第100話 辨道話その八十九 人類を救うのは坐禅のみ

 「おほよそ我朝わがちょうは、龍海りょうかいの以東にところして、雲煙はるかなれども、欽明きんめい用明ようめいの前後より秋方しゅうほう仏法東漸とうぜんする、これすなはち人のさいはひなり。しかあるを名相事縁みょうそうじえんしげくみだれて、修行のところにわづらふ。いまは破衣裰盂ほいとつうを生涯として、青厳白石せいがんはくせきのほとりにぼうをむすむで、端坐修練たんざしゅれんするに、仏向上の事たちまちにあらはれて、一生参学の大事だいじすみやかに究竟くきょうするものなり。これすなはち龍牙りょうげ誡勅かいちょくなり、鷄足けいそくの遺風なり。その坐禅の儀則は、すぎぬる嘉禄かろくのころ撰集せんじゅせし「普勧坐禅儀ふかんざぜんぎ」に依行えぎょうすべし。」

 我が国は、龍が住むというような大海の東に位置し、中国は雲、霞で見えないほど遥かに離れているけれども、欽明天皇、用明天皇の時代の前後から西から仏法が東にある我が国に伝わってきた、これすなわち人々にとっての幸いである。そうであるのに、言葉であるとか形式であるとか複雑な儀式であるとかが入り乱れていて、どうやって修行していいのか迷い煩うようなありさまである。今教えることはぼろきれを綴り合せた身にまとい、欠けた応量器(食器)での生活を生涯続け、大自然の中に粗末な庵を建ててひたすら坐禅すれば、仏の境地(真実・真理を実現・実証すること)がますます向上していくが即座に現れ、一生をかけて仏法を学ぶという重大なことに究め行きつくのである。これは、龍牙禅師が教え示したものであり、迦葉尊者が伝え遺されたものである。その坐禅の決まりごとは、嘉禄の頃に編纂した「普勧坐禅儀」に従って修行すればよい。

 宗教と言うと精神論、思索思考に重きを置くもの、神秘的なものというようなイメージが私にはあったけれど、正法眼蔵を手にして仏教はまったくそういうものではないということを知った。

 坐禅して身心を真実・真理の状態とすること、大宇宙と一体となること、それが全てであり、それ無しには何も始まらないのだ。

 今の世の中、概念論、抽象論、理屈に溢れているけれども、それらを扱う人間の身心が正常でなければ話にならない。むしろ人間を危険な方向に導いてしまう。

 世界各地でいざこざが起きている。破壊と殺戮、憎しみと恐喝に満ち溢れている。そしてそれを治める思想など存在していないのではないか。世界各地の混乱も正義の名の下に行われている。

 心身が真実・真理の状態にない限り、正しいことは絶対に行われない。

 人類を救うものは坐禅しかないのだ。

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