食できたよー」
ダイニングから母の呼ぶ声が聞こえた。私は急いでダイニングへ向かった。
「いただきます」
白米、味噌汁、豆腐。朝時間がない平日のいつものメニュー。味噌汁を少し口に含んでから、白米を口に運ぶ。今はいつだろう。私はなぜ、こんな姿になってしまったのだろう。昨日まで高校生だったはずなのに、朝起きたら子どもの姿に・・・。
「どうしたの?綾、体調でも悪いの?」
母が心配そうに私を見る。不安が顔に出てしまっていたようだ。感情を隠すのはもう慣れたと思っていたけど・・・。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
ごまかし笑いをしながら、白米を口に詰め込んだ。母は「そう?」と言いながら、リモコンを取ってテレビの電源を入れた。
「今日は午後から雨みたいね。ちゃんと傘持っていくのよ」
テレビの方を向きながら返事をする。振り向くとき、何かが目に留まった。赤、青、黒の文字や数字が並ぶ真っ白な紙。カレンダー。
・・・ん?
あった!カレンダー。2021年5月13日。ということは、今私は7歳。こんな簡単なところに一つ目の問の答えがあったなんて。しかし、私はなぜこの時代にいるのだろう・・・まさか、これは全て夢なのでは? 頬をつねってみる。痛い。痛いばかりで、一向に覚める様子はない。夢じゃないの?夢でないのなら、これは一体・・・。
「変なことしてないで、早く食べてしまいなさい。遅刻するわよ」
その言葉に、慌てて壁の時計を見る。そろそろ家を出ないといけない時間だ。ご飯を急いでかき込む。口いっぱいに詰め込んだご飯を麦茶で一気に流し込む。
「ごちそうさま」
食器を流し台に置いて、自分の部屋がある二階へ駆け上がった。急いで制服に着替え、帽子とランドセルを取って階段を駆け下りる。傘立てから自分の傘を抜いて家を出た。
「行ってきます」
分厚い雲が、空一面を覆っていた。
* * *
私って、昔からぼっちだったっけ?
給食の時間、一人黙々と食べながら、そんなことを考えていた。登校中も、学校に着いたときも、授業の合間の休み時間も、誰一人話しかけてこない。まあ私も話そうとはしていないのだけれど・・・。見た目は小学生でも中身は高校生。子どもたちの輪の中に入っていく勇気は私にはない。周りの子たちは何人かでグループをつくって楽しそうに話しながら食べている。私も昔はあの輪の中にいた。・・・と思う。あんなふうに友だちと集まって、少しふざけたりもして・・・。今の私は一人。一人寂しく黒板の方を向いて、食べ物を口に運び、噛み、飲み込む。
苦しい・・・痛い・・・・・・。
昼休みも掃除の時間も特に変わりはなく、五時限目を迎えた。五時限目の授業は算数。中学や高校の数学で評定5を取っていた私には、足し算引き算なんて朝飯前。というより退屈だ。先生の話を適当に聞き流しながら、45分を乗り切った。
放課後、私は用水路の横の道を歩いていた。小雨の中、水色の傘をくるくる回しながら歩いていると、淡紅色の傘をさしてしゃがみ込む少女の姿が目に留まった。少女の視線の先には、水面に浮かぶ真っ白な帽子。
遠い記憶が、少しずつ鮮明になっていく。
遠い遠い、過去の記憶。雨の中、少女は一生懸命に、用水路に落ちてしまった帽子に手を伸ばしている。指先で押して、遠ざかってしまった帽子を、身を乗り出して取ろうとしている。全身を震わせて、力いっぱい手を伸ばす。そんな少女に、私は近づいて肩をたたいた。バランスを崩した少女は、何が起こったのかわからないという様子で、そのまま用水路へ倒れ込んだ。用水路はそんなに深くないため、大きな怪我はなかったが、私は少女の心に深い傷をつけてしまった。本当は、少し話してみたかっただけなのだ。落とすつもりなんてなかった。声をかけてみたくて、肩のあたりを軽く押した。あんなことになるなんて、思ってなかった。少女は「助けて」と叫んだ。けれど、動揺した私に、その言葉は届かなかった。
今の私に言えること。それは、「あの時と同じ過ちを繰り返してはならない」ということだ。
傘の柄が手から離れ、地面に転がった。帽子とランドセルを落とし、用水路に飛び込んだ。手で水をかき分けながら進み、帽子をつかむ。振り向くと、少女が目を見開いて私を見ているのが見えた。落とさないように帽子をしっかり抱えて、少女のいる方へ戻る。用水路から上がり、少女に帽子を手渡した。
「はい、帽子」
少女はほうけていたようだったが、私に気付いて慌てて帽子を受け取った。
「ありがとうございます。あの、私の家すぐ近くなので来てください」
「え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「そのままでは風邪をひいてしまいます」
ランドセルと帽子を地面から拾い上げながら答える。
「大丈夫だよ、このくらい」
「そういうわけにもいきません」
少女は傘を拾い上げて立ち上がった私の手を掴んで駆け出した。
* * *
コン、コン、コン
軽くノックをすると、室内から「どうぞ」と可愛らしい声が聞こえた。扉を開くと、すでに私服に着替えていた少女がソファーから立ち上がった。
「湯加減はいかがでしたか?」
「すっごく気持ちよかった。あとこの服も貸してくれてありがとう」
私の制服はびしょびしょに濡れてしまったため、今洗濯機で洗ってもらっている。
「ここすごく広いね。私の家の三倍はありそう」
「この洋館は私の父が設計したんです。こういうお屋敷に住むことが夢だったそうです」
「へーすごいね」
豪華な部屋を見回しながら言った。少女に促されてソファーに腰を下ろす。
「あの、一つ質問してもよろしいですか?」
「いいよ」
「どうして用水路に飛び込むなんで危険なことをしたんですか?怪我をするかもしれないのに。あなたには飛び込む理由はありませんよね?」
「うーん・・・」
私は少し考えて、そして言った。
「そうすべきだと思ったから」
少女は少し驚いた顔を見せた後、口に笑みを作って言った。
「すごいですね。他人のために危険を冒せるなんて・・・」
照明が少し暗くなった気がした。空気が重くなる。
「私は一度間違えてるから。だから二度も間違えるわけにはいかないんだ」
目を閉じる。ゆっくり深呼吸をして、少女の目を真っ直ぐみた。
「私の名前は月岡綾です。私と友だちになってくれませんか?」
このとき私は、今までで一番緊張していたと思う。心臓が耳にあるのかと思うくらい、心音が近く聞こえた。顔が真っ赤に染まっていることが自分でもわかった。
少女は柔らかな笑みをこぼした。
「花澤雪奈です。私もあなたと仲良しになりたいです」
二人の世界が変わった瞬間だった。
二人は自分の口から出た言葉に照れ臭くなり、目をそらして笑い合った。
「私からも一つ質問いい?」
「はい」
「ずっと気になってたんだけど、なんで敬語なの? 同い年なのに」
私たちは同い年で、同じ学校に通っていて、同じクラスだった。
「あ、これは癖です。友だちがいなくて、大人とばかり話していたので・・・」
雪奈は少しうつむいて言った。私には、それがとても悲しく見えた。雪奈がいつも一人でいることを私は知っていた。いつも見ていた。声をかけたかったけれど、できなかった。周りの子たちの目を気にしていたから。だからあの用水路で雪奈を見たとき、声をかけるチャンスだと思った。
「じゃあ私と一緒だね」
私はにっこり笑って、雪奈の手をそっと握った。
「私、今日学校で誰とも話してないんだ。私、雪奈ちゃんといっぱい話したい。いっぱい楽しいことしたい」
雪奈は泣きそうな顔で笑った。
「はい、私も」
私にはその雪奈の笑顔が、とてもきらきら輝いて見えた。彼女の目には、どう映っただろう。
* * *
その日の夜、私はいつもより少し早くベッドに入った。眠りにつくまでに、そう時間はかからなかった。
気がつくと、私は青黒い闇の中にいた。小さな光が少しずつ灯っていく。まるで星空に浮いているかのように思えた。とても幻想的な場所だ。
「こんばんは」
背後から声が聞こえた。振り向くと、そこには背の高い男の人がいた。二十代前半くらいで、神官のような装いをしている。
「ようこそ」
青年は優しく微笑んだ。
「あなたは?」
「私はここの管理を任されている者です」
青年は静かに答えた。見た目は若いのにとても落ち着いていて、まるで何十年、何百年と時を過ごしてきたような、そんなふうに感じた。
「あの、ここはどこですか?」
青年はゆっくり歩き出す。
「ここは橋渡しの間です」
「橋渡しの間?」
「ご覧ください」
青年が手で示す方を見る。そこには、教科書やテレビなどで何度も目にしたことのあるものが見えた。地球。ただ、一つだけ大きく異なる点がある。二つあるのだ。地球が二つ、鏡合わせに並んでいる。
「昔、神たちの気紛れで、地球を模したもう一つの世界が造られました。土地や建物だけでなく、生物の魂もそのまま映したため、二つの世界には姿、形が同じ生物が存在します」
「私は今日、違う世界にいた・・・ってことですか? でも年が全然違いますよ?」
「時間の流れの違いにより、現在、二つの世界間には七万八千九百二十四時間の時差があります。全く同じだったのは映された瞬間だけです。人も全く同じわけではありません。小さな選択一つ一つで、少しずつ変わっています」
私は学校でのことを思い出した。今日私は、学校で誰かに話しかけられることも、自分から誰かに話しかけることもなかった。昔はそんなことはなかったのだ。みんなで集まって、たくさん話して、たくさん笑って。私の毎日には、喜怒哀楽があふれていた。あの日までは・・・。
今日があの日よりも後の日だと考えなかったわけではない。もしあの日がとうに過ぎているのなら、誰も私と話そうとしないのもわかる。けれど、目が違った。あの日の後、周りの目がすごく痛かった。異物を見るような目が、恐ろしくてたまらなかった。今日私は、そんな視線は感じなかった。視線そのものを感じなかった。誰も私を見ていない。その空間に私だけが存在していないように思った。
「どうして私は今日違う世界にいたんですか?」
「あなたがそれを望んだからです」
青年は真剣な表情をしていた。その声はどこまでも優しく、美しい。
「私が望んだ? 違う。私は・・・」
私は、私が望んだのは・・・・・・死だ。
自分の生に意味がないと思った。当たり前に毎日がくることが辛かった。人間であることに疲れてしまった。だから、歩道橋から飛び降りた。私が望んだのは死だ。生ではない。
「あなたが望んだこと。それは、償いです。あなたは過去に犯した罪を償ってやり直したいと願った。そしてもう一人のあなたは、周囲になじめず、消えたいと願った。その二つの願いにより、橋渡しが成立しました」
「橋渡しって・・・」
「魂の入れ換えの儀式です」
少しの沈黙が流れていく。私は小さく口を開いた。
「もう一人の私はどうなったんですか?」
青年は静かな声で答えた。
「魂が入れ換わったのは、あなたが飛び降り、気を失った直後です。あの後すぐに救急車で病院に運ばれました。すでに意識も戻っています。あなたが歩んできた世界で、彼女なりの答えを見つけていくことでしょう」
青年の言葉に、少しほっとした。しかし青年の温かい声の裏側には、私もよく知る、冷たいものが感じられた。
「あなたは大丈夫?」
青年の紺の瞳が見開かれた。
この広い空間にずっと一人で、ただ世界を眺めている。一人は辛いよ。この世に孤独ほど恐ろしいものはない。気付いてしまったから、そのままにしておけない。ほんの少しでも、青年の心の中の孤独の穴を埋めたいと思った。
「私は人ではありませんから」
青年は微笑んだ。唇からこぼれた悲しい音に反して、青年の表情はどこまでも機械的だった。
「そろそろ時間ですね」
意識が遠くなる。だんだん視界がぼやけて、白くなっていく。
ピピピピピピ・・・
目覚まし時計の音が鳴り響く。目の前には、昨日と同じ景色が広がっている。時計の針がカチ、カチと動く。
『また会いましょう』
夢の中で、遠くに聞こえた言葉を頭の中で繰り返すと、自然と笑みがこぼれ落ちた。勢いよくベッドから飛び下り、部屋の外へと駆け出した
《了》
救いの手 みやび @miyabi-382
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