30.もっと聞かせて?



「いっ……!!!」




シュッと消毒されると、染み渡る痛み。


血、出てないのにっ!!!




琥珀が咲くんに連れられて来た保健室、琥珀はソファーに座らされて、床に膝をつく咲くんにシュシュッとてのひらを消毒されていました。


先生は職員室に戻っているらしく、消毒液だけちょちょいと借りまして。


授業はもう始まっているけれど、みっちょんが先生に説明しておいてくれるそうだ。




「傷付けられてたか」


「でも、アシスタントでもよく紙で手を切ったりもするから……」


「琥珀ちゃん」




真剣な、咲くんの瞳が、琥珀をじっと覗き込む。




「悪意に対して、そんな庇うようなことしちゃダメだよ」


「……悪意?」


「こういう悪意を向けてくる人は、エスカレートするんだから、早めに対処しないといけない」




ドクドクドク、琥珀の胸がまた騒ぎ出す。


これはなんのドクドクなのか、咲くんに対してなのか、それとも悪意に対しての不安なのか、わからない。


手も少し、震えている気がした。




傷が、着いているように見えないのに、痛かった。




「琥珀ちゃん」




咲くんから、笑みが消える。


普段から優しい微笑みを見せてくれる咲くんから笑みが消えることが不安を煽って、琥珀はへらりと笑った。




「ごめんね、琥珀がおっちょこちょいで……あ!それとも最近、避けちゃうようなこと……」




怒らせてしまったかな?と、でもどうすればいいのか分からない不安で、琥珀は中途半端な笑みのまま視線を落としていく。


どくどくどく、胸が嫌な高鳴りを響かせていく。


喧嘩とか、仲直りとか、そういうのも琥珀は経験が全然なくて、不安で、でも。


──嫌われたくはなくて。




「あ、あのね、咲くん。さっきも来てくれて嬉しかっ──」




琥珀は、話題を変えようとするけれど。




そのとき、近距離からの鋭い咲くんの眼差しに、琥珀は言葉を止める。


咲くんから声は、かけられなかったのに。


じっと見つめられるその眼差しは、決して琥珀を責めている訳では無いのに。




心の底から震え上がりそうになるほど、真っ直ぐで、体がぞくりとして言葉をなくした。




「琥珀」




言葉ひとつひとつが、聞き逃せないような、彼に囚われたようなそんな世界の中。


目の奥が、鼻の奥がツンと痛んできて、意味のわからない涙が溢れそうになる中。




「逃げないで」




彼は、私の知っている中で初めて、私の痛みに触れる。




「怖くなかったはずがない。そんなに笑って見せたって、俺には誤魔化しているようにしか見えないよ」




その瞬間までは、自分の気持ちも咲くんの言葉も、よくわかっていなかったのに。


ほろり、ほろり、涙が一粒、また一粒と流れ落ちる。




「……え、なに、これ」




琥珀は動揺する、こんなの琥珀ちゃんじゃないと。


心配させてしまう、いけない、もっと元気なのが琥珀ちゃんなのだから。




「ごめんね、わからないけど……気にしないで」




ぽろぽろ、ぽろぽろ、止まらなくて。


なんで?なんで?って思うのに。


とまれ、とまれって思ってるのに。




『俺には誤魔化しているようにしか見えないよ』




その言葉が、刺さったからだ。


なんで刺さったのかって、図星だったからだ。




現実逃避して、妄想の中へと逃げ込んでしまう。


それは、傷を見ないように、見せないように、大丈夫大丈夫だと。


見ないように、していただけだと。




「本当は閉じ込められた時、どう思ってたの?」




彼は閉じ込めて忘れようとする琥珀の気持ちを、掘り返す。




「た、楽しくない話だよ」


「楽しくなくていい。大事な琥珀の気持ちだよ」


「……嫌われたくない」


「嫌うはずない。琥珀はどれだけ俺が琥珀のこと想ってるのか、知らないからそう思うんだよ」




想ってる、と、言われても。




「咲くんがなんで、そんなに琥珀に良くしてくれているのか、琥珀にはわかんない」




琥珀は知らないことばかりだ。


世間知らずだ、箱入り娘?だったし、頭悪いし、人の気持ちもよくわからないし、美術部に入らないって言っただけで美術部の子から目の敵にされた理由も解らない。




「わからないは、怖い」




わからないは、怖いことばっかりだ。


ただひとつ、琥珀が笑っているとみんなが笑っていてくれる。


たまにダメな時もあるけど、それが一番、わかりやすくみんなが琥珀に良くしてくれる方法で。




でも今、咲くんは笑ってくれない。


いつも笑ってくれている咲くんが笑ってくれなくて、琥珀はどんどん不安になっていく。


離れていってしまうんじゃないか、嫌われてしまうんじゃないか、もう黒曜に来るなと言われたら──。




────怖い。




「琥珀、俺は知りたいんだよ、琥珀の気持ち」


「……」


「去年の文化祭で琥珀が出してた、水辺で手を取り合って眺めている絵。あの絵に俺は救われてから、ずっと琥珀のことが気になってた」


「……え」




ドクンと、心臓が大きく跳ねる。




それは、確かに文化祭の時に飾られていた作品だった。


湖の縁で手を取り合う二人、励ますようにも見えるけれど、人によっては諦めているようにも見て取れるような、そんな絵を描いた。


絵が描けなくなる前に、描いていた絵。




それは琥珀が、このまま水の中に潜ってしまいたいと思っていた一部を切り取ったものだから。


逆光で表情は見えない二人寄り添う絵。




「あの絵のこと、知ってたの……?」


「俺が、人生をリセットしたいと思っていた時に見たから。水辺はキラキラと輝いているのに、俺には二人がそのまま進んでいくんじゃないかって見えたよ」




それが救いになったとは、どういうことかはわからないけれど。




「俺の気持ちとリンクしたようだった。スッと胸の中に入ってきて、忘れられなかった」



私の作品と、咲くんの気持ちがリンクした……?


聞きたいことは色々あった。


リセットしたいってどういうこと?


咲くんの気持ちって?


そう、思いはしたけれど。




「琥珀の絵が、間違えそうだった俺を止めてくれて、それからしばらく俺は琥珀のこと、調べてたんだよ」


「……調べてた?」




え、何?


調べるって何……?




「でも話したことも接点もなくて、これでも俺、一年くらいは片思いしてたんだよ」




咲くんが何の話をしているのか、だんだんわからなくなってくる。


片思い?片思いって……え?




「だから絶対に失敗したくないんだけど、最近少し欲が出てきちゃった。ごめんね」




そう微笑む彼は、いつもより少し照れているような顔で、涙にまみれた琥珀の顔を覗き込む。


混乱が混乱を呼んで、さらに解らなくなる琥珀。




「だから琥珀、俺は知りたいんだよ。琥珀の気持ち、もっと聞かせて?」




呼吸が、息が、しにくくなる。


とくとくとく、脈が速くなっていく。


期待か、恐怖か、わからない感情で、ゾワゾワと鳥肌が立っていき……こくり、喉が鳴る。




このまま咲くんに話しても、本当に大丈夫なんだろうか。


琥珀はたぶん……今以上に感情を乱してしまうかもしれない。


けれどもうそれも、こんなに涙を流しているなら今更で──。




「────怖いの」




まず口をついて出た言葉は、それだった。




「うん、何が怖い?」


「さ、咲くんがほんとに……ほんとに琥珀から離れて行っちゃわないか……」


「離れないよ。離れてあげない」




両手を優しく握られて、呼吸がさらに速くなる。




「ふ、震えちゃう」


「かわいいよ、大丈夫」


「は、はずかしいの」


「いいよ、大丈夫だから」




大丈夫大丈夫と言われていると、不思議と大丈夫な気がしてきて……。




「琥珀、怖いの苦手なの……」




さらに涙が出てきてしまう。


今まであったことが次々と駆け巡ってきて、琥珀の恐怖を追体験させる。




「ほんとは、ほんとは咲くんと会う前に絡まれた不良さんも、黒曜の倉庫もメンバーズも最初は怖くてっ」




怖くて、でも考えたくなくて、咲くんについていってしまって。




「女の子たちに囲まれて体育倉庫に引っ張りこまれた時も、怖くって」




震える、どんどん震えてくる。


止まらない震えに、咲くんが優しく背中を撫でてくれる。


すると少しだけ落ち着くんだ。




「黒曜のこと知っていって、どんどん好きになっていって……でもそうすると今度は、黒曜から、咲くんから離れるのが怖くなってきて」




琥珀は、役に立たないと、役に立たないとここに居られなくなってしまうと、いっぱいいっぱいに考えてしまっていて。




「絵、描けなくなったままだから……このままアシスタントでも描けなく、なっちゃったらって……」




怖い、怖い怖い怖い。


居場所が無くなることが、拒否されることが、仲間はずれにされることが。




知ってしまったから、あの場所が心地いいと思ってしまったから。


咲くんと一緒にいる時間が、琥珀にとって心安らぐ時間だったから──。




「咲くん、の、隣……いたいのに、体が逃げちゃって」


「……うん」


「ご、ごめんなさいっ!きらいに、なっちゃ……」




嫌われたくない、怖い、ほんとは震えるほど怖い。


本人に話すのなんてもっともっと怖い。




けれどその瞬間、ふわりと優しく引き寄せられた琥珀の体。


背中に回る咲くんの暖かい腕、肩に当たる咲くんの顎。




ぎゅっと優しく、でもしっかりと、抱きしめられていた。


ソファーに座る琥珀、片膝をついて背中に腕を回す咲くん。




「琥珀は、怖いと気付いていたの?」




優しく聞いてくれる咲くんに、徐々に不安がおさまってくる。


琥珀は首を横にふりふりする。




「すぐには、気付かないの。でも後から、怖かったなって……」


「我慢しちゃってるのかもね」


「が、まん……?」




琥珀は、我慢をしていたのかな?


わからない、まだ、全然わからないけど。




「きょ、今日の呪いのお手紙も、カッター貼り付けてあってびっくりしたし……でも怖くなってきたのは今、なの」


「うん」


「閉じ込められて、お昼も食べられないでずっと気付かれなかったらって……怖くて」


「すぐにミツハちゃんが気付いて連絡くれたよ」


「みっちょん……みっちょん大好きなの……」


「それは……うん、ちょっと嫉妬しちゃうけど。ミツハちゃんが琥珀についてくれれてて、嬉しく思うよ」




琥珀も、咲くんの首に腕を回す。


こうしていると、だんだんとおちついてくるのがわかった。


じわじわ、じわじわ、暖かい咲くんの心が染み込んでくるみたい。




「絵を描けなくなった時も、すごく怖くて、不安で。自分の一部がなくなっちゃうんじゃないかって怖かったけど。みっちょんが励ましてくれて」


「うん」


「家出中らしいの、琥珀の感性。でもそのうちきっと、戻ってきてくれるって」




信じたい、信じてる、今はまだどうなるかわからなくても。




「黒曜で、楽しいを積んで、スキルを積んで、そしたら戻ってきてくれるかなぁ」


「あんまり根詰めないで、戻ってきてくれた時の分の余裕も空けておかないとだね」


「そっかぁ……」




余裕、余裕が必要なんだ。


琥珀ちょっと、色々といっぱいいっぱいになっていて、でもそれを他の人にはバレないようにって隠して笑っていて。


でもそれじゃ、いつまで経っても余裕がないままなんだ。




ぎゅっと咲くんを抱きしめたら、優しく抱きしめ返してくれた。




「咲くん」


「うん?」


「お話聞いてくれて、ありがと。離れないでくれて、ありがと」




絶対こんな琥珀、めんどくさいのに、ちゃんと話を聞いてくれて、抱きしめてあやしてくれて。


ぽんぽん、優しく頭を撫でてくれるその手に、また涙が溢れてきた。




琥珀もいっぱいいっぱいで、咲くんの話、ちゃんと聞けてなかった気がする。


なんかいろいろ、引っかかる言葉があった気がするけれど、琥珀の気持ちがいっぱいいっぱいに溢れ出して来て、掬い取れなかった気がする。




たくさんたくさん、これまで助けてくれた咲くん。


お話を聞いてくれた咲くん。


大きく深呼吸をひとつしてから、琥珀は咲くんにもたれていた体を起こした。




「ありがと、咲くん。お話したら少し楽になった気がする」



きっと、こうしてお話することって大事なんだと思う。


溜め込んで、我慢して、いっぱいいっぱいになって、でもそれじゃあ気付かないふりして、見て見ぬふりして、目を逸らしているだけ。




そんないっぱいいっぱいの気持ちの中に、家出中の感性ちゃんが戻ってくる隙間なんて、きっと出来ないんだ。


すっと目を細めて微笑む咲くんに、琥珀も涙の乾ききらない瞳で笑い返した。




すると、ソファーに片手をついた咲くんが、もう片方の手を琥珀の頬に当てて涙のあとを拭ってくれる。


それがまた優しくて、どきどき、どきどきと、琥珀の心臓が高なった時。






────角度をつけた咲くんの唇が、琥珀の唇に重ねられた。















ドクン、と、心臓が大きくなって、締め付けられるような痛みを感じた。




















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