理想郷

@kubota63

その①

 市雄は古びた倉庫の片隅に積まれた廃品の陰に身を潜めながら息を殺していた。


深い闇の中で人の駆ける足音が次第に自分に近づいてくるのがわかる。その瞬間、息


を止めじっと時が過ぎるのを待つ。


全身に冷や汗が流れ体全体がとてつもない恐怖心で震えだす。だがここでただ震えて


いるだけではどうにもならない。


市雄は意を決して傍らに積まれていた一本の鉄棒を握りしめた。


やがて一人の足音が目前を通り過ぎ、それを追う別の足音が近づく。


市雄はタイミングを見計らうと思いっきり持っていた鉄棒を振りかざした。


鉄棒は後から走って来た人影の向う脛を直撃し大男はぐええっと喉の奥から絞り出す


ような悲鳴をあげ空を舞い体を地面に打ちつけた。だが大男はすぐさま上体を起こす


と隠れていた市雄を見つけ睨みつけた。それは憎悪と殺意に満ちていた。


ーぎゃああああー市雄は奇声を発すると間髪いれず立ちきれていない男の頭部に鉄棒


を振り下ろした。グギッと鈍い音がして血しぶきが飛び散り、男はそのまま動かなく


なった。


市雄は持っていた鉄棒を放り投げそのままペタンと尻もちをついた。人を殺した罪悪


感、後悔、そんなものはひとかけらもない。いや、そんなものを感じる余裕などまっ


たくなかったのだ。殺さなければ殺される。いつしかこれがこの世界の鉄則になって


しまったからだ。



 魂が抜けたような体で立ち上がるとふらふらと闇の中を彷徨い歩いた。


どのくらい時間が経ったのだろうか。気づくと東の空が白み始めていた。


ーこのぶんじゃ今日は雨が降るかもしれないなー空の雲を見てひとり呟くと急ぎ駆け


出した。雨に濡れるとやばい。今、地上に降る雨は高濃度の放射性物質を含んでいる


なぜならば日本列島に七個もの核爆弾が投下された直後なのだから。



 市雄は目の前に建つ雑居ビルに駆けこんだ。


シンと静まり返り人の気配はない。どうやらここは医院の待合室だった所らしい。そ


こにある埃が被ったソファに腰を落としたその時だった。気を休める間もなく何者か


に右頭部にライフル銃を突きつけられカチャリと引き金を引く音がした。


一瞬心臓が凍りついた。そして恐る恐る顔をあげ相手を見る。もうすでに日は登り相


手の顔を確認できる十分な明るさになっていた。


「マサル! おまえ無事だったのか」


銃を突きつけた相手が仲間のマサルであることを確認すると市雄は歓喜し叫んだ。


「市雄じゃないか! おまえこそ大丈夫か。略奪者が侵入したと思って身構えたぜ」


「みんな無事か 負傷者は?」


「五人とも無事だ。徹が足に傷を負ったが大したことはない」


「そうか」市雄はホッと安堵の吐息を漏らした。


マサルに連れられていった奥にある広いオフィスらしきところには机の片隅に肩を寄


せ合いうずくまる若い男女四人がいた。


「おい、市雄は無事だったぞ」


マサルのその言葉にへたりこんでいた四人のうちの一人が迅速に立ち上がり市雄の体


を抱きしめた。


「俺を助けてくれたんだな。ありがとう」


そう発した男の名はサムといった。市雄はサムを追ってきた男を殴り殺したなどとは


言えなかった。 「ああ・・」力なく相槌を打った。


サムの年齢は二十八歳で市雄とは同年代だった。父親はアメリカ人でハーフである。


残りの三人は負傷している徹にその恋人の美也子。そして彼女の弟で高校二年生の幸


雄。それにマサルと市雄を含めた六人で現在は行動を共にしていたのである。


この六人に過去長い付き合いなどあったわけではない。この六人が結びつくきっかけ


となったのは紛れもなく世界最終戦争の勃発であった。それまで敵対し合っていた二


国のいずれかが核兵器の発射ボタンに触れてしまったのだ。


それからはもう歯止めが効かない。あっという間に世界中が核の炎に包まれてしまっ


た。そんな中でこの六人はなんとか生き残ったのだ。前代未聞の大惨事で混乱し荒廃


する街で出会い助け合って必死に生きてきた。だが戦争が起こった原因は取るに足ら


ないつまらない事だった。自己顕示、利己主義、疑心暗鬼など負の思考が長年築き上


げてきた偉大な文明を一瞬にして灰にしてしまったのだ。何とも愚かしいことだ。そ


してたった一度の過ちがすべての人間の運命を大きく狂わせてしまった。


それでも運よく、いやいいかどうかはわからないが生き残った人間たちはやがて理性


を失い己のために水と食料を求め争い殺しあった。


もうこの世に法も秩序も存在しない。今や人間社会も獣たちが生きる野生の世界と何


も変わらなくなってしまった。


そんな修羅場と化した街での六人の出会いは運命的だったのかもしれない。


彼らの共通点は美也子と幸雄の姉弟以外肉親をすべて亡くしてしまったということだ


った。

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