小説「孤島の少年」

有原野分

孤島の少年

「いつもの見なれた風景が突如壊れるとしましょう。何を考えるべきか。何が見えてきますか。私には夜が見えます。自然と部屋に閉じこもればそこはもう夜です。例え真っ赤な太陽が空に浮かんでいても、例え爆弾が落ちてこようとも。常にあるべきである。優雅に食べた昨日の晩御飯が思いだせますか。何も思い出せはしない。昨日はもう死んだのだから。今からの事は何もありません。まだ生まれていないのだから。アランが例えこんな事を言ったとしても私達は過去を思い、先を考え、今を行動する。…おっと、鐘が鳴ったね。ではみんな、今からすべき事、それは机を並べて持ってきたお弁当を和気あいあいと食べる事です。では起立。礼。はい、ありがとうございました。」

 教室から教頭先生が出て行くのを確認したら少年はほっと溜息を漏らした。机をみんなと向い合わせにし、合掌をする。

「ねぇねぇ、何で今日は教頭先生が来るの。みな子先生はどうしたの?」

「今日はサッカーしようぜ。俺、必殺技編み出したんだ」

「本当だよね。うち、教頭先生の事、なんか苦手だな。だって難しいんだもん。楽しくないし」

「またサッカーかよ。たまにはドッチでもしようぜ。ドッチなら俺だって必殺技もってるし」

 弁当を食べながら下級生の女子が話しているのを少年はむすっと聞いていた。他の二人の男子は昼休みに何をして遊ぶかを口をくちゃくちゃさせながら話していた。

「ねぇねぇ、オトちゃんは何でか知ってる?」下級生の女子が少年に話し掛けてきた。少年はむすっとした表情をなるべく崩さない様に「お前ら、朝の話聞いて無かったのか。みな子先生はな、結婚するっていって本州に帰っちゃったんだよ。教頭先生が朝ちゃんと話してただろ。それにこの話は前からずっと知ってたじゃないか。だからこの前、みな子先生のお別れ会だってしただろ」

 少年がそう言うと女子二人は不思議そうな顔をして「それじゃみな子先生はいつ帰ってくるの。だって前の時にまた会えるって言ってたよ」と言ってきたので少年は少し困ってしまったが、正直に言ってしまおうと思った。どうせ言った所でたいして理解できまいと思った。

「みな子先生のまた会えるって意味はな、これからの人生生きていたらまたどこかで会いましょうって意味なんだよ。学校に戻ってくる事はないんだ。これからは新しい先生が赴任するまでは教頭先生が勉強を教える。だから暫くはもうみな子先生とは会えないんだ。分かるか?」少年が答えると女子二人は悲しげな顔をして「みな子先生は嘘ついてたの?それに、うち教頭先生嫌だな。みな子先生がいいな」と言ってきたので少年はいらっとして「みな子先生は嘘はついてないし、教頭先生だって仕方が無いんだ。あの先生は元々画家を目指していたらしいから、あんな風に芸術家ぶった事言うんだ。そんな文句ばっかり言ってても仕方無いだろ。どうしても嫌なら沢山勉強して早く立派な大人になってこの島から出て行くしかないんだよ」

 少年が言い終わると女子はおろか他の男子二人も押し黙ってしまった。少年は後悔した。こんな子供相手に自分の感情を混ぜて話すなんて。大人げ無いなと思った。早く大人になりたかったのは少年が一番強く願っていた事である。

 少年が暮らしている島は本州から船で三十分ばかりの小島で、人口は約五百人にも満たない。少年は離島というよりはこの島を孤島と捉えていた。通っている小学校は少年を含め五人しかいない。二年生に女子二人と三年生に男子二人、そして六年生の少年一人であった為、少年はいつも孤独を感じていた。同い年や遊び相手が居なかったのだ。上の人達はみんな卒業と共に島から出て行ってしまった。仕方無く少年は島の大人達と遊ぶ様になった。生まれつき体付きが良いせいか、すんなり大人の仲間に入れた。島の大人達はこの少年を可愛がった。下級生から「オトちゃん」と呼ばれているのは単に大人に見えるからだった。

「時として人は自分を見失います。果たして何が幸せであり、何が不幸か分からなくなります。そんな時はゆっくりと周りを見渡しましょう。友達が見えますか。家族が見えますか。私は目の前のみなさんが見えます。そして給料日の夜に飲む酒の味を思い出します。大事な事は自分を見失わない事です。夢を持ちましょう。では今日の話は終わりです。それから先ほど決まった事なのですが、来週から新しい先生が来られます。みなさん、仲良く出迎えてあげましょう。起立。礼。はい、さようなら」

 少年は学校が終わると一目散に校舎を飛び出し裏山に向った。木々に囲われたけもの道を駆けのぼり暫く行くと山に浸食された今はもう使っていない崩れかけた廃寺が現れる。少年は廃寺の縁側に腰を掛け、覚えたばっかりの煙草を吹かした。島の大人に貰った物だった。

 木々の枝や葉の間からこぼれ射す太陽光を煙に巻くと少年は服を脱ぎ出した。全裸になり唾を自分の陰部に吐きかけた。ねっとりと冷ややかに唾液が陰茎を包みこむ。少年はみな子先生の事を考えた。そして島の大人達と飲んだ時の事を思い出した。

「大人になるにはなぁ、まずセックスだな。セックス。まぁエッチすりゃいいんだよ。分かるか?かわい子ちゃんの乳でも揉んでお前のチンポ入れりゃあ良いんだよ。あぁ?そんなもんオメコに入れりゃいいんだよ。それがセックスってもんよ。そりゃあ気持ち良いぞぉ。でもあんまりハマるんじゃねぇぞ。金がいくらあっても足らねぇからな」

 少年は勃起した陰茎を握りしめた。

「みんな、今までありがとう。私、みんなに会えて本当に良かったわ。心から感謝しています。沢山の楽しい事や時には悲しい事もあったけれど、今では昨日の事のように思い出します。本当にありがとう。私はこの島を、小さくて素敵な島で先生になれた事を誇りに思っています。…みんなも忘れないでね。この島の素晴らしい景色を、風を、海の偉大さを―。では、またいつか会いましょう。さようなら」

 少年は息が荒くなり、血管が今にも爆発しそうだった。

「人間は平等です。誰もが幸せに生きる権利を持っています。ただしそれはルールを守り、法を守り、そして道徳を守った人の話であります。自分勝手な人間は幸せにはなりません。先日、校舎のトイレから煙草の吸殻が見つかりました。誰とは言いませんが、全く不愉快であります。みなさんを疑ってはいませんが、もしもこの中の誰かが吸っているのなら、話は変わります。法を破っているからです。そして私に迷惑が掛ります。私に迷惑が掛るんです!」

 少年は陰茎を握りしめたまま、近くの古い老木に身を預けた。

「おめぇ、今日も飲みに行ってたな。糞ガキの分際で調子に乗るんじゃねぇよ。人が海で死ぬ思いしながら稼いだ金をひょいひょい使いやがって。あぁ?てめぇのせいで母ちゃんも出て行ったんだよ。ったくボケが。まぁあんな売女野郎どうでもいいけどな。豚みたいに臭い女だったよ。体しか能がねぇ売春女、どうせ出て行くならこの糞ガキも連れて行きゃよかったんだよ。ちっ、うるせぇな。殴ったぐらいで泣いてると殺すぞ、糞野郎が」

 少年は老木の幹に向かって射精した。白くどろどろした精液が幹を濡らし、ゆっくりと地面に這っていった。

 古びた縁側にまた腰を掛け、煙草を吸った。全身は蚊に刺され麻疹の様に痒かった。その中の、丁度腹部にあった赤い蚊の痕に爪で十字を作ると、少年はそれに向けて力強く煙草を押しつけた。声が漏れる程に熱かったが、少年は眉をひそめながら笑っていた。陰茎はいまだに勃起している。

 少年の体には無数の殴られた痣と煙草の痕が生々しく濁っては巣くっていた。

「ただ今紹介に預かりました、福田と言います。みなさん、まだまだ新米の自分で在りますが、これから宜しくお願いします。なにか先生に質問はありますか?」

「先生は今いくつですか」

「先生は今二十三です。大学を卒業したばっかしです。先ほども言うて貰いましたが先生はこの島の出身です。関西の学校に進みましたが晴れてまたこの故郷に戻ってきました。みなさん、同じ島民同士仲良く元気一杯でやっていきましょう!」

「先生は独身ですか」

「そうやねん。僕まだ独身やねん。てかみんな別に先生とか呼ばんでも大丈夫やから。もっと気楽に福さんとか福ちゃんでも良いから、簡単に呼んでな」

「…先生は何でまたこの島に戻って来たの?」

 少年は海に浸かった。火傷に塩水が沁みる。かえって気持ちが良かった。

「僕はこの島が大好きだからね」

 冬の間は廃寺の泥を火傷に擦り附けていた。

「先生は友達いるの?」

「沢山いてるよ。だからこの島でも頑張ろうって思えたんだ」

「…って事は友達がいなかったらこの島では頑張れないって事?」

「違うよ。友達がいなくても僕はこの島で頑張っていくよ。だって好きだから」

「何が好きなんですか」

「この島とみんなが好きです」

 煙草の傷は十を超えていた。

「オメコと酒が大好きでなぁ」

「夢はありますか」

「夢はあります。自由です」

「今は自由ですか。不都合は無いですか」

「自由とは精神の話であります。現実はそう上手く成り立っていません」

「みなさんの事は、決して忘れません」

「夢は無かったんだ。だから仕方無かったんだよ」

「だから殴るの」

「むかつくんだよ。全てがうまくいかねぇ」

「ねぇ、オトちゃんは煙草吸ってるの」

「もう泣かないって決めたんだ」

「何も言わないでいいから」

 少年は新任の福田と海に来ていた。今日は珍しく波が無く、フナ虫さえも凪いでいた。

「相変わらず綺麗な海だ。案内してくれてありがとう。久しぶりなもんでこの入江の事をすっかり忘れていたよ」と福田が言う。少年は福田を断れず、渋々この入江まで案内した。

「どーした?そんな浮かない顔をして。どうせなら一緒に泳ごうや」

「僕、カナヅチなんですよ」と少年は答えた。

「んな訳いやろ。この島で育つって事は泳ぐと同じ事やろ。なんでそんな嘘吐くんかなぁ」

 少年は何も言えなかった。体の傷がばれたら、もう終わりだと幼い心の中で思っていたからだ。

「僕今、足ちょっとだけ痛めてるんですよ。忘れたんですか?ここいらの波は凪いでいても油断できないんですよ」少年がそう言うと福田は確かにと言った顔付きで「…確かにせやったなぁ。なら仕方無いな。また今度泳ごうか。今日はのんびりと海でも眺めるか」と答えた。

 少年は安堵した。どうにかこのまま大人に成れる気がした。その時、心の奥の方で何かが騒ぎ出した。それと同時に福田が意外な事を聞いてきた。

「なぁ、教頭先生に聞いたんやけど、煙草吸ってるのか?」

 少年は痛みが膨れ上がるのが分かった。心が右に左に―。

「なぁ、島の人に聞いたんやけど、酒飲んでるのか?」

 油の様な汗が脇を湿らした。

「なぁ、何となくやけど、虐待されてんのか?」

 海は広かった。途方に暮れるぐらいに。後ろを振り返ると山々の雄大な姿が少年を見下ろしていた。木々が揺れる音が聞こえてくる。凪ぎは終わった。風は気まぐれに吹いては去って行った。

「福田です。失礼します。今日はどういったご要件でしょうか」

「君に相談があるんだがね。まぁ、あの六年生の事なんだが、きちんと指導はしているのかね。一向に煙草は吸っているみたいなのだが。そのへんの事は君だって分かっているでしょう?」

「教頭先生、お言葉ですが、あの子の場合は複雑な事情があるじゃないですか。家庭環境や島の環境も悪い。もう少し温かい目で見守ってあげたいんです」

「そんな事は私だって分かっています。ただね、私はどうでもいいんです」

「どうでもいいとは?」

「あの子の事も、君の事も。そして島の事も。君だってこんな所に飛ばされて、夢は無いのかい?私は私なんです。孤高の人間は夢を見ないものなんだよ。私はもう、自分と自分に酔う事の為に生きているんです。人間はみな不平等なんですよ。分かりますか。あなたはそれで良いんですか?夢は無いんですか?」

「夢は無かったんです。仕方無かったんです」

「私は生きるだけの金があればもう良いんです」

 少年はこの日も学校が終わると一目散に裏山の廃寺に向かった。

「分かりました。もう、分かりました」

 少年の後ろを遠感覚で福田が追っていた。

「あの子は学校の裏山に良く行っているみたいだ。確かあそこには寂れた寺と御神木があった筈だ。…懐かしいな」

 少年は福田には気付く筈もなく、いつも通りに煙草を吸った。

「早く出て行きゃ良いんだよ。あんな糞ガキはよ」

 少年は全裸になってオナニーを始めた。

「喧嘩は辞めなさい!どうして私を悲しませるの?」

「酒でも飲まないと、私は駄目なんだ」

「この島は大嫌いです。汚いし、臭いし、なにより不自由ですから」

「海は偉大だ。人なんてすぐに死ぬさ」

「火傷は痛いの?」

「早く大人になりたいんだ。だって」

「だって?」

「…愛はあるの?」

「無いよ」

「金はあるの?」

「無いよ」

「…だって寂しいんだ」

 少年は御神木に向かって射精した。そしていつも通り煙草を腹部に押し当てた。

 福田はそれを見ていた。

 福田は何も言わずにその場を立ち去ると、翌週には島を出て行った。

 ただ、福田が島を出て行ってから数日後に少年がまた例の廃寺に行ってみると、御神木が変わり果てた姿になっていたのだった。真っ赤に燃え盛っているかのように、全身を赤い点々で覆われており、今にも悲痛な声が聞こえてきそうだった。

 少年が近付いて見てみると、それは煙草を押し当てた痕だった。何百とも、何千とも痕はあった。ただ不思議な事に、少年が精子をかけていた所だけは無傷であった。少年はその場で泣き崩れた。泣き崩れながら少年はそのまま気を失った。

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小説「孤島の少年」 有原野分 @yujiarihara

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