月の女神は家出中。

閑谷 璃緒

第0話 プロローグ

「かはっ・・・ぐ・・・うっ」


 肋骨ごと肺が圧迫されたらしく、男は大きく吹き飛びながら空気の塊を吐き出した。


 右腕が骨折によって赤黒く腫れ上がり、苦しげに血反吐を吐く男は、どう見ても満身創痍である。


 それでもなお、半ばで折れた剣を構える男の目には、覚悟が宿っていた。


 男の見据える先には山が――否。

 巨大なドラゴンが立ちはだかっている。


 両膝をつき肩で息をする男は、ドラゴンの両眼を潰すことに成功していた。


 しかしその代償に、利き腕と肋骨数本を犠牲にしている。


 自慢の愛剣も折れたというのに、恐ろしく頑丈な赤い鱗にはかすり傷一つつけられなかった。


 無謀なことぐらい解っている。


 それでも、男はドラゴンに挑み続けた。


 ――自分が倒れると街が襲われると、解っているから。


 睨み合っていると、不意にドラゴンが口を開いた。


 欠伸でもするかのような緩慢な動作に、男の背筋は凍りつく。


「ブレス・・・嘘だろ」


 焦る男を嘲笑うかのように、ドラゴンの喉奥にゆっくりと収束してゆく紅蓮の炎。


 ――終わりだ。何もかも。


 ドラゴンのブレスは、男を絶望させるのに十分過ぎる代物だった。


 残虐な光を眼に灯すドラゴンは、ブレスを放出しようと更に口を開き・・・。




 ――ドカン。





 爆音と共に爆発した。


 圧倒的なナニカによって先程より重さを増す、張り詰めた空気。


 口から黒煙を吹き出しているドラゴンが、怯えるかのように縮こまっている。


 理解が追い付いていない男が間抜け面を晒していたが、一番パニックに陥っているのはドラゴン自身だろう。


 なにせ、ブレスを放出する瞬間に、圧倒的パワーを以って下顎を押し上げられたのだから。


 依然として突き刺さるようなプレッシャーじみた空気が漂っている。


 発生源はもちろん、男でもドラゴンでもない。


 ――となれば、考えられるのは・・・。







「助けは必要ですか?」


 どこからか聴こえた無機質な声に、男は疑いもせず懇願した。


「頼む。たすけてくれ」





 次の瞬間、ドラゴンの首がスパンと落ちた。


 大木の幹以上に太く頑丈な首が一瞬で切り落とされたことに、男は呆然とするほかない。


「・・・ケガの具合は」


 背後からまた、無機質な声がした。


 血生臭いこの場には不似合いな、鈴を転がしたような声。


 震える足でよろよろと振り返った男は、はっと息を呑む。


 そこには、


「・・・あ、ああ。右腕と肋骨をやられた」


 束の間呆けていた男だったが、どんどんと冷え込んでいく冷気に急かされて口を開く。


「そうですか」


 冷気を発していた女神は、ふにゃりと笑った。


 ――ありがとう。


 それが何に対しての礼かは解らなかったが、伝わってくる彼女の喜びは本物だ。


 不意に浮かべられた、見た目の年相応なあどけない表情に、男は目を奪われた。




 それから間もなく、ドラゴンの死体もそのままに去ってゆく彼女を見送った男は、右腕を振っていたことに気付き絶叫する。


「おいおいおい!何で折れた骨が繋がってんだよー?!」


 骨折だけではない。

 確認してみると、男の体にはかすり傷一つ残っていなかった。


 そっと目を瞑ると、男は黙って頭を下げた。


 あれだけの死闘を繰り広げていたというのに、最後は随分とあっけなかったなと男は笑う。



 まだ日は昇り切っていない。

 男には漠然とだが、何かが起こる良い予感がしていた。





 こうして、二人は出逢った。

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