第64話 辦道話その五十三 坐禅に引きずり回される

 「すでにしゅの証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて釈迦如来、迦葉かしょう尊者、ともに証上の修に受用じゅようせられ、達磨大師、大鑑だいかん高祖、おなじく証上の修に引転いんでんせらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。」

 すでに坐禅すること=大宇宙の真実・真理をこの身心で実証することであるから、この実証は果てしない無限のものであり、実証(本来人間は大宇宙の真実・真理と一体でありそれを実証して本来の姿に立ち戻る)=坐禅であるからいつから始まるというものではない(本来の姿に立ち戻っただけのことだからいつ始まるというものではない)。このようなことだから釈尊もその教えを直接引き継いだ迦葉尊者も「証上の修」坐禅の中に受け入れられ身心を使い、達磨大師も五祖大鑑慧能禅師も同じく坐禅に引きずり回されて生きたのである。仏法を身につけるということはみなこのようなことなのである。

 坐禅に受用され引転されるというのは実感としてある。坐禅するようになって30年以上経った。その結果として坐禅した身心は間違ったことをしない、おかしなことをしない、できないと感じるようになった。間違ったことというのは大宇宙の真実・真理に対して間違っていないということであって、今の世の中の人間社会の基準に照らしての正誤ではない。ここが重要だ。

 私は今の世の中の社会的な尺度から言えば成功者ではない。金も地位も名誉もない。けれど大宇宙の真実・真理の前で間違ってはいない。それ以上何も望むことは無い。

 坐禅した身心の直観は正しい。生きるということは瞬間瞬間の判断の積み重ねだ。瞬間の判断を誤ればそれは生死に関わる。瞬間瞬間が生死の分かれ目なのだ。その時ぐずぐず考えている暇はない。直感だけが頼りだ。その直観に従って瞬間瞬間を生きていく。学習し経験することは重要だ。しかし学習し経験したことを今この瞬間に活かせるかは直観にかかっている。

 直観は坐禅しない限り得ることはできない。

 坐禅に引きずり回されて生きる。これ以上の生き方は無い。

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