ノートの端の答えは、クピドの矢の如し。

 結局、あの後に森から何かを言われることも、同じように笑われることも無いままその日のお昼休みは終わった。


 変な勘違い、してんじゃねーぞ。―――と、森に悪態をつく自分を想像しながら、それでもなんとなく落ち着かなくて、お陰様で午後の授業は全く寝ることなく受けることが出来ていた。しかし、理人の『気がつけば三田を見ちゃう病』は重症化の一途を辿り、鬼の山田が黒板に書いていく暗号のような数式を見る度に、三田のところで視線が止まる。



(いよいよ、俺はおかしくなってしまったらしい。)



 理人が今まで憧れたのは、幼稚園の先生とか、隣の家のお姉さんとか、朝のバスで一緒になるOLさんとか、皆年上ばかりだった。それも「良いな。」と思うぐらいなもので、こんなに自分がわからなくなるような、制御が効かなくなるような事は今まで起こったことは無かった。



(いや、でも認めない。これは、『好きと言われて意識してしまう』と言われる、あれだ。ミイラ取りがミイラになる的な…。それは違うか。)



 そこまで考えて、理人は気が付いた。



(好きなんて、ひとっことも言われてねーし!)



 恐ろしいことに気が付いて、理人は顔を両手で覆う。なんなら彼女は、自分がカイリだということも知らないし、きっと同じクラスのもっさりした男ぐらいにしか認識していないだろう。―――それに気が付いたら、今までの自分の行動が情けないやら恥ずかしいやら、どうにもならず顔を上げられない。しかも、森には何か勘ぐられているのだ。


 うーっと唸ってしまいたくなる気持ちを必死で堪え、顔を覆った両手を下ろして、また「三田見病」を発症したかのうように三田の方を見れば、その先でこちらを向いた鬼の山田と目があった。



「じゃあ、酒井。」

「へ?」



 思わず変な声が出た。

 クラスメイトの視線が一斉にこちらを向いたのを感じて、理人は自分が指名されたのだとわかり、慌てて立ち上がる。



「これの答えは。」



 山田の背中越しに書かれた暗号のような数式を、チョークを持った手でカツカツカツと煽るような音をさせながらさした山田が、厳しい目でこちらを見ている。


 理人は焦りで頭が真っ白だ。喉元にナイフが突きつけられているような、断崖絶壁の目の前に立たされているような、絶対絶命の大ピンチに、汗が滲む。だって、今の今まで三田のことばかり考えていたのだから…と、そちらを見下ろせば、三田がそっとノートを理人の見える位置ににずらして、大きく「2.8」と書いてあるところに〇をつけた。



(えっ?)



 顔を上げて、一度黒板の方に視線を戻してみれば、ルートの計算式がずらずらと書いてあるのが見えた。



(もしかして…?)


「にいてん、はち?」



 おそるおそる理人が答えると、三田が斜め前で頷き、そのポニーテールがゆっくり揺れたのが見えた。


「大きな声で!」と恐ろしく大きな山田の声が響き、これ見よがしに「にーてんはち!」と答えれば、「よろしい。」と言って、山田はにやりと笑った。そして、「座ってよろしい」と言わんばかりに、理人の方に向けた指をちょいちょいと動かした。

 理人はどかりと椅子に座り、両手で口元を覆って恐ろしく早く振動している自分の鼓動を感じた。



(あ、焦った。)



 嫌な汗がじっとりと張り付いてる気がして、理人は首の辺りを手で拭う。

 三田は何事も無かったかのように前を向いていた。理人の位置から見えていたノートも、今は三田に隠れて見えない。現実でないかのように感じてしまうが、明らかに自分に見せてくれていたのだと、助けてくれたのだと理人には分かった。

 教科書に隠れるように下を向く。きっと顔は真っ赤になっているだろう。汗がますます噴き出したような気がした。




「み、三田。」



 クラスメイトに声をかけることは、これほどまでに緊張するものだったか。それでも言わねばならないと、山田の授業が終わり、礼をしてすぐ、チャイムがまだ鳴り終わらない内に、斜め前のポニーテールに理人は声をかけた。

 三田が気が付いて、こちらを向いた。理由はわかっているようで、怪訝な顔をされなかったことに理人はホッとする。



「さっきは、その、ありがとう。助かった。」



 たどたどしくなってはしまったが、それでも礼を伝えれば、三田は「どういたしまして。」と言ってニコッと笑い、そしてまたすぐに前を向いてしまった。三田の前の席で、森がニヤリと笑ったのが見えたが、今の理人にはもうどうだって良かった。だって、今きっと自分の顔は真っ赤になっている。そう、思ったらもう認めざるをえない。


 俺は、三田が好きなのだ。―――と。


 理人は、鞄に潜ってしまいそうなほどにそれを覗き込みながら、帰り支度を始めた。早くホームルームを始めて欲しい。なんならそれをサボって、今すぐ帰ってしまおうか、そんな気持ちにさえなっていた。こんな顔を誰かに見られるなんて耐えられなかった。きっと今の理人を岡ちゃんが見れば、腹を抱えて笑っただろう。いっそ笑ってくれた方が救われる。


 理人は鞄に顔を突っ込んで、帰りのホームルームが終わるまで、寝たふりを決め込むことにした。








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