9.ノーチラスの完全な診察

名取

Mobilis in Mobili⑴



 あの人に認められることだけを考えて、生きてきた。


 そのためなら、この身がいくら傷つこうが、焼かれようが、変わろうが、一向に構わないと思ったし、だからこそあの男には負けられなかった。もちろん、『エレミヤ』の名を継ぐことが決まった時は心から嬉しかった。それでも、いつも脳裏には、あの男の性悪な笑みが張り付いていた。Wウィリアム・ヘンペル。あの人に最も信頼され、最も優秀と認められた研究者のみが名乗ることを許される、栄誉ある名前。

 僕がエレミヤになった時、すでに奴はヘンペルとして動いていた。

 そしてあの人も、奴を天才と呼び、寵愛していた。


 しかし、最初は絶対的に見える才能の差も、年月と共に縮まっていくものだ。


 僕は努力した。努力し続けた。

 そして、ようやく、光明が見えた。


 奴が失脚したのだ——詳細を知る者はいないとのことだったが、聞くところによれば、どうやら精神に異常をきたしたらしい。当然の報いだと思った。才能頼りでろくに努力もせず、傍若無人に振る舞っていたツケが回ったのだ、と。

 だが逸材を失って、あの人は落ち込み、感情的に激しく荒れた。

 尊敬する人のそんな姿を見るのは辛かったが、同時にチャンスだと思った。奴の空けた穴は、僕が埋めればいい。そのための準備も、努力も、十分積み上げてきた。


 あと一つ必要だったのは——奴の最後の被験者。


 あの男の研究を引き継ぐような形になるのは癪だったものの、頓挫したプロジェクトを再利用するのだと考えれば、気持ちの折り合いもついた。それに、やり方自体は完全に僕独自のもので、あの人もそこを評価してくれている。だからこそ、僕にはこれをやり遂げる責任がある。絶対に。


「エレミヤ先生。お電話が入ってます」


 地下に設けられた院長室で、オペ道具の手入れをしていると、看護師の一人がやって来てにこやかに告げた。

「電話? 誰からだい」

「本部の方からです」

「ああ、そう。君は下がっていいよ」

 いつもはそのように言えば、皆静かに立ち去るのだが、彼女はその場に立ったまま、もじもじとしている。

「どうした?」

「あの、その……そろそろあれをお願いできませんか」

 潤んだ目がこちらを見つめてくる。頬がかすかに蒸気して、息も荒い。

「おや。我慢できなくなったのかな」

「はい……」

「わかったよ。本当はもう少し時間を空けた方が良いんだが、まあ、君は新顔だからね。電話を終えたら呼ぶから、それまで少し休んでいなさい」

 そう言うと、彼女はホッとした顔になり、「はい」と和やかに返事をした。

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