第79話 辨道話その六十七 狂人の舌の響き

 「しるべし、仏法に心性大総相しんしょうだいそうそうの法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃ぼだいねはんにおよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法、万象森羅まんぞうしんらともに、ただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違いいなしと談ずる、これすなはち仏家ぶっけの心性をしれる様子なり。しかあるをこの一法に身と心とを分別ふんべつし、生死しょうじ涅槃ねはんとをわくことあらむや。すでに仏子なり、外道のけんをかたる狂人のしたのひびきを、みみにふるることなかれ。」

 知らなければいけない。仏法において心性大総相という教えは、この大宇宙全体を含んで、本質とその現れ方を分けることなく、生まれるとか滅するとかいうことはないということである。涅槃、菩提というけれどもすべて大宇宙の真実・真理のあり方でないものはない。すべての存在、森羅万象すべては一つのあり方なのであって全部が含まれており除かれるということはない。このように色々な教えがあるけれども、みなただ一つのことなのである。少しも異なることはないとするのが、すなわち仏の教えとしての心(身心一如)がわかっているということなのである。そうであるのに、このただ一つの教え(法)しかないのに身と心を2つに分けて考え、生死と涅槃を別なものとするなどということはあり得ない。我々は本来仏の子なのであるのだから、仏道以外の教えを語る狂人が舌を鳴らして音を響かせてもそれを耳に触れさせてはいけない。

 坐禅は大宇宙の真実・真理と一体となること。澤木興道氏の言葉で言うところの「宇宙とぶっ続きになる」ということ。我々は宇宙の全存在とひとつなのだ。そして身心は一如であり、2つに分けて考えるものではない。考えようがない。

 死んで涅槃に入るみたいなことを言うことがあるけれど、生死そのものが涅槃なのであって生死が涅槃に変わることなどない。

 生きているこの瞬間が真実・真理なのであって、そのことを身心で理解するために坐禅がある。

 坐禅をすることによって大宇宙を実感する。自分は大宇宙の一部であることが身心に染み込んでくる。そしてこの状態が人間本来の状態なのである。このとき、この世界はありのままの姿を現し、それを直観として受け止めることができる。

 参院選で候補者がいろいろ言っている。けれどその内容は「狂人の舌の響き」かもしれない。坐禅した身心で良く見極めないといけない。

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