彼女の空は、蒼色
葉月
第1話
八月某日。
外では蝉の鳴き声が絶えず響き渡っていて、まるで太陽が意図的に俺達を熱中症にしようとしているかのような暑さが、走り回る運動部員達を襲っていた。
俺は垂れ落ちる汗を拭いながら旧校舎棟の中を進んでいた。もう一か月もすればここも取り壊されてしまうけれど、人があまりやってこないこの場所は、エアコンこそないものの、静かに避暑するには最適だった。
旧校舎棟二階一番奥の二年三組の教室にその人はいた。彼女の艶やかな黒髪は窓から吹き込むそよ風で仄かに揺れ、真っ白な肌とポロシャツが電気の止まった薄暗い教室に映える。俺が教室へ足を踏み入れると、元々足音が聞こえていたのか、彼女は俺の方を見ていつものおどけた笑みを浮かべて言った。
「お、来たね。後輩クン。」
「そりゃ来ますよ、これ頼まれてるんですから。」
俺はそう言って売店から買ってきた棒アイスを彼女に渡す。すると、彼女は王様のようにふふん、と鼻を鳴らしてアイスを取った。
「流石は僕の後輩クンだね!ちゃーんと僕の欲しいものを買ってきてくれるんだからっ。そんな後輩クンには僕から頭なでなでのご褒美をあげよう!」
「いやいらないっす。」
「つれないなぁ。ま、後輩クンのそーゆーところがいいんだけどね!」
けらけらと笑って、彼女は一口アイスを頬張った。
別に、俺はこの人のパシリというわけでもないし、姉弟でもないし、ましてや舎弟でもない。俺がこの人のもとに通う理由はたったの一つだけだ。ただ、その理由はこの人に言えるわけがないけれど。何故なら、彼女はそういう人の弱み、というものが、ストロベリーミルクのアイスと同じくらい大好物だからだ。……つまり、俺が彼女のもとへ通う理由がとある弱みからだってことがばれてしまうけど。
心底美味しそうにアイスを舐める彼女を見ながら、俺も一緒に買ってきたチョコレート味のアイスを食べる。氷のように冷たいアイスは口の中であっという間に溶けて、特有のキーンとした感覚だけを残して喉奥へ流れていった。
「それじゃあ、今日はどんな話をしようかな…」
すっかりむき出しになったアイスの棒を口に咥え、彼女はおもむろに立ち上がり、古ぼけた黒板へ歩いて行く。俺はその姿を見ながら、相変わらずモデルみたいなプロポーションだ、なんて思いつつ、黒板の方へ視線を向けた。
雲居蒼、という名のこの高校二年生の少女を一言で表すならば「変わり者」。おどけた態度で人のことを面白がり、常にマイペースで掴みどころがない。
そんな彼女は、時たまに普段使いの「私」という一人称でなく、「僕」という一人称を使うときがある。それは不規則なタイミングでやってきて、大抵この時、彼女は俺に意図の分からない質問を投げかけてくる。
「ねえ、後輩クン。どうして僕達は夢を見ると思う?」
「夢…ですか?」
黒板とチョークが擦れ合い、甲高い音を立てる。
「うん。どうしてだと思う?」
「あー…でも、普段の生活で起きた出来事の情報を整理するために夢を見るって聞いたことがありますけど。」
「うんうん。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があって、夢はレム睡眠中に見ているものだってことも有名だよね。」
きっとネットか何かで調べたのであろう知識をぺらぺらと喋りながら、彼女は何かを黒板に書いていく。
…そう、それは「何か」としか表現できなかった。
「…なに描いてんスカ?」
「人間にきまってるでしょ?」
彼女はさも当たり前であるかのように俺に言うが、それは、明らかに棒人間よりもひどい、チョークで描かれた丸と線の塊だった。しばらく彼女の動きが止まり、静かな時間が流れた後、そこには黄色い粉の残る消し跡だけがあった。
「……後輩クン、例えば、他人の夢の中に入れる装置があるとしよう。その装置は両者になんの副作用もなく、ただ夢の中に入れる。代償無しでね。そこで夢の中に入った人間が夢を見ている人間を殺したら、現実の自分はどうなると思う?」
「なんスか、その物騒な例え…」
絵を描くのは諦めたのか、黒板に「装置」「人間1」「人間2」と文字を書く。そして、「人間1」から「人間2」へ鋭い矢印が突き立った。彼女の中では言いたいことをよく表現することが出来たようで、満足げに頷きながら俺の方を振り返った。
「もしもだからいいじゃないか!さ、後輩クン。答えてくれたまえ!」
俺を見る彼女はさぞ楽し気に口角を吊り上げているが、真っ黒な瞳はしっかりと俺を見据えている。その瞳を見ていると、どんなにふざけた問いだとしても、嫌というほどそれに答えなければならない気分にさせられてしまう。純粋無垢で、真っすぐなその瞳が、俺はあまり得意ではない。
「……別に、どうにもならないんじゃないですか?」
しばらくして俺がそう答えると、彼女は大きく目を見開く。そして、心底がっかりとした表情を、俺に隠す気もないのか、「ありえない」と一言呟いた。
「前から思っていたことではあるけれど、本当に後輩クンって可愛げがないよね!」
「お褒めいただきありがとうございます。」
「そーいうところ!」
彼女はほっぺたを膨らませ、大袈裟なほど大きなため息をつく。
「呆れちゃうほど予想通りの答えでつまんないよー」
「俺に面白さを求めないでください。」
「人は面白くいるべきだよ!」
「先輩の価値観を押し付けないでください。」
彼女は少しだけ言葉に詰まったような表情を浮かべる。久しぶりに彼女の良く回る口を封じ込めた、と俺はちょっと得意げな気持ちになった。でも、俺を見る彼女の表情にほんの少しだけ胸の奥がざわざわと変な心地になって、口を開いた。
「…先輩はどう思うんですか?」
「私?」
突然の問いかけに思わず素が出てしまっていたが、それに気づいていない様子で小さく首を傾げる。黒板に書いた自らの文字と記号をしばらく見つめて、ふいに、うん、と頷いた。
「私は…影響すると思うよ。」
そう言葉を吐き出した彼女は、どこか悲しそうに笑って空を見上げる。俺は思わず唾を飲み込んだ。
「だってさ、例えば階段から落ちる夢を見たとき、本当に落下するような感覚がして目が覚めたりしない?それって『落ちている』っていう情景を夢で見たことで、そういう感覚になるように脳が作用しているってことなんじゃないかな。」
教卓の載った段差からぴょんっと降り、俺の方を見ることもなく歩き続け、ガラス窓のない窓枠に腕を乗せてから寂しそうに続けた。
「……でも、それって結局、夢でもリアルでも感覚が共有されてるならどっちでも変わらない同じ世界ってことにならないかな?……どう思う、後輩クン。」
「そうかも、しれないっスね…」
何故か、頭がうまく動かなかった。いつもなら「流石に夢とリアルの混同は無理だろ」とか「とうとう暑さで頭やられた?」とか、そんな返しができるはずなのに、俺の口から出てきたのはひねりもないシンプルな肯定の言葉だった。彼女はそれを聞いて、くす、と小さく口角を緩ませてから、今まで心の底で燻ぶらせていた何かを発散するかのように大きく口を開けて、それを空へと吐き出した。
「あーあ、これも全部夢だったらいいのになぁ!」
頭の中に、その言葉への返答は浮かんでこなかった。
「いつもありがとうな、雲居のこと。」
「……いえ、当たり前のことですし。」
エアコンのきいた職員室で、俺の持ってきた日誌を見ながら担任教師は平素な顔でそう言った。相変わらずグラウンドとは真反対の涼しい空間だ、と汗を拭いながら思いつつ頷く。
「雲居の様子はどうだ?」
確認し終わったのか、ぱた、と日誌を閉じて担任教師はようやく俺の方を見る。
「まあ、いつも通りっちゃいつも通りですし、いつも通りじゃないと言ったらいつも通りじゃなかったですね。」
「何かあったのか?」
俺の言葉に担任の表情が曇る。しかし、きっと担任が考えていることと俺の言った「いつも通りじゃない」の意味はきっと違う。
そう。いつもなら彼女が「俺」に対してあんなに自分の本音を間接的であってもぶつけることはなかったのだ。だから、そんなことを意味ありげに担任教師に言ってしまったのも、きっと様子の違った、「いつも通りじゃない」彼女のせいだ。
ふいに、空を見上げる彼女の姿を思い出して心が痛くなる。俺は一瞬担任に言おうかどうか迷ったが、やっぱりやめておくことにした。
「別にちょっとした変化ですし、あのこととは関係ないですから大丈夫ですよ。」
「そうなのか?まあ、お前がそう言うなら信じるが…」
「とりあえず、特に変わりはないです。」
では、と一礼して職員室を去ろうとすると、担任が「ちょっと待て」と声をかけてきた。俺が振り返ると、担任は俺の見たことのない何とも言えない、どこか浮かない表情をしていた。
「何ですか?」
「ああ…いや、その、なんだ。」
言いにくそうに一度言葉を切る。この沈黙で気が付いたが、この場所は周りに誰もいないはずなのにあの旧校舎よりも騒がしかった。
「あんまり、気負いすぎるなよ。」
俺は黙って頭を下げた。
職員室の外に出ると、俺を出迎えるのは大量の蝉の声とムンムンとした熱気。うだるような暑さは室内にいても健在で、廊下にもエアコンがあればいいのにと思っていしまうのは必然だった。…いや、一人一台扇風機か?
そんなことを考え始めてしまった俺も十分暑さにやられてしまっているようだった。
ああ、今日も空が青い。
『蒼先輩はかき氷を所望する』
そんなメッセージが届いたのは三十分前のこと。俺は盛り上がっている友人達に断りをいれ、慌てて近くの店へかき氷を買いに行った。メールには何も書かれていなくても、彼女が食べたい味なんて手に取るように分かる。
いちごシロップには練乳をかけてもらい、ブルーハワイはそのままで、かき氷を両手に抱えて俺は急いで旧校舎へ向かう。
しかし、いつもの教室に彼女の姿はなかった。
予期していなかったイレギュラーに一瞬頭が真っ白になる。気づけばかき氷はもう溶けだしていて当たり前な時間だった。全くどこへ……いや、まさか。
はっと思い当たり、俺は廊下を駆け出し、一つのドアまでやってくる。予想通り木製扉の鍵は空いていた。
「どーんっ!」
降りかかる日光、そしてそれに負けないほどの暑苦しい大声。彼女はドアの横で待機していたらしく、驚かすために両手を広げて俺を出迎えた。ただ、この人が大人しく屋上で待っているとは思っていなかったので、ここまである程度は予想出来ていた俺はかき氷を落としたりするようなことはなかった。流石に彼女の声の大きさまで予測できるほど俺は高性能ではないので、少しは驚いたけれど。
「…ここからかき氷買える店までの往復の時間考えてもらえません?」
「まずはドッキリに何か反応してほしかったなぁ。」
まあキミはそういう人か、と笑い、彼女はかき氷を手に取った。やっぱりかき氷は溶けていた。
屋上にはその場に不釣り合いな、ビーチに立てるようなパラソルとレジャーシート、そして小さな扇風機が置かれていて、まさに彼女専用の休憩所が出来ていた。そこに二人してかき氷を持って座る。
「後輩クンは何買ったの?」
「俺はブルーハワイです。」
「ブルーハワイかー。ザ・夏!って感じだね。」
じゃあこれはイチゴだな!と一口掬い、少しして彼女は笑い出した。
「あはは、ちょっと温いねぇ。」
「すいません…いや、だから、流石にこの炎天下と往復の時間じゃ溶けますよ。」
「おや、珍しく後輩クンの謝罪が聞けたと思ったのに。お小言は聞き飽きたよ?」
かき氷特有のストローとスプーンが一緒になったそれを咥え、俺に向かってしっしっ、と追い払うような仕草をする。俺は何も言わずに溶けたかき氷を口に入れた。炎天下の中、激しい蝉の鳴き声も、屋上だとほんの少し小さく聞こえているように感じた。
「そうだ…ねえ、後輩クン。」
溶けたシロップを飲みながら、ふいに彼女はそう口を開いた。
「蝉って、何日くらい生きれると思う?」
「え、一週間ってよく聞きません?」
俺がそう返すと、彼女は嬉しそうに顔を歪めた。ああ、違うんだな、と一瞬で分かる。こんなに楽しそうに彼女笑うのはは、自身が圧倒的優位に立てたことによる愉悦に浸っている時だけだ。本当に、そういう知識をどういう経緯があって仕入れているのか一度聞いてみたい。
「俗説ではね!でも、実は一、二か月生きる蝉が多いんだよ!」
「あー…そうなんですね。初めて知りました。」
「けどさ、一週間でも二か月でも、結局短命なのに変わりはないだろう?」
確かに、その通りかもしれない。結局彼らは月日が経てば亡くなってしまう。俺達と比較した時にとんでもなく命の長さが短いだけで。そう考えると、今鳴いている蝉も、もしかしたら次の瞬間には壁や木から落下して、その人生を終えるかもしれない、なんて考えてしまった。
「でもさ、そんな短い人生をさ、蝉は一生懸命鳴くことに尽くしているわけじゃないか。」
「まあ、そうですね。」
「じゃあ後輩クン、蝉ってその短い命を使ってまで何を叫んでいるんだろうね。」
しばらく俺の中に答えは思い浮かばなかった。その間も、校舎の周りに植えられた木にしがみついた小さな命は大きく存在を主張していた。いつの間にか俺の持つ発泡スチロールの容器の中は青い液体で満たされていたけれど、それが減ることはしばらくなかった。
「『もっと生きていたい』…とか?」
「おっ、似てるね!僕も似た考えだよ。」
残っていたいちごシロップを飲み干して―その姿は美味しそうにビールを飲み干したサラリーマンのようだった―彼女は言った。
「僕は『助けて』って言ってるんじゃないかなって思うな。」
「何でですか?」
「だって、こんなに暑い空の下で鳴き続けなくちゃいけないんだよ?僕なら絶対に『助けてー!』って叫ぶね。」
扇風機に向かって声を出し、彼女は楽しそうに笑った。人工的な微風とはまるで違う涼しい風が、ざあ、と一瞬吹き抜ける。俺はシロップを飲み込んだ。
「じゃあ、雲居先輩ならどうやって助けを求めますか?」
言って気が付く、言葉が足りないと。俺は慌てて付け加えようと彼女の方を見れば、そこには細くて白い指先があった。
「あはは!後輩クンのべろ、真っ青―!」
その奥には、悪戯が成功した子供のような無邪気な笑顔。俺は一瞬ドキリと胸が鳴ったのを感じた。楽しそうに笑った彼女は突然レジャーシートへ寝転がり、口を開く。
「私は、言わないよ。」
そう言った彼女はどこか晴れやかな表情をしていた。でも、さっきの笑顔とは違う、どこか悲観しているような顔。
「だって、助けを求めたところで結局その人が何とかできる保証はないだろう?まあ、内容にもよるけどさ!」
「じゃあ、蝉は俺達がどうにかできると思って『助けてほしい』って鳴いてるんですかね?」
「うーん、そうだなぁ。結局他人のことなんて分からないじゃないか。だって、他人なんだから。種族も同じさ。他人も別種族も、自分にとっては『理解できない生物』さ。でもこの理論だと蝉はそういう者にすらも縋りたくなってしまっているんじゃないのかな?」
「…たまに思いますけど、先輩って捻くれてますよね。」
「後輩クンに褒めてもらえるなんて、嬉しいなぁ。」
「褒めてませんけど。」
ええー、と彼女は笑った。
俺は彼女に倣うようにレジャーシートへ寝転がる。パラソルに遮られてはいたけれど、考えていたより余りにも空は広かった。
「あ、見てみて後輩クン。」
「何ですか?」
彼女の指し示す先には、何羽かで群れをつくって飛ぶ鳥の姿があった。
「何の鳥だろう?」
「さあ…?」
沈黙が落ちる。この沈黙の原因が俺の答え方が悪いからであることは、俺自身分かっている。ただ、もう癖になってしまっているのだから仕方ない。俺は彼女のように話し上手ではないのだから。しかし、彼女はすぐに口火を切った。
「…僕達も、あの鳥たちみたいに、皆自由に羽ばたけるチャンスはあるはずだよね。」
「先輩も、自由になりたいですか?」
「なりたいね。」
彼女が大きく伸びをした。小さな右手がこつんと俺の頭に当たる。彼女は俺に平謝りして続けた。
「誰だってそうじゃないの?学校も勉強も嫌だから逃げたいって…あとは人間関係とか家族とかさ。そこから逃げたいの。だから人間は翼を持ちたがるんじゃないかな。」
「先輩は、翼があったらどうしたいですか?」
彼女にもし、翼があったなら。ふと問いかけながらそんな想像をしてしまう。
彼女は、性格こそ悪魔のようだが、容姿はかなり綺麗な方だ。まあ、妥当なのは天使の羽だろうか。雪のような純白の羽。……いや、似合わないということにしておこう。
俺がそんなくだらない思考をしている間に考えが決まったのか、彼女は口を開いた。
「うーん…翼はいいから私の目を治してほしいかな。」
俺は彼女を見やった。彼女の瞳はまっすぐに空を見上げ、微笑んでいた。ただ、彼女の瞳に映る空が俺と同じとは言い切れないけれど。
よいしょ、と彼女は起き上がる。そして思いっきりのびをしてコキコキと骨を鳴らす。猛暑は少しだけ鳴りを潜め、涼しくなってきたような気がしてきた。太陽が徐々に落ち始め、空が陰ってくる。「そろそろ帰ろうか。」と言ってパラソルを畳み始めた彼女を手伝おうと、俺は日に晒されたレジャーシートを折る。
しばらく黙って作業をしていると、パラソルを大工のように肩へ乗せた彼女は、楽しそうに笑って言った。
「そういえば、さっきの話だけど。」
「え?ああ…」
彼女はレジャーシートも渡せ、と手を出してくるが、俺は逆にパラソルを奪って屋上のドアを開ける。
「僕は本当に助けてほしい時でも、常に笑っていると思う。」
「助けてほしいのに、笑ってるんですか?」
「うん。でもさ、きっと後輩クンなら僕が笑って助けを求めていても気づいてくれるかなって思って。」
その言葉に、教室の隅へパラソルとレジャーシートを置いた手が止まった。思わず彼女の方を振り返る。彼女はいつも通りの平素な顔をして俺の方を見ていた。
「何で、そう…思うんスカ?」
「えー?…いや、なんでって言われてもさぁ。」
夕焼けが教室へ差し込む。思わず心臓がどくんと跳ねた。立ち上がれない俺はただ彼女を見つめ続けることしか能がないように黙って次の言葉を待っていた。彼女は少しだけ考えてから、こてん、と首を傾げて照れくさそうに笑った。
「後輩クンだから、としか言えないかなぁ。」
涙が溢れかけた。
気が付くと、俺は路上にいた。そこは、いつもの通学路、いつも学校へ向かう道。あまりにも見慣れた道だった。しかしそれに気づいた瞬間、激しい動悸が俺を襲った。この場所は、この場所はだめだと本能が叫ぶ。
「おーい!」
聞きたくない声が背後から聞こえる。振り返りたくないと何度も念じるが、まるで俺は操り人形のように嫌が応にも振り返させられてしまう。そこにあるのは案の定、知った顔、見知った顔、嫌というほど見続けた顔。少女は笑顔で俺に話しかけてくるが、俺は口を開くことすらできない。でも会話は続いていく。だって、そう。これは俺の記憶を遡っているに過ぎないから。
場面が飛ぶ。見たくもない光景。猛スピードで突っ込んでくる車。気を失っていた俺が意識を取り戻せば、そこには、少女を中心に広がる赤い血だまりだった。
その瞬間、大きく肩を揺さぶられる。
「おい!大丈夫か!?」
ガクンと脳が揺さぶられて俺ははっと我に返った。目の前には、中学校からの友人である築嶋がいた。築嶋は俺を青ざめた表情で見つめていた。
「しっかり歩けよ、危ねぇだろ!」
「あ…ごめん、築嶋。」
そう言った俺は上手く笑えていただろうか。どちらにしろ、俺の顔を見て築嶋が悲しそうに眦を下げていたことだけは分かった。
築嶋と俺の帰り道はほぼ同じ。だから時間があえば大抵一緒に帰ることが多かった。だが最近は、俺が彼女のところに通うようになって、中々こうして帰ることはなくなっていた。
「てか、マジでアイツのところにずっと通ってんの?」
「え、うん。」
「……あのさ、お前に限って違うと思ってたいけど、まさかアイツに『罪滅ぼしがしたいから』なんて理由で行ってるわけないよな?」
その問いに俺が黙り込むと、築嶋が大袈裟なほどにため息をついて肩を落とした。
「優しすぎるんだよな、お前は。」
「優しいっていうか、そうしてないと俺が辛いってだけだよ。」
その瞬間激しい痛みが俺の背中を襲う。突然の衝撃に声を出せずにいると、ついで第二波が頭を直撃する。
「ってぇ!なんだよ!」
「なにもねぇよ。」
「じゃあ叩くなよ!」
その時の築嶋の顔は、楽しそうに笑うというよりかは何かを我慢しているような笑顔にみえた。最近俺は、知人の苦しそうな表情をよく見ているような気がする。
それからしばらく、何事もなかったように他愛のない話をしていつもの分かれ道までやってくる。じゃあな、と別れを告げようとしたところで、ふいに築嶋が口を開いた。
「なあ、お前さ。」
「ん、なに?」
「俺にも少しは頼れよ。」
そう言って、築嶋は俺が返事を返す暇もなく右の道へ帰っていく。俺はしばらくの間、小さくなっていく築嶋の背中をぼーっと眺めることしかできなかった。
その日は、珍しく雨が降っていた。といっても梅雨の時期によく見舞われる豪雨ほどではない。時折夕立のように激しい雨が降る程度のことで、昼には晴れ間も見えて、午後になった今ではすっかり雨雲も消えていた。しかし、何故か俺の胸中はざわついていた。
いつものように旧校舎へ向かう。彼女からの連絡はつい十分前にいつもと同じおどけた文章がきていた。鞄を背負い、廊下を歩く。旧校舎は午前中の雨で少し湿気が溜まっているように感じた。今日は珍しく買い物の要求がなく、いつもより早く向かうことが出来た。
がらり、と扉を開けた瞬間、俺は思わず目を見張った。
「お、来たね後輩クン」
彼女は俺に目線を向けずにそう言った。まあ、こんなところに来るのは俺ぐらいだろうし、それに今の彼女の状態では、振り向きたくても振り向けない。
「何描いてるんすか?」
「空。」
美術部辺りから借りてきただろう大きなイーゼルに、どこで手に入れてきたのか本格的なキャンバスを置いて、彼女には珍しく絵を描いていた。筆に絵の具をつけ、色を重ねていく。その横顔はとても楽しそうで、心の底から絵を描くのが好きなんだと分かる。
しばらくの間、俺は口を開くことが出来なかった。いや、迷っていたのだ。でも、俺はとうとう泣きそうになりながら彼女に告げた。
「先輩。」
「なに?」
「今塗ってる色、それ茶色っすよ。」
彼女が目を見開く。そして、慌てて取り繕うように笑いかけた。
「あ、はは…ぼーっとしてて取り違えちゃったみたい!」
そう言って、彼女は別の絵の具を取り出してパレットへ出す。
「それ、黄緑です。」
ぴたり、と絵の具のチューブを握った彼女の手が止まった。その瞬間、重い沈黙が教室に流れる。俺は彼女に近寄り、青の絵の具を手渡した。
その時、俺の体に柔らかいものが押し当てられる。暖かい感触と体温。背中に回される手。下を見やれば、ちょうど彼女の黒髪がふわりと元の場所に戻るところだった。
彼女は、泣いていた。
「先輩…?」
「後輩クン、なんで空って青いのかな。」
「先輩…」
「答えて、後輩クン。」
くぐもった彼女の声が俺にせがむ。ああ、彼女はあまりにも小さい。
「今まで、この地球に住んできた大多数が見ている空が、青と名称される色で塗られているからですよ。」
「じゃあさ」
そう言葉を切った彼女の声は震えていた。溢れだしそうになった何かを抑え込むように喉仏が動いた感覚がする。
「何で、私の空は青くないのかな」
俺は答えを返す代わりに彼女を抱きしめた。
俺は知っている。彼女が今、俺の服を雨模様に染めている理由を。彼女がここまで苦しんでいる理由を。彼女の空が青くない理由を。
数万人から数十万人に一人かかるといわれている、色覚異常の一つ「異常一色型色覚」。又の名を「全色盲」という。簡単に言えばすべての色が白黒に見える病だ。彼女は、一年前、あの下校路で交通事故にあって大きな怪我を負い、誰の悪戯か、視界から色という色を奪われた。だから、彼女は色が分からない。
「ねえ、後輩クン。もう私、青い空は見れないのかな?」
「…見れますよ、きっと。」
無理だ。俺は医者でも何でもない、ただの非力な高校二年生だ。結局うわべだけの空論を気休めのように伝えることしかできない。
「後輩クンがどうにかしてくれるの?」
答えられない。その問いには俺は無責任な言葉を返せないから。
「ねえ、後輩クン。君なら私を助けてくれる?」
助ける?俺が?何ができるというんだ。彼女に嘘をつき続けている俺が、記憶をなくした彼女が与えてくれた「後輩クン」という立ち位置に甘え続けてきた俺が、一体何を。
ぽつ、ぽつ、と俺に向けられる彼女の言葉一つ一つが刃となって俺を刺す。痛くてたまらなかった。でも、彼女がなんとか抑え込んで重石を乗せていたはずの蓋を容易く取ってしまったのは、俺自身なのだ。なのに、俺は彼女の言葉を聞くことしかできない。
「後輩クン。」
縋りつくように彼女は俺を見上げる。涙で濡れそぼった頬が小さく攣られた。苦しそうに笑う彼女に、俺はぐっと涙をこらえて、声が震えないように呟いた。
「俺には無理っすよ…『先輩』。何もできない俺には……」
そう吐き出した俺は、彼女が淀んだ、底なし沼のような瞳を俺に向けた瞬間を嫌が応にでも目に入れることになった。
「…そう、だね。そうだよね。後輩クンは病気を治す魔法の力を持ってるわけでもないのにね。あはは…ごめんね。」
そう自嘲的に笑って、彼女は背中に回していた手を離した。ごしごしと腕で涙をぬぐい、頬を叩く。
「ダメだなぁ、僕!後輩にこんな姿を見せるなんて!だめだめ。先輩失格だね!」
肩を竦めて笑い、彼女は地面に落ちた筆を拾い、俺の手から絵の具を取って、パレットへ出す。そして、上書きするようにキャンバスへ色をつける。
ああ、今更「青」を足したところで「蒼」にすらならないのに。
俺は、その相変わらず下手くそで、ぐちゃぐちゃな色の絵を眺めながら溢れかけた何かを拭った。ああ、おかしいな、雨は午前中で止んだはずなのに。
沈黙が教室を支配する。俺はそれが息苦しくてふいに彼女へ言葉を投げかけた。
「先輩」
「なぁに、後輩クン。」
ふふ、といつものように笑い、でもどこか悲しそうに彼女は聞き返してくれた。
「先輩、青空教室って知ってますか?」
「青空教室?」
彼女は筆を置き、俺を見る。
「確か、戦後に校舎の屋上でしていた授業のことだよね?」
「はい。つまり、その頃の学生って本当に空の下で勉強をしていたわけじゃないですか。」
「そうだね…それがどうしたの?」
俺は椅子をひきずり、彼女の横に持ってくる。
「その時の学生って、どんな空を見ていたんでしょうか。」
「どんな、空…?」
彼女もすぐ近くの椅子を持ってきて、腰かける。
「うーん…でも、普通の人が見る普通の空なんじゃないのかな?」
「俺はそうとは思わないです。」
「そうなの?」
きょとんとした表情で彼女が俺を覗き込む。その頬に絵の具がついていて、俺はゆっくりとそれを拭い取った。
「だって、空襲だったり原爆だったり、さんざん攻撃された後なんですよ?そんなことが起こった後にみる青空が普通なわけないじゃないですか。」
彼女の視線が窓の外へと向かう。俺もそれにつられるように空を見た。
「俺は戦争を実際に体験したわけではないので、憶測でしかないですけど、きっと、きっと、その空は特別なものだったんじゃないかと思うんです。」
「…普遍的な、ただの青空じゃないってことだね」
「はい。その時、戦争を経験した方々にしか分からない、唯一無二の空です。それは、青空教室が行われていた時でも、平安時代でも、紀元前でも、勿論今でも同じです。それぞれが別の表情の空を見てるんじゃないでしょうか。なぜなら、俺は、空へ向ける思いが人それぞれ全く違うからだと思います。」
言葉がうまく繋げられない。やっぱり彼女は才能に恵まれていると再確認した。普段から喋りなれていないせいで全然舌が回らない。でも、俺はこの思いを伝えたかった。
「友人と楽しく話しながら見る空と、その友人と大喧嘩した時に見る空が全く同じ空だと言えるでしょうか?生まれて初めて見た空と、仕事で疲労困憊している時に見た空が全く同じだと言えるでしょうか?」
彼女は俺を真剣な瞳でまっすぐ見つめて、首を横に振った。
「はい。俺も違うと思います。だから、その人その人の思いによって、空は自由自在に変化するんじゃないかって、思うんです。」
だから、と一度口をつぐんで彼女を見た。
「俺は普遍的な空しか見たことがありません。だからさっきは余計な事言っちゃってすみません。…俺は、その、先輩の空も綺麗だと思いますよ。」
キャンバスに描かれたぐちゃぐちゃのそれを、彼女は見る。俺の目からは、あまりにも酷い色使いで、何かをぶちまけたようにしか見えないけれど、彼女にとっては、これが何かの感情を向ける唯一無二の空なのだ。
彼女はしばらく言葉を発さなかった。けれど、さっきよりも沈黙は苦しく感じなかった。
突然彼女が顔を伏せる。ずず、と鼻をすする音がして、また雨が降ったのか、と俺は彼女の頭に手を乗せた。
「…やっぱり、あったかいや」
くぐもった声だったけれど、はっきりとその言葉は聞こえた。
「貴女の空は、何色ですか?蒼先輩。」
「私の空は、水色かな。後輩クン!」
雲一つない青空から差し込む日の光が、空き教室を照らし、キャンバスに影を作った。
ああ、今日の空は、色なんて分からないくらいやけに眩しい。
彼女の空は、蒼色 葉月 @August_mond
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