第61話 辦道話その五十 坐禅は安楽の法門

 「とうていはく、仏家ぶっけなにによりてか、四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて禅定ぜんじょうをすすめて証入をいふや。

 しめしていはく、むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し、証入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし。このほかにたづぬべからず。ただし、祖師ほめていはく、坐禅はすなはち安楽の法門なり。はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか。いはむや、一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり。」

 第六問答。

  質問して言うことには、仏道を学ぶ人間は何を根拠に、行・住・坐・ぎょう・じゅう・ざ・がの四儀つまり歩く(動く)・立ち止まる・坐る、寝るの四つの中からただひとつ坐のみを特に取り上げて身心を安定させ仏道に直に入って行くというのか。

 答えて示す。昔から仏と言われた方々は相次いで修行し仏道にその身心でもって直に入って行った過程ははっきりこうだとわかるものではない。何故坐禅なのかという根拠を尋ねるのならば、ただ仏道を学ぶ人たちが坐禅をしたということが根拠なのだと知るしかない。このほかに根拠を求めようとしてはいけない。ただ祖師が褒めて言ったことに坐禅は安楽の法門であるということがある。思うにおそらく四儀の中で坐が安楽であるからであろう。これは一人二人の修行の方法ではない、すべての仏と言われた方々、仏祖と言われた方々はみな坐禅されたのである。

 「坐禅は安楽の法門である」と言われてもピンと来ないかもしれない。

 坐禅は辛い姿勢をずっと保たねばならず、動いたりしたら警策きょうさくという竹のへら見たなもので引っ叩かれるみたいなイメージがある。

 警策というものに私は疑問を持っている。というのは道元禅師は正法眼蔵の中でも坐禅について坐禅儀ざぜんぎ坐禅箴ざぜんしんなどを書いておられるし、普勧坐禅儀ふかんざぜんぎというものも書いておられる。坐禅について詳細に書いておられるのだが、その中に警策の記述が無い。少なくとも私は見ていない。警策が坐禅にとって重要な物であれば道元禅師が言及されない筈はないと思う。

 とすれば、警策が必要なのか甚だ疑問である。もっともらしく見せるための道具に過ぎないんじゃないか。ならば必要ない。

 実際に坐禅をしてみればいい。

 私の実感として大きなものを2つ書いてみる。

1 身体の骨格が正しい位置に戻る

  うまく坐れない時があるが、しばらく坐禅の姿勢を取ろうとしていると徐々に身体が正常な位置に戻ってくる。坐禅の姿勢は骨格の正常な位置なのだと思う。そうすると身体が楽になって来る。そして気持ちが落ち着いてくる。

 尾籠な話だけど便通がつく。内臓が正常な位置で活動するんじゃないか?

2 現実が見えてくる

  色々感情が昂っていたり、怒りや不安が一杯になっていても坐禅すると、昂った感情も怒りも不安も自分の頭の中の光景に過ぎないということが実感される。現実にはここに一人の人間がぽつねんと坐っているだけだ。現実の世界はありのままにあるだけだ。自分が頭の中の光景に振り回され、現実に存在しているかのように思い込んでいるだけだということがよくわかる。現実の世界と頭の中の世界の区別がつかなくなり迷い混乱してしまっているのがよくわかる。今の世の中こういう人多いですよね。

 これだけでも安楽の法門だと思うのだけどいかがでしょうか。

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