第62話 辦道話その五十一 坐禅は悟るための手段ではない

 「とうていはく、この坐禅のぎょうは、いまだ仏法を証会しょうえせざせらんものは、坐禅弁道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらむ。

 しめしていはく、癡人ちにんのまへにゆめをとかず、山子さんすの手には舟棹しょうとうをあたへがたしといへども、さらにくんをたるべし。」

 第七問答。

 質問して言うことには、坐禅の修行は、まだ仏法とは何かがわかっていない者は一生懸命坐禅に励んで仏法とはなにかをつかめばよい。既に仏法をはっきりとわかった者が坐禅して何があるというのか。

 答えて言うことには、愚かな人間の前では夢の話をしない(愚かな者は夢と現実の区別がつかないからとんでもないことになってしまう)、山で働く人の手に舟を漕ぐ棹を渡してもどう使っていいかわからないから渡しても意味がないけれど、繰り返して教えよう。

 悟りと言う言葉がある。私は悟りと言う言葉は何のことを言っているのか曖昧であり、これを振り回すのは危険だと思っているのであまり使いたくない。

 悟りを餌に人を誑かし金を巻き上げる輩は後を絶たない。

 坐禅は悟りというゴールに向けてやるものではない。坐禅を続けていたら悟りに到達するというものではない。

 坐禅することが即ち悟りなのだ。坐禅した瞬間にこの身心は大宇宙の真実・真理と一体となるのだ。何回も書いてきたけど本来我々の身心は大宇宙の真実・真理そのものなのだ。それが本来なのだ。けれど人間はそこから外れて行ってしまうので坐禅して本来の姿に戻るのだ。

 本来の姿と言うのはごく普通の姿。本来の普通の人間になることだ。悟って超人みたいな能力を身につけるなんてことを言ってるのは詐欺師ですから気をつけましょう。

 そして本来の姿、普通の姿、大宇宙の真実・真理と一体となった状態を維持するために坐禅は毎日ずっと続けていかねばならない。

 仏向上と言う言葉がある。たとえ仏と言われる状態になったとしても更に坐禅を続けていく。大宇宙の真実・真理と一体となった状態を強化していくのだ。

 坐禅を目的に達するための手段と考えてはいけない。

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