信長のいない世界
神奈いです
織田信長は居ない。苦労するのはこの人。
第1話 清洲城代松平元康
「松平蔵人佐元康、清洲城代に任ずる」
「……ははっ」
きらびやかな駿府の今川屋敷で、淡々と任命書を読み上げる今川氏真に対して、松平元康は深々と頭を下げた。しかしその手は小刻みに震えていた。
永禄8年(1565年)4月、ついに今川家は尾張にはびこる織田一族を成敗し、尾張を統一した。永禄3年に今川義元直々の遠征により尾張織田一族最強の織田弾正家をさんざん打ち破ったあと、反今川でまとまった織田一族の大和守家、伊勢守家を次々と滅ぼし、5年の歳月をかけて平定したのだ。傀儡国主として尾張攻略戦の中で捕らえた斯波義統を尾張守護に据え、同じ足利家親族の重鎮として長年のライバルであった斯波氏への意趣返しも終えている。
そして、その最大の功労者が松平元康であった。
松平元康とその配下の三河兵は勇猛果敢に働き、末森の戦いで織田弾正家当主織田信勝を討ち取るほか、織田大和守家、伊勢守家などの織田一族を攻め滅ぼすにあたっても常に先鋒として戦い、血を流してきたのである。
◆ ◆ ◆
「それもこれも皆、岡崎城を返していただかんがため! 尾張に領地が欲しいから戦ったわけではない!!!」
「今川の性根が今こそ見えたわ! われらを永遠に使い捨てにする気ではないか!」
松平屋敷に戻った元康に憤懣やるかたない様子で口々に家臣たちが詰め寄ってきた。
元康が幼少時に駿府に人質に取られて以来、三河衆の領地である岡崎は今川家の代官に支配されたままなのである。今川に年貢を取られながらもなんとか武具を工面して元康の元で戦ってきたのもいつか領地を返してもらえるとの望みがあってのものである。
「おちつかぬか、今回実際に差配を許された土地は岡崎の領地の数倍の価値はあるのだぞ」
元康が自分も納得しきれてないように呟く。
松平元康は清洲城代として、事実上尾張北半国の代官となった。名目上の城主は尾張守護斯波義統だが当然何の権限もない。自分の領地になったわけではないし、今川に年貢の上納もしないといけないが、それでも豊かな尾張を半分手に入れたようなもので役得も莫大だ。
「これだけの新しい役目があり、尾張をきちんと守らねばならぬから、我らがいちいち岡崎と往復しては勤めが果たせぬ、であるから……」
「さようなこと真に信じておいでですか?!」
「……ええい、言うなもうわかっておるわ!」
元康はイライラと親指の爪を噛み始めた。
尾張はまだまだ織田を滅ぼしたばかり、織田の残党もあちこちに残っており全く落ち着いていない。その中で元織田家の勢力の強い土地をまとめて松平に管理させることで、三河も安定、尾張も安定という今川両得の策だ。
なお、清洲から岡崎に戻る道の途中、鳴海城には尾張南半国守護代として今川の譜代家臣の岡部丹波守元信が入っており、伊勢湾に面する豊かな領地は今川家臣に分配され、東海道にしっかりと目を光らせている。
つまり、全く信用されていない。
今川の親戚の嫁を貰い、口の上では今川の親族並として扱ってもらっている。いや、実際に尾張半国を預けられるのは信じられないほどの厚遇ではあるのだが……根本のところで信用されていないのだ。とはいっても妻も子も駿府に人質に取られているような状況で、何ができるかというと……
「いずれにせよ我らは今川屋形への忠節に励むしかないのだ!」
元康はぶつりと親指の爪を噛み切ると、まったく思っていない言葉を吐き捨てた。
◆ ◆ ◆
「報告です!佐久間党が年貢の荷駄を襲ったとのこと!」
「すぐに討伐いたせ!」
「それが、『また』川並衆に逃げ込まれ……」
「ええい、ワシが行ってまいる!」
松平の侍大将が慌てて武装して出撃していく。
元康が清洲城に入り半年近くなるが、まったく生活が落ち着かない。
大量に解雇された旧尾張の浪人が野盗と化し、あちこちを襲うのだ。
しかも、手に負えないことにこれら浪人は美濃と尾張の国境地帯の河原に潜み、追えば美濃に引っ込み、退けば尾張に出てくる有様だ。しかもこの国境地帯の河原は洪水のたびに地形が変わり、河原沿いの川並衆と呼ばれる豪族たちが美濃の家臣か尾張の家臣かが判然としない。結果、都合のいい時に都合のいい方の家臣面をすることになる。
「美濃守護の一色殿(美濃斎藤)は何と申しておる?野盗討伐の依頼は出しておるだろう?」
「返答は変わらず、一色殿からは盗賊討伐は我らに任せておけ、との一点張りで……」
おずおずと元康にこたえる家臣。
埒が開かぬ。
元康はまた親指の爪を噛み始めた。やはり尾張国人はできるだけ許し、少しでも浪人を召し抱えるべきだったのだ。それを今川が恩賞用に土地を空けろなどというから……
盗賊を防ぐためにと国境に砦を増やしたら逆に一色家から「当家と今川は盟約を結んでおるのに、国境に砦を増やすとはけしからん」と抗議され、今川家から「一色に配慮するように」などという命令がくる始末。
「殿、こちらの商人どもからの陳情でございまするが、催促が」
「……ううむ、待たせすぎたか?」
さらに、商業国尾張ならではの様々な陳情が津島や熱田の商人から上がってくる。なんか販路や商売の特権の話のようだが、はっきり言って何を言っているかよくわからん。三河では薪炭や味噌も今まで農民に作らせていたのに、尾張ではいちいち銭で買うらしい。
「鳥居彦右衛門に任せ……しまった、金策で外出中であったな」
松平家臣で唯一商売に詳しいのがもともと矢作の水運と馬借の元締めだった鳥居党ぐらいであるが、急に銭が入用になったためあちこちを金策で飛び回っており、ほとんど城に戻れていない。
「とりあえず話をじっくり聞いて……」
「松平どーのーー」
……気の抜けた声が清洲の廊下に響き、元康が頭を抱えた。
清洲城主殿がお呼びである、暇なので。
◆ ◆ ◆
「いやぁ、本当に松平殿が来ていただいてよかったよかった。文化を解する方がおられるというのは本当に素晴らしい」
「いえ、それがしなどはまだまだで……」
結局、元康は多忙を極めているのに、尾張守護斯波義統様の歌のお相手をすることに相成った。
これも三河の家臣には相手をできるだけの教養のある人物がいないからである。……と、いうことにしてある。そうでもなければ忙しい時に大事な家臣を歌会に取られてしまう。
元康も決して歌が得意なわけではなく、もう見たモノをそのまま詠むだけの力しかないのだが、なぜか義統様はそれを気に入ってちょくちょくお呼びになる。
「夏草や麦の実りの豊かさや」
「大義に成りて国土栄えん」
……大義?なんだこれは。歌の主題からずれているのでは……?元康が訝しんでいると、斯波義統がまじめくさった顔で続けた。
「いや、実はだな松平殿、少し話があってだな……」
と打ち明けた話が寝耳に水、聞いたこともない話。
「……公方様がなんですって?」
先代足利将軍の弟君、足利義秋殿が上洛のための出兵を求めておられ、朝倉を頼っていたが動きが悪いため次に頼れる大名を探しておられると。
なるほど。
で、なぜそれがしにいう!?
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