第146話 摩訶般若波羅蜜その十七 無

 「この正当敬礼時しょうとうきょうらいじ、ちなみに「施設可得しせつかとく」の般若現成はんにゃげんじょうせり。いわゆる「戒定慧かいじょうえ」乃至「度有情類どうじょうるい」等なり、これを無といふ。」

 このようにまさに敬い礼拝している時に智慧を得ることができるような仕組みにより智慧(般若)が現れる。その仕組みとは先に述べた戒・定・慧から生きとし生けるものを救う等のことである。そして色々な仕組みはあるとしても一生懸命に取り組んでいる時にはあれこれ分別していることはないことから、これを無というのだ。

 坐禅をしている時は坐禅をしている時であってそれ以外の何ものでもない。ただひたすら坐禅しているのみである。この状態は「無」だと思っている。

 よく無の境地とか言うけど、脚を組み手を組んでじっとしていることが無なのだ。無念無想なんてわかったようなわからないようなことを言うがそんなことを気にする必要はない。

 坐禅していると頭の中に様々な思い、風景など諸々のことが次々と浮かび上がってくる。生きてるんだから当然だ。ただし、それを追いかけてはいけない。放っておく。「ああ自分はこんなことを考えているんだ」ということだ。そして普段は頭の中の光景と現実をごちゃまぜにしていることに気付くだろう。得てして頭の中の光景、想念に引きずられて現実を見失い間違ったことをしてしまうものだ。

 世の中の権力者と言われる人々を思い浮かべてみるといい。

 ありのままに現実を捉え、真実・真理に従って行動できるようになる。そのために坐禅するのだ。

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