第29話 米を食べるコサックと一向一揆

 明がずるずると清に負けて行ったのはいくつか理由があるが、清の政策もその一つである。


 明軍は日本からの支援により鉄砲を多く装備しており、また圧倒的な海軍力で支援されていた。これらで固められた沿岸部の拠点を抜くのには清の大軍といえど容易ではない。そこで清が実施したのは遷界令である。つまり広州から浙江まで、沿岸30里(唐里、約15キロ)の住民をすべて拉致、ちょうど良くなぜか無人になっていた四川にことごとく植え替えて行ったのである。


 これにより明が清と争っている土地は生産力や人的資源をまったく失うとともに、清は荒廃した四川を回復し税収を得ることができた。そして日本が大陸と交易する利益も同時に失われたのである。明を大陸から追い出すためには一石何鳥の名政策であった。なお、住民の生活は考慮されていない。


 それから100年ほどたち、ようやく沿岸部には住民が戻りつつあった。


 ◆ ◆ ◆



宝暦・明和年間(1751~1772)


 大陸では清が名君と呼ばれる乾隆帝の治世で全盛期を迎えていた。ベトナムやミャンマーにも遠征を行い、陸上では全世界でも最強の軍隊を抱えていたといわれる。


 ……海上では毛利海軍による倭寇行為が猖獗を極めていた。討伐艦隊は何度も壊滅させられたため、清国ではなんとか大量の艦隊を集めて北京近海のみを死守している。結果、山東省から浙江、福建に至るまでの沿岸部は毛利による武装交易(物理)がはびこり、密輸品や犯罪者が逃げ込む混沌地帯となり果てていた。


 広州から南の海は交易と引き換えに海賊退治を委任したポルトガルをはじめとする西洋艦隊が固めているため、さすがの毛利海軍も手を出せないでいるが、その西洋艦隊でさえも台湾近海に踏み込んだ瞬間に日明連合の大艦隊に襲われ、またたくまに撃沈拿捕されてしまうのだ。


 そんな危険地帯に船が到来し、イギリスとオランダの敵を名乗って連携を呼びかけてきた。フランスの船である。


 フランスはイギリスと第二次百年戦争と呼ばれた長い戦いの中にあり、全世界で植民地の取り合いと欧州での殴り合いを続けていた。


 全西欧と敵対関係に陥っていた幕府はありがたくその申し出を受けた。こうしてフランスと日明は国交を結んだが、あまりにもお互いの拠点が遠すぎ、この時点ではさほどの意味をなさなかったようである。


 ◆ ◆ ◆


 安永・天明年間(1772~1781年)


 ついに乾隆帝は黒竜江(アムール)遠征を決意。モンゴルと満州からなる騎兵10万を満州北部ブラゴヴェシチェンスクに向かわせた。


 ブラゴヴェシチェンスクは「米のカーシャを食べるもの」アムール・コサックの根拠地であり、アムール川とゼヤ川の合流地点に作られた城塞都市である。


 この都市に、はるばると伊豆水軍の船がアムール川を遡って石狩米や弾薬を運び込み、毛皮や砂金を受け取る交易が成立していた。そのため、アムール・コサックたちは受け取った米に豚の脂身の塩漬けサーロを入れ、牛乳で煮てカーシャにして食べているのである。


 毎回それを見ては北条侍が米が勿体ないと嘆くのだが、寒い地方では効率的な栄養補給手段なのであった。




 乾隆帝は騎兵に命じて黒竜江アムール沿いのコサックの拠点や船着き場を次々と焼き払わせ、ブラゴヴェシチェンスクに迫った。コサック軍は籠城。伊豆水軍の川船が黒竜江アムールから必死に砲撃支援を行い、なんとか清軍を追い返すことができた。


 アムール・コサック軍の拠点の9割を破壊したことで清国としては完全勝利を宣言したが、清国の撤退後にコサックと北条家が舞い戻りことごとく再建されるのであった。





 そのころ、日本では天明の大不作が発生。東北地方から蝦夷に及ぶ大冷害によりせっかく開発した石狩米ですら収穫が見込めない状況にあった。米作が壊滅したため、東北の農民はやむを得ずロシア人向けに栽培していたジャガイモやライムギを食べることになる。以降、米作からの転換が少しずつ進み、東北諸侯は米の本年貢の激減に苦しむことになった。


 これ以降、日本の東北から蝦夷地、樺太の栽培作物が大きく変わっていくことになる。



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 寛政・享和年間(1789-1804年)


 フランスにて大規模な百姓町人の一揆があり、国王が処刑されたため、日本国大君および大明皇帝は連名にてフランスと断交。王政の復活を要求した。



 このころ、ロシアは蝦夷地から大量の穀物や船舶、鉄を買い付け、アラスカの開拓に乗り出していた。ロシアの皇帝エカテリーナは新しく自国の民となったアラスカ住民を公平に扱うように勅令を出している。よってアラスカ総督はアラスカ住民の集落を襲撃して人質を取ると、言語を無理やり教え込んで通訳とし、現地に学校を作り、布教とロシア語教育を行い、また日本製の穀物や鉄を毛皮と有利なレート(ロシアにとって)で交易することでアラスカ住民の生活に新しい道具をもたらし、アラスカ住民の生活を改善していったのである。


 謎の疫病(ロシア人が持ち込んだ)と毛皮狩りの強制によりアラスカ住民はばたばた倒れて行くが、ロシア人神父たちはアラスカ住民を差別せず献身的に看病や医療を施した。これによりロシア政府とロシア正教はアラスカ原住民の信頼を得ることに成功、さらに暖かい海を求めて開拓地を南へ南へ伸ばしていくのであった。



 幕府においては蝦夷地の田畑の開発が進んだ。ロシア人の指導で牧畜なども行われ、人口が増えた結果として、律令制以来の新しい地方区分である北海道を設置すべく函館奉行が献策を行った。幕府は朝廷の許可を得て石狩国、樺太国、千島国を始めとする1道12か国を設置して本格経営に乗り出したのである。


 しかし名目上は幕府ではあるが、実際に開拓の中心となったのは北条家を中心とする関東、東北の武士たちであった。自ら開拓して土地を得た武士たちの間には一所懸命を実感する者たちが増えている。



 その後、フランスでは町人一揆を平定した大将軍ナポレオンが皇帝に即位して王政復古したため、ロシア皇帝バーヴェルの仲介もあって日本と明国はフランス帝国との国交を回復した。


 注:その後フランスのロシア遠征で断交し、ブルボン朝の王政復古で回復し、第二共和国の成立で再度断交することになる。



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 文化・文政年間(1804-1831)


 清国にて大規模な一向一揆が発生した。


 毛利が援軍として現地入りしてからこの方、福州や寧波を中心に安芸門徒が本願寺の別院を招請していた。当初は遠征軍の信者向けの施設であったが、次第に現地の漢人に対しても浄土真宗の布教が行われ始めたのである。一時期は明の攻勢にあわせて多くの門徒を獲得していたほどである。しかし、その後の明の敗退により衰退し、坊主は枯れ、寺は裂け、大陸全ての本願寺門徒は死滅したかのように見えた。


 だが、一向宗は死滅していなかった!



 生き残っていた熱心な本願寺門徒が同じ阿弥陀信仰ということで白蓮教集団に合流。唐大陸南部に念仏と阿弥陀信仰を布教して回っていた。これが清朝の重税や漢人差別に対する反感に結び付き、百万人を超える大規模な宗教反乱に発展したのである。


 一向宗を名乗った彼らに対して山科本願寺は無関係を宣言していたが、全くお構いなしにこの一向一揆は一時期北京に攻め込むなど清全土で猛威を振るうのであった。



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 天保年間(1831-1845)


 東北を中心に大冷害。稲刈りの季節に雪が降ったという。天保の大不作である。東北では冷害に備えてジャガイモの栽培に乗り出しており、米は全く取れなかったが芋を食べることで生き延びることができた。東北諸藩の財政は再度大打撃を受けたため税法を切り替え、米の税率を引き上げジャガイモを無税とすることで安定して米を収奪できる体制とした。


 このころロシアは中央アジアにてイギリスとの抗争が激化、またメキシコの独立のどさくさでロシア開拓地がカリフォルニア北部に進出し、メキシコ軍との抗争が始まっていた。日明は直接の関係がないため、ロシアを一生懸命応援している、主に声で。



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 弘化年間(1845-1848)


 

 東北のジャガイモが謎の疫病で絶滅した。


 無理な連作を繰り返し、ジャガイモの疫病が大流行する条件がそろってしまったのだ。


 東北諸藩は改定した税率どおりに米を名古屋で売却してしまっており、東北に食料がまったくなくなってしまった。弘化の大飢饉である。


 東北諸藩からは村人の逃散が相次ぎ、被害の少なかった北海道や樺太に大規模に逃げ込んでいくことになる。東北諸藩は幕府から飢饉の責任を取らされることを恐れてむしろ移民を公認していた。北海道への移住は国防上幕府から推奨されていたためである。

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